平安時代初期

平安時代とは
 
平安時代は古代と中世の境目とされ、平安時代の前半は平安貴族の時代で、後半は武士と院政の時代である。さらに平安時代の前半は3つに分けられ、1つは平安遷都の時代で、2つ目が藤原北家が猛威をふるった時代で、そして次に摂関政治の時代である。まず平安時代を述べる前に、宮と京の違いをのべる。
 これまで何々天皇のときに都を何々へ移したと書いた。つまり難波の宮、近江の宮、飛鳥の宮と表現したが、「宮」とは大極殿やそのまわりの政治をする政庁(役所)のことで、「京」とは都全体を指す言葉で一般人の住んでいる町並みも含めた都全体をいう。お城と城下町の関係に似ている。
 政治組織やそれに関わる全ての人が移るのが遷都で、遷都後は寺が建っていることを除けばさびれてしまう。平安京に遷都するときは、奈良にあった寺院は京に移ることを禁止されたので、現在でも奈良に有名な寺院が残されている。それは政治と関係をもつ奈良の仏教を断ち切りたかったからで、平安時代には政治との関連性が弱い密教などの新しい仏教が代わることになる。

長岡京遷都(784)

 桓武天皇の母親が渡来人系だったことから、桓武天皇の即位に反対する者が多くいた。桓武天皇が即位した翌年には、天武系皇親の氷上川継が、朝廷を転覆させる謀反を計画して処罰されている。桓武天皇は奈良時代の仏教政治の弊害を断つため平城京からの遷都を決意し、平城京から山背国長岡に遷都し、これを長岡京とよんだ。長岡の地を選んだのは、長岡は桂川に面していて宇治川・木津川の合流点にも近いことから水の便がよく、また山陽道・山陰道も通っており交通の要所だったからで、長岡京は平城京、平安京に匹敵する広大なものであった。桓武天皇の母は渡来人で、その本拠地は長岡京のすぐ近くにあった。また山背には土木技術に長けた新羅系渡来人の秦氏が居住していたので、秦氏らを造都に利用することを桓武天皇は考えていた。

藤原種継の暗殺

 桓武天皇の権力基盤は不安定で、遷都に反対する抵抗勢力が根強かった。さらに天皇の腹心で長岡京造営の責任者だった藤原種継(母は秦氏出身)が暗殺される事件がおきた。

 785年9月23日の深夜、新都建設の指揮にあたっていた藤原種継をどこからか2本の矢が飛んできて馬上の藤原種継を襲った。桓武天皇が遷都を決めてから1年余りで、ほぼ完成した宮内の施設を見回り中のことだった。真っ暗な闇夜をたいまつを揚げていた藤原種継が格好の標的になった。藤原種継は翌日に亡くなり、犯人はすぐに逮捕された。
 逮捕された近衛府の役人の自供から、大伴竹良(たけら)、大伴継人(つぐひと)、佐伯高成ら10数人の名が挙がり、さらに暗殺の首謀者が万葉歌人の大伴家持(やかもち)であることが分かった。しかし大伴家持は、事件直前の8月28日に死去していた。

 この陰謀は種継暗殺にとどまらず、天皇を暗殺して桓武天皇の弟の早良(さわら)親王を天皇にする計画だった。長岡京への遷都は、強大な力を誇った大和の仏教勢力や貴族を排除するためで、藤原種継の暗殺はそれら旧勢力の反発とされている。大伴家持が早良親王をそそのかし、桓武天皇が旧都の平城に出かけた留守を狙っての犯行だった。
 大伴家持と藤原種継は同じ中納言の位にあったが、藤原種継が天皇の厚い信頼を背景に新京の造営責任者として腕をふるい、大伴家持は早良親王に仕える春宮坊の長官にもかかわらず、鎮守府将軍を兼任させられて東北へと左遷されていた。このため種継に対する恨みが積もっていた。暗殺事件の逮捕者の中に春宮坊の官僚が大勢いて、関係者は斬首や配流になるなど厳しい処罰がなされた。

 すでに亡くなっていた大伴家持の官籍は除名され、早良親王は京の乙訓寺(おとくにでら)に幽閉された。早良親王は皇太子の地位を剥奪され、淡路島に護送されたが、早良親王は絶食して憤死し、遺体はそのまま淡路島で埋葬された。

完成しない長岡京

 その後、飢饉や疫病が流行し、桓武天皇の周辺では母親や皇后らが相次いで死去するなど不幸が続いた。人びとは早良親王の怨霊によるものと噂し、長岡京の建設工事は遅々として進まなかった。

  宮城は丘陵にあって周囲が傾斜しており、長岡京は低地にあり丘陵を階段状に造ったが、その欠陥は致命的で、雨が降れば雨水が低い建物の中に流れ込んできた。

 水上交通の便のよさは水害と隣り合わせで、長岡京はしばしば洪水に見舞われた。さらには皇太子の安殿親王が病いに倒れる事態が起き、桓武天皇はついに長岡京から離れる決心を固めた。

 主な建物は壊され、新しい都へと移され、10年間の都の歴史は、年月とともに地中で深い眠りについて、やがて長岡京は「幻の都」と呼ばれるようになった。(現在長岡京は京都府向日市の阪急京都線・西向日駅近くに史跡公園として残されている。丘陵地が連なり周辺には竹やぶが多く残っている)

平安朝廷の形成まで

 桓武天皇は長岡京周辺の山野にしばしば狩猟に出かけられ、新らしい京の候補地を探し、山背国・葛野郡宇太の地へ遷都を決める。するとただちに京の建設を開始し、翌年には自らその地に移り、新都を平安京と名づけた。

 正月の踏歌節会で貴族たちは「新京楽、平安楽土、万年春」と詠い、新しい都の繁栄を祝福した。永遠に平安な都であることを祈ったのである。

 桓武天皇の前天皇、光仁天皇(天智天皇の血統)は律令制の再建を目指し、行財政の簡素化や公民の負担軽減につとめていた。光仁天皇には天武天皇の血統をつぐ親王がいたが、天皇を呪詛した疑いで排除され、代わって光仁天皇と渡来系出身の妃の間に生まれた山部親王が即位して桓武天皇となった。

 桓武天皇は壬申の乱以来の天智天皇の血統で、それまで政権を握ってきた天武天皇の血統が、父の光仁天皇から天智天皇の血統に入れ替わったことになる。桓武天皇はこの王朝交替により政権強化につとめた。

 桓武天皇は河内国で、昊天(こうてん)祭祀の儀式を行った。昊天祭祀というのは中国の皇帝が都城で、自分の王朝の初代皇帝を祭る儀式である。つまり桓武天皇は「天神(あまつかみ)」であるとともに、父の光仁天皇をも祭ったのである。昊天祭祀の儀式により、父を初代とする新王朝であることを人びとに印象づけたのである。

平安という時代

 桓武天皇に平安京への遷都を持ち出したのが、あの道鏡の神託を防いだ和気清麻呂である。桓武天皇は増大する寺社や貴族の権勢に危機感を覚え、特に道鏡が天皇位を譲り受けようとしたことから、堕落した仏教勢力を政治の場から遠ざけたかった。

 桓武天皇は仏教を嫌ったのではなく、僧侶が政治にロを出すのを嫌ったのである。また不吉な現象が次々と起こり、これを早良親王の祟りとして遷都を試み、紆余曲折を経て平安京ができ上がったのである。

 語呂合わせで「泣くよ(794)うぐいす平安京」とあるように、794年を機に奈良から京都に都を移すことになった。以後1000年以上にわたり京都は日本の都となる。

 桓武天皇は皇室の威信を高めるため、東北に蝦夷討伐軍を派遣し、征夷大将軍・坂上田村麻呂の活躍により一定の成果を挙げた。天皇家の勢力は岩手県北部にまで及んだが、遷都や蝦夷討伐で国家財政が破綻しそうになり、桓武天皇は首都警備隊と九州防衛隊(防人)を残して軍隊を廃止した。軍を廃止したのは、日本が荒波に守られた島国だったからであるが、軍は警察も兼ねていたため地方は無法地帯となった。

 荘園を持つ豪族は自衛のために武装し、京都の下層貴族は身を立てるために武芸を磨いて地方へ移住した。清和天皇の子孫は源氏となり、桓武天皇の子孫は平氏となった。これが「武士」の起こりである。

 不思議なことは、支配階級の朝廷が軍事力を持たないのに、地方の豪族たちが強大な軍事力を保有していたことである。このことは世界的には極めて奇妙な現象といえる。通常、支配者は支配するための軍事力を持ち、支配される側は、軍事力で劣るために支配されるのである。

 ところが日本の朝廷や貴族たちは、軍事力を持たずに税金を集め安穏としていた。政治は地方の豪族たちに任せ、自分たちは政治に加わらず和歌を詠む毎日であった。それでいて庶民や豪族はこのような朝廷に反発せず、全国各地では国司や代官に対する訴えが頻発しても、朝廷を打倒すという発想は生じなかった。

  平安時代は世界的に寒冷期で貧しかったが、それでも諸外国に比べれば日本は恵まれていた。庶民は貴族によって搾取されてもまだ食える飯があった。飯が食えているうちは、権力に目をつぶるのが日本の庶民である。

  また天皇は神の子孫であり、朝廷は神々と人間を結ぶ重要な機関と思い込んでおり、さらに庶民の大部分が神道を信じていたため、税が重くても貴族が和歌を詠んでいても、貴族の世界は別世界と受け止めていたのであろう。

 このおかしな実情に気づいたのが平将門であった。常陸(茨城県)で挙兵して新皇を名乗ったのは単なる野心からではなく、民衆のために国を変えようとしたのである。平将門は道半ばにして破れたが、その発想は革命的であった。