西行法師

西行法師(1118-1190)

 西行法師は宮廷の歌人ではなく、生死を深く見つめ、花や月をこよなく愛した漂泊の歌人であり、山里の庵で歌を詠み生涯の多くを旅の中で送った。自然と宗教との融合の中で、過去にとらわれない自由な歌を詠み「新古今和歌集」には最多の94首が入選している。

 西行法師生きたのは、平安から鎌倉へ移る動乱の時代で、まさに平家の台頭から源平の争いの時期に重なっている。西行法師は世の無常を感じ、自然と仏法に心を寄せ、自由な心で研ぎ澄まされた歌風をつくった。西行法師の名は佐藤義清(のりきよ)である。

出家するまで

 西行法師は関東で活躍した武将・藤原秀郷の子孫として生まれ、幼い頃に父・佐藤康清を亡くしたが代々勇士の武門であったため、17歳で鳥羽法皇の警護兵となり、御所の北側を警護する「北面の武士」に選ばれている。同時期の同僚に平清盛がいた。

 この「北面の武士」は白河院が作った制度で、下級官人の子弟から厳選され、弓・馬術に優れ、しかも容姿端麗で詩文・和歌・管弦・歌舞の心得が必須であった。官位は五、六位と低かったが宮廷の花形とされていた。北面の武士たちの日常は歌会が頻繁に催され、そこで佐藤義清の歌は高く評価されていた。

 佐藤義清は武士としての実力もあり、疾走する馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)の達人で、さらに蹴鞠(けまり)の名手でもあった。また藤原実能の家人として仕え、鳥羽院にも愛され、待賢門院・璋子に心を寄せていた。

 文武両道で美形の佐藤義清の名は政界中央まで聞こえ、華やかな未来を約束されていた。文武を極め前途洋々であったが、22歳の若さで突然、世の栄達を捨てて出家した。出家そのものは珍しくはないが、官位があり20歳過ぎての出家である。内大臣・藤原頼長は「佐藤義清は家は富み、年も若いのに、なぜ不自由のない生活を捨て仏道に入り遁世したのか、わたしたちはこの志を嘆美しあった」と日記に記している。

 西行法師(佐藤義清)は延暦寺などの大寺院に出家したのではなく、どの宗派にも属さず、地位や名声を求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、生きるとは何か、美とは何かを求め和歌を通して悟りを得ようとした。

出家の理由

 佐藤義清の出家の理由は誰も分らないが、以下の説がある。

(1) 仏に救済を求める心の高まり。

 浄土思想といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさしている。平安時代末期に災害・戦乱が頻発し、この世を末法と捉え貴族も庶民も「世界の滅亡を意味する末法」の到来に怯えていた。末法では現世における救済が否定され、死後の極楽浄土(天国)への往生を求めており、その風潮から浄土教が急速に広まっていた。
 浄土宗の開祖とされる法然は、比叡山で「専修念仏」に励み、比叡山を下りると東山で教団を立ち上げた。法然は西行が16歳の時に誕生し、西行が58歳の時に浄土宗を立ちあげた。つまり西行法師は時の思潮としての浄土宗になじんでいた。

 そもそも「西行」という名前は「浄土を目指して西へ行く人」という意味である。西行は俗時より仏道に心を傾け、時の流れが西行を仏道に導いたのであろう。出家とは俗世を捨てて仏道に入るということで「人生の無常や厭世観」が仏法へと導いたのである。
(2) 急死した友人から人生の無常を悟った。

 同じ北面に仕える武士の佐藤憲康との帰りがけに、西行は明朝必ず落ち合う約束をしていたが、翌朝、佐藤憲康を誘いにいくと憲康は突然死んでいた。このことから西行は人生の無常を覚えて出家遁世の決意を固めた。この話は実話であるが、合戦での生死、主家の死、肉親の死などはすべて日常的に訪れることであり、友人の急死により出家したのではなく、それがきっかけになったのであろう。出家の主因とは考えにくいが、友人の死が浄土思想を持つ西行の心を包んだのであろう。平安末期から鎌倉時代にかけては合戦と内乱の連続で、それが遁世や浄土の思想を流行らせていた。佐藤憲康の死は「西行物語」に書かれているが、作者は西行にほれ込んだ仏法者である。浄土理念の西行物語を創作したかったのかもしれない。西行物語は説話的で西行の本心かどうかはわからない。

(3) 皇位継承をめぐる政争への失望

 摂関政治や院政は私利私欲がからんでいたが、さすがの佐藤義清も当時の院政や貴族たちの政治の生々しさに嫌気をさしたのかもしれない。藤原氏は天皇の外戚となり、天皇が幼少の時は摂政となり、成人してからは関白となって政治を支配していた。これが摂関家を外戚としない後三条天皇が即位したことから、摂関家の力を削ぎ、続く白河天皇は当時8歳の堀川天皇に位を譲り、白河上皇として天皇の後見をしながら政治の実権を握った。

 これが院政の始まりで、白河上皇は堀川天皇の死後はその息子で4歳の鳥羽天皇を上皇として院政を強めた。白河上皇は院御所の警護のために「北面の武士」を設けが、白河法皇が崩御すると鳥羽院は崇徳天皇に位を譲り、自らは上皇になって、西行12歳の時に院政を始めた。佐藤義清は20歳の時に鳥羽院の「北面の武士」として仕えるが、この時の皇后は美福門院・得子で義清より2歳年下だった。
 佐藤義清が北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた時、皇位継承をめぐって複雑な問題が起きている。鳥羽上皇の中宮は待賢門院・璋子だったが、璋子は幼女の頃から白河上皇に寵愛され、その子顕仁(崇徳天皇)の父は鳥羽上皇ではなく白河上皇であった。白河上皇と璋子との関係は白河上皇が崩御するまで続いた。このことが後の崇徳天皇と鳥羽上皇との確執となり保元の乱の遠因になっていく。
白河(72)--堀川(73)--鳥羽(74)--崇徳(75)
                ├後白河(77)---二条(78)--六条(79)
                └近衛(76)  └高倉(80)-----安徳(81)
                                 └後鳥羽(82)

 1139年、藤原得子が鳥羽上皇の皇子・体仁(近衛天皇)を生み、鳥羽上皇は体仁を次期天皇にしようとした。このことは待賢門院・璋子の皇子・雅仁(後白河天皇)を無視するものだった。ここで崇徳天皇・待賢門院璋子と、鳥羽上皇・得子は決裂し対立した。
 鳥羽上皇の北面の武士の西行は、鳥羽上皇のやり方に驚くとともに、両者の武力紛争を予想し、翌年の1140年に、西行は23歳で出家することになる。
 鳥羽上皇は父祖の白河上皇の愛人である璋子を皇后にしたが、璋子が生んだ顕仁(崇徳天皇)は鳥羽上皇の子ではなく、白河上皇の子であることは公然の秘密であった。鳥羽上皇は2つ年上で美しい待賢門院・璋子を中宮として敬いながらも、決して心穏やかではいられなかった。白河院と璋子、崇徳天皇に対して怨恨をはらすことになる。
(4) かなわぬ恋愛説。

 佐藤義清は鳥羽院の妃・待賢門院・璋子(崇徳天皇の母)に恋をして、その苦悩に璋子が情けをかけ、一度だけ逢い契りを交わしたが「逢い続ければ人の噂にのぼります」といわれ別れたとされている。しかし待賢門院・璋子は義清より17歳年上である。20歳の義清に対して37歳の璋子がそれほどまぶしかったのか。佐藤義清の独りよがりかも知れないが、本当のところはわからない。ただし西行には恋心の歌が多いことも事実である。

 このような感情が絡み合った結果、極楽浄土が西方にあることから「西行」と法号し、妻子と別れて仏道の世界に入ったのである。

 佐藤義清が出家する際、4歳になる愛娘が袖にすがりついてきた。煩悩のきずなを絶たねばと、娘を縁の下に蹴落し娘は泣き悲しんだ。妻は夫が出家する気配を感じていたので、娘の泣き悲しむのを見ても驚く様子を見せなかった。西行はすぐに髪を切って持仏堂に投げ込むと、知りあいの嵯峨の奥の聖のもとに駆けこんで剃髪して出家を遂げた。西行法師は末世戦乱の世の中で、同時代の人々に感銘を与え、憧憬の的となり、歌道における名声と相俟って、虚実が取り混じた様々な逸話が残されている。

 西行法師は嵯峨に草庵を結び仏法修業と和歌に励みながら、陸奥、四国、中国、九州へと漂泊の旅を繰り返した。また西行法師は平清盛の全盛期、その主催の法会にも参加し、平家一門とも親しく付き合っている。さらに源頼朝とも会っている。

 西行法師は出家前に次の歌を詠んでいる。

「世を捨つる人は まことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」

 この和歌は出家とは何なのか、仏教とは何なのかを問うものである。「出家とは人生の欲望を捨てることであるが、出家して身を捨てた人は本当に人生を捨てたのだろうか。いや出家した者にも煩悩はある。その煩悩から逃れるために、毎日、悟りや救いを求めて修行を行っているのである。これでは本当に世を捨てたとは言えない。むしろ俗世のしがらみに囚われ 己を捨てられずに出家できない人こそが、己の人生を捨てている」という意味である。

 佐藤義清の出家への並々ならぬ決意というよりは、出家して本当に良かったのかを問う歌で、出家しても超然とせず、常に人間的な悩みをあからさまにしている。出家することは世を捨てたとは言えない。仏門に入ることが煩悩から逃れることにはならない。この正直な悩みが西行の魅力といえる。

 ちなみにこの歌は勅撰集の「詩花和歌集」に収録されているが、作者は「よみ人しらず」になっている。勅撰集の作者は身分の高い人だけが記録され、北面の武士に過ぎなかった佐藤義清は対象外だったのである。

 待賢門院・璋子  京都・法金剛院蔵         MOA美術館蔵の西行像

出家後

 出家後、西行は吉野山の麓に庵を結んだ。吉野山は西行にとって俗時から慣れ親しんでいた歌枕の地であり、清浄きわまりない桜の名所であった。西行は吉野山の桜をこよなく愛して和歌に心情を託している。そしてなによりも、吉野山が古来からの霊地であることが、修行を願う西行の本意に叶っていた。家族を捨て故郷を捨てた西行が辿りついたのは、そのような自分を快く受け止め、花を咲かせてくれる桜の木であった。西行の美の情熱は多くの歌に残されている。なかでも桜の歌人といわれるほど、西行は桜の歌を多く残している。西行は仏教よりも、自然美の中に人生を見出したのである。

 日本人にとって桜と言えば古来は「山桜」を指していた。現在は桜と言えば江戸時代の新品種「ソメイヨシノ」を指しているが、ソメイヨシノれは早く成長しきらびやかではあるが風情にかけている。山桜は厳しい豪雪と寒風に耐えながら、時間をかけて成長し桜となって花を結ぶのである。だからこそ吉野の桜は美しいのである。そもそも桜は山に群生するものではない。吉野という山に対する信仰があり、信仰が吉野山を桜の名所にしたのである。

 

「願はくは 花の下にて 春死なむ、そのきさらぎの 望月のころ」

 訳:願いが叶うならば 草木の萌え出ずる如月(陰暦二月)の満月の頃に、満開の桜の下で釈迦の命日に死にたい。解釈:西行法師は若くして世を捨て、本当の自分求める生涯を送った。この歌は西行の作の中で特に有名な歌である。如月の望月のころとは2月15日の満月の頃で、太陽暦では3月中旬以降の満月の日にあたる。ちょうど桜が花盛りを迎えるころで、西行の熱愛した桜の花盛りの時期であり、また釈迦入滅の日でもある。出家した者にとって、とりわけその日に死にたいという願いがこめられている。西行はこの願い通り1190年2月16日、南河内(河南町)の弘川寺で2月16日に往生を遂げた。この歌は西行が63歳のころに詠んだ歌であるが、後世、西行の辞世の歌とされてきた。それから10年後、自ら詠んだ歌のとおり、望んだ日のわずか1日遅れで入滅したが、釈迦入滅の日が西行入没の日と祀られている。

 桜を詠んだ和歌として次のように哀愁に満ちた句がある。

ながむとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ」
(解釈:ずっと花を眺めているせいか、花に情が移ってしまい、花たちと散り別れてゆくのが悲しく思われる)。

 「花に染む心のいかで残りけん 捨てはててきと思ふわが身に
(出家したばかりなのに、どうしてこんなにも桜の花に魅了されるのだろう)の和歌を残している。

 西行は吉野以外にも様々な地で庵を結んでいる。嵯峨の小倉山の麓の庵、鞍馬山の奥などにも庵を結び、そこで詠んだ和歌に「わりなしや氷る筧の水ゆゑに 思いすててし 春の待たるる」がある。冬景色に心を奪われながらも、寒冷に身を置く自分に春が早くこないかとは何事だろう、と弱い己の心を嘆じている。

 1146年、29歳の西行は陸奥へ旅立つ。平泉についた西行はかつての戦場となった衣川を眺め「とりわきて心も凍みて冴えぞわたる 衣川見に来たる今日しも」と詠み、奥州藤原氏の地で一冬を過ごし、武人の心情に感動する歌を残している。その年の暮れに詠んだ和歌として「常よりも心ぼそくぞおもほゆる 旅の空にて年の暮れぬる」があるが、この句には旅立ちの気負いが失せ、ひっそりと過ぎていく年の味わいが感じられる。
 西行法師は讃岐に流された崇徳上皇の元を訪ね、1180年には居を伊勢に移し、平重衡が焼失させた東大寺復興にも関わり、晩年には奥州・平泉に藤原秀衡を訪ね、その途中の鎌倉で源頼朝とも語り明かしている。後世に大きな影響を与え、松尾芭蕉や幕末の高杉晋作も西行を尊敬していた。

 

「風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思ひかな」
訳:風になびく富士の煙が空に消えてゆく。その煙と同じように、私の思いもどこかに行くのだろう。 この歌を詠んだ西行法師は、妻子を残して出家をして生涯流浪の旅を続けながら、行くあての知れない煙とかけあわせ、自分自身を極めようとしても所詮無常の世界であると力まずに諭している。

 

「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
訳:目には見えないけれど、誰かがいつもそばで見守ってくれている。そう感じられるだけでも、涙がこぼれるほどありがたい。 

解釈:西行法師の遺した秀歌は数多いが、これは伊勢参宮の際の歌である。この歌は日本人の自然観、宗教観を歌った名歌である。五十鈴川の清冽な流れを見て、聳え立つ杉並木の参道を歩む時に、恐らく万人が感じるであろう敬虔な気持ちをそのまま表している。

 

嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
訳:嘆き悲しめと言って月が私に物思いをさせるのだろうか。いや違うだろう。月のせいだとかこつけて こぼれる私の涙よという意味である。

 解釈:「月前の恋」を詠んだ恋歌なので。涙は愛しい人を思う心だったのであろう。この恋歌の根底にあるのは、出家しても、なおある人を愛し続けた西行の孤独感ではないか。西行が武士として上皇の御所を守っていた頃、中宮のことを好きになり、この和歌は出家した後も、中宮の夢を見たことから詠んだとされている。流れる涙を月の所為にせずにはいられないという、定まらぬ気持ちを巧みに表している。

 

浪の音を心にかけて明かすかな 苫洩る月の影を友にて」

訳:波の音を布団のように我が心にかけて夜を明かした。屋根の苫から洩れる月の光りを添い寝をする友のようにして。解釈:この歌は前置きが長いが、それは前置きが重要なのである。「波の音」を波音をでなく字余りにしている。これは波の音を西行自身の心にかける布団のようなもと表現したのだろう。厳島神社への旅の途中なのか、簡素な庵で夜を明かした時の歌である。苫とは植物を編んで屋根にのせたもので、雨も風も通してしまう簡易的な屋根である。その屋根から月が見え、その淡い月明かりを我が友・平清盛と感じたのだろうか。

 平清盛は若き西行(佐藤義清)と同じ北面の武士仲間であった。清盛は安芸守になると厳島神社の造営に力を注いだ。この和歌は西行が厳島神社へ向かう旅をし、高富の浦で詠んだとされている。天下の情勢を知る清盛と、世相を大観する西行とは本質的に相通じるものがあったのだろう。
 西行はたび重なる旅を繰り返していたが、陸奥への旅を終えると、仏法を定めるためか高野山に入山し、1149年以後、西行の30年にわたる高野山時代が始まる。その当時の高野山は落雷で大塔や金堂などが炎上し、復興のため高野聖が結集していたが西行も聖として住み着いていた。
 高野山から京へ上る道の途中に天野を経る道がある。この地、天野(和歌山県伊都郡かつらぎ町)は田畑がなめらかで、人家がひっそり佇む端正で桃源郷を彷彿させる場所である。京へは天野から笠松峠を越え6キロの山坂を下らねばならない。西行は高野山からたびたび天野を訪れては田を耕し、そのことから西行田という地名が残っている。この天野は西行とのかかわりをもつ唯一の場所で、西行ゆかりの地として天野の小高い丘の上に、西行堂が建っている。また西行堂の近くには西行の妻と娘のものとさわれる二基の宝篋印塔がある。

 

芭蕉の師 西行
 松尾芭蕉は日本橋で多くの弟子に囲まれ、俳諧の宗匠として恵まれた生活を送っていた。それが芭蕉37歳の時、日本橋での生活をうち捨てて、隅田川の向こうの深川村に移り住んだ。この深川への転居の理由は不明であるが、深川の寂れた生活と孤独な俳諧活動の中から俳聖芭蕉が生まれた。

 芭蕉が芭蕉になるために、芭蕉は能因や西行などの先人の跡を追い、その歌枕を奥州に訪ねたのが「奥の細道」の旅である。芭蕉が師と仰ぐ西行の出家と芭蕉の深川転居はともに人生の大きな転機をもたらし、その後の生き方が後世でいう芭蕉と西行をつくり上げたのである。
 西行は代々武勇の武門の出でありながら、鳥羽法皇に仕え在俗中から心を仏道に置き、思い切って遁世してしまった。これが出家による僧形の歌人・歌聖西行の誕生である。
 芭蕉の深川への隠棲と西行の出家には共通する何かを感じさせる。