弥生時代

弥生時代
 紀元前6世紀ごろ
から3世紀までを弥生時代と呼ぶ。弥生時代の特徴は弥生式土器が作られたことであるが、さらには稲作耕作の始まり金属器が使用された。

 弥生の名前の由来であるが、1884(明治17)年3月2日、東京都本郷区向ヶ岡弥生町(東京大学本郷キャンパス)の向ヶ岡貝塚から、今までにない様式の壷が発見され、この土器が発見された地名から「弥生土器」と命名された。やがて弥生文化、弥生時代とその名が広まっていった。弥生といえば3月のことあるが、3月とはまったく関係ない地名によるものである。もし吉原で見つかっていたら吉原土器、吉原時代となっていたのである。

 縄文時代と弥生時代を明確に分けるのは、青春時代と壮年時代を明確に区別出来ないのと同様に無理である。稲作は縄文時代の後期には始まっており、確実にいえるのは弥生土器を使っていたのが弥生時代である。

 縄文時代の終わりから、九州北部から本州へと稲作社会緩やかに広まっていった。稲作は農耕集団を生み、農耕の発展とともに農耕集団は大型化し集落が生まれた。人々は台地の上から次第に平地に住まいを移し、農業に励むようになった。さらに農耕集団では指導者と一般農民との間に身分差生じ、一般農民が死ねば共同墓地に葬られるが、指導者は墳丘墓に眠ることになった

 狩りと魚を取る生活から農業中心の生活へ、科学技術の発展はないものの、現代の生活のかたちが出来上がったといえる。しかし食料の蓄えが貧富の差を生み、食料と領土をめぐる争いが頻発するようになった。まず集落同士が争い、集落は次第にまとまり村となり、村同士が争い国となった。紀元前1世紀ごろの日本は100以上の小さな国から出来きていると前漢書に書かれている。

 

稲作の広まり
 紀元前3世紀頃、北九州を中心に新たな文化が生まれた。稲作を行い青銅器や鉄器が普及し弥生土器が使用されたのである。これらを弥生文化と云い、この時代を弥生時代と呼んでいる。
縄文文化は日本列島のほぼ全域に及んだが、弥生文化は東北から九州までにとどまっている。東北は寒冷地だったことや他の食糧が豊富だったこともあり、稲作文化が1世紀ほど遅れている。

 稲作は東北地方まで及んだが、北海道や南西諸島には広まらなかった。これらの地域は稲作に不向きな気候だったからである。その代わりに北海道では狩猟や漁撈などの続縄文文化が、南西諸島では貝類などを採集する貝塚文化が栄えた。
 
稲作の初期は、自然にできた湿地や水たまりに籾をまいて稲を育てる直播農法で、この稲作法を湿田といった。この籾を直播する湿田方式は雑草が生い茂ってしまい、収穫に手間がかかり、湿田は地力が落ち生産性が低下した。このように湿潤地を利用する前期稲作は生産性が低く狩猟・採集も並行して行われていた。

 この湿田生産性を上げるため、苗を育てて水田に植えていく田植え方式が広まり、現在の稲作と同じ乾田となった。苗代でイネを育ててから植える乾田は、雑草が伸びるよりもイネの伸びが早いことから、雑草との競争に勝つため扱いやすかった。稲の品種も改良され生産性が高まった。

 稲作には耕作用の農具として木製の鋤や鍬が用いられ、収穫の際には石庖丁による穂首刈り(稲の実を刈り取ること)が行われた。もみがらを取る脱穀には竪杵(たてぎね)や竪臼が用いられ、収穫された稲を保存するために高床倉庫がつくられた。

 稲作よって人々の生活は木の実の採取から作物生産へ移った。それまでの狩猟や漁撈に頼っていた移動生活から、食糧を計画的に生産できる定住生活へ移っていった。

 米を保存する高床倉庫は風通しがよく、収穫物を乾燥して腐敗を防ぐことができた。倉庫を支える柱に板状のものを取り付けネズミの侵入を防いだ。萱葺屋根(かやぶきやね)を掘立柱で支える伊勢神宮の神明造は、この高床倉庫の外観と似ている。神社建築様式である神明造は高床倉庫から発展したものである。

稲作の渡来

 弥生文化で稲作は重要であるが、稲作は大陸からもたらされた。稲の原産はかつてはインド北部アッサムから雲南高地を経由してもたらされたとされていたが、現在では中国揚子江中流域が原産とされている。ここでいう稲作の原産は、自然の野生の稲ではなく、作物としての稲作のことである。

 稲作は揚子江流域から広まり、山東半島経由、朝鮮北部経由、揚子江下流経由で朝鮮半島南部から日本にもたらされた。しかしどの経由で稲作がもたらされたにしろ、稲は稲作の技術を持った人と一緖に日本にきたことは事実である。縄文末期の日本は気候が不順で食糧不足に悩まされていた。西日本は現在より4~5度気温が低かったとされており、この気温では食糧不足は当然のことで、食料生産技術を持った移民を喜んで受け入れたのであろう。当時の遺跡からは先住民が移住者と争った遺跡は確認されていない。平和理に移民を受け入れたのである。また気温の低下は海面の低下を生じさせ、浅瀬は干上がって水田に適した湿地帯を形成したことも好条件となった。

農具

 時代が進むと農業技術も次第に発達して、農具は初期の木製から、鋤や鍬、刀子、斧などが鉄製の農工具になり、水路の造成や耕地の開拓も進み乾田の開発も広がった。弥生初期の湿田は地下水位が高いため水の補給の必要なかったが、土壌の栄養が少なく生産性が低い欠点があった。そのため稲作は湿田から乾田方式にかわった。

共同作業 

  農業集落は隣の集落と水利をめぐって協力し合えば集落連合が作られ、逆に水利をめぐって隣の集落と争うことにもなった。集落どうしの争いが、集落連合の争い、さらには国どうしの争いになった。

 農耕社会では人口が増加すれば新たな開拓地が必要になり、土地の取り合いによる争いもあった。そのため弥生時代は争いの多い時代で、負ければ勝者に従うしかなかった。弥生時代の遺跡には首のない人骨、骨折した人骨、磨製石剣の刺さった人骨などが多く発掘されている。野蛮人との印象のある縄文人の人骨には、戦いの痕跡はなく、知的な印象のある弥生人の人骨に戦いの痕跡が多い。

 このように稲作中心の農耕社会は、社会のしくみや人々の生活に大きな変化をもたらした。稲作は採集とは違い単独ではできず、田植えや稲刈りは協働作業であった。このためムラの規模が大きくなると、多くの食料を作ることになり、多くの人口を支えるために争いが起きることになる。もちろん自分たちが農作業をするより、他人が作った農作物を奪う方が楽であり、または争いで勝った者が負けた者を奴隷として働かせる方が楽であった。

人々の生活
 縄文時代と弥生時代の違いは、稲作の有無で区切られてはいない。縄文時代は縄文土器を使った時代、弥生文化は弥生土器を使った時代と割り切った方が理にかなっている。

 人々は水田の近くの方が便利なので、それまでの台地から平地に住むようになった。住居も竪穴住居から掘立柱の平地式建物が多くなり、住居が集まった集落の規模も次第に大きくなった。集落が大きくなると、集落全体を外敵から守るために、周囲に深い濠や土塁をめぐらした。このような集落を環濠集落という。
 そもそも農作業は一人で出来るものではなく、共同作業が必要である。効率よく共同作業をやろうとすれば、一定のルールが必要になる。水田の開発や灌漑や治水など、共同作業の規模が大きくなれば、それだけ秩序が重要視され、集落の中でもっとも優秀な者が指導者になる。もちろん抗争があった場合も戦いを指揮する者が出てくる。このように集団には指導者が現れ、死後の墓もそれまでの簡素なものから、指導力に比例して外観・内部ともに巨大化していく。

墓(大型墳丘墓

 弥生時代の一般農民は、集落近くに穴を掘った共同墓地に葬られている。 しかし上下の階級ができると、級者のために木棺墓や箱式石棺が見られるようになる。さらに二つの甕を合わせた甕棺墓が用いられ、権力者は大きな石を配した支石墓などで葬られた。

 縄文時代の屈葬と異なり、弥生時代は身体全体を伸ばした伸展葬が多いのが特徴である。それは前代の死者を忌む気持ちから死後の世界に関心が向けられ,死者をいたみ,死後も生前と同じような生活をさせようとする考えに至ったせいとされている。

 有力者の家族墓として、墳丘の周りに溝をめぐらした方形周溝墓が各地でつくられていて、弥生後期には大規模な墳丘墓も出現した。大型の墳丘墓の中には、大量の青銅製の武器や装飾品などの副葬品が見られることが多い。 

弥生時代の信仰

  農耕生活をはじめた弥生時代の人々は、精神生活の面でも農耕に密着した信仰をもつようになった。農民にとって天候はその年の豊凶を左右するので、もっとも大きな関心事で、 太陽・雨・風・河川などに精霊を認めるアニミズムは深まり、それらを神としてまつり、崇め、怒りを和らげて豊作を祈るようになった。人びとの願いは米が多く収穫できること、つまりは豊作である。神に祈り、神を恐れて祭りがおこなわれた。

 自然神への信仰が強くなり、新春や種まき、収穫のときなどに集落の族長を中心に人々が総出で豊饒を祈願したり、感謝する祭礼が行われた。今も各地の神社などに残る祈年祭や新嘗祭は、そのような弥生時代の農耕儀礼に発するものである。豊かな収穫を願い、収穫に感謝する祭りが重んじられた。太陽や月などの自然そのものに霊が宿ると信じ、これらに祈り感謝する祭りが各地で行われた。

 豊作を引き寄せる司祭者がリーダーになり、祭りには青銅器が使われた。銅剣・銅鉾・銅戈には刃がないことから、邪気を払う儀式用である。銅鐸は祭りで音を鳴ら楽器で、祭りで銅鐸を鳴らせば荘厳さを演出できた。銅鐸には農耕を讃えた絵が描かれている。これらの青銅祭器は祭りで使った後は埋めて保管、あるいは地霊用として埋められた。

青銅器と鉄

 弥生時代には、それまでの石器から金属器が使われるようになった。金属器には銅と錫(すず)の合金である青銅器と鉄器があり、世界史的には最初に用いられる金属は青銅器である。青銅は銅に錫を加えて作る合金で、溶解温度が1086度と低いため比較的容易に作られるからである。鉄は溶解温度が1536度でこの温度を出すのが難しい。

 ヨーロッパや朝鮮では、石器時代の次に青銅器時代が来て、次に鉄器時代になる。しかし、日本では青銅器と鉄器は同時に伝来し、鉄器が実用的な道具として広まった。日本では鉄器は実用に使用され、青銅器は祭器や宝器として用いられた。

 青銅器は朝鮮半島から輸入されたが、すぐに国産され、銅鐸や銅矛・銅戈・平形銅剣などは国内でつくられた。国産の青銅器のうち、銅鐸は近畿地方を中心に、銅矛・銅戈は北九州を中心に、平形銅剣は東瀬戸内海を中心に分布しており、青銅器が広まった地方はいずれも文化の先進地域として栄え、祭祀を中心とした連合体が作られていた。

 銅鐸は祭礼用に作られ、青銅製の鐘のようなものである。外側には様々な文様が描かれ、動物や人物、家屋などが描かれていることから、当時の人々の風俗を知る上で非常に貴重な手がかりになっている。もっとも銅鐸がどのような祭礼で使われたかはわかっていない。

 一方、銅矛は青銅製の刺突用武器であるが、日本では次第に鋭利性が無くなっているので祭礼用の道具とされている。銅剣は云うまでもないが青銅製の武器である。

 発掘物の分布によって、瀬戸内海中心の銅剣文化圏と畿内中心の銅鐸文化圏があるされていた。しかし福岡県の遺跡で銅鐸が見つかり、島根県の荒神谷遺跡で銅剣、銅矛、銅鐸がまとめて大量に発見され、最近の研究ではその説は覆っていて、混迷している。

 鉄器は丈夫で硬いことから、人類にとって最も身近な金属として使用され、社会を発展させた。当初、鉄器は農工具として用いられたが、次第に武器として使用され、争いに威力を発揮していく。

 なお青銅器に含まれる鉛を調べると原産地がわかる。日本産の銅が使うようになるのは7世紀以降で、それまでの青銅器は全て大陸の銅を用いている。BC3世紀頃までは朝鮮半島の銅で、その後は中国華北産に代わっている。これはBC108年に漢が朝鮮半島に侵略し、華北の銅を原料として朝鮮半島にもたらしたからである。

弥生土器

 弥生時代の大きな特徴に弥生土器がある。弥生土器と縄文土器との差は、弥生時代の初期にはあまり違いはない。赤焼き軟質の仕上げで、ロクロや窯は用いずに壺、甕、高坏が作られた。しかし後期にな ると日用雑器と特別の器に分離してゆく。これは階級社会となったことから、上流階級のために良いものを作るようになったからで、それ以外は日用雑器としての自給品である。

 弥生土器は、縄文土器に比べて薄く赤褐色を帯びている。良質の粘土を高温で焼いているため堅いものが多い。弥生土器は主として煮炊き用の甕や貯蔵用の壺、食物を盛るための鉢などに用いられた。

 

吉野ヶ里遺跡

 吉野ヶ里遺跡は弥生時代に繁栄した集落遺跡である。紀元前4世紀頃に佐賀県吉野ヶ里丘陵南端に集落が形成され、しだいに大規模な集落へと発展してゆく。まず吉野ヶ里丘陵南端に20ヘクタールの集落ができ、集落の周囲に環濠がつくられる。中期になると環濠は吉野ヶ里の丘陵地帯を一周し、年代とともに防御が厳重になる。望楼(物見櫓)を備えた環壕によって囲まれた特別な空間となる。後期になると広さは倍増し、環壕はさらに拡大し、二重になり建物も巨大化する。

 一般の集落に加え、墳祭殿とされる大型建物も造られ、大型建物は司祭者の居住や祭祀の場とされている。高階層の居住区や大規模な高床倉庫群もあり、多数の掘立柱建物跡はその規模や構造から「市」の可能性も指摘されている。

 墳丘墓や甕棺がつくられ、成人用の甕棺墓が多数あるが、首長層を埋葬したとされる大規模な墳丘墓(南北約46m、東西約27mの長方形で、高さは4.5m以上)があり、銅剣やガラス製管玉、絹布片などが出土している。これらは階層社会と首長の権力を示している。頂上から墓壙を掘って甕棺を埋葬しているが、この様式は本州の他の地域では見られない。

 吉野ヶ里丘陵には東西を流れる城原川と田手川があり、筑後川の河口の港とつながり交流を持っていたとされている。

 古墳時代になると、吉野ヶ里遺跡の濠には大量の土器が捨てられ、濠は埋められてしまう。集落は消滅し、高地集落も消滅する。これは戦乱の世が終わり、濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要がなくなったからである。古墳時代後期には吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵は墓地として残され、農民は低湿地を水田に開拓して、生活の基盤を平地に置くようになる。このように弥生時代の流れを読み取ることができる。