坂本 龍馬

 坂本龍馬は幕末の土佐藩士である。裕福な商家に生まれたが脱藩し、激動の日本を変えようと奔走し、勝海舟など様々な人と関わりを持ち薩長同盟を成功させ、大政奉還成し遂げるなど倒幕および明治維新に大きな影響を与えた。江戸幕府倒幕のきっかけを作ったが、さらに貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(海援隊)を結成した。

 龍馬に関わった周囲からの評価は高く、心の広さ、度胸がある器の大きさ、また優しくユーモアあふれる人物であった。坂本龍馬の柔軟な考えと行動力があったために、誰も成しえなかった事を成し遂げたといえる。人生のほとんどを国のために奔走したが、大政奉還成立の1ヶ月後に京都の近江屋で暗殺された。

 

幼少年期

 1836年11月15日、龍馬は高知城に近い土佐国(高知市上町)に生まれた。父・八平、母・幸の間の次男として生まれたが、兄(権平)は21歳年上で、3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいて龍馬は末っ子だった。龍馬が最も慕っていた3女の乙女(とめ)は3歳年上であった。

 坂本家は元々は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商・才谷屋の分家で、藩から郷士御用人に召しかかえられていた。財力を持った才谷屋が没落した武士から郷土株を買いとり、龍馬の3代前の分家が坂本家を興したのである。

 土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)であったが、分家の際に豪商・才谷屋から多額の財産を分与されたため裕福な家庭に育った。龍馬が生まれる前の晩に、母・幸が龍が天を飛ぶ夢を見て、それにちなんで龍馬と名づけられた。

 10歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された。 幼年時代の龍馬は13歳頃まで寝小便をしたとされるが、愚童だったとの記録はない。しかし気弱な少年で、姉の乙女(とめ)が龍馬を鍛えた。漢学の楠山塾に入学したが、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられた。この退塾の本当の理由はわかっていないが、喧嘩両成敗で父・八平が退塾させたとされている。以降、乙女が武芸や学問を教えた。

 父・八平の後妻である伊与の実家である下田屋(川島家)へ度々遊びに行くと、「ヨーロッパ」とのあだ名を持つ川島猪三郎から、長崎や下関での珍しい話を聞き、世界地図や数々の輸入品を見せられ、外の世界への憧れを高めた。14歳になると日根野弁治の道場に入門して小栗流の剣術を学び、熱心に稽古をして腕前を上げ、5年の修業を経て「小栗流和兵法事目録」を得て、小栗流の免許皆伝者となる。

 

姉・乙女(とめ)

  龍馬を鍛えた3歳年上の姉乙女は、乙女という名前から綺麗で優しい女性を想像しやすいが、身長175cm、体重110kgの「お仁王様」とあだ名されるぐらいの体格だった。さらに薙刀や剣・馬・弓などの武芸、さらには琴や舞踊・和歌といった芸術面までありとあらゆる才能を持つ女性だった。

 坂本家では龍馬が12歳の頃に母親が亡くなり、後妻の伊与がいたが乙女が母親代わりになって龍馬を鍛えた。武術や学問はもちろんのこと、気弱な気持ちも叩き直した。乙女は寝小便の龍馬の根性をシナイでたたき直すが、それは「末っ子とはいえ、男の子がこれではいけない」と思ったからで、男勝りの性格で龍馬を鍛えていく。乙女は弱虫の龍馬を何度も池に放り込むと、徹底的に鍛えていった。小栗流の剣術の腕を上げ、周囲から一目置かれたのも乙女の厳しい鍛えのおかげであった。

 坂本龍馬は日本を変えようと土佐を脱藩しているので、姉・乙女と一緒にいた時間は短いものであった。しかし日本中を奔走している合間に、乙女へ多くの手紙を書き送っている。自分が今何をしていているのか、これから何をすべきかを詳細に書かいており、手紙から内容から龍馬の性格、乙女への信頼が納得出来る。

 

 江戸遊学

 1853年、小栗流皆伝を得た龍馬は、さらなる剣術修行のため1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許されている。出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」を授けられている。そこには「1.片時も忠孝を忘れず、修行第一とすること。2.目移りせずに金銭を大切にすること。3.色情に溺れ、国家の大事を忘れないこと」の3か条が書かれていて、龍馬は父・八平の教えを忘れないように肌身離さず持ち歩いた。

 土佐を出て、4月頃に江戸に到着すると、築地の土佐藩の屋敷に寄宿し、北辰一刀流の千葉定吉の道場(東京都中央区)に入門する。道場主の千葉定吉は北辰一刀流の創始者千葉周作の弟として知られていた。

 千葉道場は千葉周作の「玄武館」(大千葉)と同じ場所にあったが、身分制度が厳しかったために上級武士は玄武館の所属、下級武士は小千葉道場所属と分かれており、共に稽古をすることはなかった。後に小千葉道場は桶町に建てられた道場に移転するが、そこ に館名がないのはこのためである。ただし汗血千里駒(伝説小説)では坂本龍馬は千葉周作の門人としており、2度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのであろう。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。

婚約者さな子

 江戸での剣術修行を終えた頃には千葉定吉に認められ、次女のさな子を龍馬の婚約者とした。さな子は剣術・長刀・小太刀・馬術に優れ、10代にして北辰一刀流は免許皆伝の腕前で、さらに美貌で知られていた為「千葉の鬼小町」や「小千葉小町」と呼ばれていた。さな子が16歳の頃に、龍馬の剣術修行の相手をしていた。

 龍馬は結納に相応しいものがない為、松平春嶽より貰った紋付を結納の品として贈った。 結婚は国が落ち着いてからと約束するが、龍馬が暗殺され、さな子が龍馬と結婚することはなかった。坂本龍馬の死後も一生独身を貫いた。亡くなるまで龍馬の家紋の入った片袖を、形見として大事にしていて、お墓には「坂本龍馬室」の文字が刻まれていた。

 

黒船来航

 龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後、ペリー提督率いるアメリカの艦隊が、突如として浦賀沖に来航し、幕府に開国をせまった。龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。まだ血気盛んな龍馬は家族に宛て「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国する」と書き送っている。

 剣術修行の傍ら、龍馬は軍学家で思想家である佐久間象山の私塾に入学した。 佐久間象山から砲術、漢学、蘭学などの学問を学んだが、塾で学ぶさまざまな知識が龍馬の目を向けさせることになる。しかし佐久間象山は吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄され、龍馬が象山に師事した期間は半年のごく短いものだった。

 安政元年(1854年)6月、龍馬は15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。帰国後、日根野道場の師範代を務めた。また同時期、ジョン万次郎の「漂巽記略」を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れ、ジョン万次郎のアメリカの生活などの国際情勢について聞き学び、河田小龍から海運の重要性について説かれた。また河田小龍から「日本が外国に対抗するためには、西洋文化を受け入れて、富国強兵を図る必要がある」と諭された。

さらに後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている。 またこの時期に徳弘孝蔵から砲術とオランダ語を学んでいる。

 翌1855年に父・八平が他界すると坂本家の家督は兄・権平がついた。 龍馬は再び江戸剣術修行を申請して藩から1年間の修業が許され、江戸に到着すると武市半平太(龍馬の親戚で土佐勤王党を結成した)らと築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿し、千葉道場とともに玄武館でも修行している。

 安政4年(1857年)に藩に1年の修行延長を願い出た。

  安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられた。これは一般にいう剣術ではなく薙刀術であであるが、千葉道場で塾頭を務め免許皆伝を伝授されたことから龍馬は優れた剣術家であることがわかる。

 この頃、龍馬のいとこの山本琢磨が江戸で高価な懐中時計を拾い、猫質屋で銭に替え、酒と女に溺れていた。この事が高知藩に知られ、武士にあるまじき行為として切腹を命じられるが、龍馬が陰謀をめぐらして山本を逃亡させている。

 

土佐勤王党

 龍馬は同年9月に土佐へ帰国するが、それを待っていたのが武市半平太が率いる土佐勤王党であった。武市半平太はかつでの幼馴染で、お互いの家を行き来する友人であった。

 当時の土佐藩主・山内豊信 (容堂) は吉田東洋を起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいた。幕府からの黒船問題について各藩への諮問を受け、土佐藩では容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに意見を述べ、将軍継嗣では幕政改革のため一橋慶喜を推戴した。

 しかし安政5年(1858年)に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。そのため一橋派の山内容堂は、家督を養子の山内豊範に譲り、隠居謹慎を余儀なくされた。隠居したが、土佐藩の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。

 安政7年3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。この事件が土佐に伝わると、土佐藩では議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。

 同年7月、龍馬の朋友であり、親戚でもある武市半平太が門人らとともに土佐を出た。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑ったが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前・美作・備中・備後・安芸・長州などを経て九州に入り途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。

井口村刃傷事件

 1861年3月4日に土佐藩で刃傷事件が起き、この事件後の巡って上士と郷士が対立し緊張が高まった。夜、小姓組・山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が宴会の帰りに井口村 (高知市井口町) の永福寺の門前で郷士・中平忠次郎と肩がぶつかった。忠次郎は非を認め謝罪したが、相手を郷士と見た山田広衛は忠次郎を罵倒し、口論の末に逆上した山田は抜刀し、忠次郎もこれに応戦したが殺害されてしまう。
 中平忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態を知らせ、2人は急いで現場へ駆けつけるが、近くの小川で刀を洗い、喉の渇きを潤している山田を発見すると寅之進は背後から斬り掛かり殺害、さらに益永繁斎も殺害した。
 翌朝、山田家には上士達が、寅之進家には郷士達が集まり、両者は対決せんと息巻き一触即発の危機を迎えていた。この時、郷士側に当時25歳の坂本龍馬も参加したと伝えられる。 池田寅之進と宇賀喜久馬の切腹をもって終結したが、土佐藩の決定に郷士側の人々は憤り、「土佐勤王党」の勢力拡大へとつながることになる。 

 同年4月、武市半平太は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持ち、土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを知ると、武市は藩内同志の結集を試み藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することとした。 同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成することを決めた。武市は土佐に戻ると192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして山内容堂の意向である藩の政策に影響を与えて、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。

 勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし参政吉田東洋をはじめとした藩政府は「公武合体」が藩論の方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。

 

脱藩

 勤王を目指す武市は積極的に方策を講じるとともに諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ派遣し、龍馬もその中の一人であった。1861年10月、龍馬は小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」を授かった後に、丸亀藩へ剣術修行の名目で土佐を出て長州萩を訪れ、長州藩の尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている。 

 龍馬は同年2月に土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいるのを知った土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出た。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、さらに藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。

 龍馬の脱藩は1862年3月24日のことで、既に脱藩していた沢村惣之丞や那須信吾(後に吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した。龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は龍馬の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを求め、龍馬の佩刀を取り上げてしまった。この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けた。

 脱藩した龍馬と沢村は、吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った島津久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋事件が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。

 吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。目標をなくした龍馬は沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとさ。だがこの間の龍馬の正確な動静は詳らかではない。

 一方、土佐では吉田東洋が勤王党により暗殺され、武市半平太が藩論の転換に成功し、藩主の上洛を促していた。龍馬は大坂に潜伏していたが、自分が吉田東洋暗殺の容疑者と見なされていることを知らされる。

 しかし土佐では勤王党が反対派を次々に暗殺し、この勤王党の暴走を止めるべく、武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた。武市半平太は1年半の後に吉田東洋暗殺の責任者として36歳で切腹となっている。

 

勝海舟と神戸海軍操練所

 龍馬は1862年8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿し、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している。 12月5日、龍馬は幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。 12月9日、松平春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受け海舟の屋敷を訪問している。

 龍馬と千葉重太郎は開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己を恥じてその場で海舟の弟子になった。だが松平春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であることから、龍馬と海舟との劇的な出会は海舟の誇張、あるいは記憶違いであるとする見方が強い。 いずれにせよ龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で、海舟を「日本第一の人物」と称賛していることからもわかる。

 勝海舟は山内容堂に取り成しで龍馬の脱藩の罪を赦免させ、さらに海舟の私塾に入門することを許した。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、多くの土佐藩士が海舟の門人に加わることになる。また龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵(人斬り以蔵)を海舟の護衛役にした。岡田以蔵は海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に一刀のもとに斬り捨てた。

 海舟は龍馬らを軍艦に便乗させ、幕府要人や各藩藩主に海軍設立の必要性を説得した。1863年4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦の後、「神戸海軍操練所」の設立を許可され、同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)も認められた。幕府から年3千両が支給されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から千両を借りた。 5月17日の姉乙女への手紙では、「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」 と近況をつたえている。

 

神戸海軍操練所

 龍馬が神戸海軍操練所設立のために奔走していた最中に、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太が藩論を主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻そうとして吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。

 勤王党の間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太が切腹させられた。この平井収二郎の妹加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は6月29日付の手紙で姉乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と書き送っている。また同じ手紙で、攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)その際、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き、「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候と述べている。

 8月18日に倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派が再び実権を握った。8月に天誅組が大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎・那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。

 10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられ、翌年1864年2月に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるために再び藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。海舟は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。

 海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足すると、 6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激派人(200人程)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中・水野忠精も承知し資金3千両を集めている。

池田屋事件

 京都の情勢は大きく動いていたが、1864年7月8日、京都の旅館・池田屋で新撰組による長州藩や土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃した事件が起きた。尊皇攘夷派は祇園祭の前の風の強い日に、天皇が住んでいる京都御所へ火をつけ、中川宮朝彦親王の幽閉、将軍・一橋慶喜と会津藩藩主・松平容保の暗殺、長州へ孝明天皇を連れ去ることを実行するため集まっていたのである。

 6月5日の亥の刻(22時)に新撰組局長・近藤勇は二手に分かれての捜索を行い、会合中の尊皇攘夷の過激派が池田屋にいることを突き止める。発見された尊皇攘夷と新撰組は池田屋での戦闘の結果、互いに多くの死傷者を出し、逃走した尊皇攘夷の浪士も翌朝には、会津藩や桑名藩によって20名近くが捕えられた。 海軍操練所の塾生であり、土佐藩脱藩・望月亀弥太は脱出しようと斬り込み、負傷しながらも逃げて長州藩邸の近くまで来るが、新撰組隊士に追い付かれ自害した。

 坂本龍馬はこの事件に関わってはいなかったが、池田屋事件によって、土佐勤皇党の石川潤次郎や、海軍操練所の塾生・望月亀弥太など同志を亡くし、さらに池田屋事件により坂本龍馬が考えていた尊皇攘夷の過激派を京から蝦夷へ移住させる計画が中止となった。また池田屋事件の尊皇攘夷派に塾生が関わっていた事を理由に、幕府によって海軍操練所を閉鎖させられることになる。

 池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が命を落とし、あるいは捕縛された。死者の中には土佐の北添佶摩、望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊させたことのある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。

禁門の変

 禁門の変は蛤御門の変とも呼ばれ、尊皇攘夷の積極派が池田屋で新撰組によって長州の藩士が殺された事を知り、藩主の冤罪を訴えると称して兵を集め長州の屋敷に本拠地を作る。その訴えは聞き入れられなかったが、また一橋慶喜が兵を退くように命じるが、7月19日に長州藩の兵が会津藩の兵と、蛤御門付近で戦闘となった。

 筑前藩の守っていた門を突破して、1度は天皇の住居である「御所」まで侵入するが、薩摩藩の兵が援軍として駆けつけ敗れてしまう。この戦闘により指導者である来島又兵衛・久坂玄瑞たちが戦死し、長州藩の尊皇攘夷派は壊滅状態となる。 幕府は長州藩が御所へ向けて発砲したことを理由に、朝廷の敵として第一次長州征伐が行われた。

 この「禁門の変」が「蛤御門の変」とも呼ばれているのは、それまで閉じられていた門が、天明の大火によって初めて開いたため、焼けると口を開く蛤に例えて蛤御門と呼ばれるようになった。 禁門の変は蛤御門の付近で激戦が起こり、今も門には弾痕が残されている。

 長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。それから少し後の8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。 禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。

  この動乱以前から、龍馬は生涯の伴侶となるお龍と出会い、後にお龍を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。これらの動乱の最中の8月1日、龍馬はお龍と内祝言を挙げている。

 8月中旬頃には龍馬は海舟の紹介を受けて薩摩の西郷隆盛に面会し、龍馬は西郷の印象を「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と評している。

 望月の件に続き塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視された。さらに海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、10月22日に海舟は江戸召還を命ぜられ軍艦奉行も罷免されてしまった。このことから神戸海軍操練所は廃止され、龍馬ら塾生の後事を心配した海舟は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老・小松帯刀に彼らを託して薩摩藩の庇護を依頼した。

 龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は、彼らの航海術の専門知識を重視して龍馬らに出資した。

 亀山社中が設立するがこれは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持ち、商人が参集していた長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家、京都の酢屋に事務所を設置した。

 長州藩では前年12月に高杉晋作が挙兵して、恭順派政権を倒して再び尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることの外に、薩長両藩和解の目的が含まれており、後の薩長同盟成立に貢献することになる。

 

中岡慎太郎

 幕府勢力から一連の打撃を受け、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じていて、一部の藩士は共には天を戴かずと誓い、例えば「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。この様な雰囲気の元でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。

 龍馬は大村藩の志士・渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。1865年5月、先ず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させ、同時に中岡は薩摩に赴き西郷に会談を応じるよう説いた。同年5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった。 西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていたのである。桂は激怒して和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。

 倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるので両藩とも自然これに首肯した。

 これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買い付け斡旋に成功した。 これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎の働きにより薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている。

薩長同盟

 1866年1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれたが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。 龍馬が1月20日に下関から京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚き、桂に問い正したところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。 そこでその日の夜に龍馬は西郷を説き伏せ、これによって薩長両藩は1月22日に薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となって薩長同盟が結ばれた。盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、龍馬に盟約履行の裏書きを要求した。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたことから、龍馬がいかに信を得ていたかがわかる。

寺田屋事件

 薩長同盟成立から数日後の1866年3月9日、薩摩人として宿泊していた坂本龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と祝杯を挙げていた。深夜の2時頃、伏見奉行の伏見奉行30人ほどに囲まれていた。しかし一階で入浴していたお龍はいち早く窓外の異常を気付くと、風呂から袷一枚のまま裏階段を2階へ駆け上がり龍馬らに危機を知らせた。
 すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、奉行よりの上意であると迫ったが、踏み込まれた龍馬らは奉行の権限の及ばない「薩摩藩士である」との嘘をついたが簡単に見破られた。
 龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で、三吉は手槍を用いて応戦し、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。しかし捕り方が龍馬の拳銃を持つ手を刀で払おうとしたため、龍馬は手の親指(左右)を負傷。装弾ができなくなり、三吉が必死に槍で応戦する間に、負傷した龍馬は家屋を脱出して路地を走り材木屋に隠れ、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。
 薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせ藩邸で警護させた。
 翌日、薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を受けたが拒否した。
 この事件に新撰組が関わったとの説もあったが、伏見奉行が「肥後守」であったことから間違いである。龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。
 そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。このお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている。小松帯刀が龍馬・お龍夫妻が薩摩を訪れた際に薩摩藩の船に同乗し、夫婦を現在の鹿児島市原良にあった小松の別邸に宿泊させるなどしている。

 寺田屋事件での龍馬の傷は深く、そのため写真撮影では左手を隠していることが多い。 西郷の勧めにより、龍馬は刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することになった。2月29日に薩摩藩船・三邦丸でお龍を伴い京都を出ると、3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留し、二人は温泉療養の傍ら霧島山・日当山温泉・塩浸温泉・鹿児島などを巡った。温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。

 5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだ「ユニオン号」が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞したため、ユニオン号は長州へ引き返した。

 6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日に「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する小倉藩への渡海作戦で、龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した 。 

 長州藩は西洋の新式兵器を装備していたが幕府軍は旧式であり指揮統制も拙劣だった。そのため幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍に敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い幕府軍は撤兵した。

 龍馬が不在となった長崎の亀山社中では1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てたが、露見して自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は「術数はあるが誠が足らず。上杉氏近藤の身を亡ぼすところなり」と手帳に書き残しているが、後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いている。

 

龍馬と海援隊

 先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。 この為、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。

 将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が望まれたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。8月末頃、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き、松平春嶽に伝えるよう頼んだ。 龍馬が政権奉還論を述べたが、政権奉還論は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていたことで、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春嶽が慶喜に提案して拒否されていた。

後藤象二郎

 土佐藩は尊攘派の土佐勤王党を弾圧したが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を行っていた。航海と通商には専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目し、土佐藩は龍馬と接触を取り、翌年1月13日に龍馬と後藤が会談した(清風亭会談)結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称した。

 海援隊規約によると、隊の目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機・土佐藩を助けることとされ、海軍と会社をかねたような組織として、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)および他藩出身者(陸奥陽之助(紀州藩)・白峰駿馬(長岡藩))など16〜28人、水夫を加えて約50人から成っていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。

 

いろは丸沈没事件

 海援隊結成から程なくして「いろは丸沈没事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法を基に紀州藩側の過失を厳しく追及、さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって5月に紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。

 海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地や竹島の開拓も構想しており、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。 一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)はたびたび金の無心に来る海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。

 

船中八策と大政奉還

 いろは丸事件を解決した龍馬と後藤象二郎は、藩船「夕顔丸」に乗船して長崎から兵庫へ向かった。京都では将軍徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれていて、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。

 龍馬は夕顔丸の船内で、政治綱領を後藤に示した。それは以下の八項目であった。

天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)

上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)

有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)

外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)

古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)

海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)

御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)

金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)

以上の八項目は「船中八策」として知られることになる。

 長岡謙吉が筆記した「船中八策」は、後の維新政府の綱領の実質的な原本となった。

龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ向い、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認し、乾らと共に大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。

 この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論とした。次いで後藤は薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させると、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。

 

イカロス号事件

 7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられた。そのため龍馬と後藤は長崎へ戻り、龍馬は英国公使パークスとの談判に当たった。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている。犯人は福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた。

 後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったため薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。

 

大政奉還

 10月9日に龍馬は京都に入るが、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、下城なき時は海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。 一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を願い出て、翌日に明治天皇に上奏し15日に勅許が下された。

 この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。

展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあるが龍馬の名が欠けていて、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えている。

暗殺

 11月15日、龍馬は宿にしていた京都河原町の近江屋新助宅の母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎、土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けていた。午後8時頃、龍馬と中岡が話していると、十津川郷士と名乗る男数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次ぐと、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。それは龍馬の誕生日(満31歳)だった。

暗殺者

 当初は新選組の関与が疑われた。また海援隊士たちは紀州藩による「いろは丸事件」の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。

 1868年4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首され、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛されると、拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するが後に撤回している。

 明治3年、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、与頭・佐々木只三郎とその部下6人が坂本龍馬を殺害したと供述しこれが定説になっている。さらにその黒幕として不明ながらも京都守護職の会津藩主・松平容保説がある。佐々木只三郎の実兄は会津藩士・手代木勝任(てしろぎ・かつとう)である。佐々木只三郎は幕府に属する旗本だが、実は会津藩士・佐々木源八の三男だった。兄の手代木勝任は、叔父の会津藩士・手代木家に養子に入っており、手代木勝任は全国にその名が響く秀才で、病弱な藩主・松平容保を補佐し京都での会津藩を取り仕切り、京都守護職を動かしていた人物だった。
 手代木勝任は日露戦争の真っ最中の明治37年、死の間際にそれまで隠していた龍馬暗殺について家族に語った。それによると「龍馬は自分の弟、佐々木只三郎が殺した」「龍馬は薩長を連合し、また土佐の藩論も覆して倒幕に一致したことから、幕府に深く恨まれていた」「そこで某諸侯の命を受け、壮士2人を率いて坂本の隠家を襲い惨殺した」と語ったというのだ。
 この佐々木只三郎は神道精武流を学んで「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範も務めた剣の名手であった。新撰組成立にも深く関わり、その後、剣の使い手だった清河八郎を暗殺している。

 その他、幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説、フリーメイソン陰謀説など様々あり、未だに謎である。

 墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹にある。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、高知県護国神社と靖国神社にも祀られている。