勝海舟

 勝海舟は山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と 呼ばれている。海舟は佐久間象山の書「海舟書屋」からとったもので、通称は勝麟太郎である。混迷する幕末にあっていかに時流を読み、自らの人生を充足させ、発展させていくか、どのようにして先見力を身につけるのか。この課題に歴史上の多くの英傑たちがいどみ答えを探してきたが、幕末の時代に先を読み切った人物はさほど多くはいない。その数少ない者のひとりが幕末の大立者・勝海舟であった。

 勝海舟は欧米列強の植民地政策を予想し、江戸無血開城を実現することで内乱の危機を防ぎ、国の行く末を見すえて時代の采配を振りつづけた。

勝海舟の生まれ
 1823年、勝海舟は江戸本所亀沢町に生まれた。幼名および通称は麟太郎。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信である。

 曽祖父は越後国の貧農の家に生まれの盲人であったが、江戸へ出て高利貸しで成功し巨万の富を得た。曽祖父は旗本の株(男谷家)を買い武士になり、海舟の父・勝小吉にあたえた。武士といっても名ばかりで、旗本ではあったが終生無役であった。わずかな収入も小吉はあそびにつかい勝家はつねに貧乏だった。

 無役で貧乏な勝家の長男として生まれた勝海舟に突然チャンスが巡ってきた。勝海舟が6歳の時、父方の縁者で大奥で働いていたお茶の局が、江戸の本丸の庭の見物に誘ってくれたのである。好奇心の旺盛な海舟が見て回っていると、その姿が11代将軍徳川家斉の目に止まり、将軍の孫の一橋慶昌(初之承、12代将軍家慶の子)の遊び相手として江戸城へ召され、衣服を与えられ江戸城に住むことになる。9歳の時、実家へ戻った海舟は猛犬に急所を噛まれ、医者も匙を投げるほどの大怪我を負ってしまう。父・小吉の必死の看病でどうにか快復することができた。

 初之承が一橋家を継ぎ一橋慶昌を名乗ると、海舟は一橋家に召しだされる予定であったが、一橋慶昌が早世したため、15歳の勝海舟は出世の望みは消え、失意と絶望の中でもとの貧乏生活に戻ることになった。同年、父の隠居で家督を相続する。

修行時代

 海舟は貧しい中で剣術を父・小吉の兄の男谷信友の道場で学んでいたが、後に島田虎之助の道場で必死の修行に明け暮れ直心影流の免許を得て、その師範代をつとめるまでになる。禅も学び、兵学は若山勿堂から山鹿流を習得している。無役の勝海舟は22歳で結婚するが、古着屋で買った帯を3年間も妻に締めさせるほどの赤貧だった。

 蘭学は赤坂の黒田藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。しかし「異国語を学ぶ者は、神州日本を冒瀆する輩」と決めつけられ、島田虎之助の代稽古は出入りを拒否されることになる。だが海舟は西洋流兵学が時勢上かならず必要としていた。

それは剣術を徹底してやった、彼の勘といってよいかもしれません。蘭学の私塾を細々と開きながら、海舟は己れの出番を待ったのです。1846年には長女夢子が誕生、住居も本所から赤坂田町に移った。

 当時の有名な話として蘭学修行中に辞書「ドゥーフ・ハルマ」全58巻を1年かけて2部筆写し、1部は自分のために、1部は買い取ってもらっている。蘭学者・佐久間象山と知り合い、西洋兵学を修めた海舟は赤坂の自宅で私塾「氷解塾」を開き、蘭学と西洋兵学を講義した。
5カ条の意見書
 1853年、突如4隻のペリー艦隊が浦賀に来航(黒船来航)し開国を要求した。老中阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、慌てた幕府は海防に関する意見書を幕臣から町人に至るまで広く募集した。海舟は海防意見書「5カ条の意見書」を提出した。その内容は、身分を問わず有能な人材を採用すること。江戸湾台場の整備。軍艦の建築と大砲や制作などであった。この意見書は阿部正弘の目に止まり、目付兼海防掛だった大久保一翁の知遇を得て、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられ32歳で念願の役入りを果たした。海舟は安政の改革で才能を見出され運を掴んだのである。

長崎海軍伝習所
 大久保一翁につれられ、大阪湾検分調査に同行し大阪伊勢の海防状況を視察し、次いで33歳で長崎海軍伝習生に選ばれた。長崎海軍伝習所は日本初の近代海軍の士官・下士官を養成する幕府の学校で、そこで海舟は猛勉強することになる。伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。以後3年半に渡り勉強に取り組むことになる。事実上の教頭として伝習生の面倒をみながらオランダ教師団とのコミュニケーションをはかり、海はさら教師たちと会話をした内容を、幕府にとって有益なものを江戸へ知らせていた。そうした努力もあり、遠く長崎で本来なら忘れられるべき海舟は海軍のエキスパートとして江戸の幕閣で注目され、長崎に滞在中に「講武所砲術教授方」に就き小十人組から大番組へと番替えにもなった。

 長崎海軍伝習所は一年で一期生を江戸へ帰し、江戸城の守りに就かせ、かわって二期生を送り込む仕組みだったが海舟は長崎を動かなかった。出世のみを考えれば江戸に還った方が得だったが、海舟は海軍の実務ことごとくを吸収し欧米列強を知ろうとしたのである。

 この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬との知遇も得て、薩摩を訪れて島津斉彬と2回会っている。2人は藩主になる前の斉彬と江戸で交流していたが、後の海舟のに大きな影響を与えることになる。
 同年から始まった安政の大獄で、海舟を推薦した大久保一翁は左遷されたが、長崎にいる海舟に影響は無く、大獄を主導した大老井伊直弼の政治手法を批判する余裕を見せている。

 安政6年1月5日に江戸に帰ると、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ軍艦操練所で海軍技術を教えることになる。やがて海軍の技術官僚として幕閣に認められた海舟は、遣米使節が決まるとアメリカ行きを希望し、咸臨丸で渡米する機会にめぐまれる。

 

渡米
 1860年、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し派遣する。この時、護衛の名目で軍艦を出すことになり、咸臨丸が派遣された。この咸臨丸には軍艦奉行・木村喜毅、教授方頭取として海舟が乗船し、米海軍からジョン・ブルック大尉が同乗した。通訳のジョン万次郎、福澤諭吉も乗り込んだ。品川からの出発し、全日数は140日であった。
 咸臨丸の航海を福沢諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ジョン・ブルックらがいなければ渡米できなかったとされている。

 海舟は咸臨丸艦長として渡米したとされているが、福沢諭吉は木村喜毅が艦長、海舟は指揮官と書いている。アメリカから日本へ帰国する際は、海舟ら日本人の手だけで帰国することができた。

 アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本とは違ってる文明に衝撃を受けたが、他の乗組員といざこざを起こしている。サンフランシスコ入港時に木村喜毅が実家の家紋を咸臨丸の旗に掲げようとしたのに対し、海舟は徳川将軍家の葵の御旗を掲げるべきと主張、議論の末に木村案が通った。咸臨丸から祝砲を打ち上げようと佐々倉が言うと、海舟が拒否したが佐々倉が祝砲を打ち上げた。パナマ行きを巡り木村喜毅と対立したなどの話がある。

 福沢諭吉は「瘠せ我慢の説」と題する一編で、新政府に仕えた勝を攻撃したことが知られている。海舟は最初は無視していたが、福沢から返事を催促され、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず、我に関せずと存じ候」と返事を書く。行蔵とは人間の運命のことで、「出処進退は自分自身しか決することができず、他人がなんと批評しようが、それは自分とは関わりのないこと」と言い切ったのである。海舟は福沢を単なる評論家だと断じ、自分とは歩む道が違うと述べたのである。これには福沢も言葉を返せなかった。

 このようなことがあったことから、咸臨丸での福沢由紀治の記載は諭吉と勝の確執からきた話でもあり、その真意は不明であるが、乗組員の意思が統一されていなかったことは確かであろう。

 帰国後、蕃書調所頭取助に異動、翌年に講武所砲術師範となったが、海軍から切り離されたためこれを左遷、海軍からの追放とされた。直弼暗殺後に政権を担当した安藤信正の元では、海軍強化の提案もロシア軍艦対馬占領事件に関する建策も採用されず不満の日々を送った。また蕃書調所での勤務態度は不真面目でさぼってばかりだった。


海軍興隆へ奔走
 1862年、安藤らが失脚した後に、松平春嶽・一橋慶喜ら一橋派が島津久光(斉彬の異母弟)が台頭し、文久の改革でそれぞれ政事総裁職・将軍後見職に就任した。それに伴い海舟も7月5日に軍艦操練所頭取として海軍に復帰し軍艦奉行並に就任した。これに先立ち一翁も7月4日に御側御用取次として復帰、海舟は一翁および春嶽とその顧問横井小楠を提携相手として手を組み、彼らが主張する公議政体論、つまり諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行うことの支持者となりその実現に向け動き出す。
 早速軍艦奉行並就任から3日後の会議で、軍艦総数を370隻以上、乗組員総数6万人を集め全国6ヶ所に軍艦を配置する一大構想が浮上するが、海舟は500年かかっても無理と反対した。反対の根拠は諸侯に金を出させ、幕府だけ軍事力強化に走る構想が公議政体論と合わず、諸侯と幕府が協力するだけでなく海軍も互いに手を取り合い強化すべきとする人材登用論を主張したのだった。
  いっぽう14代将軍徳川家茂の上洛が取り沙汰されると、費用節約の観点から海路上洛の建白書を提出したが却下された。代わりに手付金5000ドルでイギリス船ジンキーを試乗して気に入り、15万ドルで購入したジンキーを順動丸と改名し上洛用に運用することが出来た。
 11月5日に一翁が左遷され23日に罷免(朝廷からの攘夷催促に反対し政権返上を口にしたのが慶喜に嫌われたためとされる)、小楠も12月19日に刺客に襲われた事件で京都へ行けなくなり、同志を2人失う痛手を被った海舟は幕府首脳を順動丸で大坂へ移送する役目を負い、12月17日に老中格小笠原長行を乗せて品川を出発、24日に大坂へ到着し滞在、長行に兵庫で海軍操練所建造を提案しつつ海岸線調査を行い、年を越した文久3年(1863年)1月13日に兵庫を出航、16日に品川へ戻った。この間に坂本龍馬の名前が海舟の日記に出るが、両者のそれ以前の交流は不明である。
 2月、将軍の海路上洛が陸路上洛に変更され落胆するも、同月13日に江戸を出発した家茂の後を追う形で24日に順動丸で海路上洛、2日後の26日に大坂で投錨して先回りした(家茂一行は3月4日に上洛)。そこで砲台設置を命じられていたため検分に務め、4月23日に京都から大坂へ下った家茂を出迎え、順動丸に乗せて神戸まで航行した。神戸は碇が砂に噛みやすく水深も比較的深く大きな船も入れる天然の良港であるので、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を大阪湾巡回を案内しつつ家茂にしている[注釈 13]。
 家茂にこの提案を受け入れさせる一方、海舟は同行していた公家の姉小路公知も抱き込み、27日の幕府の命令で神戸海軍操練所設立許可が下り、年3000両の援助金も約束、操練所とは別に海舟の私塾も作ってよいと達しも出た。操練所はすぐには作れないため私塾の方が先に始動、薩摩や土佐藩の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、海舟は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた[注釈 14]。後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた海舟は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。海舟自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。
 5月9日には朝廷からの命令を通した幕府から製鉄所の設立も命じられ、海軍強化に大きく前進していった。しかし政局も動乱が相次ぎ、まず3月から上洛していた家茂が朝廷に攘夷実行を迫られ、これに反対して政権返上を主張した春嶽が3月21日に無断で京都を離れてしまった。続いて姉小路が5月20日に何者かに暗殺され(朔平門外の変)、海舟は提携相手を2人も失い、度々幕閣に攘夷を主張しても受け入れられず、戦争のきっかけに考えていた生麦事件も幕府が賠償金をイギリスに支払い事態収拾されたため、政治的に不利になっていった。
政治構想の頓挫と罷免
 先に上げたように、海舟は公議政体論の軍事的応用として諸侯との協力を前提にした「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた春嶽も3月21日に政局を放り出して離脱、海舟は孤立していった。6月に兵を率いて海路で江戸から大坂へ到着した小笠原長行が率兵上洛を企て、これが一因で6月13日に朝廷から江戸帰還を許された家茂を海舟は順動丸に乗せて海路江戸へ戻ったが(長行は率兵の責任を取らされ罷免)、家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると知っている海舟にとってはやりづらい状況となっていた。また、春嶽が治めていた越前福井藩では政変が起こり、率兵上洛および諸侯を集めた列藩会議召集を主張する小楠と対立した一派が7月23日に上洛派を追放、8月11日に小楠も福井を去り公議政体論実現は難航した。1週間後に起こった八月十八日の政変を報告された海舟は日記に失望感を書いている。
 それでも海舟は9月に老中酒井忠績と同行して順動丸で再び上洛、政局に嫌気が差していた春嶽に上洛を促し、彼を説得して家茂上洛の下準備を整え10月28日に大坂を出発して11月3日に江戸へ到着、12月28日から翌4年(元治元年、1864年)1月8日にかけて家茂と共に上洛、1月10日に海軍増強策を上奏したりしている。
2月から4月まで幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して前年の長州藩による外国船砲撃への諸国の報復を抑えるため説得に動いた。しかし、上奏は採用されず長州藩への制裁も下関戦争として発生した上、海舟が公議政体論の具体化として期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で3月9日に解体され、海舟は5月14日に軍艦奉行に昇格、神戸海軍操練所も設置されたが政治構想をことごとく潰され、幕府に対して不満を抱いていた。7月11日に象山が暗殺、19日に禁門の変が発生、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなり、海舟の立場も危うくなった。
 そして11月10日に軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。罷免の理由について、海舟は幕府の姑息ぶりを非難する一方で老中の1人阿部正外は褒めていて、その話を聞いた福井藩と薩摩藩が阿部と打ち合わせ、海舟の持論だった諸侯と幕府の提携を勧めた所、拒絶した阿部が幕府に報告、権力強化を進めていた幕府に危険視されたこと、神戸塾で脱藩浪人を抱えていたことなどが理由とされている。神戸塾と海軍操練所も翌慶応元年(1865年)に閉鎖され、海舟はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだ。
 海舟が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年9月11日の大坂においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は海舟を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている[20]。慶応元年には淀川の警備の為に右岸に高浜台場、左岸に楠葉台場を奉行として完成させている。

長州征討と宮島談判
 慶応2年5月28日、長州藩と幕府の緊張関係が頂点に達する直前に軍艦奉行に復帰して大坂へ向かい、老中板倉勝静の命令で出兵を拒否した薩摩藩と会津藩の対立解消、および薩摩藩を出兵させる約束を取り付けることにした。しかし実際は薩摩藩は拒否したままであり、会津藩と薩摩藩の対立も続いたままだったため完全に失敗していた。
板倉との間が気まずくなった海舟は帰府を考えたが大坂に留まり、7月20日に家茂が死去した後に宗家を継承した徳川慶喜から8月に京都へ召集され、そこで第二次長州征討の停戦交渉を任される。海舟は単身宮島大願寺での談判に臨み、長州藩の広沢真臣・井上馨らと交渉したが、幕府軍の敗色が濃厚だったためここでも交渉は難航、辛うじて征長軍撤退の際は追撃しないという約束を交わしただけに終わった。慶喜が停戦の勅命引き出しに成功したことでそれも無駄になり、憤慨した海舟は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。辞職は却下され軍艦奉行職はそのままだったが以後は事務仕事に勤め大政奉還まで目立った働きはなかった。

駿府城会談と江戸城無血開城
 明治元年、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まる。対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻した。幕府側についたフランスの思惑もあって徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し慶喜が1月14日に罷免、海舟は17日に海軍奉行、続いて23日に徳川家の家職である陸軍総裁に昇進、恭順姿勢を取る慶喜の意向に沿いフランスとの関係を清算し、2月25日に陸軍取扱の職に異動され、会計総裁となった一翁らと朝廷の交渉に向かうことになった。官軍が駿府城にまで迫ると早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。
 まず3月9日、山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。この会談に赴くに当たっては、江戸市中の撹乱作戦を指揮し薩摩武士・益満休之助を説得して案内役にしている。予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には海舟が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。
海舟は交渉に当たり、幕府側についたフランスに対抗するべく新政府側を援助していたイギリスを利用した。英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせ、さらに交渉が完全に決裂したときは江戸の民衆を千葉に避難させたうえで新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところにゲリラ的掃討戦を仕掛けて江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。
 この作戦はナポレオンのモスクワ侵攻を阻んだ1812年ロシア戦役における戦術を参考にしたとされている[注釈 19]。この作戦を実施するに当たって、江戸火消し衆「を組」の長であった新門辰五郎に大量の火薬とともに市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には江戸および周辺地域の船をその大小にかかわらず調達、避難民のための食料を確保するなど準備を行っている。幕府の軍艦は新政府軍の兵糧と退路を絶つ為、東海道への艦砲射撃の準備をさせ、慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていた。ただし、以上の戦略については否定的な意見もあり、松浦はパークスの圧力についてはパークスが14日に長州藩士木梨精一郎と会見していたことを指摘して海舟と西郷の会見に間に合わないと否定、焦土作戦も時間的に余裕がなかったとして否定している。
 この会談の後、交渉は一旦保留され改めて東征大総督府と海舟らの話し合いが行われたが、江戸から上洛した西郷から条件を受け取った京都は大総督府と西郷が旧幕府に妥協し過ぎと受け取り、閏4月11日に徳川家処分の決定案を持って三条実美が江戸へ下向、24日に到着して29日に田安亀之助(後の徳川家達)の相続が発表された。詳細は旧幕府側の暴発を恐れ当面伏せられたが、5月15日に大村益次郎が新政府軍を指揮して不満分子である彰義隊を壊滅(上野戦争)させてからは正式発表できるようになり、24日に徳川家の領土が400万石から駿府藩70万石に決定された。海舟は西郷が出て行った後は参謀海江田信義と交渉、一時は石高半減も認めない強気の姿勢を取ったが、彰義隊壊滅でそれも難しくなり、海江田が罷免されたこともあり、大減封である処分案正式発表を受け入れざるを得なかった[25][注釈 20]。
戊辰戦争は上野戦争後も続くが、海舟は榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあったことなどがその理由である。米沢藩士宮島誠一郎が朝廷宛に奥羽越列藩同盟の建白書を届ける途中に自宅を訪れた時は面倒を見たが、列藩同盟に対する評価は低く人材不足と時勢の乗り遅れ、会津藩への非難を6月3日付の日記に書いている。

明治時代
 明治維新後も海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵になった。しかし明治政府への仕官には気が進まず、役職は辞退したり短期間務めただけで辞職し、元老院議官を最後に中央政府へは出仕していない。枢密顧問官も叙爵も辞退している。
 江戸から水戸藩で謹慎していた慶喜が駿府藩へ船で移動し宝台院で謹慎したが、海舟は政府との交渉役を任され、10月11日に船で江戸を去り、翌12日に駿府へ着いてからは幹事役として大久保利通と駿府藩の折衝を務めた。明治2年に政府から外務大丞に任じられたがすぐに辞任、兵部大丞任命も辞表を提出した。明治4年の廃藩置県を経て翌5年(に政府の要請で東京へ向かい赤坂氷川神社の近くで住居を構え生活する。
 明治5年に海軍大輔に任じられ、勅使として鹿児島へ下向し、島津久光を東京へ上京させた。明治六年政変で西郷らが下野した後の10月25日に海軍卿に任じられたが、翌7年の台湾出兵に反対して引き籠もった。明治8年4月25日に元老院議官へ転属したが、11月28日に辞職して下野した。海軍と関わった形跡はないが、間接的ながら海軍発展を推し進めた。
 明治21年の大日本帝国憲法制定時の枢密院審議では顧問官として出席したが終始一貫沈黙していた。これは当初ただ外国から翻訳した法を丸写ししただけの憲法を作るのではないかという懸念を抱いていたが、伊藤博文ら作成者にそのような意図が無いことに安心、日本の習慣に応じて修正すべきとする自分の考えと合っていたからだった。憲法が公布されると伊藤らを称える意見を提出している。
 座談を好み西郷隆盛や大久保利通をその後の新政府要人たちと比較した自説を開陳しているが、一方で自身はその政治的姿勢を團團珍聞などのマスメディアから厳しく批判された。ただ、政府に対しては不満はあったが、提出した意見書は説教に止まり、藩閥協力を呼びかける程度の物で、政治的安定を願う海舟には体制批判は見られない。また民権運動には無関心だった。
 徳川慶喜とは幕末の混乱期には意見が対立し疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに尽力した。この努力が実り慶喜は明治2年9月28日に謹慎解除され、明治31年に明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。ここに皇室と徳川家の和解が成立します。この演出をしたのも海舟であった。この日の日記に海舟は「我が苦心30年、少し貫く処(ところ)あるか」と短く己れの感慨を書き残している。

 これに先立つ明治25年に海舟は長男小鹿を失い、慶喜に末子精を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘伊代を精と結婚させ慶喜と和解している。

 他にも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府との人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。
 旧幕臣への資金援助を行い、徳川一族から積立金を集め日光東照宮の保存を図り、徳川家の墓地管理もしている。また駿府藩から政府や諸藩に人材を送ったり、茶畑開墾を奨励させたり、旧幕臣の前島密を駿府藩公用人に抜擢したりしている。
 また江戸城無血開城と維新の立役者で征韓論で下野した西郷隆盛のことを気にかけ、明治10年に西南戦争が起こると自宅を訪れたアーネスト・サトウに向かい西郷軍への同情論を語っている。戦後逆賊の臣となり討たれてしまった西郷の名誉回復にも奔走し、天皇の裁可を経て上野への銅像建立を支援している。
 海舟は日本海軍の生みの親ともいうべき人物であり、連合艦隊司令長官の伊東祐亨は海舟の弟子とでもいうべき人物だったが、日清戦争には反対の立場をとった。清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際は、海舟は敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。海舟は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしていた。

 また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(東洋大学)や専修学校(専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。
晩年
 晩年の海舟は赤坂氷川で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて江戸時代の経済制度大綱である吹塵録、や「海軍歴史」、「陸軍歴史」、「開国起源」、「氷川清話」などの執筆・口述・編纂に当たる。ただしその独特な談話、記述を理解できない者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。晩年は子供たちの不幸に悩み続け、義理の孫・精の非行にも見舞われ孤独な生活だった。
 明治32年(1899年)1月19日、風呂上がりにトイレで倒れ、脳溢血により意識不明となり、息を引き取った。海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。享年75。墓は海舟の別邸のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束の別邸は戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。遺言によって墓は、「海舟」と、たった二文字を刻ませたのみ。立派な人生であった。