平賀源内

 あのエレキテルの人でおなじみの平賀源内は、江戸中期の発明家で、博物学者・作家・画家・陶芸家などあらゆる分野に才能を発揮し、日本のダ・ビンチといわれている。

 平賀源内は当代随一の天才・鬼才ともてはやされたがその人生は波乱万丈の生涯であった。平賀源内は四国・高松藩(さぬき市)の下級武士・白石良房の三男として志度浦で生まれ、父は二人扶持の軽輩だった。それは江戸時代中期で将軍・徳川吉宗(暴れん坊将軍)が享保の改革を進めていた頃である。

 少年の頃から好奇心が強く「おみき天神」というからくり人形を作り、俳諧を詠み、軍記物を読みふけり、神童あるいは天狗小僧といわれていた。平賀源内は優秀で武士の学問・儒学を学び、また文章を好んでさらに本草学、医学など学業全般にわたって学び超優秀であった。その才能を見込まれ、13歳から藩医のもとで本草学を学び、儒学も学ぶことになる。高松藩の藩主、松平頼恭(よりたか)が無類の本草学好きだったことから、源内源内をこの道へ育ててくれたのである。

  25歳ごろ、平賀源内は藩からの遊学を命じられ、本草学などをはじめとするオランダの知識を得ようと長崎(出島)へと遊学する。1年間の長崎滞在で蘭学を学び世界を知る。長崎において、源内は一高松藩ではなく日本国の殖産興業の大志を抱く。特に貿易実態が外国品輸入、金銀輸出を知り、外国製品の「国産化」に大なる野心を抱くことになった。
この遊学は源内にとって強い印象を残し本草学、医学、油絵などを学んだ。

 長崎からの帰路、鞆之津(広島県福山市)で良質の陶土を発見し山の地主に陶磁器の生産を勧める。当時は多くのの陶磁器が輸入されていたが、源内にすれば少々の技術改良をすれば容易に国産化できると思ったのである。そうすれば陶磁器を輸出でき、金銀の輸出を減らせるために国益に合致するとした。しかし山の地主は青年源内の憂国の情などにはまったく無関心で陶土だけを売ってボロ儲けをした。青年源内は、その家の「福の神」として感謝されただけに終わった。源内は「目先の利益だけにとらわれ、国益を考えぬ小物よ」と残念がるのであった。
 郷里に帰ると陶器製造の技術・デザインを指導して「源内焼き」を製造したが、田舎ではそれだけのことで終わった。また長崎土産として綿羊を4頭、連れ帰った。毛織物、特に羅紗の国産化を意図したのだが、これもそれだけで終わった。さらに長崎で見た「量程器」(万歩計)、「磁針器」(羅針盤)も製造した。ちょいと見ただけで作っちゃうんだからスゴイには違いないが事業とはならず、「源内先生は珍しいカラクリをおつくりなさるなもし」でおしまいであった。つまり源内は技術者の域を出なかった。いかにを作る技術があっても、それだけじゃ事業は成功しないのである。

 高松藩としては、ゆくゆくは藩のためと考えての遊学であったが、西洋文化や最新知識に好奇心旺盛な源内は、さらに本格的な研究を進めようと遊学後に藩の役職を退くことを願い出る。あり余る才能を持つ平賀源内は「大望実現には江戸へ行かねば」と、江戸へ向かうのは必然だった。27歳の時、病身を理由に妹の婿養子に家督を譲り源内は浪人(自由人)になった。それはまもなく田沼時代が幕を明けようとしていたときだった。

 その後、源内27歳の時は江戸に出て本草学者・田村藍水(らんすい)の弟子になる。本草学は「自然界に存在するさまざまな物を研究する学問」で、特に薬学的な視点が重視されていたが、研究対象は植物ばかりではなく鉱物や動物も研究した。その本草学者に弟子入りしたので、源内もその道を歩き出した。

 源内は全国の飛脚問屋と契約を結び、独自の物流網を整え全国各地から珍しい薬草や鉱物などを集めそれを公開した。たとえば師とともに物産の展示会を数度開き評判を得るなど当初は順調だった。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の物産会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ひんしつ)」を刊行して世人の注目を浴びた。

 物産会に取り組んだ1757年から、わずか6年の間で5回も物産会を開いた。物産会は飲食物は出さず、また入場者も制限していたので、真面目な学問的な催しだったが、源内主催の物産会に集まった薬種・物産は1300種を超えていた。老中・田沼意次もこれを知り物産会を支援した。

 この源内の活躍は遠く讃岐にまで届き、当時の高松藩は、藩主が博物好きだったこともあり、本草学者として名を成した源内は高松藩に再び召し抱えられた。藩主の絶対命令で国元に呼び戻され、高松藩の薬坊主格となった。しかし藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ、2年後にまた退職願いを提出し職を辞める。高松藩は他藩に就職してはならないという条件をつけ脱藩を許可した

 源内は再び自由の身になり、自ら「天竺浪人」と名乗った。自由を手に入れたが、将来にわたり「安定した収入」や「身分の保障」を絶たれ、これがのちのち自らの首を絞めることになる。生涯フリーターの源内は以後苦労を重ねることのなる。例えば源内は蘭学を学びながらオランダ語の実力は高くなく、このことは学問を進める上での大きなハンデともなった。また就職制限も大きな縛りとなって常に不安定な生活を強いられた。

 自信家で尊大な性格だったが、研究資金を稼ぐ必要があり、さまざまな分野に手を出すことになる。マルチタレント的な平賀源内な活動はこの時になされたものである。

 

発明家としての源内

 平賀源内は発明家であり科学者で、非常に多芸多才な天才であり、時代の先駆者だった。その源内が最も知られているのは発明家としての実績である。発明にはモノに対する知識が欠かせないので、本草学の道もそれなりに近い分野である。 発明品としてはまず「燃えない布、火浣布(かかんぷ)」がある。これは源内が秩父山中で石綿(アスベスト)を発見し、石綿を混ぜておると、世にも珍しい燃えない布をつくることができた。試作品を自信満々に幕府に献上したが実用化には至っていない。

 平賀源内の業績として一番知られているのが静電気発生装置(エレキテル)の発明である。この発明の経緯は不明であるが、オランダから伝わった静電気発生器を源内が修繕したとされている。エレキテルは静電気を発生する装置であるが、当時、西洋では見世物や治療なんかに使われており、壊れたエレキテルをた偶然源内が手に入れ(入手経緯は不明)、エレキテルに夢中になる。

 しかし静電気」の原理もわからないため修復は困難であった。当時の西洋ですらまだ「電気」についての研究は進んでいなかった。しかし源内はあきらめることなく、独自に勉強をし試行錯誤を重ね、エレキテル入手から7年後に修復に成功した。エレキテルを引っさげ源内は貴人や大商人、武家などを相手に実演を行い、青い火花が散りビリビリする謎の箱に人々は興味を持ち、「硝子を以って天火を呼び、病を治す器物」とされ、この摩訶不思議な品が天下の評判を呼んだ。ちまち大評判となり源内は時の人となった。源内はその原理を知らずにエレキテルを高級な見せ物にした。源内の家は身分高き人、富裕なる人で賑わった。また源内自身がエレキテル持参し、大名屋敷に伺うこともあった。平賀源内、48歳の時のことである。

 その他、日本初の万歩計や寒暖計を発明し、磁針器などの発明品は100種にも及んだ。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内であり、「土用の丑の日」を考え出したのも源内とされている。「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。また歯磨き粉の売り文句を考え、これらから源内が「コピーライターの先駆け」と表されることがある。そのほか、陶器の製作指揮、細工物制作などさまざまなことに手を出し器用な人物だった。。

鉱山開発者源内

 源内は鉱山家としてひと山当ててやると意気込み、秋田秩父で鉱山開発鉱山を行った。金山や銀山の再開発事業であるが、お金と人出を費やすが、肝心の金が集まらずに失敗している。ただし、鉱山家としての源内の名は広く知れわたり、秋田藩に鉱山開発の指導をしている。

 

画家源内

 源内は欧州から入ってきた油絵を見ると、すぐに自分で油絵具から画布までを考案して西洋風絵画を仕上げ、日本初の洋風画を描いている。それが「西洋婦人図」の油絵で、洋画の先駆けとして有名な作品で歴史の授業でもよく取り上げられている。さらに司馬江漢、小田野直武(解体新書の挿絵画家)らに西洋画法を教えている。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、このことから色彩多彩な浮世絵が誕生した。源内にとって油絵は余技や教養の積もりで、画家として活動を行ったいうわけではない。

 また輸入された西洋陶器に対し、源内焼と称される陶器もある。緑色の釉薬(うわぐすり)がかかった焼き物で、図案には万国地図をよく使っていた。

 

文学者源内

 源内は文才があり当時の大衆向け読み物の分野で「戯作」を残している。また人形浄瑠璃の脚本なども執筆した。それまでの浄瑠璃は上方言葉で語られていたが、源内は「神霊矢口渡」で題材を関東に取り、江戸言葉ないしは吉原の廓言葉を堂々と舞台で使った。作家としてのペンネームは、浄瑠璃では「福内鬼外」、戯作号では「風来山人」で、35才の時に書いた「根南志具佐(ねなしぐさ)」「風流志道軒伝」は江戸のベストセラーとなり明治まで重版されている。

 風流志道軒伝は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、当時は鎖国中で、源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりのガリバー旅行記を読んでいたとは思えない、まさに江戸版のガリバー旅行記である。

 源内は些細なことから殺人を犯したが、獄死の5年前、源内は「放屁論」を、2年前には「放屁論後編」を書いた。「放屁論」ではまず「音に3等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形まろく、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じ、江戸に実在した屁の曲芸師を引き合いに述べている。さらに「後編」では貧家銭内(ひんかぜにない)という自分自身の生い立ちに近い男を登場させる。これらは「憤激と自棄のないまぜの書」であり、表現されているのは自分自身のこととみられている。

 

源内の死

 このようにさまざまなことに手を出した源内であるが、それらは華やかなマルチタレントとしての活動ではなかった。趣味の部分もあったが、基本的には生活資金や研究資金を稼ぐためだった。

 溢れ出るアイデアと実行力で、凡人には思いもつかないものを次々と発表し、常に人々を驚かせてきた。しかし実用化されたものはほとんどなく、世間の評価は山師(ペテン師)であった。

 源内の多彩な活動とは世に出るためのあがきのようで、どれも成功したとは言い難い。源内の残した文章には鬱憤を晴らすような社会批判的な内容が見られる。自嘲的に「貧家銭内」と名乗っていた。さらに自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師というが、よく思うに骨を折って苦労しては非難され、酒を買って好意を尽くしては損をする。いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。

 1778年、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされ人間不信、被害妄想が拡大して悲劇が起きる。

 自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時、源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図がない。盗まれたと思った源内は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高して2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく帯の間から出てきた。発狂した源内は捕縛され、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死した。1779年12月18日のことだった。平賀源内は世に出ようとしてかなわなかった挫折の人で、そう考えると、意外でもあり納得できるような切ない死に様であった。

 

東京都台東区橋場にある平賀源内の墓

 遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。1928年に総泉寺が板橋区移転したが、墓はそのまま残され、3年後の1931年(昭和6年)、旧高松藩当主・松平頼壽により築地塀(土壁)が整備され、1943年に国指定史跡となっている。墓碑には生涯の親友・平賀源内を悼む、玄白の言葉が刻まれている。常識にとらわれない源内よ、常識を超えたことを好み、やることも常識を超えていた。だからといって、どうして非常な最後まで迎えてしまうのか。(嗟 非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ)。