和気清麿

 和気清麻呂
 歴史上には数多くの英雄偉人がいるが、皇居に銅像が建っているのは二人だけである。それは和気清麻呂楠木正成である。和気清麻呂は戦後、歴史の教科書から消えているが、戦前戦中の日本人なら誰でも知っている人物である。

 和気清麻呂は楠木正成とならぶ勤皇の忠臣とされ、昭和5年から終戦まで十円紙幣に肖像が印刷されていた。また東京の大手町や、岡山県和気町の和気神社など各地に銅像が建てられている。和気清麻呂は奈良時代末期の貴族で、備前国藤野郡(岡山県和気町)出身である。
宇佐八幡宮神託事件
 769年7月、宇佐八幡神の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)・中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として「天皇から寵愛を受けている道鏡を皇位に就かせれば、天下が太平になる」と称徳天皇へ奏上した。これは「臣下の道鏡が皇位を継ぐべし」という前代未聞の神のお告げであった。
 道鏡は女帝・称徳天皇 (復祚して孝謙天皇)の看病に成功したことから寵愛され、法王の位を授けられ、宿敵である藤原仲麻呂を殺害してからは、道鏡を邪魔する者はいなくなっていた。称徳天皇は道鏡に天皇を継がせたかった。また道鏡も皇位に就くことを望んだ。道鏡はこの神託を信じ、あるいは道鏡が阿曾麻呂をそそのかして神託を出させたのである。

 神託とは神のお告げである。神託には神託で対抗するしかない。宇佐神宮を深く崇拝していた称徳天皇はこの神託を確認するために側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を遣わそうとしたが、虚弱な和気広姫には長旅は堪えられないとして、姉に代わって弟の清麻呂を宇佐八幡に派遣することになった。このときの和気清麻呂は37歳で近衛将監を勤めていた。この話を聞いた道鏡は和気清麻呂を呼び「自分が天皇になれば、大臣の位を与える」と誘惑した。清麻呂は心中深く受け止めと返事をした。

称徳天皇の歌

 清麻呂が都を出るに際し、称徳天皇はひそかに一首の歌を贈っている。
 西の海 たつ白波の 上にして
 なにすごすらん かりのこの世を
 西の海は西方浄土のことで、仏教界の海は道鏡を意味している。その道鏡が立てた波風(白波)を上にして、つまり道鏡を天皇にして「かりのこの世を どうしてすごせるか」と詠んでいる。この歌が示すように、称徳天皇の真意は「臣下であり万世一系の血筋のない道鏡を天皇にすれば、日本は政権をめぐって血で血を洗う国になってしまう。そのようなことは絶対に赦さない」と述べているのである。称徳天皇は道鏡を天皇にしたかったが、もし道鏡が天皇になったら大変なことが起きると伝えたのである。

 道鏡を天皇にしたいそぶりをみせながら「道鏡を天皇にしてはいけない」と和歌で示したのである。このように天皇が本音を周囲に言わなかったことが、日本を知る上で重要なことである。
 天皇が政治に介入して権力を持てば、それは支那朝鮮の王朝と同じで最高権力者が民衆を支配する国になる。「権力者が民衆を私的に支配すれば、民衆はヒトではなくモノになる」という日本の天皇には伝統的考え方があったのである。
 日本の天皇は政治権力を持たないが、政治権力者の上に立つ最高の権威者が天皇なのである。その最高権威者(天皇)が民衆を「おおみたから」として、政治権力者は「おおみらから」のために働くだけである。つまり民衆は国家の最高のたからなので、政治権力者は民衆の幸せのために働くことになる。日本の政治権力者は、天皇という最高権威の下にあるから、公私のけじめがつくことになる。

 ところが道鏡は、孝謙天皇に寵愛されていることをよいことに、政治権力を手にいれると、その国家の最高権威である天皇の座までも私物化しようとしたのである。権威と権力の両方を手に入れれば、それは最高権力者になる。しかしそれでは私的に日本を支配するようになり、日本は私的な支配者の国になってしまう。

 そのため称徳天皇は道鏡の神託をしりぞけたいが、称徳天皇がそのような指示を直接出したら、それは天皇の政治への介入であり、天皇が政治権力者としての権限を使うことになる。つまり道鏡と同じ立場に称徳天皇自身が成り下がってしまので、称徳天皇はその御心を和歌に託したのである。相手の気持ちを察するのが和歌の世界である。称徳天皇は事の重大さに思い悩んでいたのである。

 

宇佐八幡宮

 いよいよ宇佐八幡の神託の真偽を確かめるため和気清麻呂は都を立った。10日余りの旅程で和気清麻呂は天皇の使者(勅使)として宇佐八幡宮(大分県宇治市)に着くと、身を清めて参宮し、宝物を献上して天皇の命を読むと、禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)は、「すでに道鏡を皇位に即けよという神託が下されているのだから再度神託をきくことは出来ない」と拒んだのである。

 多分、和気清麻呂の到着前に、道鏡によって買収され、あるいは何らかの圧力が宇佐八幡にかけられていたのであろう。そのため与曽女は和気清麻呂の宣命を拒んだのである。

 清麻呂は「これ国家の大事なり、願はくは神意を示したまへ」と改めて与曽女に神の神託を訊くことを願い出た。この気迫に負けた与曽女が再び神に神託を願うと「天の日継は、必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」とのお告げであった。つまり新たな神託は「道鏡を天皇にしてはいけない」ということであった。清麻呂は八幡大神託宜奏記を2通作り、1通は神宮に納め、1通を陛下へご報告するものにして都に帰り着くと、道鏡が同席している称徳天皇に神託を報告した。
 このとき道鏡は烈火のごとく怒った。和気清麻呂の一言で道鏡の全ての野望がダメになったのである。和気清麻呂は、道鏡が天皇の地位を狙ったときに、ひとり反対して皇位に就かせなかったのである。しかし道鏡は政治の最高権力者だったため、清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ、脚の腱を切られて大隅国(鹿児島県)に流罪となった。

 

清麻呂と広虫の流罪

 大隅国は神武天皇の御生誕の地であり、そこには神武天皇のご両親の陵墓がある。大隅国はこの時代における聖地だった。聖地だったので国司も置かず、太古のままにされていた。この大隅への流罪は「神武天皇にはじまる万世一系の天皇を奉じるのなら、初代天皇の聖地で死ね」という意味であった。道鏡は天皇の権威を否定し、政治的最高権力者の自分が天皇になろうとしたのである。

 大隈に流罪となった和気清麻呂は、都からの途中で道鏡の放った刺客に襲撃を受けるが、このとき激しい雷雨となり九死に一生を得ている。和気清麻呂は罪人として輿に入れられ何日も護送された。大隅への通り道である大分の宇佐八幡で参拝しようとした。しかし宇佐の近くまで来ると山から三百頭の猪(いのしし)の大群が現われ、清麻呂の乗った輿の前後を守りながら八幡宮までの道を案内した。さらに宇佐八幡宮へ詣でたところ、八幡大神のご守護により傷つけられた脚が回復したと伝えられている。この故事から猪は清麻呂の守り神とされ、和気清麻呂のゆかりの神社には狛犬の代わりに「いのしし」が安置されている。

 姉の広虫は広虫売(ひろむしめ)と改名させられ備後国へ配流に処せられた。備後では貧しい暮らしをしながら、弟のことや都に残してきた子供たちのことを思い、淋しくつらい日々を過ごしていた。ところがある日、都から干し柿が届いた。広虫が育てた子供たちが、義母の身の上を案じて手紙を添えて送ってきたのである。

 

清麻呂と姉の和気広姫

 清麻呂には3歳年上の姉・和気広虫がいた。姉の和気広虫は成人すると奈良の都にのぼって朝廷の采女(うねめ)となった。清麻呂も追いかけるように都にのぼり武官の舎人となった。この時代、地方豪族の子弟は男は舎人、女は采女として宮中に出仕することが名誉とされていた。

 二人の姉弟は都で一緒に暮らし、仲の良い姉弟であった。姉の広虫は15歳で中宮に勤める葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚した。葛木戸主は心優しい人柄で、戦乱や飢饉で親を亡くした子供たちを養育し、成人すると葛木の姓を名乗らせた。広虫姫は夫をたすけが、夫が亡くなると出家して尼になり、法名を「法均」と名乗った。

 葛木戸主が亡くなってから2年後、太政大臣の藤原仲麻呂が恵美押勝の乱を起こす。この乱は道鏡が政権を握り、天皇の地位までも横取しようとするのを、藤原仲麻呂が私兵を率いてこれを倒そうとして、逆に道鏡が勝利した事件である。乱を起こした藤原仲麻呂は首を刎ねられ、貴族た375人が逮捕された。このとき逮捕された人たちを全員死罪にすべきとの意見がでたが、広虫姫が称徳天皇に助命減刑を願い出て死罪をなくしている。さらに広虫姫は乱によって親を亡くした孤児たち83人を養育し、葛木の姓を与えた。これが現在の孤児院の始まりである。

  

道鏡の罷免

 770年、称徳天皇が53歳で崩御されると、第49代光の仁天皇が即位された。この光仁天皇は道鏡を罷免し下野国(栃木県)の薬師寺に左遷した。古来より天皇は政治には関与せずに、前天皇が親任した権力者を次の天皇が罷免することはなかった。しかし光仁天皇は道鏡を罷免し、和気清麻呂と姉の広虫姫の流罪を解き、ふたりを都に戻して二人の名誉を回復した。
 清麻呂は間もなく豊前の守に還され、次に神崎川と淀川を直結させる工事を行い、京への物流路を築き、さらに水害防止の工事を行った。大阪市の茶臼山の河底池にはその名残りの「和気橋」という名の橋がある。

 光仁天皇の後を継いだのが、第50代桓武天皇である。桓武天皇は道鏡のように、信仰を利用して己の私欲を満たそうとする僧侶を防ぐために、都を移設することを計画した。それが平安京で、この平安京を提案したのが和気清麻呂であった。清麻呂は平安京への遷都のため広大な土木工事を行った。
 また清麻呂は桓武天皇の母の系譜を編纂し、清麻呂の長男・次男は官人として活躍し、天皇に最澄を招聘し唐へ留学させた。また五男・六男は高雄山で空海から密教の教え受けて仏法に帰依した。
 1851年になり、孝明天皇(明治天皇の父)は和気清麻呂の功績を讃えて護王大明神の神号を贈っている。明治7年には神護寺の境内にあった清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され、明治19年に、明治天皇は神護寺境内から京都御所に遷座した。
 出身地の岡山県和気町には、和気一族の氏神である和気神社があり、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。鹿児島県霧島市にも和気神社がある。なお宇佐へ配流の際に猪によって難事を救われた伝説から、護王神社・和気神社・御祖神社などでは狛犬の代わりに「狛猪」が置かれている。

 
勤皇の忠臣
 和気清麻呂は大隅国(鹿児島)に流罪後、広大な土木工事を行い、民の暮らしの安寧を測り、桓武天皇のもとで平安京の造営に手腕を振るった。その後、和気清麻呂は河内と摂津の国境に水利を通じさせ、京阪神一体の治山治水事業を行い、民の生活の安定をはかり、平安遷都の大功を成し遂げたが、その3年後に67歳で永眠している。

 日本後記は和気清麻呂を「人と為り高直にして、匪躬の節有り。故郷を顧念して窮民を憐れみ、忘るることあたわず」と絶賛している。また広虫姫については「人となり貞順にして、節操に欠くること無し 未だ嘗て法均の他の過ちを語るを聞かず」と慈悲深く高潔な人柄とたたえている。
 和気清麻呂の活躍によって皇統は護られたのである。孝明天皇(明治天皇の父)は和気清麻呂の功績を讃えて「護王大明神」の神号を贈り、明治天皇は薨後1100年を記念して、贈正三位から贈正一位を和気清麻呂に与えている。また戦前の十円紙幣に肖像画が印刷され、皇居近くの大手濠緑地に和気清麻呂の銅像が建てられた。
 権力を持つ者は、金力に群がる亡者たちを利用して、さらに権勢を高めようとする。しかし日本の国は民衆ひとりひとりのが国の宝なのである。そして和気清麻呂のような人物が歴史の節目節目に現れ日本の国が守られてきた。和気清麻呂は1300年前の奈良時代末に生きたが、その心はいまだに息づいている。

和気清麻呂生誕地にある和気神社(岡山県)、和気清麻呂像(和気神社)
  和気清麻呂を祀る護王神社(京都府)、10円紙幣と肖像。