平安時代初期

長岡京遷都(784)

 桓武天皇の母は身分の低い渡来人系だったことから、天皇として即位するのに反対する者が多かった。桓武天皇が即位した翌年には、天武系皇親の氷上川継が謀叛事件を起こしている。桓武天皇は新王朝の基盤を固め、奈良時代の仏教政治の弊害を断つため平城京からの遷都を決意する。

 まず平城京から山背国長岡村に遷都しこれを長岡京とよんだ。長岡の地を選んだのは、長岡は桂川に面し、宇治川・木津川の合流点にも近くて水の便がよく、山陽道・山陰道も通っており水陸交通の要衝だったからで、長岡京は平城京、平安京に匹敵する広大なものであった。

 桓武天皇の母は百済系渡来人で、その本拠地は長岡京のすぐ近くにあった。また山背国には土木技術に長けた新羅系渡来人の秦氏が居住していたので、秦氏ら渡来人を造都に利用することを、桓武天皇は念頭に置いていたのである。

 

藤原種継の暗殺

 しかし桓武天皇の権力基盤は不安定で、遷都に反対する根強い抵抗勢力があった。さらに天皇の腹心で長岡京造営の責任者だった藤原種継(母は秦氏出身)が暗殺される事件がおきた。

 785年のある夜、新都建設の陣頭指揮にあたっていた藤原種継を、どこからか矢が飛んできて貫き刺した。犯人として大伴継人(つぐひと)らが捕まり、暗殺事件直前に病死した大伴家持が、大伴氏・佐伯氏らとはかり暗殺に及んだと証言した。この陰謀は種継暗殺にとどまらず、天皇まで倒して桓武天皇の弟の早良(さわら)親王を天皇にする計画で、早良親王がこの陰謀に加担していた。関係者は斬首や配流になるなど厳しい処罰がなされ、すでに亡くなっていた大伴家持も官籍から除名された。

 早良親王は京の乙訓寺(おとくにでら)に幽閉され、皇太子の地位を剥奪されて淡路島に護送された。その途上で早良親王は絶食して憤死、これは無実を表す抗議かもしれないが、遺体はそのまま淡路島に送られて埋葬された。

完成しない長岡京

 その後、飢饉や疫病が流行し、桓武天皇の周辺では母親や皇后らが相次いで死去するなど不幸な出来事が続いた。人びとは早良親王の怨霊によるものと噂し、長岡京の建設工事は遅々として進まなかった。

  宮城は丘陵にあって周囲が傾斜しており長岡京は低地にあり、丘陵を階段状に造ったが、その欠陥は致命的で、雨が降れば雨水が低い建物の中に流れ込んできた。水上交通の便のよさは水害と隣り合わせで、長岡京はしばしば洪水の被害に見舞われた。さらには皇太子の安殿親王が病いに倒れるという事態が起き、桓武天皇はついに長岡京から離れる決心を固めた。

 主な建物は壊され、新しい都へと移され、10年間の都の歴史は年月とともに地中で長い眠りにつき、やがて「幻の都」と呼ばれるようになった。

平安朝廷の形成まで

 桓武天皇は長岡京周辺の山野にしばしば狩猟に出かけると、新らしい京の候補地を探し、山背国・葛野郡宇太の地へ遷都を決めると、ただちに建設を開始し、翌年には自らその地に移り、新都を平安京と名づけられた。正月の踏歌節会で貴族たちは「新京楽、平安楽土、万年春」と歌い、新しい都の今後の繁栄を祝福した。永遠に平安な都であることを祈ったのである。

 桓武天皇、前の光仁天皇(天智天皇の血統)は律令制の再建を目指し、行財政の簡素化や公民の負担軽減につとめた。光仁天皇には天武天皇の血統をつぐ親王がいたが、天皇を呪詛した疑いによって排除され、代わって光仁天皇と渡来系出身妃の間に生まれた山部親王が即位して桓武天皇となった。

 桓武天皇は壬申の乱以来の天智天皇の血統で、それまで政権を握ってきた天武天皇の血統が、父の光仁天皇から天智天皇の血統に入れ替わったことになる。桓武天皇はこの王朝交替により政権強化につとめた。

 桓武天皇は河内国で、昊天(こうてん)祭祀の儀式を行った。昊天祭祀というのは中国の皇帝が都城で、自分が属する王朝の初代皇帝を祭る儀式で、つまり桓武天皇は「天神(あまつかみ)」であるとともに父の光仁天皇を祭ったのである。つまり昊天祭祀の儀式により、父を初代とする新王朝であることを人びとに印象づけたのである。

平安という時代

 桓武天皇に平安京への遷都の建議を持ち出したのが、あの道鏡の神託を防いだ和気清麻呂であった。桓武天皇は増大する寺社や貴族の権勢に危機感を覚えていた。特に道鏡が天皇位を譲り受けようとしたことから、堕落した仏教勢力を政治の場から遠ざけたかった。これは仏教を嫌ったのではなく、僧侶が政治にロを出すのを嫌ったのである。また吉な現象が次々と起こり、これを早良親王の祟りとして東に遷都を試み、紆余曲折を経て平安京ができ上がりこれからが平安時代になる。

 語呂合わせで「泣くよ(794)うぐいす平安京」とあるように、794年を機に奈良から京都に都を移すことになった。以後1000年以上にわたり京都は日本の都となる。

 桓武天皇は皇室の威信を高めるため、東北に蝦夷討伐軍を派遣し、征夷大将軍・坂上田村麻呂の活躍により一定の成果を挙げた。天皇家の勢力は岩手県北部にまで及んだが、遷都や蝦夷討伐で国家財政が破綻しそうになったため、桓武天皇は首都警備隊と九州防衛隊(防人)を残して軍隊を廃止した。軍を廃止したのは、日本が荒波に守られた島国だったからであるが、軍は警察も兼ねていたため地方は無法地帯となった。

 荘園を持つ豪族は自衛のために武装し、京都の下層貴族は身を立てるために武芸を磨いて地方へ移住した。清和天皇の子孫は源氏となり、桓武天皇の子孫は平氏となった。これが「武士」の起こりである。

 不思議なことは支配階級の朝廷が軍事力を持たないのに、地方の豪族たちが強大な軍事力を保有していたことである。このことは世界的には極めて奇妙な現象といえる。通常、支配者は支配するための軍事力を持ち、支配される側は、軍事力で劣るために支配されるのである。

 ところが日本の朝廷や貴族たちは、軍事力を持たずに税金を集め安穏としていた。政治は地方の豪族たちに任せ、自分たちは政治に加わらず和歌を詠む毎日であった。それでいて庶民や豪族はこのような朝廷に反発せず、全国各地では国司や代官に対する訴えが頻発していても、朝廷を打倒すという発想は生じなかった。

  平安時代は世界的に寒冷期で貧しかったが、それでも諸外国に比べれば恵まれていた。庶民は貴族によって搾取されてもまだ食える飯があった。飯が食えているうちは、権力に目をつぶるのが日本の庶民の習性である。

  また天皇は神の子孫であり、朝廷は神々と人間を結ぶ重要な機関と思い込んでいたため、さらに庶民の大部分が神道を信じていたため、税が重くても貴族が和歌を詠んでいても、貴族の世界は別世界と受け止めていたのであろう。

 このおかしな実情に気づいたのが平将門であった。常陸(茨城県)で挙兵して新皇を名乗ったのは単なる野心からではなく、民衆のために国を変えようとしたのである。平将門は道半ばにして破れたが、その発想は革命的であった。

 

薬子の変
 806年に桓武天皇が崩御すると、嫡男の平城天皇(安殿親王)が即位した。しかし平城天皇と藤原薬子との関係は想像を絶するものであった。平城天皇は皇太子(安殿親王)のときに藤原の娘を妃にしたが、その娘はまだ幼かったため、付き添いとして母親(藤原薬子)が一緒についてきた。ここでなんと親王(安殿親王)と妃の母親(藤原薬子)が男女の関係になったのである。嫁いできた娘よりも、連れてきた母親と恋仲になったのである。

 母親といえども、薬子はまだ30歳である。安殿親王が娘と恋仲で結婚したわけではないのだから、妃の母親に惚れ込んでも不思議ではない。薬子は中納言・藤原縄主との間に3男2女の5人の子を産んでいた。それだけ薬子には女性的魅力があったのだろう。

 しかし桓武天皇は安殿親王と薬子の不倫関係に激怒して、薬子を朝廷から追放した。ところが桓武天皇が崩御すると、平城天皇は薬子を再び宮廷に呼び戻し、二人の関係はさらに深まった。さすがに妃には出来ないので、薬子は平城天皇の女官として迎えられた。夫の中納言・藤原縄主は大宰帥として九州へ遠ざけられた。

 薬子は天皇の寵愛を受け、傍若無人の振る舞いをおこなった。薬子の兄・藤原仲成(藤原式家)出世を重ね、朝廷では藤原仲成・薬子の兄妹による専横政治が続いた。二人の勝手な振る舞いは周囲のひんしゅくを買った。

 当時は、都の造営や蝦夷征討で国家財政は逼迫していた。平城天皇は生来病弱であったが、財政の緊縮と公民の負担減に取り組み、官司の整理統合や官僚組織の改革に着手していた。また藤原氏の内部の抗争に翻弄され、体調を崩し何度か転地療養を試みたが、その効なく在位3年という短い期間で天皇を退位し、病気のために皇位を賀美能親王(嵯峨天皇)に譲り、奈良に隠棲した。

 しかし嵯峨朝がスタートすると、平城上皇の健康はにわかに回復へ向かい、再び政治に意欲を持ちはじめた。平城上皇は30代という若さも手伝って国政への意欲を示し、上皇の命令と称して政令を乱発した。平城上皇3年の在位で辞めてしまったので、薬子にすれば平城上皇を再び天皇にしたいと願った。

 当然のことながら、薬子や藤原仲成も政治の表舞台への未練を捨てきれず、平城上皇に重祚するよう促した。平城上皇が再び天皇になるには、それなりの理由が必要であった。そのため「もう一度、都を平城京に戻すために上皇を天皇にする」という理由がつけられた。つまり都を平城京に戻したい人たちの賛同を求めたのである。しかし平城京から平安京に都を移したてから既に26年もたっており「いまさら平城京に都を戻すなんて、面倒なこと」という意見がほとんどで、賛同を得ることが出来なかった。
 平城上皇と嵯峨天皇は対立し、この兄弟喧嘩により「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態になった。嵯峨天皇は、810年3月に天皇の命令を伝える蔵人所を設置した。蔵人所は上皇へ情報が漏れないために設立され、藤原冬嗣が長官になった。

 810年9月、薬子と藤原仲成が平城上皇の天皇復位を目的に平城京への遷都を図り、強気の上皇方はひそかに兵をあげる準備を進めた。これを事前に察知した嵯峨天皇坂上田村麻呂を派遣してこれを武力で阻止した。この事変で平城上皇は失意のうちに出家したが、藤原仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害した。この事件を「薬子の変」という。
 藤原仲成と薬子は、長岡京の造営責任者で暗殺された藤原種継の子だった。この事件の背景には、藤原種継が命がけで造営した長岡京を捨てた桓武天皇に対する恨みがあった。薬子の変で藤原四兄弟の式家は没落し、藤原房前(ふささき)の子孫である藤原冬嗣の北家が力をつけることになった。また薬子の変で嵯峨天皇について勝利の祈祷をしたのが空海であった。

 はたして藤原薬子が悪女だったのか、平城天皇を心から愛し続けた一途な女性だったのか、藤原薬子が書き残したものがないので本当のことは分からないが、兄の藤原仲成と共謀したのだから権力志向の強い女性だったのだろう。