松尾芭蕉

 松尾芭蕉は江戸時代前期の俳諧師で、井原西鶴、近松門左衛門とともに元禄3文豪に数えられている(西鶴は2歳年上、近松は9歳年下)。松尾芭蕉は俳諧の芸術的完成させ、芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として日本のみならず、世界的にも有名である。五・七・五のわずか17文字のなかに情景や心情を凝縮し、類まれな言語感覚でそれらを表現した。また「わび・さび」を特徴とする芭蕉の句風は「蕉風」と呼ばれ、俳句の世界に革命を起こした。大勢の弟子たちにより俳句は広まり、特に弟子の河合曾良を伴い、1689年5月16日に江戸を立ち東北、北陸から岐阜の大垣まで旅した「おくのほそ道」が有名である。
 松尾芭蕉、本名・松尾宗房(むねふさ)は伊賀国の上野(三重県伊賀市)に生まれた。幼名は金作である。兄・命清の他に姉一人と妹三人がおり、芭蕉は6人兄妹の次男であった。時は江戸時代の初期で、戦国時代が終わり、民衆が泰平の世を謳歌していた時期に生まれた。松尾家は準武士の農民であったが、苗字・帯刀が許されただけで身分は農民同然であった。芭蕉12歳の時に父が死去し、兄が家督を継ぐが、その生活は苦しかった。
 そのため18歳で藤堂藩の嫡子・藤堂良忠に使えたが、その仕事は厨房役・料理人だった。しかし藤堂藩には文芸を重んじる藩風があり、藤堂良忠も俳諧を愛好しており、芭蕉は良忠から手ほどきを受け、2歳年上の良忠と俳諧仲間となった。年齢が近いこともあり、良忠が「すこぶる他と異なり」というように身分の差をこえて仲良くなった。二人は京都にいき北村季吟に師事して俳諧の道を深めた。

 春や来し 年や行けん 小晦日(はるやこし としやゆきけん こつごもり)、これが芭蕉が詠んだ最も古い句で、19歳の立春の日に詠んだとされている。
 芭蕉が20歳の時に佐夜中山集に2句が入選し、この時、芭蕉がは松尾宗房を名乗っていた。22歳の時に師と仰いでいた藤堂良忠が突然病死すると、藤堂の家督を良忠の弟が継いだため、厨房役・料理人にすぎない芭蕉は悲しみのため仕官を退き、実家に居候することになった。この時代は浪人で溢れていたため職はなかった。この居候の生活で劣等感にさいなまれ、独学で古典の勉強を行い俳諧の世界へのめり込んでいく。その後の動向はわからないが、京での俳諧集には毎年のように入選している。1667年刊の「続山井」には芭蕉は「伊賀上野の人」と紹介されている。

 1672年、28歳の芭蕉は初の撰集「貝おほひ」を文芸・学問の神である伊賀天満宮に奉納すると、芭蕉は伊賀俳壇の代表格となり、プロの俳諧師となるため江戸へ出ることになる。藤堂良忠の死から6年目であった。


桃青時代
 芭蕉は31歳時に号を桃青(とうせい)に改め、33歳で俳諧師の免許皆伝となり、宗匠(師匠)となり、江戸俳壇の中心地の日本橋に居を定めた。江戸で俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見である磐城平藩主・内藤義概の集まりにも出入りするようになる。この時初めて号「桃青」を用いている。ここで桃青は宗因の談林派俳諧に大きな影響をうけた。
 芭蕉は俳諧師になったが、俳句の指導だけでは生活が苦しいため、副業として4年近く神田上水の水道工事を担当した。担当は労働ではなく帳簿づけなどの仕事で、防火用水に神田川を分水する工事に携わった。これは生活費のために俳諧で稼ごうとしなかっため経済的に苦しかったことに加え、無職だと幕府に眼をつけられたからである。
 当時の俳壇は滑稽の機知、華やかさを競うことが持てはやされていたが、芭蕉が目指していたのは、笑いや楽しさを求める俳句ではなく、静寂の中の自然の美や李白・杜甫らの孤高や魂の救済を詠み込んだ世界であった。自然や人生の探究が刻み込まれた俳句を目指し、芭蕉は俳諧を精神と向き合う文学に昇華させてゆく。
 1680年(36歳)、江戸の俳壇は金や名声への欲望が満ちており、宗匠たちは弟子の数を競い合っていた。この状況に失望した芭蕉は、江戸の街中を去り、隅田川東岸の深川に草庵を結んだ。宗匠にとって日本橋から去ることは「敗北」と見なされたが、芭蕉の弟子たちは深川への移転を歓迎して師の生活を支援した。

 草庵の庭にバショウを植えたところ、見事な葉がつき評判になったことから、弟子たちは「芭蕉庵」と呼び、芭蕉も号を「芭蕉(はせを)」とした。この頃から禅を学ぶび、それは静寂で孤独な生活を通して俳句を極めようとする意志が込められていた。深川の居を「芭蕉庵」へ変え、その入庵の翌秋、字余り調で次の句を詠んだ。
芭蕉野分して 盥(たらい)に 雨を聞く夜かな」、この句は、芭蕉の葉が嵐で激しく揺れ、庵でタライの雨もりを聞く夜である、を述べた句であるが、侘びへの共感が詠まれている
 しかし1682年、江戸の大火(八百屋お七の大火)で芭蕉庵は全焼する。山梨県都留市の国家老高山繁文に招かれ流寓し、翌年5月には江戸に戻り、弟子たちが力を合わせ再建し冬には芭蕉庵は再建されたが、この大火により隠棲しながらも棲家を持つ事の儚さを知ることになる。

 その間、芭蕉の句は独自の吟調を拓き始め、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれた。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」を名乗ることもあった。

 芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという考えを抱き、旅の中に身を置く思いが強まった。

 
野ざらし紀行
 1684年(40歳)、前年の暮れに郷里・伊賀で母が他界したため、で伊賀の父母の墓参りをかね奈良、京都、名古屋、木曽などを半年かけ旅をした。門人の千里(粕谷甚四郎)が同行したこの旅は、出発時に詠んだ「野ざらしを 心に風の しむ身かな」の句から「野ざらし紀行」と呼ばれている。この句は、行き倒れて骨を野辺に晒す覚悟をしての旅だが、風の冷たさが身にこたえる、という句で、これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅であったが、後半には穏やかな心情になる。野ざらし紀行の前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する。

 「野ざらし紀行」には「馬に寝て 残夢月遠し 茶の煙」の句がある。これは馬上でウトウトして夢から覚めると、月が遠くに沈み、里ではお茶を炊く煙が上がっている、これは生活の中の情景を描いている。また「僧朝顔 幾死返る 法の松」は、朝顔が何度も死と生を繰り返すように僧は入替わるが、仏法は千年生きる松のように変わらないことを意味している。
命二つの中に 生きたる 桜かな」は、お互いに今までよく生きてきたものだ。2人の生命の証のように、満開の桜が咲き香っているとしている。この句は滋賀・水口の満開の桜の下で、20年ぶりに同郷の旧友・服部土芳と再会した時の句である。
手にとらば 消ん涙ぞ 熱き秋の霜」、母の遺髪の白髪を手に取れば秋の霜のように熱い涙で消えてしまいそうだ。
死にもせぬ 旅寝の果よ 秋の暮」、死ぬこともなく、この旅が終わろうとしている。そんような秋の夕暮れを詠っている。

 また1686年(42歳)頃の句として「古池や 蛙(かわず)飛込む 水の音」を詠んだ。和歌や連歌の世界では、蛙は鳴くことに重きが置かれていたが、「飛ぶ」点に着目し、さらに飛ぶを動きではなく「静寂」を引き立てるために用いた詩情性は過去にないものであった。芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品である。

 また同じ頃の句として「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」、名月に誘われて池のほとりを恍惚と歩き気が付けば夜更けになっていたことを表し、「物いへば唇さむし秋の風」などがある。
 1687年8月14日から、芭蕉は弟子の河合曾良と宗波を伴い鹿島詣に行った。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と月見の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせずに句を作った。それが「月はやし梢は雨を持ちながら」である。

 同年10月25日から伊勢へ向かう旅に出た。東海道を下り、鳴海・熱田・伊良湖崎・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。翌年2月に伊勢神宮を参拝し、父の33回忌のため伊賀に戻り、また伊勢に入った。その後吉野・大和・紀伊と巡り、さらに大坂・須磨・明石を旅して京都に入った。年が明けると高野山、吉野・西行庵、奈良、神戸方面(須磨・明石)を旅行し、この紀行は「笈(おい)の小文(こぶみ)」に記されている。「若葉して御目の雫拭はばや」、若葉で鑑真和尚の盲いたお目の涙を拭ってさしあげたい。これは奈良の唐招提寺で鑑真和尚像を見て作られた句である。この鑑真像は現在国宝になっているが、300年前に芭蕉が感動したものを私たちも見ることができる。


更科(さらしな)紀行
 同年秋には長野に向かい、これは「更科紀行」となっている。旅に明け暮れ、風雅に興じる日々を重ねてる芭蕉であったが、何か納得できないものがあった。訪問先では土地の弟子たちが最大限のもてなしをしてくれるが、過去の偉大な詩人たちはこのような旅で詩心を育んだわけではない。もっと自然に向き合い、魂を晒す旅にしなくてはいけないと思うようになった。
 1689年3月27日(45歳)になると、前年は旅尽くしであったが、年頭からさらに心がうずき始める。東北を旅したいという思いが心をかき乱し、何も手につかない状態になる。旅行用の股引(ももひき)を修繕し、笠ヒモを付け替え、健脚にするため足のツボに灸をすえた。
 まだ未踏の土地を旅して無事に帰れたならば、詩人として最高の幸せと思うようになった。芭蕉は「芭蕉庵」を売り払い、旅の資金を捻出し、万葉集や古今集などの古典に詠まれた陸奥(みちのく)の名所を巡礼するため、弟子の曾良(5歳年下)と供に江戸を発った。


おくのほそ道
 この旅は江戸から、福島県白河市(白河関)、宮城、岩手、山形、北陸地方を巡って岐阜・大垣に至る2400km、7ヶ月間の旅となった。知人が殆どいない東北の長期旅は、最初から多大な困難が予想され、「道路に死なん、これ天の命なり」と覚悟の上での旅立であった。芭蕉にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的をもち、おくのほそ道で多くの名句が詠まれた。


おくのほそ道の名句
「月日は百代の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり」。月日は永遠の旅人であり、去って来る年もまた同じ旅人である。
 3月27日江戸を出発。奥の細道の旅に出るのに先立ち、それまで住んでいた家を売り払い、以後しばらく門人の杉風(さんぷう)の別宅にご厄介になる。

草の戸も住替る代ぞひなの家」、これは家を引き払うときに詠んだ句である。この芭蕉庵も主が代わることになった。越してくる一家は女児がいると聞く。殺風景な男所帯からお雛様を飾る家に変わるのだろう。

江戸・千住
 むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそゝぐ
<訳>親しい人たちはみな、前の晩から集まって、今朝は舟に乗って見送ってくれる。千住という所で舟からあがると、前途三千里という思いで胸がいっぱいになり、この幻のようにはかない世の別れ道に立って離別の涙を流す。見送りの人たちとも別れ、この先曽良(そら)と同行二人。約5ヶ月に及ぶ『奥の細道』の旅の始まりである。
 行春や 鳥啼魚の 目は泪
この句を矢立の初めとして歩き出したが、名残惜しさに行く道はなかなか進まない。人々は道に立ち並んで、私たちの後ろ姿が見えるまではと見送っているのだろう。

 4月中旬、蘆野(栃木県那須郡)に着く。「田一枚植て立去る柳かな」、その昔、西行法師が腰を下ろした柳の木陰でしばし感慨に耽っていると、いつの間にか田植えが終わり、ひとり残されていた。私もここを立ち去り旅を続けるとしよう。
 4月20日、白河の関(栃木と福島の境)では廃されて朽ち果てた関所を通って行く。ここをこえると陸奥(みちのく)になる。かつて平兼盛も能因法師も、みんなこの関所を越えて奥州に入った。芭蕉は遠い平安時代の歌人達に心を重ねた。
 4月末、浅香山(福島県郡山市)。芭蕉が敬愛する平安時代の歌人藤原実方(清少納言の恋人)が左遷され家に飾った「かつみ」の花を探しが、土地の人にどの花が「かつみ」かと尋ねても、知る者がいない。沼地に足を運ぶなど、「かつみ、かつみ」と日が暮れるまで探しまわったになった。これは藤原実方への思いからきている。
 5月1日、飯塚(福島・飯坂)で大変な一夜を過ごす。宿の寝床は土の上にムシロを敷いただけで灯火もない。真夜中に激しい雷雨になり、雨漏りで目が覚める。臥せる上より雨が漏り、蚤・蚊にさされ眠られず、持病(腹痛)さへおこりて、消え入るばかりになん、蚊やノミに食われまくる気を失いそうになった。
 5月2日、笠島(宮城県名取市)。笠島は芭蕉の尊敬する西行法師が藤原実方の墓前で歌を詠んだ場所である。何としても行きたかったが、実方の墓がある村里へは大雨で道がぬかるみ歩くに歩けない。体力の限界になり墓参を断念した。「笠島はいづこ五月のぬかり道」、笠島は一体どこなのだ…五月雨(さみだれ)の泥んこ道でどうにもならず無念だった。
 5月7日、宮城県多賀城で、芭蕉は奈良時代の石碑を見て感激する。古歌(こか)に詠まれた名所は数多いが、実際に訪れると山は崩れ、川の流れが変わり、道も変更され、石は土中に埋まり、木は老いて若木と交代している。時が経って名所の跡が不確かになっている。しかるにこの石碑はまさしく千年前の記念碑であり、旅の苦労も吹き飛び、感激の涙がこぼれ落ちそうだった。
 5月8日、塩竃神社に着く。社殿前の石灯篭に「文治三年、和泉三郎が奉納した」と彫られているのをみる。義経を守って共に戦死した和泉三郎(奥州藤原氏の三男)の石灯篭を見て感じ入った芭蕉は、三郎は勇義忠孝の士で今から500年も前に生きていた人物の面影が目に浮かんできて心を奪われた。

 5月9日、日本三景の松島。宿は二階建てで、部屋に居ながらにして松島を一望することが出来た。風や雲の中で旅寝するようなもので絶妙の心地であった。同行の曾良は句を詠んだが、私は松島の絶景に感動するあまり、一句も詠むことが出来なかった。

「ああ松島や 松島や」はあまりに有名な句であるが、この句は後世に書かれたもので。芭蕉の句ではない。
 5月13日、岩手県平泉に着く。平泉は義経が自害した土地であるが、かつての戦場は草むらとなっていた。杜甫の詩に「国破れて山河あり(国は滅んでも山河は昔のまま)」とあるが、本当にその通りである。私は笠を置いて腰を下ろし、時が経つのも忘れ、ここで起きた悲劇を思い涙に暮れた。「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」、今は夏草が生い茂るだけのこの地は、英雄達が夢に殉じた跡になっている。

 5月15日、尿前(しとまえ)の関所。宮城の鳴子温泉から山形に抜けようとして、滅多に旅人が通らぬ関の番人から不審尋問を受ける。ようやく解放されたものの山中で日没となり、付近の人里で宿を借りた。天候が荒れて3日間も山に閉じ込められるハメになる。「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」“ノミやシラミに食われるうえ、枕元では馬が小便する音まで聞こえる壮絶な一夜である。
 翌日、山刀伐(なたぎり)峠を越えようとしたが、宿の主人は道が険しくガイドなしでは無謀という。案内を引き受けたのは腰に刀を差した屈強な若者。「高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くが如し」“木々は薄暗く生い茂り、鳥の声ひとつせず、夜道を行くようだ”。芭蕉は“何か危険な目に遭いそうで心配だ”と内心ビクビクで後について行った。「踏み分け踏み分け、水を渡り、岩につまづいて、肌に冷たき汗を流して」ようやく最上地方に出た。山越えを終えた若者“実は、この道はいつも山賊が出て面倒が起きるのですが、今日は何事もなく幸いでした”。「後に聞きてさへ、胸とどろくのみなり」“後に聞いても胸の鼓動がいつまでも収まらなかった”。
 5月27日、山形県・立石寺。「素晴らしい必見の山寺があるんですよ」と地元の人に教えられ、30キロも道を引き返して立石寺を訪れる。山麓の宿に荷を預け、夕暮れの本堂に登る。土も岩も古色(こしょく)を帯び、なめらかな苔が覆っている。岩の上を這い上がってようやく本堂を拝んだ。「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」“夕暮れに静まり返るなか、セミの声だけが岩に染み入るように聞こえてくるよ”。
 6月3日、山形の新庄から舟で最上川を下る。「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」“最上川が五月雨で増水し、凄まじい急流になっている”。途中で下船して出羽三山に登り、再び舟で下って6月中旬に最上川の河口・酒田港へ出る。「暑き日を海に入れたり最上川」“暑い一日を最上川が海に流し入れてくれたよ”。
 6月17日、この旅の北端となる象潟(きさかた、山形と秋田の境)に到着。かつてこの地で歌を詠んだ西行法師や能因法師に気持を重ねる。象潟は松島や平泉と並んで芭蕉にとって旅のハイライトであり、“西行法師も同じ景色をここに立って見たんだなぁ…”と感無量になった。
 この後、酒田に戻って北陸街道に入り加賀(石川県)を目指して歩き続ける。道行く人に金沢までの距離を聞くと「130里(500km)くらいですよ」と言われ、一瞬めまいに襲われる。
 7月2日、市振(いちぶり)の関(新潟と富山の境)に到着。“越後(新潟)を抜ける9日間は、暑さや雨にやられて疲労がピークに達し記録をつけられなかった”と芭蕉は弁明。「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」“夜の荒海、波音の彼方に黒々と見える佐渡ヶ島に、天の川が横たわり掛かっている”。
 7月15日、金沢。芭蕉は当地に住む愛弟子の一笑との再会を楽しみにしていたが、彼は前年冬に36歳で他界していた。「塚も動けわが泣く声は秋の風」“墓よ動いてくれ、この寂しき秋風は私の泣く声だ”。芭蕉は血涙慟哭する。
 7月下旬、多太神社(石川県小松市)。源平時代に付近の合戦で討ち取られた老将・斎藤実盛(木曽義仲の恩人)の兜を前に一句「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」。※きりぎりすは今のコオロギ。
 8月上旬、山中温泉を過ぎたあたりで曾良は腹の病気になり、伊勢長島の親類の家で療養することになった。3月末からずっと一緒に旅をしてきた曾良がいなくなり、とても寂しい芭蕉。しかし旅はまだ続く。加賀市の外れにある全昌寺に泊まり、福井に入る計画を立てる。翌朝旅立つ為に堂を降りると、背後から若い僧侶達が紙や硯(すずり)を抱えて、必死で追いかけてきた。“「ぜひとも一句を!ぜひとも!」こちらも慌てて一句をしたためた”。
 8月14日、敦賀(福井県)。この夜の月は実に美しかった。近くの神社を散歩すると、松の木々の間から月光が射し込み、白砂が一面に霜を敷いたように輝いていた。宿に戻って“明日の十五夜もこうだろうか”と亭主に尋ねると“北陸の天気は変わりやすく明晩のことも分からぬのです”との返事。翌日は亭主の予想通り雨降りだった。「名月や北国日和(ほっこくびより)定めなき」。
 8月末、行程の最終目的地、岐阜大垣に到着。病気が治った曾良が迎えてくれた。“久しぶりに会う親しい人たちが昼も夜も訪ねてきて、まるで私が生き返った死者の様に、その無事を喜びねぎらってくれた”。
 9月6日、伊勢に向かう為に大垣を出発。新たな旅の始まりだ。※ここで『おくのほそ道』は終わっている。紀行文のラストが川舟に乗り込む芭蕉の後ろ姿。旅をこよなく愛する、芭蕉の生き様を象徴した終わり方だ。

晩年
 おくのほそ道の旅の途中で、芭蕉の中に「不易(ふえき)流行」という俳諧論が生まれる。理想とする句は、時代と共に流動しながらも、永遠性を持つ詩心が備わっているものとした。1691年(47歳)、東北への旅の後は、弟子・去来が京都・嵯峨に構える別荘「落姉舎(らくししゃ)」と、芭蕉が愛した源平時代の武将・木曽義仲の墓がある滋賀大津・義仲寺の庵に交互に住んだ。この頃、『嵯峨日記』を記す。48歳、江戸へ戻る。
 1693年(49歳)、江戸に戻った芭蕉を待ち受けていたのは「ぜひ句会に御出席を」「当句会の審査員を」「この歌の出来はどうでしょうか」、そのような来客の嵐だった。過密スケジュールに心身が疲れ果てた芭蕉は、門戸に「来客謝絶」と貼って1ヶ月間すべての交流を断った。

 そして新たに「軽み」の境地に至り門戸を開く。「軽み」とは私を捨てて自然に身を委ねることで、肩の力を抜き自由な境地で自然や人間に接していく飄々とした達観の域のことである。


この頃の句
秋近き心の寄るや四畳半」、寂しげな秋の気配が漂うと、四畳半で語っているうちに互いの心がしんみりと寄ってゆく。
梅が香にのつと日の出る山路かな」、早春の夜明け前、梅が香る山路の先に大きな赤い朝日が昇りはじめた。
 1694年、俳諧紀行文おくのほそ道が完成した。同作は400字詰め原稿用紙50枚たらずであるが、芭蕉は練りに練って3年がかりで原稿をまとめ、2年をかけて清書を行ない、この年の初夏にようやく完成した。
 5月、江戸を出発して西国の弟子たちへ「軽み」を伝授する旅に出るが、4ヵ月後に大坂で病に伏した。病が癒えれば、芭蕉はて九州の地へ足を延ばすつもりだった。しかし旅宿・花屋仁左衛門方にて10月12日午後4時に永眠した。享年50歳。最期の句は死の4日前の「旅に病んで 夢は 枯野をかけ廻(めぐ)る」で辞世の句といわれている。
 遺言は「私を木曽義仲公の側に葬って欲しい」。この言葉に従って、没した夜に弟子10名(去来、其角他)が亡骸を川舟に乗せ、淀川を上って翌日に義仲寺に到着。14日夜に門弟80人が見守る中、義仲の墓の隣に埋葬された。遺髪は旧友・服部土芳の手で故郷の伊賀に届けられ、松尾家の菩提寺・愛染院に造られた「故郷塚」に納められる。芭蕉没後8年目の1702年「おくのほそ道」が刊行された。
 芭蕉の忌日は「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の句にちなみ「時雨(しぐれ)忌」と呼ばれ、毎年11月の第2土曜日に法要が営まれている。また、大阪市中央区久太郎町4丁目付近に「芭蕉終焉の地」の石碑がある。
 芭蕉が生涯に詠んだ句は約900句。紀行文はすべて死後に刊行された。侘び・さび・細みの精神、匂ひ・うつり・響きといった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した表現で、これらは「不易流行」「軽み」とよばれ芭蕉の感性は多くの俳人を虜にし俳聖と呼ばれるようになった。芭蕉が敬慕してやまない偉大な西行、李白、杜甫らと同様に、芭蕉も旅の途中で果てたのだった。

 

芭蕉の側面
 芭蕉には強烈な想いを寄せた人物がいた。その名は坪井杜国(とこく)である。芭蕉より13歳年下の男性である。当時は男色(同性愛)はタブー視されず武士を中心に盛んにおこなわれていた。芭蕉が杜国と運命の出会いを果たしたのは、『野ざらし紀行』の旅の途中であった。芭蕉が名古屋で開いた句会に杜国が参加し、風雅を好む杜国は裕福な米商人の青年であった。俳句の才能にも恵まれ、芭蕉は気に入り弟子にする。翌年、江戸へ戻る旅の途中にも芭蕉は杜国と再び会い、別れ際には次の句を杜国に贈った。
白げしに はねもぐ蝶の 形見哉(かな)」杜国を白げしの花に、自分を蝶にたとえることで、17文字に別れの切なさをこめた句は胸を打たれるものである。40歳の男が27歳の青年に捧げる俳句とは思えないが、芭蕉を敬愛する杜国にとっては、これほど情熱的な句を贈られ感激したであろう。
 その後も芭蕉は旅三昧、俳句三昧の日々を過ごすが、あの切ない別れから3年後、芭蕉と杜国は再会を果たす。この時、芭蕉は「笈の小文(おいのこぶみ)」の旅にあり、江戸から鳴海を経て伊賀へ向かっていたが、鳴海から100㎞(25里)もの長距離を逆戻りして渥美半島の先っちょの保美(ほび)村に足を運んだ。それは杜国に会うためですあった。杜国は詐欺商売を行った罪で保美に追放刑に処せられ、蟄居生活を余儀なくされていたのである。
 愛しい弟子に再会した芭蕉は、胸の内にあふれる喜びを句にします。

「夢よりも 現(うつつ)の鷹ぞ 頼母(たのも)しき」

 杜国を想うあまり夢にまで見ていたのである。その後、芭蕉は杜国と伊勢で落ち合い、一緒に旅を続ける。旅の出発にあたり、杜国はこんな提案を芭蕉にします。「旅の間は“万菊丸”と呼んでください!」仮にも追放刑で蟄居中ですから変名を使ったのかもしれませんが、万菊丸はいかにも男色相手のような名前である。これに対し芭蕉は「幼名みたいで非常にいい」とまんざらでもなかった様子だった。しかも出発の戯れにと笠の内側に2人で句を落書きしたしている。
旅の途中でも芭蕉は「寒けれど 二人で寝る夜ぞ 頼母しき」んて、熱っぽい句を詠んでいる。俳聖のイメージからは想像できないことである。
 万菊丸こと杜国はイケメンながらいびきがうるさかったようで、芭蕉が「あなたのいびきはこんなにうるさいんですよ」とこんなものを描いた。嫌いな男の大いびきなら殺意が沸きそうですが、愛しい男の大いびきだからこんな作品も生み出せる。仲睦まじく100日もの長旅を楽しんだ2人は、旅のゴールである江戸で別れる。きっと再会を約束したのだろうが、芭蕉が杜国に再び会うことはなかった。
蜜月旅行から2年後の正月。芭蕉は杜国から長らく連絡がないことに焦り手紙を送る。虫の知らせ、というやつかもしれないが、芭蕉の不安は的中し、その年の3月に杜国は世を去っていた。
 杜国亡き後も、芭蕉の想いは変わらず、ひと時を過ごした京嵯峨の落柿舎で、杜国の夢を見た芭蕉は、自分の泣き声で目を覚ます。杜国が世を去ってすでに1年以上が経つのにこの情愛はただならぬものがある。芭蕉と杜国に男色関係はなかったともいわれるが、師弟関係ではこれほどの感情は生まれない。杜国の死から5年後に芭蕉も世を去った。芭蕉の側面として親しみがわく。

芭蕉忍者(隠密)説
 芭蕉によるおくのほそ道の旅程は六百里(2400キロ)で、1日10数里で山谷跋渉もある。これは45歳の芭蕉にとっては大変な健脚といえる。 また18歳の時に服部半蔵の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたことから「芭蕉忍者説」が生まれた。伊賀の里の出身者であること、歩く速度が異様に速かったためである。
 また「おくのほそ道」には不自然な点がある。出発前は「松島の月が楽しみ」と言っているのに、いざ松島に着くと一句も詠まずに一泊して素通りしている。須賀川では7泊、黒羽では13泊もしているのにである。また曾良の日記では江戸を出る日を「3月20日」としているが、芭蕉は「27日」とズレている。こうした両者の記録違いは約80ヶ所ある。

 芭蕉の任務が諸藩の情報収集であれば長旅の連続も理解でき、黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」としていた松島では1句も詠まずに1泊して通過している。
 この異様な行程は仙台藩の内部を調べる機会をうかがっていたためとされる。曾良旅日記には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている。曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている。しかしこれらは取るに足らないことで、隠密だろうと何だろうと、彼が詠んだ名句は本物である。
 芭蕉は門弟の杜国(とこく)を心も身体も愛していた。芭蕉は彼を幼名のまま「万菊丸」と呼び続け、「寒けれど二人寝る夜ぞたのもしき」と残し、2人で伊勢から吉野まで花見にも行った。その思いは「おくのほそ道」後の晩年まで変わらず、万菊丸と会えない日が続くと、嵯峨日記に「夢の中で杜国を思い出し、涙で目がさめた」と、その想いを綴っている。