上杉景勝

 上杉景勝は偉大な養父・上杉謙信の陰に隠れがちであるが、家臣の掌握にかけては決して謙信に劣らない人間的な芯の強さを持っている。上杉景勝は謙信の養子となり、上杉景虎との家督相続の争い「御館の乱」に勝って上杉家をついだ。

 直江兼続とは幼少より実の兄弟のように育ち、共に上杉謙信を武将の鑑として敬崇した。上杉景勝は寡黙で厳格な主君であるが、人情に厚く常に「義」の心を貫き、強者に屈せず、その決断力・行動力ともに優れ武将であった。


上杉景勝

 1550年、長尾景虎(上杉謙信)の家督相続に不満を持った父・長尾政景はかつて反乱を起こしたが、1551年8月、長尾景虎(上杉謙信)に坂戸城を包囲され、父・長尾政景は坂戸城の戦いに敗れ降伏した。しかし父・長尾政景は長尾景虎の姉の夫であったことから助命され、以後、長尾景虎(上杉謙信)の重臣として忠義を尽くした。

 1555年11月27日、上杉景勝は後魚沼郡・上田城で長尾政景の次男として生まれた。父は上田衆を率いた坂戸城主・長尾政景で、母は長尾景虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院(綾御前)である。上杉景勝は幼い時、喜平次顕景(きへいじあきかげ)と名乗っていたが、兄が10歳で早世したため、また父・政景も10歳の時に亡くなったので、叔父の上杉謙信のもとで育てられた。

 かつて長尾景虎(上杉謙信)は家督を捨てて出家しようとしたが、父・長尾政景によって説得されている。1560年には父・長尾政景は春日山城の留守居役を任されるほどであったが、1564年7月5日、坂戸城近くの野尻池で溺死した。享年38であった。舟遊びの最中に酒に酔っ溺死したとされているが、謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺説、下平吉長による謀殺説などがあり真相は分かっていない。何れにせよ「父・政景が罪を得て身を滅ぼしたのは天罰である」と息子の上杉景勝は述べている。
 父・長尾政景が死去した為、長尾顕景(上杉景勝)が家督を継ぐことになるが、まだ9歳と幼かったので上杉謙信が引き取り養子とした。上杉謙信は仏門に入り妻も子もいなかったので姉の子・喜平次(上杉景勝)を我が子のように可愛がり、喜平次が21才の時、名を上杉景勝と改名させた。

 同じ頃、直江兼続も上杉景勝の小姓として春日山城に入り、直江兼続と上杉景勝のふたりは上杉謙信の元で学んだ。上杉景勝の初陣は1566年の関東出兵で、それ以降、上杉景勝は上田衆を率いて重要な役割を担った。

 

上杉景虎

 上杉家にもう一人の養子・上杉景虎が小田原・北条家からやってきている。1570年、上杉謙信と北条氏康の間で「越相同盟」が結ばれ、上杉謙信は小田原城主・北条氏康の七男・北条三郎(上杉景虎)を養子に迎え、上杉景勝と同様、後継者の一人と見なすようになった。上杉景勝は総勢375人の軍役を負担し、上杉謙信への尊称であった「御実城様」と似た呼び名である「御中城様」と呼ばれ上杉一門衆での筆頭とされた。

 対して景虎は謙信の元服直後の名前だったため「名前を継がせたのだから、謙信は景虎を後継者にするつもりだったに違いない」という考え方があった。

 また景虎の妻は長尾政景の娘で、つまり景虎と景勝は兄弟になっていた。上杉謙信は景勝を本家「長尾上杉家」の主とし、景虎は「関東管領家」の惣領として関東を治めさせる腹づもりだった。この景虎が上杉氏を継ぎたいという志を捨てずにいたが、上杉景虎は戦国期特有の外交政策の犠牲者と言って良いほど気の毒な生涯を送ることになる。

 

上杉謙信の死
 越後の龍こと上杉謙信は能登へ侵攻し「手取川の戦い」で初対戦の織田信長軍を木っ端微塵に打ち破った。その直後の1578年3月13日、上杉謙信が遠征の準備中に春日山城の厠で突然倒れ急死した。享年49。青天の霹靂とも言える謙信の急死によって春日山城が騒然となった。独身の上杉謙信に実子はいなかったが、景虎と景勝の二人の養子がいた。そのため相続争いとなった。

 上杉謙信は「卒中」で倒れるまで後継者を指名していなかったが、腹痛に悶え苦しみながら死後を託す人物を指名した。その後継者に選ばれたのが上杉景勝とされている。上杉謙信の死後、景勝は「遺言」に従い春日山城の実城(本丸)に移った。

 卒中で倒れた謙信は遺言を残さなったが、謙信は「四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒」の辞世の句を残しており、漢詩を詠む力があるのだから、遺言を伝える力も残されていただろうが実際には遺言は残されていなかった。

 また謙信の病気を「卒中」「虫気」と記しており、現代人は卒中といえば脳卒中を連想するが、それは近年の言語感覚によるもので、元来は内臓の病気による昏倒を卒中と呼んでいた。「虫気」は腹痛を示す言葉で、謙信の昏倒は脳卒中ではなく胃ガンなど腹部の病気が原因とされている。
 葬儀はしめやかに執り行われ、上杉家の記録では送葬の儀で棺の左右に景虎と景勝が並んでいたとされている。しかもこのとき、蘆名家から派遣された弔問の使者が、会津と春日山城の間を往復しており、騒乱に巻き込まれた様子がないため、一般の印象と異なり謙信が死んでからしばらくは深刻な抗争はなかった。

 

御館の乱
 上杉謙信には二人の養子・上杉景勝と上杉景虎がいて、どちらかが謙信の後を継ぐことになった。上杉謙信は後継者を指名していなかったため、義兄弟の上杉景虎(北條三郎)と上杉景勝とは家督を巡る対立となり、家中は景勝方・景虎方の二派に分かれ、いわゆる跡目争い「御館の乱」が起きた。この「御館の乱」は謙信の死後2ヶ月ほど経ってからはじまっているが、この騒動は上杉家臣だけでなく周辺の大名の思惑もあり真っ二つに分かれて戦った。

 上杉景虎(25歳)は相模北条家の出身で、上杉家は北条家と敵対していたが、1570年に和睦して謙信の姪を娶ったことで上杉三郎景虎と名を改めていた。景虎は実家である後北条氏はもちろんのこと、この同盟のつながりで武田勝頼・伊達輝宗などの大名が味方した。

 もう一人の24歳の上杉景勝は幼い頃から謙信の養子となっていため謙信の側近中の側近だった家臣たちや春日山城周辺と景勝の地元(上田庄)から多くの味方を得ている。家中では景勝に分があったが、外部からは景虎を推す声が大きかった。

 「御館の乱」は景虎と景勝の家督争で、条件としてはほぼ互角だったが景勝のとった行動は早かった。3月15日には「謙信公の遺言」と称して春日山城の本丸・金蔵・兵器蔵を占拠し、同25日には「景勝が謙信の後継者である」と自ら宣言し、両勢力は5月5日に大場で初めて交戦している。敗れた景虎は妻子を連れて春日山城を脱出し、前関東管領山内上杉憲政の居館・御館に立て籠もった。


上杉景勝の失敗
 御館の乱がはじまる前から、上杉景勝の後継体制が決まっていた。「景勝が後継になるのは正当なもの」と念を推す重臣達の連署があった。だが新体制は平穏に落ち着くことを許さなかった。そのきっかけは会津の戦国大名・蘆名止々斎であった。蘆名止々斎は「戦争ほど面白いものはない」という好戦的な老将で、上杉家に弔問の使者を送りながら、背後では越後侵攻の準備を進めていた。代替わりの隙をついて軍事行動を企てるのは戦国時代にはよくあることだった。

 これに気づいた上杉家の老臣・神余親綱(かなまり ちかつな)が、赴任地の三条城で厳戒態勢を布き近隣の住民から人質を取り立てた。これは謙信の時代には普通の応戦準備であったが、老臣・神余親綱は景勝に報告することなくこれを独断で推し進めたのである。景勝は神余親綱の独断が気になったらしく、神余親綱のもとに「何のつもりだ」と使者を遣わし、神余親綱の動きを私的な悪事ではないかと問い詰めた。これより少し前、上杉景勝は家臣への手紙で「謙信の死に恐怖している」ことを告白しており、かなり神経質な状態にあった。突然の家督相続問題に強い不安と動揺があり疑心暗鬼に陥っていた。
 しかし神余親綱にすればあらぬ嫌疑をかけられて不愉快であった。私利私欲でなく純粋に国防意識から行ったのに、それを独断専行だと咎められてしまい、さらに景勝は忠誠の証として誓詞を差し出せと求めてきた。ここで神余親綱は誓詞の提出を拒絶したのである。
 義兄の上杉景虎、御館城の上杉憲政(謙信の義父)、栃尾城の本庄秀綱(譜代家臣)らが仲介をかって出たが、両者とも強硬姿勢を崩すことなく交渉は難航し、その最中に最悪の事態が起きた。蘆名軍が越後侵攻を始めたのである。


御館の乱
 蘆名軍は現地の将士の奮闘によってすぐさま撃退されたが、これで神余親綱の予想が正しかったことを証明されることとなった。このため上杉景勝は一気に家中の信望を失ってしまう。

 戦国時代の家臣にすれば代替わりしたばかりの当主はお試し期間のようなものだった。取るに足らないと思ったら別の当主を立てるのが家臣のやり方だった。越後衆の不満は燎原の炎のごとく燃え広がり、景虎も義弟の景勝を見限った。
 5月1日、上杉景勝と神余親綱は決裂し、5月13日、景虎が御館城の上杉憲政の御館へ拠点を移すと、越後の領主たちもまた雪崩を打つように景虎方へと転じた。いわゆる「御館の乱」の始まりである。

 しばらくの間、景虎についた北条氏が春日山城まで攻め込み、外部の大名を巻き込んだ戦いが数度繰り返された。自分に家督が移ったとする景虎は、国内外の領主や大名を味方につけ、景勝から戦略的優位をもぎ取った。景勝の本拠地である春日山城と出身地である上田庄は、景虎方の領主たちによって分断された。

 上田庄へは景虎の実家・小田原北条軍が侵攻を開始し、さらに春日山城には北条軍と同盟する武田軍が攻め込む段取りになっていた。このため景虎の勝利は眼前のものになっていた。

 

上杉景勝の勝利
 上杉景勝には謙信の「遺言」以外に大義がなかった。家臣の信望も失い勝算も見えてこなかった。だがこれで屈する景勝ではなかった。戦略の劣勢を戦術で覆そうとした。

 まず春日山城と御館城の間で正規軍同士の衝突が繰り返され、そこで景勝は勝利を重ねていった。上田庄にある景勝方は北条の大軍を一手に引き受け長期戦へと持ち込んだ。雪の季節まで持ちこたえれば北条軍は撤退するほかなかった。
 この状況で6月には小田原の北条家と甲相同盟を結んでいた武田勝頼の軍勢が迫ってきた。上杉景勝は窮地に陥ったが応戦することなく和睦の使者を遣わした。武田勝頼は必ずしも景虎優位ではないとして、東上野の割譲と多額の金銀を条件に和睦に応じた。武田勝頼は武田信玄を失い長篠の戦いで負けるなど、行く末に暗雲が立ち込めており景勝の提案を受け入れた。つまり景勝は武田勝頼を丸め込むため「裏切って俺につけ」とは言わず「金や領地をつけるから、景虎につくのやめてくれ」と実弾を使って同盟を結んだのである。

 9月になって北条氏照・北条氏邦が軍勢を率いて三国峠を越えて樺沢城を攻略し、上杉景勝勢の坂戸城を包囲するが、武田勝頼の撤退を見て士気阻喪した北条軍は雪を前に撤退し、これで形勢が逆転した。
 最大の脅威である武田・北条軍の侵攻から逃れた上杉景勝は、今度は反対に景虎方を追い詰めていった。上杉景勝は巧みな交渉で外敵を排除すると上杉家の家中をまとめた。上杉景虎の方は味方の相次ぐ離反や落城が続き、景勝方へ帰参する将士が多くでた。

 1579年2月1日、上杉景勝は御館の上杉景虎に総攻撃をかけ樺沢城を奪還し、3月17日には景勝勢は御館城を制圧した。かつて謙信を支えた隠居中の上杉憲政は景勝の家臣に殺害され、景虎は鮫ヶ尾城まで逃げたが寝返った城主から攻撃され、3月24日に自害し後継者争いは終わった。

 上杉景虎の正室になっていた実姉・清円院は上杉景勝からの降伏勧告を受け入れずに自害した。なおこれで越後の将全てが納得したわけではなく、内乱は翌年夏に神余親綱が討ち取られるまで続いた。かくして越後上杉家の家督は、名実ともに景勝のものとなった。勝利した景勝は景虎の御供者を一人残らず討ち果たした。

 

鬱憤と大慶

 上杉景勝は景虎の反逆を「鬱憤」とし、これを平らげたことは「大慶」としたが、これが景勝の本音かどうかは分からない。景虎と景勝の関係を記す史料では。意外に険悪な様子は見られず、むしろ親密な交流が見出せるのである。
 上杉景勝は遠国からやってきた孤独な景虎に好感を持っていたらしいく、また共に二人は謙信と争い和睦した一族の出身であった。そのため何か通じ合うところがあったのだろう。景勝の地元である上田庄の者たちは景虎を歓迎しなかったが、景勝は「景虎と交好し」の関係を求めていた。景勝といえば無口で寡黙な人物として知られるが、それは大名になってからのことで、若い頃は意外に親しみやすい人物であった。
 景勝は景虎の首級を見て慟哭したが、景勝はあえて「鬱憤が散じて大慶」であるとの言葉を残している。景虎は景勝の姉を娶り子宝にも恵まれていた。景勝の実母・仙洞院も景虎に優しく、景勝の家族はみんな景虎に好意的だった。
 かつての上杉謙信は自らの信念を高らかに語ったことがある。「私は依怙の弓箭を携えない。ただ筋目によって、どこへでも合力する」と、このように謙信は正しいことのために戦うと言っている。この「依怙」よりも「筋目」を重んじるのが謙信の流儀だった。その「筋目」を決めるのはもちろん謙信であるが、謙信の思考と言動そのものが戦いの正義であった。

 だが謙信が死ぬと、何が正しい戦いなのかわからなくなった。「筋目」を見失ったのである。家臣らは景虎か景勝かを選ぶ判断基準は「依怙」を頼みにするほかなかった。大義名分なき争いで景勝を支えたのは、謙信が軽視した「依怙」だった。なにが正しいかではなく、景勝には勝利だけを考えて黙って支えてくれる者たちが必要であった。その絆だけが景勝の拠り所となった。
 御館の乱で数々の離反を目にし、また多くを失った景勝であるが、春日山城の馬廻衆と地元の上田衆は善悪も損得も関係なく、景勝に従い奮闘を重ねてくれた。乱が収束すると、景勝は上田衆など縁故の深い者たちを取り立て、上田衆の樋口与六に上杉家の家老である直江氏名跡を継がせ直江兼続へと改名させた。
 大義名分が見えないとき、絆のない者たちは利害でものを考える。上杉謙信はそれで何度も痛い目に遭ってきた。しかし景勝はこの争いでこの絆の重さを知った。「我が鬱憤を晴らしてくれて嬉しい。大慶だ」。この言葉が景勝による御館の乱の総括である。
 そこには謙信が好んだ大義名分など影も形もなく、多くの者はただその「鬱憤」を恐れ「大慶」の言葉を頂戴することに専念する覚悟を決めたのである。

 その後、上杉景勝は寡黙な主君として上杉家を指導していくが、その道のりは困難であった。織田軍の侵攻、新発田重家の反乱、秀吉との駆け引きなど、一歩間違えれば滅亡への綱渡りを繰り返した。景勝が重用した家臣たちは年月とともに姿を消したが、その中でいつも景勝の傍らにいて、決して裏切らなかった直江兼続がいつしか重きを成した。直江兼続は失われた家臣たちの仕事を一手に引き受け、主君とともに万難を乗り越えていった。上杉景勝は無用な私情を押し殺し、重々しく歩む覚悟を決めていた。

 

秀吉の天下統一

 1598)1月、秀吉は会津城・主蒲生秀行を宇都宮に移し、上杉景勝をその後任とし120万石の領地を与え、佐渡や越後の一部、山形県置賜地方と庄内地方までその領地にした。これは秀吉が制圧できていない東北の諸大名に睨みを利かせる意味があったが、それだけに秀吉は景勝を重用していた。上杉景勝は朝鮮の役ではさほど目立った働きはせず、内政の充実に力を注いだ。しかし会津に移って間もない頃、秀吉が63才で死去すると五大老の間に亀裂が入った。

 五大老の徳川家康が政治を次第に独占し勢力を広めたのである。景勝は会津に移ったばかりなので、会津盆地の中央に神指城(こうざしじょう)の築城を始めた。それまでの若松城が会津盆地の隅にあり規模も小さかったために直江兼続の監督下で建設を始めたのである。神指城は純粋な軍事施設というよりも阿賀野川の水運を発展させるためのものだった。会津に移ったばかりの上杉景勝としては、その権力の象徴ともいえる会津城は心もとないため新たに城を築くのは当然のことであり、それが領地の経済発展を目的としたものなので家康にとがめられる筋合いはなかった。

 この動きに神経を尖らせていたのが景勝の後に越後の大名となった堀秀治であった。秀治は景勝が軍備を整え謀反を企てていると家康に報告し、家康は景勝に説明を求めたのである。家康は景勝の心を疑って伏見城に来るように使いをよこしたが、上杉景勝にとって秀吉には大きな恩義があるが家康に従う理由はなかった。景勝は家康のやり方をなじって呼び出しに応じなかった。

 

直江状
 まず上洛して釈明するようにという要請に対しては「会津に移ったばかりでそう何度も上洛はできない。それに会津は雪国なので10月~12月までは何も出来ない。上杉が謀反に備えているというのなら、まずはそう言っている者に問い正せばいいのではないか。それが出来ないということは謀反を企んでいるのは家康様のほうではないんですか」さらに武器を集めたり、領内を整備しているのは謀反のためではないか、という問いには「確かに武器を集めている。上方の方々は茶器や瓢炭斗(ふくべすみとり)などの人たらし道具を集めているようだが、同じように田舎の武士は武器を集めている。領内の整備もこれからの発展のためであり、謀反を起すなら逆に交通を遮断する」と述べている。
 瓢炭斗(ふくべすみとり)とは炭を入れるものであり、それにも値しないような品々を集めて他人をたらしこんでいるという意味がある。さらに最後には「証拠もなしに謀反と言うが、太閤様の遺志に従わず好き勝手にやっておりますな」と書いている。

 このあざけるような内容で直江状は家康を挑発したのだった。しかしこれで家康は会津征伐の大義名分が得られることになった。ただの挑発だけなら上杉にとって何の利もない。家康を怒らせ上杉の態度を明確にすることが目的だった。

 そこで家康は上杉氏討伐の軍をおこし、自ら軍を率いて伏見城を出発した。家康の軍勢は5万9千と大軍で、上杉景勝は会津若松城で軍議を開き、白河の南方革篭原に敵を誘いこんで一挙に全滅させようと作戦をたてた。

 上杉氏の兵5万、他に奥州浪人数万を合わせて陣を布いた。謙信に従って軍功のある歴戦の部将を揃えている上杉軍の実力は強大であり、まさに川中島の合戦以来の大決戦が展開するかに見えた。

 その時、石田三成が旗揚げをしたとの報せが徳川軍に入り、本隊が小山まで来た徳川軍は引き返してしまった。上杉軍では徳川軍を追うかどうかを軍議したが、景勝は断乎としてこれを許さず陣を払って会津に帰城した。
 徳川方に通じていた仙台城主・伊達政宗や山形城主・最上義光が上杉領を襲おうとしたことから白石・福島・山形の各地で激戦が行われたが、関ヶ原の戦いが西軍の敗北に終ったため停戦となった。

 

 

会津から米沢へ
 上杉景勝は兼続とともに会津で事態の成り行きを見守った。上杉景勝は生涯最大の岐路に立たされていた。武門の意地を貫いて決戦で玉砕するのか、それとも家名の存続を優先させて家康に膝を屈するのか。上杉景勝は直江兼続の意向もあり降伏の道を選んだ。家康の策士・本多正信から降伏の労をとろうとの申し入れがあり、兼続はこの機を逃さず結城秀康に取り入り、景勝は意を決して兼続とともに大坂城の家康のもとへ向かった。

 関ヶ原の役の結果、上杉家は改易は免れたが領地は伊達・信夫・置賜の三郡に削られた。景勝は120万石から米沢30万石へ減封され、景勝は米沢城に入城した。本来なら上杉家は改易、兼続は切腹を申し渡されても仕方がないが、家康は上杉景勝と兼続の人物をかっていたのである。

 これより明治維新まで、およそ270年間、米沢城は上杉氏歴代の居城となり、米沢はその城下町として栄えた。

 景勝は自分に従って米沢に移る将士はことごとく許し食禄を3分の1に減じて与えた。越後以来の家臣はほとんど去ることなく、6000余の藩士が主君に従って米沢に移り住んだ。この総指揮は直江兼続がとり、米沢藩政の基礎がここに固められた。

 

大坂の陣
 1614年11月、大坂冬の陣がおこると、景勝は大坂城の北東に位置する鴫野(しぎの)に陣を布いた。景勝は暁より夜まで大和川の堤に陣して、紺地日の丸の軍旗、毘の字の旗を押し立て、床几に座して観戦し、弾丸が雨のごとき飛び来る中で少しも動じなかった。

 直江兼続は後備の軍を指揮して、戦況を監視し、陣にいて直江兼続も少しも動じなかった。先陣・ニ陣・前・右・左の各備の部将をよく指揮して敵を追いまくった。この戦況を眺めていた家康は、さすが上杉軍と感心した。
 この合戦で、先陣の将須田長義、右備の将水原親憲、軍奉行黒金泰忠、直江軍の将坂田義満等が家康より感状をもらった。翌年の5月、再び大坂の夏の陣がおこり景勝も出陣した。

 

上杉景勝の死

 上杉景勝は隠居することなく、最期まで米沢藩主だった。上杉景勝が病死したのは直江兼続が死去してから4年後の1623年3月20日であった。死の間際・寵臣の清野長範が必死の看病を行い、上杉景勝は「長範との来世での再会」を遺言した。戦国に名を馳せた猛将・上杉景勝は69才で静かに逝去した。

 上杉景勝は豪毅果断・潔白謹厳で刀剣を愛し刀剣の鑑識眼があった。上杉神社の宝物として伝わる名刀や遺品は景勝の面影を今に偲ばせている。景勝は新たに廟所を造って葬られ、景勝の霊は大正12年4月に松岬神社に合祀されている。