お雇い外国人達

欧米の技術を導入せよ

  幕末から明治維新の激動が去り、近代日本が産声をあげたころ明治政府によって多くの外国人が日本に招かれた。当時の日本は近代的な政府が樹立したばかりで、国力は欧米と比べて非常に弱い状態にあった。そのため日本を一刻も早く強くするため「殖産興業」など目的に、欧米の先進技術や学問や制度を輸入するために外国人を雇用した。欧米の最新技術や知識をいち早く国内に導入するためで、海外からさまざまな専門家が招かれ、彼らのことを通称「お雇い外国人」という。

お雇い外国人達

 「お雇い外国人」と呼ばれる人々は日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産・官・学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。招かれた外国人の専門分野はさまざまで、それは工業技術だけではなく、教育や思想などの分野も含まれていた。

 代表的なお雇い外国人を何人か挙げれば、アメリカ人のモースは生物学を専門とし東京大学で教鞭を取り大森貝塚を発見した。フランス人のボアソナードは法学者で、日本最初の民法の起草に力を注いだほか、法学教育の面でも業績を残した。アメリカ人のコンドルは建築家として鹿鳴館を設計したことで名を知られ、同じアメリカ人のフェノロサは哲学者として来日したが、日本美術に魅せられ、岡倉天心らと共に日本美術の復興・再評価に尽力した。これらお雇い外国人は高給だったことから、欧米の技術が日本国内に浸透するにつれ徐々に姿を消してゆく。

給料

 お雇い外国人の給料は高額であった。明治4年の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったが、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他、有名人ほど高額であるが平均では月俸180円とされている。

 身分格差が著しい国内賃金水準からして極めて高額であった。当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。

 日本のお雇い外国人の総勢は2,690人で、国籍ではイギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人となっている。そのような雇い外国人を列挙するが、このお雇い外国人は日本にとって近代化の役に立ったことは紛れもない事実である。
 多くは任期を終えるとともに帰国したが、小説かラフカディオ・ハーンや建築家ジョサイア・コンドル、農業指導者エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯あるいは生涯を終えた人物もいた。

 

クラーク博士

 クラークは1826年7月31日にアメリカ・マサチューセッツ州で生まれた。専門は鉱物学・植物学である。日本政府の要請で、1876年に札幌農学校の初代教頭に着任すると、農学校の学則について相談を受けると「紳士たれの一言でよい」と答えたというエピソードがある。札幌農学校では自ら教鞭も執り語学や植物学を教えた。

 クラークは農学校で通常の学問のほかに、キリスト教、特に聖書を用いた道徳教育に力を入れた。このすぐれた見識や人格、道徳観に影響を受けた学生たちは熱心に学問に打ち込んだ。学生たちとは公私に渡る付き合いがあり、クラークと学生たちの絆は非常に強かった。

 クラークが札幌農学校にいた期間はわずか8か月に過ぎなかった。これはクラークが当時アメリカでマサチューセッツ農科大学の学長をつとめていたからで、彼はその休暇を利用して来日していたのである。短い任期を終えた後、クラークは札幌農学校を惜しまれつつ去った。この時のクラークが、見送りの学生たちに向かって発したとされる言葉が「青年よ大志をいだけ」で、今も日本人に広く知られている。

 わずか8か月の期間であったが、クラークの直接の教えを受けた学生たち(札幌農学校一期生)からは数々のすぐれた人材が輩出された。クラークが去った直後の学生(二期生)の中からは内村鑑三、新渡戸稲造という近代史上に残る人物が出た。二人は熱心なクリスチャンとしても知られ、彼らは一期生の直後の後輩であり、クラークから直接学んだわけではないとしても、その教えを充分に感じとる機会は多かった。クラークの播いた種は着実に芽を出したのである。

その後、札幌農学校は力強く発展を続け、現在は国立の名門・北海道大学となっている。

 

小泉八雲

 明治時代、日本を訪れ帰化して日本人となった文筆家に、フカディオ・ハーン(小泉八雲)がいる。そのような小泉八雲の生涯は当時としては非常に珍しい経歴だった。

波瀾万丈の青春時代

 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が誕生したのは、1850年6月27日、ギリシャのレフカダという小さな島だった。「ラフカディオ」の名もこの島の名に由来している。父はイギリス人の軍医、母はギリシャ人で、ハーン誕生後しばらくして一家は父の地元であるイギリスへと帰った。ハーンが6歳のときに両親は離婚し、その後、父は再婚し、母はギリシャに帰国した。ハーンは資産家だった大叔母のもとで養育された。

 ここまででもハーンの人生は決して幸福とは言えないものだったが、さらに不幸が襲う。大叔母のもとでハーンはイギリスやフランスの学校に通い教育を受けるが、その間に事故で左目の視力を失い、父が急死し、さらには大叔母が破産してしまった。ハーンの生活も一気に苦しくなり、ほとんど放浪者のような生活を送ることになった、新天地を求め、大したあても無いままアメリカへと渡る。この頃、ハーンは20歳で、何とも過酷な青春時代を送ったと言わざるを得ません。

日本に憧れて

 アメリカに渡ったハーンは、新聞記者を生業として暮らしてゆきく。はじめは上手くいきませんでしたが、各国文学の翻訳などを通して徐々に名前が売れ始め、渡米後十年も経つ頃には評判の記者となっていた。

 ハーンはアメリカ南部のニューオーリンズという街に住んでいた。これ以前より、ハーンは遠い外国や東洋の文化などに惹かれる気持ちを持っていたが、そういう傾向をさらに強める出来事が起こります。それはニューオーリンズで開催された万国博覧会だった。この万博には日本からの美術品の出品などがあり、それらはハーンの心をとらえました。ここでハーンは日本という国を意識し、憧れを持つようになった。

その数年後、ハーンは、ハーパー社という会社と日本についての記事を執筆する契約を結んだ。それは特派員として日本へ渡る機会を得たということを意味している。こうしてハーンは日本へ行くことになったのです。

日本に暮らす

ハーンが日本に来たのは40歳の時でした。1890年ですから、年号で言うと明治23年ということになります。日本全体が近代化を目指していよいよ猛進しようとしていた時期にあたりますが、維新からたかだか20年、まだまだ江戸期の雰囲気も残っていたはずです。

そんな日本の空気は、ハーンにとって大変満足できるものだった。ハーンは日本研究に専念することを決意し、ハーパー社との契約を破棄しました(契約条件の悪さも原因だったようです)。この時点でハーンは無職となったが、つてを頼り英語教師としての職を得ます。赴任先は島根県の松江でした。

島根でハーンは日本の暮らしを愛し、溶け込んでいったようです。日本の女性とも結婚しました。しかし、暖かい土地での暮らしが長かったせいでしょうか、島根の冬の寒さはハーンにとって堪え難く、1年ほど後に熊本へと移住し、さらに神戸へ移住しました。日本研究も進めており、いくつかの著書も刊行しています。

ところで、この頃にハーンは日本へと帰化し、妻の姓である小泉の名をもらい「小泉八雲」と名乗りました。「八雲」というのは古歌における「出雲」の枕詞「八雲立つ」から取ったものです。出雲といえば現在の島根。つまりはじめに定住した島根と縁の深い言葉というわけです。わずかな期間しか住まなかったものの、島根の地に愛着のあったことがわかります。

 日本へやってきて6年が経ったころ、八雲は東京帝国大学の英文学講師となりました。学生からの評判も高く、教育者としての才能を存分に発揮したようです。東大講師の職に就いていたのは約6年の間でしたが、この間に八雲は大変多くの著作も発表しています。古き日本の文化や情緒、物語などを分析・紹介するものが多く、八雲の日本研究の質の高さをうかがわせる作品ばかりです。

その後、東大を辞した八雲は早稲田大学の講師となりましたが、その約半年後、1904年9月26日に狭心症のため突然この世を去った。

八雲が見た「古き日本」

ところで、八雲の作品で最も有名なものといえば『怪談』と思われますが、それは八雲の死後に出版されました。日本の古い物語を収集・再構成した『怪談』は、八雲の日本に対する鋭い感覚を感じさせてくれます。他の多くの著作は『怪談』ほど日本人には知られてはいませんが、古き日本を外国人の目から深く洞察したものとして貴重な文献となっています。

 晩年の八雲は日本から日本らしさが失われつつあると感じ、失望と悲しみを強くしていたと言われます。維新によって近代化という道をを選択し、バイタリティに溢れていた当時の日本と日本人にとって、その悲しみは恐らく理解しにくかったことでしょう。海外から来た八雲だからこそ感じ取れていたことだったとも思えます。古き日本がほとんど失われ、また、その価値がようやく見直されつつある現代、改めて八雲の思いというものが理解できるようにも思われる。

 ハーンの墓所は島根県松江市の重要な観光資源にも位置付けられている。