松平春嶽

福井藩主・松平春嶽
 幕末に活躍した4人の大名は四賢侯(伊達宗城・山内容堂・島津斉彬・松平春嶽)と呼ばれている。
 徳川吉宗の二男・宗武を祖とする田安徳川家の当主・徳川斉匡(なりまさ)の八男として1828年に生まれた松平春嶽は、諱を慶永といった。春嶽とは、後に名乗った号です。元々は伊予松山藩主・松平勝善(かつよし)の養子に決まっていたが、1838年に越前福井藩主・松平斉善(なりさわ)が亡くなったため養子となり、11歳で福井藩主になった。
 幼少時から読書と学問にいそしんでいた春嶽は聡明な人物であった。福井藩は90万両もの借金を抱えていたため、春嶽は藩政改革に乗り出す。
 まず藩士の俸禄を3年間半減し、自分の出費を5年間削減し、さらに洋式大砲を導入して軍制改革にも努めた。また、藩校「明道館」を創設して西洋式の学問を教え、人材育成を図り、身分を問わない積極的な人材登用を行い、殖産興業政策に力を入れた。このような改革を、10~20代で行ったのだから大した君主だった。
 ペリーが来航した際、春嶽は攘夷を主張したが、やがて開国派に転じる。しかしこの時、将軍・徳川家定の後継に対し、大老・井伊直弼らは徳川慶福(後の家茂)を推すが春嶽は一橋慶喜を支持し対立する。また日米修好通商条約を井伊が勅許無しで締結したことに抗議して、江戸城に無断登城したため隠居・謹慎処分とされてしまう。その後、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると幕政復帰を果たし、政事総裁職という重役に任命されて公武合体政策を推し進めますが、一橋慶喜をはじめとして周囲の意見統一を果たせず歯がゆい思いをする。
1867年、山内容堂や伊達宗城、島津久光らと四侯会議を開き、幕府から主導権を雄藩へと移そうと画策しますが、慶喜に翻弄されそれも果たせなかった。そこから薩摩・長州藩が討幕へと傾き大政奉還となる。
春嶽は倒幕には反対で、戊辰戦争には新政府軍として参加し、新政府で民部卿や大蔵卿を務め、明治3年に退いた後、明治23に63歳で亡くなった。
聡明でありながら、幕末の動乱に翻弄され、その力を発揮できなかった。
春嶽は優れた人物であれば身分を問わず面会した。そのうちのひとりが坂本龍馬であった。
龍馬に面会した春嶽は、坂本龍馬をひとかどの人物だと認め、勝海舟へ紹介状も書いている。さらに土佐藩主・山内容堂に龍馬の脱藩を赦免して欲しいとも頼んでいる。
 この後、勝海舟の弟子となった龍馬は、勝が海軍操練所を開設することになり、資金調達のために再び春嶽の元を訪れます。そして春嶽を説得し、5千両(11億円)を借りることに成功したのである。余程、春嶽は龍馬を見込んでいたのであろう。
 春嶽は「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しきところに従ふ」という言葉を残してる。これは「自分には優れた才能や知恵も、特別な力もない。ただ、いつも皆の言葉に耳を傾けて、良いと思われる意見に従うまでだ。」という意味で、坂本龍馬をはじめ、横井小楠や由利公正、中根雪江、橋本左内といった優秀な人材を積極的に登用していた春嶽は、現代でも優れたリーダー像として評価されている。
幕府の存続を望みながらも、時代の大きな流れに飲み込まれ、抗うことのできなかった春嶽。聡明だからこそ、自分の状況に歯がゆい思いをしていたことでしょう。しかし、彼の幕末における奮闘は、歴史にしっかり刻まれている。