平将門の乱

 平安時代の貴族たちを恐れ驚かせたのは、平将門の乱藤原純友の乱である。この二つの乱は、日本の東西でほぼ同時に起きたことから、お互いに何らかの約束があったのではないかと噂を呼んだ。歴史小説では比叡山で平将門と藤原純友が将来の日本について相談を交わす場面が有名であるが、そのような事実はない。

 

平将門の乱
 桓武天皇の子孫である平将門は、939年に常陸の国府を攻め落とすと朝廷に反旗を翻した。関東を支配下に収め、自らを「新皇」と名乗った。将門の乱はいわば軍事クーデターで、歴史上初めて武士が表舞台に登場し、初めて天皇を否定して自らを新皇と名乗った画期的事件であった。この反乱のきっかけは、叔父・良兼との領土や女をめぐる争いであるが、中世における武士の特徴とあわせ事件の概要を述べる。

 

高望王

 高望王は平安京へ遷都したことで有名な桓武天皇の曾孫で、平姓を賜って坂東へ下った。その当時、国の役人である郡司や国司は任期が切れると、京に戻らなければならなかった。しかし任期が切れても郡司や国司たちは、自分たちの権益や勢力を保つため任地に居座り続けた。そのため中央の中流貴族たちが地方の豪族になり、彼らは新たな国司の命令に従わず、さらには武力蜂起に至る事件が頻発した。

 平高望(高望王)が派遣された坂東は、そのような反朝廷の豪族による事件が特にに多い地域で、平高望は反朝廷の豪族による武装闘争を鎮圧するために送り込まれた。平高望にとっては朝廷の地位を放棄したことになるので左遷であるが、もし実績を上げれば京都の貴族社会で失地回復することができた。
 当時は、地方で有事が起きれば国司が指揮をとって兵士を動員して鎮圧していた。国司は他国の兵士を集めることができたが、それでも国司に逆らう反朝廷の豪族がいたのである。平高望(高望王)が派遣されたのは、現地の国司と協力して反朝廷の豪族を支配下に置き、従わない者は鎮圧して治安を図ることだった。
 朝廷は地方の政治は国司にまかせたままだった。国司は税さえ国に納めれば、あとはやりたい放題で、国司は勝手に税率をかえ、自分の財産を増やし、任期が切れても居座り続け、財力と武力を蓄えた。このような状態だったため、地方の治安は悪化し、様々な人たちは武装して小武士となった。国司となった中・下級貴族がそのまま居座り、小武士をまとめて武士団の棟梁となった。その代表が桓武天皇の血を引く桓武平氏、清和天皇から出た清和源氏である。

 平将門は桓武天皇の子孫であり、平将門の祖父・平高望(高望王)は上総の国司でもあり、常陸国の前の国司である源護の一族と姻戚関係にあった。国司として国家権力の一端を担いながら、現地の豪族とも協調関係を維持していた。将門と争うことになる叔父の平国香や平良兼らも源護の一族と姻戚関係を維持していた。
 このように祖父・平高望(高望王)は上総国の国司として赴任するが、任期後もその地に居座り、勢力を拡大して武士団を形成していた。平将門の父・良将(よしまさ)は下総国佐倉に所領を持ち、強大な勢力を手に入れ、その子の将門は朝廷の官人であり太政大臣・藤原忠平に使えていた。

 地方での活動を円滑にするには、近隣の国司との関係を良好にすることで、国司や有力豪族と姻戚関係を持つことが必要であった。さらには国司を左右する中央の有力な貴族との提携も必須であった。つまり平将門の父親は地元の坂東を経営し、息子の平将門は在京活動を行っていたのである。

 このようにして坂東の平親子は、当初から地域の豪族と協調し、朝廷の権威・権力に依存していた。これは地方の武士の特徴であるが、父・良将の死をきっかけに相続をめぐり争いが起こきたのである。

将門

 将門は、父・良将の死去を京で知ると、京での生活を止め、地方に所領する土地を維持するため帰郷した。すると父の所領地のほとんどが、伯父の平国香や良兼、叔父の良正らに横領されており、さらに将門が愛した常陸の前国氏の娘は叔父・良兼のものになっていた。

 これが将門とその親族との長い抗争のはじまりになるが、このような一族内部の争いは当時の地方武士としては珍しいものではなかった。
 
将門は、叔父たちのなかでも平良兼と、さらに前常陸大掾・源護の一族と激しく抗争を繰り広げられた。この抗争は拠点となる集落を焼き払い、互いに親族が殺し合うなど凄惨を極めたものであった。将門はこの抗争で叔父の平国香を殺害している。

 935年、平将門は叔父の平国香を殺害したことにより、罪人として取り調べのため上京を命じられたが、罪は許されて帰郷する。しかし殺害された平国香の息子・貞盛がいた。父を将門に殺された平貞盛もまた叔父たち一族との戦いへ身を投じることになる。

 このような一族の抗争はたとえ大規模であっても私戦であり、抗争自体は朝廷の追討となる公戦にはならなかった。この時点では、誰もが国家への反逆者ではなかった。

 しかし939年、罪を犯した平国香の息子・平貞盛平将門が匿っていると、平貞盛の引渡しを常陸国府が求めてきた。平将門は国府に許しを請うが断られたため、平貞盛を守るため国府を攻撃した。この助けられた平貞盛が、後に藤原秀郷の協力を得て将門を討つことになる。

 国府は朝廷の出先機関である。国府を攻撃すれば朝敵となり、朝廷が黙っているはずがない。国府が平将門を敵対勢力として「朝廷に仇をなすもの」と訴えれば、朝廷による追討(公戦)が発動されることになる。そうなれば朝廷から追討使が派遣され、国司を含む近隣諸勢力の支援も合流して戦いが進められることになる。

 朝敵になればより容易に敵対勢力を駆逐することができたので、両陣営とも相手が国司の命令に従わないと朝廷に訴え出る工作を行っていた。このような経緯による朝廷からの追討命令は、私戦の延長であっても公戦と見なされものが少なくなかった。

 伯父の良兼や源護一族との抗争も将門優位のまま終息に向かっていたが、武蔵国では別の争乱が勃発した。新任した武蔵権守の興世王と源経基が、郡司・武蔵武芝と諍いを起こしたのである。

 将門は「武蔵武芝は自分の近親者ではなく、興世王・経基も自分の兄弟ではないが、両者の紛争を鎮める」と称して武蔵国に出向き、興世王と武蔵武芝を会見させ両者による紛争を調停したのである。この時、経基は京へ逃亡している。

 地方の紛争の当事者は、それぞれ別々の貴族に訴え出ることができ、地方で起きた紛争が中央の貴族同士の対立に発展することがあった。地方における紛争の調停に貴族が関与していたのである。

  坂東の平氏一族の抗争は将門に優位で、将門の調停は興世王と武芝を従属させたとみられた。とりわけ興世王が将門の後に坂東諸国を制圧した際には、将門の政治的立場を利用して対立する二者間の紛争を調停したとされた

 さらに京都に逃亡した経基は、将門、興世王、武芝らの行状を朝廷に訴え出た。これを受けて、かつて将門が家人として仕えていた太政大臣藤原忠平が調査に乗り出した。しかし将門は自らの上申書に、坂東五カ国の国司の証明書も添えて提出し、謀反の疑いを晴らすことに成功した。訴え出た経基がむしろ誣告(ぶこく)として罰せられた。

 朝廷では坂東における将門の名声を承認し、その功績の評価が審議された。ここまでの経緯が将門に都合良く運んだのも、将門が太政大臣・藤原忠平との政治的提携を保持していたからである。
 しかしその後、武蔵国では権守・興世王と武蔵守・百済貞連が再び対立し、興世王が将門のもとを頼ってきていた。同じ頃、常陸国では富豪層の藤原玄明が常陸介・藤原維幾と対立し、玄明もまた将門のもとを頼ってきた。いまや将門は坂東の諸勢力から頼りとされる存在になっていた。

 

朝敵

 常陸国司である藤原維幾は玄明の引き渡しを要求するが、将門はこれを承知せず両者は対立した。将門と玄明は藤原維幾を常陸国府に追い詰め、国府の周辺を襲撃し、国司が使用する印と国倉の鍵を奪った。このように常陸国司である藤原維幾と対立する藤原玄明との「私戦」に将門が介入したことが、結果的に朝敵に繋がったのである。
 将門はそれまでの一族同士の戦いでは国府への攻撃を慎重に避け、戦いを「私戦」の枠内に留めていた。しかしこの
常陸国司への攻撃は朝廷への敵対行為であり「謀反」と見なされた。近隣諸国の国司からただちに京都へ報告され、将門に対する調査は行われず、朝廷が鎮圧に乗り出す「公戦」と認定され、将門は追討の対象となった。
 
興世王は常陸国府を襲撃した将門に「一国の占領だけでも罪は軽くない。同じことならば坂東諸国を占領すべきである」と進言し、軍を進め下野国・上野国の国府をただちに占領した。「毒を食らわば皿まで」といったところである。
 このとき、本来ならば朝廷が行う
国司人事を将門が行い、坂東諸国の国司を任命したのである。さらに八幡大菩薩の使者と称する巫女が現れて、将門は「新皇」を称することに至った。将門は自らを「新皇」として、将門の居所を「都」した。このような見解は明確な反朝廷行為であった。
 地方の軍事豪族に過ぎなかった将門は、支配領域が拡大しても根本的な変化はなかった。
 
将門は朝廷に対抗して「新皇」を自称したが、その真意についても意見が分かれている。将門の乱はそれに関する史料が限られているため、よく知られている事件であるにもかかわらずその実態は不明な点が多いのである。

 「新皇」の自称も突発的なことであったと見られる。実際に巫女の宣託が行われたとしても、将門の支持勢力の自体には大きな変化はないのだから、宣託を受けての「新皇」「即位」という一連の流れを真実とすることはできない。
 「八幡大菩薩」の使者と称する託宣を受けた将門は、貧者が冨を得たが如くに意気盛んとなり、将門自身は「新皇」を自称したとされるが、一族間の「私戦」の経緯の説明と、常陸国衙襲撃において自らに罪はないとする弁明、坂東諸国を占領したことに関する開き直りとも取れる文言が並んでいた。

 また将門は国を危うくする陰謀の片鱗を示したものの、その一方で主君である太政大臣藤原忠平への恩義も忘れていないとする文言も明記されている。勢いに任せて常陸・下野・上野の国府を占領したが、この段階に至ってなお中央との連繋を重視し、それを維持しようとしていた。この奏上から「将門が坂東を独立国にしようとした」との意図を読み取ることはできない。
 「将門記」に描かれる将門の「新皇」自称も、将門の指導的立場が坂東の諸勢力のなかで承認されたことを象徴するものと理解すべきである。坂東諸国の豪族もそれぞれが各地で「私戦」の当事者で、朝廷との連繋が良い将門と結合することで利権の拡大を図りつつ、勢いに乗じた将門に味方することで、自らと競合する勢力の駆逐を目論んだ者も多かったのである。

 将門を滅ぼすのが同じく坂東にいた藤原秀郷であったように、この段階に至ってもなお将門とその支持勢力は、坂東全域を一元的に支配していたわけでもない。
 とはいえ、将門の勢いを恐れた坂東諸国の国司らは任国を捨てて逃亡し、将門は武蔵国・相模国なども次々と従え、実効支配の地域を拡大していった。
 平将門はもともと自尊心が強く、桓武天皇の血筋を引く自分こそが正当な王権を持つとして
「天皇に代わり日本の頂点に立つ」と宣言した。平将門は関東八カ国の国府を次々に攻撃して国司を追放すると、自らを「新皇」と名乗った可能性が高い。関東地方を治め、独立地方政権を作り上げたが、将門は朝廷の敵とみなされ将門討伐令が発布された。

 朝廷は比叡山延暦寺で将門の調伏を祈らせ、平定のため伊勢神宮に奉幣する。このように平将門は朝敵となり、朝廷は必死に祈りに頼ったことは、将門がいかに非凡で強かったかを示している。

 朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し、鎮圧の為に派遣した。結局は朝廷軍が到着する前に平将門は地元の武士、藤原秀郷平貞盛によって打たれた。

 940年2月14日。将門は甲冑を身につけ出陣する。通常ならば8000人前後の兵だが、この日は400人ほどの兵士しか集まらなかった。

 将門は猿島郡の北山を背にして陣を張り、貞盛と秀郷を待っていた。そして戦いは、午後3時頃始まった。

 この日は大風が吹き、砂埃が舞い将門軍は追い風を得て、一方の貞盛・秀郷軍は風下に立った。当時の合戦は弓矢が主だったので風上にたつことが絶対有利となった。将門軍の楯は前向きに倒れ、貞盛・秀郷軍の盾は後向きに倒れた。貞盛・秀郷軍は劣勢になり将門軍は馬上から敵を討った。その数80人ほどの兵で追撃して圧倒した。将門軍が攻めよると貞盛・秀郷・為憲の兵2900人は皆逃げ出し、残ったのは兵は300人ほどであった。彼らは逃げ回りながら追い風が吹くのを待っていた。将門が本陣に引き揚げると、突然風向きがかわった。

 今度は風下にたち、将門軍が不利な戦況になった。 将門は「どころからでも射抜いてみよ」と云ったが、 藤原秀郷はすかさず矢を放ち、その矢は将門様の眉間を射抜いた。将門の独立国家、新皇への夢は終わった。

 

平将門への評価

 将門の乱へに対し諸社諸寺には将門調伏の祈祷が命じられ、将門の行状を密告した源経基は従五位下に叙され、ついに藤原忠文を征東大将軍とする追討軍が京をでた。
 将門自身はその間も、敵対していた平貞盛や藤原維幾の子・為憲らとの戦いを続けていた。やがて貞盛と為憲は下野国押領使藤原秀郷の協力を得て将門を攻撃し、京を発った追討使が到着する前に将門は戦死した。将門の弟たちや興世王、藤原玄明らも誅殺されたが、これは朝敵となって追討軍がでたため、将門に味方する兵力は少なかったからであろう。

 将門との戦いに勝った秀郷は、当初、将門に同調していた。将門は新皇と号した上で坂東諸国に自ら国司を任じ、さらには大軍を率いて京都へ攻め上り、日本国の主になると主張して秀郷も当初はその構想を感心していた。しかしその後、秀郷は将門の立居振舞を見てその乱雑さに落胆し、将門を討ったとしたのである。
 最後の戦いでは、朝廷からの追討使派遣によって将門に味方していた勢力が朝廷からの追討対象となることを恐れて離脱していったからであろう。勢いに乗じて坂東諸国の国府を占領していったが、そもそも国司は任国を平穏無事に運営し、所定の税を滞りなく中央に納めることが任務の第一であった。それを武力で追い出したうえで強引に支配しようとしたとしても、広い支持を集めることはできない。また手段が強引であればあるほど、反発も招くことになる。
 この戦いで藤原秀郷という味方を得た貞盛と為憲は、以前から将門や玄明らと敵対する勢力であった。つまり将門の乱は「私戦」の延長線上で「公戦」と認定されつつも、最後はやはり「私戦」の延長線上で決着がついたのである。
 この争乱の経緯は坂東におけつ凄惨な抗争(私戦)であり、それ自体は朝廷の支配を揺るがすようなものではない。「新皇」を称した将門も、その基盤は中央の貴族や国司であり朝廷の権威を背景に活動する勢力の一つであった。国府襲撃という事件を起こさなければ、将門は国家的軍事・警察権の担い手として朝廷や貴族から重用されていたかもしれない。
 将門の独立は近隣の支持も失った上で潰されてしまったのである。将門を支持した富豪層も程度の差はあれど将門のように朝廷の権威に依存する存在であって、その転覆など考えることはできなかった。彼らは現行の体制を承認しつつ、そのなかで自らの利益の拡大を図るに過ぎないのだった。自らの利益にかなえば将門にも味方するし、利益に反するようなら離脱するような者たちだったのであろう。
 中世には武士がめざましく社会進出を果たしたが、平将門の頃はまだ武士の存在は薄かった。武士の活躍は、時代が下って院政期にり皇統の対立や、寺社強訴の頻発などにより、武力によって守護する必要に迫られてからで、将門の乱に関わった人々の子孫で武士の家として発展を遂げた者も含まれていた。

 将門を討った秀郷には従四位下、貞盛には従五位下の位が与えられ、彼らの子孫はやがて武士の家として発展を遂げることとなる。
平貞盛…伊勢平氏(平家政権を立てた清盛などを輩出)、北条などの祖。藤原秀郷…小山・結城・長沼、波多野、山内首藤、平泉藤原氏、佐藤(歌人の西行を輩出)、後藤などの祖。
平良文…千葉・上総、秩父平氏(畠山・小山田など)、三浦、大庭・梶原などの祖。
藤原為憲…伊東・工藤、二階堂などの祖。

 荘園や諸国の国衙(こくが)に武士が起用されたのは防衛のためであり、院や貴族、寺社らと独自にの関係を展開してゆく。
 このように武士の社会進出は彼らが得意とする武芸を活かした奉仕を中心としたものであった。
 また将門からうかがえたように、中世社会における武士は朝廷の権威を背景に「私戦」を繰り返し、朝廷の権威に依存する側面と背反を併せ持っていた。武士が天皇や貴族、寺社勢力などと対立する単純な評価では、中世における武士の存在形態を考えることはできない。まして将門の乱の舞台となった坂東の“自立性”を過度に重視することはできない。
 将門の乱をもって坂東の「独立」を過度に重視する風潮があるが、現代人の価値観に左右されることなく、その当時の状況を冷静に分析し評価を下すことが重要である。

平将門の呪

 平将門は数に勝る藤原軍に勝てず、歴史に残る最初の晒し首になる。京都・三条河原の晒し首は、毎夜青白い光を放ち「わが胴体はどこにある。ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう」と叫び、さらにいつまでたっても腐ることなく、まるで生きているようであった。そして晒し首になっている首だけが京の空を舞い、自分を裏切ったものの首や腕を食いちぎって関東に飛んでいった。

 その首が落ちたところが現在の東京都大手町にある平将門の首塚で、胴体が埋まっていたところが皇居近くの神田明神とされている。さらに将門の愛馬の死骸が埋まっているところ、将門が戦勝を祈願した刀が埋まっているところ、さらには将門に従って討ち死にした者たちが眠る場所など、様々な場所が「平将門の怨霊の地」として残っている。 

 東京の大手町に平将門の首塚がある。平将門の乱で敗れた将門の首が飛んできて、首を洗ったのが「首洗いの井戸」、その首を埋葬した場所が「首塚」である。これらは伝説にすぎず、平将門の首が埋葬されているかはわからないが、この首塚をめぐって平将門の祟りと思える出来事が起きている。
 徳川の重臣の大久保家は藤原秀郷の子孫にあたるが、江戸城拡張工事で神田明神の移転を移転を企画した大久保忠世はすぐに病死し、嫡男忠隣は事件に巻き込まれ死亡しているている。大正12年、関東大震災により大手町一帯が瓦礫の山となったため、国は首塚を取り壊し、土地を整理して大蔵省仮庁舎を建設した。平将門の首塚の上に大蔵省の仮庁舎を建てる計画であった。しかしその直後から当時の大蔵大臣をはじめ、大倉幹部や工事関係者が14人が亡くなっている。いずれも平将門など落ち武者などに殺される夢にうなされての変死。あるいは事故死だった。さすがにこれは不吉ということで工事は中止となった。
 さらに太平洋戦争直後、平将門の首塚を取り壊す計画が持ち上がり、アメリカ軍がその場所を整備して駐車場にしようとすると、工事中にブルドーザーが横転して運転手の男性が死亡した。アメリカ軍も平将門の祟りを聞かされ、首塚の取り壊しを中止した。

 現在でも、隣接するビルは、平将門の首塚を見下ろすようなことのないように、窓は設けていない。またビルは管理職が首塚に尻を向けないように、特別な机の配置がされている。 

 またこの首塚などを含めて、平将門ゆかりの神社として「鳥越神社」「兜神社」「神田明神」「将門首塚」「筑土八幡神社」「水稲荷神社」「鎧神社」があり、これらをすべてつなぐと北斗七星の形になるとして有名である。それらの神社で平将門の名誉を傷つけると死を賜るということになる。

 人が怨霊や神になるには「現世で英雄的な功績を立」て、かつ「非業の死」を遂げる必要がある。非業の死を遂げた人の霊魂は、生を全うできなかった苦しみを死後に自らの力に変換して強い力を持つと考えられ、それを慰撫するために人々は昔から様々な供養方法を考えてきた。
 平将門は関東八州を制圧し、天皇に対して自分は「新皇」を名乗って関東に新しい朝廷を築こうとするなど、非常に個性の強い人物であった。
 当時の東国は畿内の人々からは「みちのくの国」として蔑まれていた。将門は東国の人々の期待を背負った人物で東国の英雄とされ、また将門の悲劇は合戦で矢に当たって討死したうえで斬首された。首は京に運ばれて晒し首にされ、更に将門への討伐軍には将門自身の親戚(伯父の国香など)が加わっており、骨肉の争いが行われていた。ことから平安朝の人々に将門の方がより血なまぐさい印象を受けたのであろう。

 このように日本三大怨霊とされるのが平将門の他、菅原道真崇徳上皇である。

 後の平家一門は多くの人々が非業の死を遂げたが怨霊を輩出していない。これは平家物語を語り、建礼門院徳子に菩提を弔わせることによって、一門の人々が成仏したということを示している。平家については怨霊伝説よりも落ち武者伝説の方が多いのは、鎌倉政権に対して、平家の落ち武者がどこかで生き延びていてほしいと願う人々が多かったからである。

藤原純友
 この平将門の乱と同じ時期に、瀬戸内海では藤原純友が海賊を率いて反乱を起した。こちらは源経基(つねもと)によって鎮圧されている。平将門の乱と同じ939年に、瀬戸内海沿岸で藤原純友の乱が起きる。この二つの朝廷に対する反逆を「承平・天慶の乱と呼ぶ。朝廷の権威に抵抗する武装勢力が同時に発生したことは、公家政権の統治力の衰えを象徴する出来事であった。

 藤原純友は藤原北家(藤原冬嗣・長良)の血統を継ぐ中級貴族だったが、父の藤原良範を早くに亡くし、中央での出世を諦め地方官の伊予掾(いよのじょう)の任務に就いていた。当初は伊予掾として瀬戸内海の海賊を鎮圧する役目を忠実に果たしていたが、瀬戸内海沿岸の海賊や地方官をまとめた藤原純友は、自分が海賊の首領となって海賊行為を指揮するようになった。海賊鎮圧のための純友が、朝廷の命令を無視して海賊行為を指揮したのである。朝廷は追捕使長官・小野好古、征西大将軍・藤原忠文らに純友の征伐を命じた。

 しかし藤原純友の反乱勢力は強く、約2年間にわたって日振島(ひぶりじま)を拠点に抵抗し、瀬戸内海の安全を脅かした。伊予国警固使に橘遠保が任命され本格的な追討が始まり、藤原純友の軍勢が弱まってくると、940年に橘遠保によって純友・重太丸父子は捕縛されて処刑され、藤原純友親子の首が朝廷に届けられた。指導者を失った海賊勢力はその力を弱め、翌941年には瀬戸内海の安全が確保された。

 瀬戸内海沿岸を勢力圏とした藤原純友の乱は、九州地方にも到達するほどの勢いで大宰府追捕使の軍勢も純友に敗れている。平将門の乱を鎮圧した朝廷が、軍勢を集中させ純友の反乱も鎮静化した。藤原純友は、平将門と違い「独立国の建設」との意図はなかったが、瀬戸内海の大勢の海賊を味方につけたことで反乱が長期化した。この平将門の乱と藤原純友の乱はどちらも武士によって鎮圧され、武士のもつ力が注目されることなる。

 藤原純友はもとは官人として海賊を討伐する立場だったが、海賊の方が性に合っていたのか、結局そのまま伊予で海賊になってしまった。瀬戸内海を荒らしまわり、朝廷から差し向けられた討伐軍によって捕らえられて獄死している。英雄とよぶには弱く、国を脅かした海賊の末路なので獄死は当然とする向きが強い。

 公地公民制は崩壊し、民生を掌るのは荘園領主と武士団だった。平安末期になると武士団は源氏と平氏の二大勢力になった。清和天皇の後裔を自認する源氏は東国でその勢力を伸ばした。その契機となったのが、いわゆる「前九年後三年の役」(1051年)である。陸奥(岩手県)の大豪族、阿部頼時の反乱を鎮圧するために出陣した源氏勢力が、9年の歳月をかけてこれを滅ぼし、その後、阿部氏に代わって権勢を誇った清原氏の内部抗争を3年かけて鎮定した。この功績を立てた源義家(八幡太郎)は源氏の守護神となる。

 いっぽう桓武天皇の後裔を自認する平氏は西国で勢力を伸ばした。その契機となったのが、大海賊・藤原純友の反乱であった(941年)。武力を持たない朝廷は、地方の戦乱を有力な武士団に委ねざるを得なかった。そのため反乱が頻発すれば、朝廷の権力が次第に武士に蚕食されていった。やがて朝廷の皇族や貴族たちは、自分たちの権力争いに源氏と平氏の武力を利用するようになる。こうして起きたのが「保元の乱」と「平治の乱」 である。その結果、朝廷の実権を握ったのは平清盛であった(1167年)。朝廷内の権力争いは武士に国の実権を奪われる形で終結した。