本居宣長

 本居宣長は江戸時代の国学者・文献学者・医師であり、特に国学では荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人」のひとりとされ、国学の発展や完成に貢献した。
商才なし、学才あり
 本居宣長の生まれ故郷は伊勢松坂(三重県)である。松坂は三井家の発祥の地であり「松坂商人」という言葉が生まれるくらい商売人の多いところである。1730年、本居宣長は江戸店に支店を持つ松坂の木綿商・小津家で生まれた。父は3代目の定利で、母・勝との次男として生まれた。本居宣長が生まれる前、父親は男子の誕生を願って大和国吉野の水分神に祈願した。水分神とは雨や田んぼの神様で、みくまりとなまり「御子守」と漢字があてられ、子供の守護神・安産・子宝の神ともみなされた。
 宣長が生まれると父親は喜び、息子のことを「水分神の申し子」と信じていた。宣長が誕生した時期には商売は順調で8歳で寺子屋で手習いを始め、謡曲や貝原益軒の著書などを貪欲に学んだ。しかし徐々に商売は傾き、11歳のときに父が亡くなった。16歳のときには江戸の叔父の店に行き、1年ほどで帰郷し、19歳のときには別の店の養子にゆく。しかし気に沿わなかったらしく、3年で離縁して実家に戻った。
 この頃から積和歌を詠み始めた。宣長の歌は障害で1万首にも及ぶが、最も有名なのは次の歌である。「日本人の心とはどのようなものでしょうか」と尋ねられたら
敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花(やまさくらばな)
【意訳】「もしも人に『日本人の心とはどのようなものでしょう?』と尋ねられたら、私は『朝日に照らされてより一層美しく映る、山桜の花』と答えよう」敷島とは日本の美称のひとつで「大和」にかかる枕詞である。山桜は宣長が最も愛した花で「桜=日本」というイメージが強いのはこの歌の影響も大きいと思われる。
 宣長が22歳の頃に後を継いだ兄も亡くなり、普通ならば宣長が小津家を継ぎ商売の立て直すはずであったが、宣長は商売の道を選ばなかった。
 宣長は商売の修行はしたものの、読書に熱中し商売の才能はなかったことを宣長の母が見抜いていた。そこで母は店を整理し、宣長に医師の道を選ぶよう勧め、宣長は医師として食べていくため京都へ学門の修業に出る。

三つの業績
 こうして京都へ出た宣長は寄宿して医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを5年半にわたり学んだ。医学、漢学、国学などを学ぶ。医学の修行に励んだ。その中で一番興味を持ったのが日本の古典文学であった。

 堀景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、歴史書へも関心があり、日本古典にも造詣の深く平曲を好むという一面を持っていた。京都の雰囲気や生活風景が古典の世界への憧れを強めることになった。また京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。
 この時期に姓を先祖の姓である「本居」に戻す。この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。日本固有の古典学を熱心に研究するようになり荻生徂徠の影響を受ける。宣長の半生はこの時期に決定されたと言ってもよい。
 28歳時に京都から松坂に帰った宣長は医師として開業した。医師としての宣長はなかなか活躍した。しかし重要なのは国学者としての活躍の方だった。

賀茂真淵
 医師として開業し、昼間は医師として人々を診察し、夜は自宅で源氏物語の講義や日本書紀の研究に励んだ。27歳の時、先代旧事本紀と古事記を書店で購入し、賀茂真淵の著作に出会って感銘を受け国学の研究に入る。その後宣長は賀茂真淵と文通による指導を受け始めこの関係は長く続いた。
 賀茂真淵は伊勢神宮参宮のために松阪を来訪し本居宣長を初めて会い、本居宣長は古事記の注釈について指導を願い入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。賀茂真淵は万葉仮名に慣れるため万葉集の注釈から始めるよう指導した。以後、賀茂真淵に触発されて古事記の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは宣長の随筆・玉勝間(たまがつま)に収められている。
 宣長が生涯になした重要な三つの業績をご紹介する。

古事記の研究
 本居宣長といえば古事記の研究が有名である。本居宣長は昼は医師としての仕事に専念し、夜には自宅で「源氏物語」の講義や「日本書紀」の研究に励んだ。27歳の時、古事記を書店で購入し国学の研究に入ることになる。宣長は賀茂真淵の指導のとおり万葉仮名を学び古事記の研究も始めた。
 30代から60代までおよそ35年の歳月をかけて、69歳にして「古事記伝」を完成させている。内容は古事記の詳細な注釈であった。この古事記伝の重要な点は、内容もさることながらその手法にあった。そもそも歴史の研究というのは、史料を徹底的に読み解くことで歴史を解き明かしてゆくことである。この手法を体系化して近代の歴史学を構築してきたのは西洋の歴史学であったが、宣長はそれと共通する手法で「古事記伝」を書いている。これは当時としては前例のないやり方だった。古事記伝の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ国学の源流を形成することになる。
 70歳のときには、古事記や風土記に出てくる地名の転記例をまとめた「地名字音転用例」を刊行しています。「古事記伝」の一部分を、本居宣長記念館のホームページで見ることができる。漢文にフリガナがつけられているので現代人でも理解しやすくなっています。

源氏物語の研究
 日本の古典研究に尽力した宣長は、平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも源氏物語を好み研究も行った。この源氏物語の研究において宣長は「もののあわれ」の情緒こそが日本固有の文学の本質であるとした。「源氏物語」は日本的な心情である「もののあわれ」を表現した作品で、文学そのものが「もののあわれ」を表現するという大きな役割を持っていることを唱えたのである。当時、物語とは儒教的な教訓や仏教的な教訓を表現する風潮があったが、そんな中で「もののあわれ」という概念は極めて斬新なものであった。そもそも文学の機能や役割を一つの言葉で打ち出すという考え方自体が新しかったのである。大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教えを自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判した。


日本語研究
 読解という面で「古事記」の研究とも重なる部分もあるが、日本語の研究においても宣長は大きな業績を残した。日本語という言語を体系的に研究した最初の人物と言えるほどで、品詞の研究、古代の仮名の研究などを通して日本語のさまざまな法則を明らかにし、日本語を分類した。その質は非常に高く、現在の日本語研究に直接的な影響を与えている。大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし外来的な儒教の教えを自然に背くと非難し、中華文明を参考にして取り入れる流れを批判した。
 64歳の時から散文集「玉勝間」を書き始め、自らの学問・思想・信念について述べている。また方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い地誌を記述している。
 宣長は読書家であると同時に、書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、借りた本を傷めるな、借りたらすぐ読んで早く返せ、良い本は多くの人に読んで貰いたいと記している。

医師としての本居宣長
 宣長は済世録と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたり、内科全般を手がけていたが小児科医としても著名であった。当時の医師は薬の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとし。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。しかし宣長の意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」としていた。
 これらさまざまな研究成果を残し、1801年9月29日に本居宣長はこの世を去った。本居宣長は自分でデザインした墓に入り、昭和34年に生前の宣長が好んだ松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山へ移され、さらに平成11年には遺言のデザインに沿った本居宣長奥津墓(城)が建造された。
 
先駆者・本居宣長
 古事記の研究にしても、もののあわれにしてもそうであるが、宣長の学問は常に斬新であった。これらは江戸後期の学問はもちろんのこと、明治以後の学問にも大きな影響を与えている。宣長は生涯の大半を市井の学者として過ごし、門人は487人に達していた。
 また本居宣長は法学においても提言を行っている。紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」とその背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。
 明治以後、日本は西洋文明を物凄いスピードで受け入れたが、そこには「江戸時代の蓄積」があったからである。学問にしろ思想にしろ経済にしろ、江戸時代にはかなりのレベルにまで到達しており、その蓄積があったからこそ、急激な異文化の流入にも無理なく対応できたのである。宣長はそのような蓄積を作った人物のひとりだった。
 本居宣長は国学者で、日本と日本人に注目し、その内容や精神を掴んでゆこうとする姿勢が基本にあり、これは学問の中身に現れている。宣長の学問が完成度の高かったこともあり、宣長の姿勢や思想は後世に大きな影響を与えた。これもやはり「蓄積」の一つだった。近世と近代をつなぐさきがけとなった人物である。その意味において、本居宣長とその業績は今も燦然と輝いている。 

 28歳で医者を開業し72歳で没するまで町医者(主に内科・小児科)として働き、生計を立てていた。宣長は日々の生活を重視し、患者が在れば元旦も診察し、往診ははるばる伊勢の宇治まで薬箱をぶら下げ出かけていった。