藤原仲麿

5 藤原仲麻呂[藤原氏派]
 武智麻呂の子の藤原仲麻呂は南家の出身で、南家一族で聖武天皇と叔母の光明皇后の権威を背景に地位を築き、大納言・紫微令・中衛大将に任じられ次第に台頭してきた。
 実権を握っている光明皇太后の実家は藤原家である。光明皇太后は、自分を補佐する役所・紫微中台(しびちゅうだい)を新設し、その長官に甥である藤原仲麻呂を就任させた。藤原仲麻呂を使って太政官を押しのけて直々に命令を下すようになった。その結果、政治の実権は光明皇太后と藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライバルを次々と失脚させていった。
 聖武天皇(後の上皇)と光明皇后の間に男の子が育だたなかったため、天皇の娘が即位する。これが孝謙天皇である。女性の天皇としては、持統天皇や元明天皇のように、天皇あるいは皇太子の妻が即位することはあったが、天皇の娘が即位する例は初めてのことだった。
 孝謙天皇は後々にわざわいの種を残さないように独身を貫き、子供をもうけないことを覚悟の上で即位した。孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂は事実上の最高権力者となった。
 しかし孝謙天皇の父・聖武上皇が死の直前、藤原仲麻呂を呼ぶと、天皇の後継ぎとして道祖王を皇太子にあてると告げた。聖武上皇も王位継承を複雑化したくないため、娘の孝謙天皇はあくまでも中継ぎとしていた。
 ところが757年に聖武上皇が亡くなると、道祖王が聖武天皇の喪中であるにもかかわら、自分に仕える侍童と姦淫をしていたことが発覚。孝謙天皇が何度いさめても、道祖王は夜な夜な住まいを出ては侍童と関係した。道祖王は「自分は愚か者で皇太子の重責には耐えられない」と述べたことから孝謙天皇は道祖王を廃し、代わりに大炊(おおい)王(後の淳仁天皇)を立てた。孝謙天皇はその後に道鏡との関係が噂されるが、当時はまだ潔癖さを求めていた。淳仁天皇は仲麻呂の長男の未亡人と結婚しており、光明皇太后、孝謙上皇、藤原仲麻呂の3人にとって操りやすい人物だった。
 藤原仲麻呂の権力に反発した橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、757年に仲麻呂の専制を恨んで排除しようと反乱を企てるが、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、佐伯氏がクーデターを計画していることを事前に察知すると、先手を打った。藤原仲麻呂は奈良麻呂を獄死させると、擁立しようとした道祖王を殺害して不満分子を一掃した。そして強大な権力を手にし、孝謙天皇との関係をさらに深いものとした。こうして自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した仲麻呂はますます権力を強めていった。この事件を「橘奈良麻呂の乱」という。
 同年には仲麻呂の祖父に当たる藤原不比等が編纂を始めた養老律令が施行される。養老律令は40年前に祖父の藤原不比等が編纂したまま未施行だった。未施行の理由は不明であるが施行されるようになった。
 淳仁天皇は天武天皇の孫で、藤原仲麻呂の息子の未亡人と結婚していた。淳仁天皇は藤原仲麻呂に対し、皇太子に推してもらった恩義があった。仲麻呂も淳仁天皇を自分の邸宅に住まわせ、天皇との関係を築いていくと同時に孝謙上皇からは遠ざかっていった。藤原仲麻呂の孝謙上皇への態度はしだいに冷たくなってゆき、孝謙上皇は母の光明皇太后が死去し、子も夫もなく孤立無援の孤独な寂しい存在になっていた。
 天皇は聖武天皇から娘の孝謙(女帝)さらに淳仁天皇へと譲位されていくが、藤原仲麻呂は淳仁天皇の側近としての地位を固め、760年に皇族以外で初めて太師に就任した。太師は天皇を補佐する役職でのちの太政大臣に相当する。恵美押勝(藤原仲麻呂)はこのときまではわが世の春を謳歌していた。
 淳仁天皇は藤原仲麻呂に貨幣の鋳造権や税の徴収権とともに、仲麻呂に「恵美押勝」(えみのおしかつ)の名を授けられた。恵美押勝とは「汎(あまね)く恵むの美も、これより美なるは無し」「暴を禁じ、強敵に押し勝つ」という意味で、仲麻呂は新たな名前を気に入り改名すると、さらに太師(太政大臣)にまで上り詰める。
 天皇に準じた権力をもった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣に相当する太師に就任した。皇族以外で太師に就任するのは初めてのことだった。

 恵美押勝の権力が絶頂期にあった当時、唐では安史の乱が起き政情が不安定になっていた。これを好機と見た恵美押勝は、長年対立関係にあった新羅を、唐が混乱している間に征討しようと計画した。しかし仮に新羅征討に成功したとしても、勢力を立て直した唐によって巻き返される可能性があり、日本が唐に攻め込まれる口実をつくる危険なことだった。100年前の白村江の悲劇を繰り返すのか、と恵美押勝に対する批判の声が高まった。このような時に、最大の後ろ盾であった光明皇太后が死去する。すると恵美押勝の勢力は次第に衰えることになる。
 そのようなとき孝謙上皇が行幸先の近江で重病になり、密教の修法を会得した道鏡に祈祷を頼むことになった。この祈祷が効いてまたたく間に病は治癒した。道教は誰も治せなかった上皇の病を祈祷で治して、孝謙上皇の寵愛を一身に浴びることになった。道教は恵美押勝に裏切られた女帝の心に深く入り込んできた。女帝にとっては、まさに待ち人現れる心境だったのだろう。上皇は道鏡を手放さず、
 道鏡も断ることはなかった。以来孝謙上皇は常に道鏡を傍らに置き、恵美押勝(藤原仲麻呂)との関係はさらに疎遠となった。
 道鏡は河内国の物部氏の一族で、弓削氏(ゆげし)の出のため弓削道鏡と呼ばれていた。華厳宗の僧で密教の経典や修法を読解し、如意輪法を会得していた。当時の仏教は学問的な色彩が強く、祈祷を主体とした密教は不可思議で神秘的であった。このため密教を操る道鏡にのめり込んでいく孝謙上皇に、淳仁天皇は冷静になるようにいさめるが、上皇はこれに逆上し、「天皇の行為は私への不孝」となじり出家して天皇と別居したいと言い出した。
 上皇は恵美押勝が担当していた全国の僧を統括する少僧都(しょうそうづ)の職を道鏡に変えた。恵美押勝は「道鏡さえいなくなれば、上皇さまもきっと目を覚ましてくれるはず」と考えていた。恵美押勝は淳仁天皇に願い出て、畿内とその周辺の軍事力強化のために新しく設けた司令官に就任すると兵を集め出した。このときの規定では、新設の司令官が10カ国から動員できる兵の数は一国につき20人と決まっていた。ところが、仲麻呂は太政官高丘比良麻呂に命じて600人を動員した。


藤原仲麻呂の乱
 平城京に都が移って50年。朝廷は政争に明け暮れ、天下を揺るがす乱や騒動が起き、長屋王や藤原広嗣、橘奈良麻呂といった有力者が次々と消えていった。そして今回も尋常を超えた兵の動員に、太政官高丘比良麻呂はただ事ではないと身の危険性を感じ、孝謙上皇に恵美押勝の挙兵が間近いことを密告した。さらに数日後、道鏡の排除計画について恵美押勝が計画を占わせた陰陽師が上皇にこの計画を密告した。
 最初に動いたのは孝謙上皇(道鏡側)だった。少納言・山村王を天皇のいる中宮院に派遣して、駅鈴と天皇の印を回収するように命じた。駅鈴は朝廷から支給された官僚の通行手形で、各地から兵を動員するための必需品だった。これを知った恵美押勝は上皇の行動に焦りを隠せず、3男の藤原訓儒麻呂(くすまろ)に、山村王から印と駅鈴を奪回するように命じる。ここに恵美押勝の道鏡排除に向けたクーデターが勃発した。これが歴史上知られている「恵美押勝の乱」である。

 先手をとられた押勝は、自分の息子の藤原訓儒麻呂と部下に山村王を襲撃させて鈴印を奪取するが、そこに上皇側の応援部隊が駆けつける。さらに押勝側も増援部隊兵を差し向けた。この戦いで藤原訓儒麻呂が戦死し、鈴印は上皇の手に渡った。上皇軍の主力となったのは、上皇の親衛隊「授刀衛(じゅとうえい)」と呼ばれる兵士で、上皇の皇太子時代の警備兵・授刀舎人(とねり)を発展させたものだった。当時、授刀衛の幹部は押勝の影響で藤原一族が占めていたが、兵士が常に上皇の身辺にいたことが上皇側にとっては幸いした。また宮中の守衛や門の開閉を役目にしていた「衛門府(えもんふ)」の長官が、道鏡の弟だったことも後押しした。
 押勝軍の主力は天皇の警備を担当する「中衛府(ちゅうえふ)」だった。聖武天皇の時代、農民層の構成で弱体化していた兵士の質を上げるために新設した組織であるが、押勝の長官就任で天皇よりもむしろ押勝の私兵的な性格が強まっていた。
 鈴印を巡る戦いの後、上皇は戦闘停止を求めて押勝邸に使いを派遣するが、押勝は抵抗をやめなかったため、上皇は押勝を謀反人と公式に決定する。恵美押勝は「逆賊」となり、鈴印もなく、徴兵の手立てを失い、押勝の本拠地の近江国(滋賀県)の国府に向かい越前国司の息子と合流して態勢を立て直そうとする。
 上皇は反乱軍の行動範囲を狭めるため、押勝を謀反人とする通知書を周辺国に送ると同時に討伐軍を編成した。軍師には吉備真備(きびのまきび)を迎え入れ、藤原良継を指揮官に任命した。藤原良継は押勝と同じ藤原一族だが、兄・広嗣の反乱で昇進もかなわず、押勝の暗殺計画を立てたが、事前に発覚して官職、姓を剥奪されていた。
 それだけに2人の押勝への憎しみは強かった。特に70歳に近いとはいえ真備の執念はすさまじく、鈴印を巡る戦いでは、東大寺造営中の工員や写経中の学生もかり出すほどだった。とりあえず鈴印奪回に失敗した押勝は、都を出て奈良街道から宇治を北上、東海道の逢坂山から近江国府を目指した。道も整備されていて早く到着するとみたのだろう。だがそれを予測した上皇軍は田原から宇治・瀬田川沿いに近江に入ると、押勝軍の進路を妨害するため国府近くの勢多橋を焼き払った。
 その直後国府に行くため勢多橋まで来た押勝軍は橋が無くなっていることに驚き、対岸に敵軍がズラリ展開しているのを見て国府入りを断念した。琵琶湖西岸沿いのルートを北上するが、すでに湖東から北上していた上皇軍は越前国府に入って押勝の息子を殺害すると、近江と越前の国境・愛発関(あらちのせき)で押勝軍と激突した。
 まだ息子の死を知らない押勝軍は強硬に関を突破しようとするが、上皇軍の強固な守りを崩せずに退却。三尾の崎、勝野の鬼江の戦いにも敗れ、捕らえられた押勝は妻子らともに琵琶湖畔で処刑される。
 処刑された数は40人前後で、湖畔の砂浜と面は真っ赤な血で染まったとされている。6男の藤原刷雄だけは禅行を修めており、唐に留学した経験があったため処刑は免れて隠岐島に流された。この藤原刷雄の減免には、同じ禅行を積んでいた道鏡の存在があった。