藤原純友の乱

 平将門が関東地方で新皇を名乗り、朝廷に謀反を起こしたのとほぼ同時期に、瀬戸内海では藤原純友が海賊を率いて反乱を起した。この二つの朝廷に対する反逆を「承平・天慶の乱」と呼ぶ。朝廷の権威に抵抗する武装勢力が同時に発生したことは、公家政権の統治力の衰えを象徴していた。

 平将門の乱の動機は非常に曖昧である。受領と豪族たちの仲介に私的な闘争が加わり、規模が大きくなり朝廷から討伐されそうになり、「朝廷と有利な条件で交渉できるように関東一体を支配して朝廷を脅してやろう」と思い立ち、平将門は関東を支配した。

 いっぽうの「藤原純友の乱」の動機は単純である。それは「朝廷のために働いたのに、働きに見合った勲功を貰えなかった」という朝廷への不満である。この2つ乱が起きるまでは、武士たちは朝廷から見下されていた。
 かつての日本は、現代よりはるかに湿地帯や湖沼が多く、水上輸送は効率のよい物流だった。そのため積荷を狙う小規模な海賊行為は各地で起きていたが、ほとんどは地域の有力者によって武力制圧されていた。しかし
平安時代になると地方から都へ水上輸送される官物を狙った海賊が現れ、各地ではその対応に苦慮するようになる。特に大動脈であった瀬戸内海では朝廷が海賊討伐令をくだすことが多かった。

 藤原純友はかつては摂政家として栄えた藤原北家(藤原冬嗣・長良)の血統を継ぐ貴族だったが、大宰府(九州の博多)を支配する役所の次官であった父を早くに亡くしたため、中央での出世を諦めざるを得なかった。当時の朝廷は世襲制だったので、父の後ろ盾がなければ出世コースに乗ることはできなかった。つまり出世は父親の後ろ盾で決まっていた。

 没落貴族となった藤原純友に声をかけたのは、叔父で伊予国(愛媛)の守である藤原元名であった。藤原純友の父は大宰府の次官で、大宰府は朝鮮半島との通商の要所だった。そのため博多には商船などを狙う海賊たちが頻繁に出没していた。藤原純友は父が生きていた頃、海賊らを退治するため日々奮闘していた。そのおかげで海賊退治を得意としていたので、藤原元名の命令で瀬戸内海の海賊たちを鎮圧する役目を忠実に果たしていた。

 藤原純友は伊予国で4年くらい海賊討伐に励むことになる。ここで藤原純友が圧倒的に強かったため、瀬戸内海の人々に強烈な印象を残した。海賊たちも藤原純友を知らない者はいなかった。しかし935年になると藤原元名が伊予国の任期を終了し、藤原元名の部下として働いていた藤原純友も官職を失い京に戻った。藤原純友は大きな成果を上げたものの海賊の壊滅にまでは至らず、その後も伊予国では激しい戦いが行われていた。


紀淑人(きのよしひと)
 936年3月、藤原純友は京へ戻っていたが、藤原純友がいなければ海賊に勝つことができないとして、朝廷は藤原純友に「伊予国警固使」という役職を与え、再び伊予国へ向かうことになる。その2か月後の936年5月、藤原元名に代わって新しい受領がやってくる。それが紀淑人であった。

 ここで不思議なことが起こる。海賊たちは紀淑人の寛大な人柄を信用して突然降伏したのである。それまで約5年間も抵抗を続けていた海賊たちが、なぜか降伏したのである。海賊たちは紀淑人の寛大な人柄を見て降伏したと報告されたが、高齢かつ文人である紀淑人が本当に海賊を説得できたのだろうか。
 紀淑人は海賊とは全く違う価値観を持つ人物で、そのような人物に海賊たちが全面降伏したことには疑問がある。海賊たちの全面降伏は、紀淑人ではなく藤原純友による海賊への説得によるものであったのであろう。これはかなり有力な説で、まず第一に海賊は紀淑人よりも、長年戦いその人柄も十分把握していた藤原純友のことを信頼していた。その後、藤原純友が乱を起こしたとき、海賊たちは藤原純友の味方になっており、敵といえども海賊が藤原純友のことをある程度評価していた証拠のである。
 また939年に藤原純友が乱を起こした際に、朝廷は大慌てで海賊降伏に関する勲功を藤原純友に与えている。つまり936年の海賊全面降伏の際に藤原純友に与えるべき勲功を与えていなかったのである。海賊降伏は藤原純友の功績で、紀淑人は藤原純友の手柄を横取りした可能性が高い。

 藤原純友は紀淑人よりも2か月前に伊予国入りしており、受領である紀淑人がその手柄を横取りし、藤原純友の勲功は黙殺されていたのだった。
 だからこそ939年に藤原純友が乱を起こしたとき、朝廷は真っ先に3年前に黙殺していた勲功を藤原純友に与えたが、この黙殺された藤原純友の不満が939年の藤原純友の乱の動機になったのである。藤原純友が乱を起こした明確な理由はわからないが、この勲功黙殺への不満があったのは間違いない。任期を終えた藤原純友は京に戻っていたが、すぐに引き返し瀬戸内海沿岸の海賊や地方官をまとめ、そのまま海賊の棟梁になってしまう。

 

海賊になる舎人たち

 海賊のほとんどが元公務員の舎人(とねり)であった。舎人は朝廷内の雑用係でいろんな雑用をしてたが、894年の遣唐使廃止前までは、日本は中国に次ぐ帝国という自負を持ち、その帝国たるゆえんを他国に見せるため、新羅などの朝鮮の人々を招いて壮大な儀式を頻繁に行っていた。

 この壮大な儀式のため、大量の雑務を行うのが舎人たちの仕事であった。しかし日本は「国内の統治も安定し、朝鮮や中国が攻めてくる様子もない。もはや日本が強いことを示す必要はなく、朝鮮や中国と貿易は続けるが政治的外交はやめる」と外交を縮小した。このことで大規模な儀式は激減し、これに伴い舎人たちの仕事も無くなってしまった。職を失った舎人たちは、それまでは免税特権から税金を納めずに暮らしていた。

 元舎人は税を課せられたが、税金を払わない舎人たちは受領たちにとって邪魔な存在になった。受領にすれば「舎人だったが、仕事をしていないのだから免税特権はない」と言いたいが、受領には免税を解く権限も課税する権利もなかった。この受領たちを見かねた朝廷は、受領に舎人の解任権と逮捕の権利を与えた。朝廷は税金が納められないと困るので受領の味方になり、舎人から税を取ろうとした。
 こうして解任された舎人たちが海賊になった。伊予国は米の産地だったので解任された舎人たちは海賊となって米を奪った。
「伊予国で収穫された米は、舎人へ支給されていた米なんだから俺たちのものだ。なぜ俺たちに与えないのか、支給しないなら無理やり奪うしかない」こうして、伊予国では元舎人による海賊に苦しむことになる。そこで白羽の矢が立ったのが藤原純友だった。

 海賊(元舎人)たちは藤原純友に非常に友好的で、信頼できる人柄だった。元舎人たちは裕福な人が多く、藤原純友にとって強力な後ろ盾となった。こうして藤原純友は瀬戸内海を中心に強大な勢力を手に入れ、受領でも抑えられないほどになった。

 藤原純友は海賊の方が性に合っていたのだろう。朝廷の命令を無視して、自が海賊の首領となって海賊行為を指揮したのである。

 藤原純友は伊予の国にある日振島を根城に抜群の統率力を発揮し、当時の公家社会に不満を持つ瀬戸内海沿岸の民衆を集め、1,000隻を超える大海賊団を組織し周辺海域をあらし、やがて瀬戸内海全域にその勢力を伸ばした。

 朝廷は追捕使・小野好古、征西大将軍・藤原忠文らに藤原純友の征伐を命じた。しかし藤原純友の勢力は強く、約2年間にわたって日振島(愛媛県宇和島市)を拠点に瀬戸内海の安全を脅かした。瀬戸内海沿岸を勢力圏とした藤原純友の乱は、九州にも到達するほどの勢いで、大宰府追捕使の軍勢も純友に敗れている。

 しかし伊予国警固使に橘遠保が任命されると、本格的な追討が始まり藤原純友の軍勢は弱まった。

 

大宰府を襲撃
 
藤原純友は讃岐が朝廷に制圧されてから4か月後、突如大宰府に姿を現し大宰府を襲撃した。大宰府は朝廷にとって、九州における最重要拠点であった。純友はこの重要拠点を制圧することで、朝廷と和平交渉を有利に進めようとしたのであるが、勢いに乗った朝廷には純友と交渉する気はなかった。朝廷を和平交渉のテーブルに引き出せない純友は、遂に大宰府にて朝廷との最終決戦をむかえる。
 藤原純友は受領の独裁に苦しむ反受領勢力を味方につけ、
大宰府において朝廷軍に対抗した。しかし平将門の乱を鎮圧した朝廷軍は、伊予・讃岐らの四国・中国地方を抑え、戦力を集中して大宰府へ投入してきた。全力の朝廷軍に、朝廷に骨抜きにされた藤原純友軍が勝てるわけもなく純友は敗北した。940年に橘遠保によって藤原純友・重太丸の父子は捕縛され処刑され、その首が朝廷に届けられた。指導者を失った海賊勢力は力を弱め、翌年には瀬戸内海の安全が確保された。

 こうして939年から2年にわたって行われた藤原純友の乱は朝廷軍に鎮圧された。 国を脅かした海賊の末路なので藤原純友の獄死は当然であるが、純友は将門のように神や英雄として崇められることもなく、純友に関する伝説や資料も少ない。藤原純友は平将門と違い「独立国の建設」との意図はなかったが、瀬戸内海の大勢の海賊を味方につけたことから反乱が長期化したのである。純友は敗者ではあるが、将門を語る上で無視できない西国の武将である。

 

武士団の背景

 公地公民制が崩壊し、民生を掌るのは荘園領主と武士団だった。平安末期になると武士団は源氏と平氏の二大勢力になった。清和天皇の後裔とする源氏は東国でその勢力を伸ばした。

 藤原純友の乱を鎮圧した功労者で、出世を遂げた人物のひとりに源経基(つねもと)がいた。源経基は平将門の乱の時にも登場し、源経基は清和源氏の祖であり、あの源頼朝の先祖になる。

 いっぽう桓武天皇の後裔を自認する平氏は西国で勢力を伸ばし、その契機となったのが藤原純友の反乱で、平清盛の先祖である平貞盛が頭角を現した。

 武力を持たない朝廷は、地方の戦乱を有力な武士団に委ねざるを得なかった。この平将門の乱と藤原純友の乱はどちらも武士によって鎮圧され、武士のもつ力が注目されることなる。そのため反乱が頻発すれば、朝廷の権力が次第に武士に蚕食されていった。やがて朝廷の皇族や貴族たちは、自分たちの権力争いに源氏と平氏の武力を利用するようになる。こうして起きたのが「保元の乱」と「平治の乱」 である。その結果、朝廷の実権を握ったのは平清盛であった。

 朝廷内の権力争いは武士に国の実権を奪われることになった。この意味から藤原純友と平将門が起こした乱は、日本史上では地味ではあるが、源頼朝・平清盛といった武士の先祖たちが本格的に歴史に登場したという点では重要な出来事といえる。