国史

国史の編纂(記紀)

 日本は中央集権国家を目指したが、このことは自ずと国家意識を高めることになった。この国家意識の高まりを反映して、日本国の由来を明らかにするため、国の成り立ちやその発展・経過を示すための国史の編纂がおこなわれた。記紀が書かれたのは蘇我氏の滅亡によって、それまでの歴史書である「国記」や「天皇記」などが焼失してしまい、各有力な氏族や豪族たちが、それぞれの家の歴史を書いた書物はあったが、天皇家には正式な歴史書はなかった。これでは「日本の成り立ちが後世に伝わらない」と憂いた天武天皇が、日本の正統な歴史書として古事記を、その後に日本書紀の制作を命じたのである。

 ここで重要なのは、日本で最初の歴史書である古事記
と日本書紀は国の成り立ちの根本を書いたものであるが、当然、その時代に最も勢力の強かった一族が影響力を最大限に行使して自分たちに都合よく書かせたのに違いない。

 古事記や日本書紀が書かれた前後の時代を知れば、つまり天武天皇と元明天皇の立場を知れば、本当に書きたいこと、或いは書いてはいけない事の真相がみえてくる。古事記の大部分を占める神話は、ただ面白く読ませるために書かれたわけではない。正しい歴史書を後世に残すためではなく「日本を支配する天皇家が、自分たちの存在を正当化するために書いた」と考えるのが普通であろう。

 たとえば天武天皇や元明天皇にとって蘇我氏はどのような存在だったのか。蘇我蝦夷は邸宅を上の宮門(みかど)、入鹿の邸宅を谷の宮門と呼び、 蘇我入鹿の子供たちは親王に準じた扱いを受け、まるで天皇であった。また聖徳太子が編纂した「国記」や「天皇記」が蘇我氏の蔵にあり、蘇我氏滅亡とともに焼失したのは、蘇我氏が天皇であった傍証でもある。「国記」や「天皇記」の内容は、全て蘇我氏を正当化する文章で満ち溢れていた可能性がある。もし蘇我氏が天皇位に就いていたとしても不思議ではない。

 聖徳太子を含め当時の宮廷の人々は、蘇我家の血縁者ばかりだった。むしろ蘇我家と無関係者を探す方が難しかった。しかし天武天皇や元明天皇武は、そのようなことを決して認める訳にはゆかなかった。

記紀
 古事記
と日本書紀は両方ともに天武天皇の命によって着手された日本最古の歴史書である。「古事記」は712年に、その8年後の720年には「日本書紀」が完成している。両「記紀」の完成までに8年あるが、なぜわざわざ2つに分ける必要があったのか。また古事記と日本書紀ではその内容が違っている部分があり、辻褄の合わないところがある。日本書紀の編集者は古事記を読んでいるはずなのに8年の間になぜ変わったのだろうか。

 たとえば日本の神話で最も重要な役をになっているアマテラスであるが、古事記では天照大御神と書かれているが、日本書紀では天照大神と書かれている。このように同じ日本の歴史書なのに微妙な違いがあるが、それは古事記は日本国内向けで、日本書紀は外国(唐)向けという違いにあったからである。

 日本書紀には日本という国名が入っていることから外国向けであることがすぐに分かるが、さらに分かりやすく言えば、古事記と日本書紀の違いは読み手の違いであった。古事記は日本人向けで「天皇家による日本の支配を正当化するため」に書かれている。そのため日本人に読みやすいように漢文体を組み替えた「日本漢文訓読体」が使われている。

 日本書紀は外人(唐)向けで「日本が正式な歴史を持つ国として唐に認めてもらうため」に正式な漢文で書かれている。この日本書紀には唐の人が知る卑弥呼の存在を匂わせておく必要があったのである。
 古事記と日本書紀をよく見ると、「古事記」と「日本書紀」の「キ」字が違っている。そのため両者をあわせて「記紀」(きき)とよぶ。

古事記

 古事記は日本で最も古い歴史書で、神話の時代から推古天皇までの歴史(物語)が描かれている。古くから朝廷に伝えられていた「帝紀」や「旧辞」をもとに、天武天皇が稗田阿礼に暗記させていた内容を太安万侶(おおのやすまろ)が書き記したものである。

 稗田阿礼の性別はわからないが28才の舎人で、一度聞いたものはすべて記憶する能力を持っていた。舎人とは天皇のそばにいて身の回りの世話をする下級役人である。太安万侶は有能な学者で、天武天皇が設定した「八色の姓」では上から2番目の「朝臣」の称を得ている。天武天皇がこの二人に編集を任せたのは、天皇家の歴史書がなかったからで、地方豪族の歴史書は内容がバラバラで、表面上は「これでは日本の歴史が後世に伝わらない」からであった。

 天武天皇が命じた後に、突然亡くなられてしまったので、古事記の編纂はおよそ30年間中断され、711年に元明天皇によって再開された。

 日本列島を生んだのはイザナキとイザナミという神で、イザナキの左目から生まれたのがアマテラスである。その子孫が初代天皇の神武天皇になる。このように日本を造った神様の左目から生まれたのがアマテラスで、アマテラスが天皇の先祖なのだから、天皇による日本支配は当然のことなる。つまり天皇家による日本支配を正当化するために、あるいは天皇家の威厳をつけるために書かれたのである。

 当時は平仮名やカタカナがなかったため、編集者の大安万侶は日本語の響きで、漢字を日本語として読めるように編集した(日本漢文訓読体)。これは漢字を用いているが漢文では亡く、日本人が読みやすくする工夫であった。大安万侶は相当に苦心したと思われる。

 歴史書の記述には人物や国ごとの業績を物語風に記述していく方法と、一つ一つの出来事を淡々と正確に記述する形式(紀伝体)があるが、古事記や中国の「史記」などは前者の方法をとっている。そのため「古事記」は当事者としてその場にいるような、ありのままを書いた物語感があり、その内容も面白い。人々の悲哀や復讐を、歌を織り交ぜながら書かれ、文学的要素が強い。

 古事記は上巻、中巻、下巻の三巻からなり、上巻は日本誕生からアマテラスの孫であるニギギが地上に降りる天孫降臨が書かれ、さらにイワレヒコ(神武天皇)の誕生までが書かれ、つまり日本の神話が書かれている。中巻は初代神武天皇の神武東征から15代応神天皇までで、ここにヤマトタケルの話が出てくる。下巻は応神天皇から31代推古天皇までが収録されている。古事記の特徴は上巻、中巻のほとんどが日本の神話について書かれていることである。

 下巻になると推古天皇までの歴代の天皇の業績が描かれているが、推古天皇が崩御したのが623年で、天武天皇が誕生したのが631年なので、古事記といえども古いという感覚はなかったのだろう。また古事記には日本という言葉は登場せず、倭とか大和という言葉で日本を表していた。

 

日本書紀

 日本書紀は天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)が中心となって編纂している。古事記が日本最古の歴史書であるが、日本書紀は日本最古の正史、つまれ正式な歴史書である。日本書紀は古事記と違い、神々よりも天皇についての記載に重きが置かれている。古事記の1/3が神話になるが、日本書紀は全30巻のうちで神話が書かれているのは1巻と2巻だけで、神話の扱いは少なくなる。古事記も日本書紀もどちらも出雲が中心だった日本に大和朝廷が統合してゆく流れにある。

 この日本書紀が書かれた経緯は、続日本紀の記述によるもので、古事記と異なり、その成立の記載は不明の部分が多い。もとの名称が「日本紀」だったのか、初めから「日本書紀」だったのかもわかっていない。

 いずれにせよ日本書紀は中国の歴史書にならった漢文の編年体で書かれている。編年体とは年ごとに出来事を表す方法で、歴史の流れがつかみやすい。日本という言葉もここで初めて登場する。日本書紀は神代から持統天皇までの歴史を客観的に書いている。

 日本書紀は外国(唐)向けに中国式の漢文で書かれ、日本は歴史を持つ正統な国と唐に認めてもらうため遣唐使によって唐に献上されている。現在使われている天皇という号は、編集を命じた天武天皇の時に作られたもので、初代神武天皇の神武という名も死後に贈られた尊号で、当時は神武天皇とは呼ばれてはいない。それまでの天皇は大王と呼ばれていた。
 日本書紀以降、朝廷による歴史の編纂事業は10世紀まで継続され、漢文・編年体を特徴とする六つの正史が編纂されている。これらを総称して「六国史(りっこくし)」という。

風土記

 奈良に都城(平城京)が造営され,中央だけでなく地方制度も整備された。そこで713年には日本の歴史だけでなく、全国60の各国に「風土記」を編纂して元明天皇に献上することが命じられている。

 風土記の編纂を命じた元明天皇は、天智天皇の娘で日本で四人目の女帝である。女帝は元々中継ぎの意味合いが強いが、元明天皇は息子の文武天皇や叔父の天武天皇が遺した多くの事業を実行している。古事記の完成も元明天皇の時代で、風土記の作成も記紀の継承と同じであったと思われる。

 律令制における中央官司から、風土記を正式な公文書として提出することが地方官司に

命じられた。当時は風土記ではなく「解」(げ)と呼ばれていた。解とは下級の役人から上役に出す公文書のことで、作成は「任地した諸国についてまとめた書」の意味合いだった。

 風土記には必須事項があり、それぞれの地名・特産品・農業に向く土壌の有無・地名の起源・土地の伝承がそれである。地名の由来や伝承、産物などが記され、特産品と土壌は税の取り立てに使うためであった。地名や伝承については歴史を調べるためである。

 土地の伝承には、我々が知っている昔話と思われるものがある。つまり昔話は風土記の記載が最初で、その後に伝承されたのである。
 たとえば浦島太郎の話は丹後国(京都北部)の風土記に載っている。亀を助けただけでなく「亀を釣り上げたら美女に変身したので結婚した」という話になっている。ちなみにこの話では浦島太郎にあたる男は美男子だった。いつの時代でも物語の主人公は美男美女になっている。

 日本各諸国で風土記が作られたが、その多くは散逸してしまい、常陸国(茨城県)、播磨国(兵庫県南西部)、豊後国(大分県)、肥前国(佐賀県・長崎県)の4ヶ国の風土記の一部が奈良時代の現物ではなく写本として伝えられている。最古の写本は戦国の細川幽斎が写したものとされている。このように残っている風土記の多くが西国で、茨城が異彩を放っている。これは常陸国は親王の直接任地だったからで、また常陸国は水戸徳川家が尊皇を掲げていたように、風土記の扱いが良かったからであろう。日本は災害の多い国で、紙に墨で書くのは保存にはよいが、燃えたり水に濡れて破損するのは仕方ないことでああった。

 風土記の中で出雲国(島根県東部)は完全なかたちで残されている。この出雲国の風土記は出雲に伝わる神話が書かれている。古事記や日本書紀に登場する神々も登場するが、出雲風土記にのみに登場する神が多い。これは出雲風土記の編述責任者が在地の者で、他国の風土記のように中央から派遣された官僚によって編述されたのとは、趣を異にしている。