世阿弥

 能は日本を代表する伝統芸術であるが、もともとは庶民の娯楽である猿楽(さるがく)が元で、猿楽を能という芸術に高めたのが世阿弥(ぜあみ)である。世阿弥の活躍で北山文化は、より一層華やかな発展を遂げた。世阿弥は能の役者であり能の大成者で、現在も高い評価を得ているが、明治16年に世阿弥の書「十六部集」が発見されるまでは、長い間一般人のみならず、能楽師の間でも世阿弥は忘れられていた。

 父・観阿弥が築いた物真似重視の猿楽能を、子の世阿弥は美しい歌舞を中心に置き、深い精神性をたたえた幽玄美を表現し、後継者を育て現代に続く流派の「観世流」を確立させた。世阿弥は稽古そのものが人生というほどの能役者であり、50作以上の演目を作った劇作家で、多くの理論書で美を熱弁を語る思想家である。世阿弥にとって、物真似は役に成り切る忠実な絵画であり、幽玄は心に感じた情緒を描く絵画の色彩となった。

 世阿弥が書き残した珠玉の言葉には「自らの芸と人の世」を時を超えた鋭い洞察で述べ、我々の心を打ち、社会を生き抜く知恵を授けてくれる。和歌を詠むように響く言葉、心に染み入る楽曲は、時代を超えて人々の胸を打つ詩劇になっている。世阿弥は日本の演劇史上最も重要な人物である。

 

能の世界
 奈良・平安時代から「庶民の間での歌舞や神への奉納の舞」があり、室町前期に禅宗や水墨画などの影響を受け、民間芸能として幕府に保護を受け洗練されていった。民間芸能には能猿楽と田楽があり、興福寺が取り行った大和猿楽四座のうち、観世座観阿弥(かんあみ)・世阿弥の親子は足利義満の寵愛を受け、猿楽から発展した能を大成させ、能の流派「観世流」を芸術の世界まで高めた。

 能猿楽は室町時代から続いていたが、猿真似の印象が嫌われ、明治時代から能楽と呼び名を変え、日本を代表する古典芸能となっている。

 能楽の特徴はその単純さにある。舞台は歌舞伎や演劇とは異なり、大がかりな舞台や小道具などは置ず、舞台と客席とは幕で遮断されず、開かれた空間になっている。能楽とは日本の伝統芸能で能と狂言とを合わせた総称で、狂言とは能の間の短い寸劇で、この二つを合わせて能楽と言う。

 世阿弥は「風姿花伝」などの演芸理論をシェークスピアが登場する200年近くも前に書き上げ、後世に大きな影響を残している。

 

世阿弥
 1363年、世阿弥は猿楽師である父・観阿弥の長男として伊賀国(三重県名張市)で生まれている。本名は元清で幼名を鬼夜叉である。世阿弥は父・観阿弥から英才教育を受け猿楽能(物真似中心の芝居)を学んだ。

 能楽は大和の興福寺が取り仕切る四座があり、世阿弥は父・観阿弥がひきいる観世流(かんぜりゅう)は興福寺の庇護を受けていた。1374年、京都へ進出し醍醐寺の7日間興行を行い、その名をとどろかせた。世阿弥は9歳から醍醐寺の公演に参加している。

 父・観阿弥と共に獅子を舞い、観阿弥の演技が素晴らしいだけでなく、父と共演した美少年の世阿弥の愛らしさに人々は虜になり、観阿弥親子は一躍人気役者になった。

 1375年、観世座の噂を聞いた当時17歳の3代将軍足利義満は、京都・今熊野で初めて猿楽能を鑑賞した。足利義満は12歳の世阿弥の愛らしさの虜になり、義満は観世座の熱心な後援者となった。義満が世阿弥を気にいったのは、優れた演技はもちろんのこと、世阿弥が美少年過ぎたからである。

 世阿弥は義満の寵童としてそば近くに召し使えるようになった。当時、芸術のためには将軍や公家などの庇護が必要で、将軍家の眼に止まったことは、観阿弥・世阿弥親子にとってはまたとないチャンスになった。

 

義満の寵愛

 義満の世阿弥に対する寵愛ぶりは相当なのもので「寵童」となった、寵童とは男色のことで「当時は男色は珍しいことではなく、現代のような不健康なものではなかった。性的倒錯というよりは主従・師弟間の愛情の煮詰まった形で、初々しい少年に女性的な美しさを求めるというよりは、若さと美の象徴として男性に理想を求めたものである。
 しかし世阿弥は将軍の寵愛におぼれるような人物ではなく、好奇心に富んだ利発な少年だった。書物の中でも将軍への恩義は示しても、格別それを誇る様子はなく、無論甘えた根性などは見受けられない。しかし3年後の祇園祭では、山鉾を見物する義満のすぐ背後に世阿弥が控えており、義満の側近たちは世阿弥に嫉妬し、内大臣の日記には「乞食がやる猿楽師の子どもを可愛がる将軍の気が知れない」と書いている。

 当時の猿楽師の身分は低く、内大臣がこのような日記を書いたのも納得がゆくが、世阿弥の名声は一気に高まり、武士や貴族だけでなく、天皇まで世阿弥の芸に夢中になった。

 またこの頃に文化人としてあらゆる教養を身に付けてゆく。当時の最高の文化人であった二条良基も世阿弥を贔屓にし「古今集」などの古典や連歌の知識を授けた。

 1384年、世阿弥が20歳を少し過ぎた頃、父・観阿弥が旅興行先の駿河で急死し、世阿弥は悲しみの中で観世流の2代目を継ぐことになる。以後、世阿弥は名実ともに観世座のリーダーとなり演出・主演を兼ねる役者として一座を束ねた。演目でも父の旧作を補綴し、編曲し、数々の新作も手がけた。世阿弥は観阿弥の後を受けて能を飛躍的に高め、今日にまで続く基礎を作った。
 世阿弥はその後もひたすら稽古を重ねて芸を磨いてゆくが、父と同世代の近江猿楽・犬王(道阿弥)から刺激をうけた。観世座の能は大衆向けの演劇色の濃い物真似中心の「面白き能」であったが、犬王の能は優雅で美しい歌舞中心の「幽玄の能」だった。

 将軍・義満に愛された世阿弥だったが、年月を経るにつれふたりの関係も変わり、将軍・義満は世阿弥のライバルである能役者・犬王を寵愛するようになり「猿楽の第一人者は道阿弥(犬王)である」とした。義満は情緒があり格調の高い犬王を世阿弥以上に寵遇するようになる。

 犬王は天女の舞を創始するなど舞の名人で、世阿弥も素直に犬王を絶賛し、世阿弥の能は内面を表現する幽玄能に変化していく。当時の北山文化は伝統的な公家と革新的な武家の文化が混ざり合い、日明貿易による中国大陸の文化、さらに禅宗の影響を受けて、より優雅で味わい深い雰囲気が求められていた。世阿弥は犬王の天女舞を大和猿楽に取り込み、物まねの面白さが中心だった大和猿楽の能を、美しい歌と舞が中心となる能に洗練させた。

 世阿弥は能の台本をも大切にして、世阿弥の時代に能の数は格段に増えている。その中で、人間の心理を深く描き出すことのできる「夢幻能(むげんのう)」という劇形式を完成させたことは大きな業績である。また和歌や連歌の技法をふまえて、詩劇と呼べる文学的情緒にあふれた能の台本を制作する方法も確立した。

 

夢幻能(むげんのう)
 能は現在能と夢幻能に大きく分けられる。生きている人間のみが登場する現在能に対し、霊的な存在が主人公となる夢幻能は、特に能に特徴的である。

 その典型的な構成は、旅の僧などが名所旧跡を訪れると、ある人物があらわれて、その土地にまつわる物語をする。その人物は他人事のように物語をしてから消えるが、実はその物語における重要な存在で、仮に現実の女性や老人などの姿をとっているにすぎないのである。ここでいったん舞台から退場することを「中入(なかいり)」という。その後、待っていると、今度は先ほどの人物が、亡霊、神や草木の精などの霊的な姿を明示しながら登場し舞を舞う。「夢幻能」というのは霊的な存在があらわれたのが旅の僧などの夢の中とされていることによってである。

 

義満の死去

 37歳の時に「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」などの、父の残した教えをまとめた能の理論書・風姿花伝 (ふうしかでん)を書く。しかし世阿弥45歳の時に最大の後援者であった義満が死去し、4代将軍・義持の治世になるが、義持は猿楽能よりも田楽能(豊穣を祈り笛鼓を鳴らす賑やかな歌舞)を好み、名手・増阿弥をひいきにしたのである。増阿弥の持ち味は田楽の賑やかさではなく、尺八を使う「冷えた能」で、尺八の渋い音色は舞を美にした。

 都では増阿弥の公演ばかりになり、世阿弥の出番が減ってしまった。このころから世阿弥の栄光に陰りが見え始める。しかし世阿弥の長所はその柔軟さにあった。世阿弥はこの増阿弥を妬むことなく、花を生み出す幽玄美を悟ると、世阿弥は増阿弥から「冷えたる美」を学び、義持や武士が好む禅風を取り入れた。

 このように世阿弥は危機を乗り越え、芸は生涯にわたって高め続けられた。また能という芸の深さをじっくり考え能楽論を次々と執筆していった。

 

後継者問題

 順風満帆な人生を送る世阿弥を悩ませ続けていたのが後継者問題であった。世阿弥はなかなか子どもができず、後継者として弟・観世四郎の子の音阿弥を養子に迎えた。世阿弥は、この頃から自分の芸の伝承を考え「風姿花伝」の執筆を始めた。風姿花伝は純粋芸術論ではなく、自分の後継者たちが第一人者の地位を保ち続けるために芸を教える、いわばマニュアル本のような存在であった。
 ところが長年子どもができなかった世阿弥夫妻に、長女の一端、長男の元雅、さらに次男・元能の3人の子どもが生まれた。長女の一端の夫である金春禅竹(こんぱるぜんちく)といった後継者に恵まれたが、後継者をめぐり世阿弥は苦悩することになる。1418年に全編が完結した風姿花伝を長男・元雅に相伝した。
 60歳で出家した世阿弥は長男・元雅を第3世観世大夫に指名し、能作書「三道」を次男に、翌年には元雅に能楽論秘伝書「花鏡(かきょう)」を送った。そこには「初心忘るべからず」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」「ただ美しく柔和なる体、これ幽玄の本体なり」などの言葉を刻んだ。この年の醍醐寺清滝宮の猿楽能では2人の息子と世阿弥の弟の子・音阿弥の3人が共演し、後継者に恵まれて穏やかに隠居生活を送った。

 

どん底

 1428年、義持が死去し、6代将軍・足利義教が後継となると、世阿弥の人生はどん底まで沈んでいく。将軍即位の盛大な猿楽公演で演者をつとめたのは、世阿弥ではなく養子の音阿弥であった。足利義教は兄弟の足利義嗣と仲が悪かったので、義嗣に気に入られていた世阿弥を嫌い、音阿見を支援し、世阿弥に露骨な迫害を加え始めた。

 世阿弥66歳、世阿弥と長男・元雅は突然御所への出入りを禁じられ、翌年、義教は元雅から猿楽の主催権を奪い、世阿弥の弟の子・音阿弥に与えたのである。

  こうして音阿弥の時代が到来し、観世座は主流の音阿弥派と、反主流の世阿弥・元雅派に分裂した。こうした事態から希望を失った次男は猿楽師を辞めて出家してしまう。その2年後、長男・元雅は都で仕事がなく、地方巡業に出て伊勢で30代前半の若さで客死してしまう。旅先にて病没した元雅の遺児はまだ幼児で観世家を継げず観世座は崩壊した。

 世阿弥は元雅のことを父・観阿弥を超える逸材だと思っていただけに、元雅の死は耐え難いほど辛いものだった。

 足利義教は世阿弥に後継者がいなくなったことを理由に、音阿弥に観世4世家元を継がせることを強要した。世阿弥は大和で大活躍していた娘婿の金春禅竹(28歳)に4世を譲るつもりでいたのでこれに抵抗すると、突然、将軍に謀反した重罪人として72歳の世阿弥は逮捕され、罪もないのに都から佐渡(新潟)に追放された。「罪なくして配所の月を見る」これは佐渡で読んだ句である。後継者・元雅を失った世阿弥の最後の心のよりどころは、娘婿の28歳の金春禅竹であった。

 晩年の世阿弥は、芸論など自分が作り上げた「思想としての能」を金春禅竹に伝えた。1441年、暴政を行なった義教が守護大名の反乱で暗殺されると、一休和尚の尽力で78歳の世阿弥の配流が解かれ、娘夫婦の元に身を寄せ80歳で最後を遂げた。世阿弥がいつどこで亡くなったのかは全く不明である。

風姿花伝( 秘すれば花なり)

 1400年、世阿弥37歳「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」で有名な能楽書の古典「風姿花伝」を書き始める。これは「花は秘密にすることで花になる。秘密にしなければ花にはならない」。この言葉は「秘伝は秘密にしているから秘伝であり、すべての芸術は観客がそれがどうゆうものかを知らせないからこそ、つねに新鮮な感動を与える」という意味である。

 誰も知らない自分の芸の秘密、いわゆる秘伝を持つことを世阿弥は求めた。これをいたずらに使うことは控え、いざという時の技とすれば、相手を圧倒することができるというので、現代でも、自分の可能性を広げるための準備として秘する花を持てば、いざという時に世界が広がる可能性があるのである。

 秘するどころか、何ごともあらわにする現代、刺激のみ追い求め、待つ時間のないインスタントの現代。能は表現を惜しみ、隠すことによってより美しいものを伝えようとするのが能である。現代の若い世代や海外の熱い目は「あらわす文化」で、これとは反対の、ねかしておく時間の大事さを表している。この風姿花伝は芸術の精神を論じた書であり人生にも通じる内容である。このような書は世界にも例がない。

 芸は若い頃から始めるのがよく、12歳前後では声もよくなり舞う姿もよくなる。しかし「この花は誠の花にあらず、ただ時分の花なり」と述べている。誠の花とは稽古によって身につくもので、時分の花とは若さによるものと言っているのである。しかも50歳をすぎて老いが見えても花は残るとしている。つまり稽古で身につけた芸は残るということである。

 能役者が観客に与える感動の根源は「花」であるが、花は「咲いて散る」から見るものに感動をもたらすのである。「花」は能の命であるが、これをどう咲かすべきか、「花」を知ることは能の奥義を極めることである。
 桜や梅が一年中咲いていれば、誰も心を動かさない。花は一年中咲かず、咲くべき時を知って咲いている。能の役者も時と場を心得て、観客が最も「花」を求めている時に咲かせなければならない。花は散り、花は咲き、常に変化している。十八番の役ばかり演じるのではなく、変化していく姿を「花」として感じさせねばならない。

 「花」が咲くには種が必要で、花は心、種は態(わざ)であり、観客がどんな「花」を好むのか、人の好みは様々だから能役者は稽古を積み技を磨いて何種類もの種を持ったなければならない。牡丹、朝顔、桔梗、椿、全ての四季の「花」の種を心に持ち、時分にあった種を取り出し咲かせることである。

 

世阿弥の言葉

 世阿弥が残した「風姿花伝」を始めとする多くの著作は、演劇や芸術についての考えが述べられている。世阿弥のことばの深さはそれだけではなく、「観世座」という劇団のオーナー兼プロデューサーでもあった世阿弥は、劇団の存続のためにはどうしたらいいかを考え抜いた。それは役者の修行方法から始まり、いかにライバル劇団に勝ち、観客の興味をひくにはどうすべきかなど、後継者に託す具体的なアドバイスを記したものが、彼の伝書です。いわば芸術のための芸術論というよりは、生存競争の厳しい芸能社会を勝ち抜くための戦術書ともいえるものである。
世阿弥は、観客との関係、人気との関係、組織との関係など、すべては「関係的」であり、変化してやまないものと考え、その中でどのように己の芸を全うするか、ということを中心に説いています。「能」を「ビジネス」、「観客」を「マーケット」、「人気」を「評価」として読めば、彼のことばは、競争社会を生きるビジネスパーソンへの提言とも読めるのです。世阿弥の珠玉のことばの中から、代表的なものをご紹介する。

 

 世阿弥の奥義

初心不可忘
  誰でも耳にしたことがある「初心忘るべからず」という言葉は、現在では「初めのころの感動や純粋な気持ちを忘れずに、ひたすら物事に取り組め」との意味で使われているが、世阿弥が意味とすることとは違っている。「初心忘るべからず」という言葉は世阿弥が「花鏡」の中で述べている言葉で、ひとつの初心が乗り越えた時、それは新しい時点での初心になるという意味で、つまり毎日は新しい初心の連続であり、最後に老後の至難な初心が待っている。果てしない初心の積み重ねこそが、無限の芸の可能性につながるということである。稽古は初心の未熟な芸であり、それを常に高めと言うことである。

 世阿弥にとっての「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法、すなわち、試練を乗り越えていく考え方を意味している。つまり「初心を忘れるな」とは人生の試練の時にその試練をどう乗り越えるのかということである。世阿弥は晩年60歳を過ぎた頃に書かれた「花鏡」の中で、「第一に「ぜひ初心忘るべからず」、第二に「時々の初心忘るべからず」。第三に」老後の初心忘るべからず」の3つの「初心」について語っている。

 第一の「ぜひ初心忘るべからず」とは若い時に失敗や苦労した結果身につけた芸は、常に忘れてはならない。それは、後々の成功の糧になる。若い頃の初心を忘れては、能を上達していく過程を自然に身に付けることが出来ず、先々上達することはとうてい無理というものだ。だから、生涯、初心を忘れてはならない。
  第二の「時々の初心忘るべからず」とは歳とともに、その時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」という。若い頃から、最盛期を経て、老年に至るまで、その時々にあった演じ方をすることが大切だ。その時々の演技をその場限りで忘れてしまっては、次に演ずる時に、身についたものは何も残らない。過去に演じた一つひとつの風体を、全部身につけておけば、年月を経れば、全てに味がでるものだ。
  第三の「老後の初心忘るべからず」とは、老齢期には老齢期にあった芸風を身につけることが「老後の初心」である。老後になっても、初めて遭遇し、対応しなければならない試練がある。歳をとったからといって「もういい」ということではなく、其の都度、初めて習うことを乗り越えなければならないということである。
 このように「初心忘るべからず」とは、それまで経験したことがないことに対して、自分の未熟さを受け入れながら、その新しい事態に挑戦していく心構え、その姿を言っている。その姿を忘れなければ、中年になっても、老年になっても、新しい試練に向かっていくことができる。失敗を知りそれを正せということである。
 今の社会でも、さまざまな人生のステージ(段階)で、未体験のことへ踏み込んでいくことが求められる。世阿弥によれば、「老いる」こと自体もまた、未経験なことなのである。そういう時こそが「初心」に立つ時で、それは不安と恐れではなく、人生へのチャレンジなのである。
 初心忘るべからずとは、初心とは良いものではない。修行を始めて数年たった時は、何をしても花があると誉められる。しかしこれは「真の花」ではない。若さが醸し出す美しさが、欠点を見えなくしている「時分の花」に過ぎない。「真の花」になるには、最初の時の芸の未熟さをよく覚えておいて、初心の頃の欠点を自覚して将来の芸の上達に役立て精進ということである。「初めたころ、修行の各段階ごと、老後の芸の未熟さ」つまり「未熟な時の経験や失敗、その時の屈辱感を忘れないように常に自らを戒めれば、上達しようとする姿を保ち続けることができる」ということである。

男時・女時

 世阿弥の時代には「立合」という形式で、能の競い合いが行われた。立合とは何人かの役者が同じ日の同じ舞台で能を上演し、その勝負を競うことで、この勝負に負ければ評価は下がる。この立合いは自身の芸を賭けた大事な勝負の場であった。しかし、勝負の時には勢いの波がある。世阿弥はこちらに勢いがある時を「男時」(おどき)、相手に勢いがあると思える時を「女時」(めどき)と呼んでいる。
 世阿弥は「ライバルの勢いが強くて押されていると思う時には、小さな勝負ではあまり力をいれず、そんなところでは負を気にすることなく大きな勝負に備えよ」と言っている。女時の時に勝ちにいっても勝つことはできない。そんな時は、むしろ「男時」がくるのを待ち、そこで勝ちにいけというのである。世阿弥はこの「男時・女時」の時流は、避けることのできない宿命と捉えており、信じていれば必ずいいことがあると説いている。

時節感当(じせつかんとう)
 これは世阿弥の造語で「時節」とは能役者が楽屋から舞台に向かい橋掛かりに出る瞬間を言う。幕役者が見え観客が役者の声を待ち受けている、その心の高まりをうまく見計らって、絶妙のタイミングで声を出すことを「時節感当」と言ったのである。
  これはタイミングをつかむことの重要性を語ったもので、どんなに正しいことを言ってもタイミングをはずせば人には受け入れられない。商談などの交渉事や、案件を上司に図る時など、「タイミングを逸して失敗した」といった経験は誰にでもあるもので、タイミングが人の心の動きのことだとすれば、逸したのは人の心をつかんでいなかったからである。「万人の目を主役に引きつけることが何よりも大事だ。その「時節」に当たることが必要なのである。つまり正しいだけではだめで、その正しさを人々に受け入れてもらうタイミングをつかむことが必要なのである。

衆人愛敬
「衆人愛敬」とは、大衆に愛されることが一座の中心であるという意味である。どんなに上手な能役者であっても、大衆に愛されることのない者は、決して一座を盛り立てていくことはできないという意味である。
  当時、能は「貴所」といって貴族や武家の前で行うものでしたが、彼らに受け入れられているだけではいけないと世阿弥は考えた。貴族の前であろうと、山寺であろうと、田舎でも遠国でも、あるいは、神社のお祭りの時であろうと、どこでも喝采をうけるような演者でなければ、一座の中心として盛り上げる能の達人とはいえない。
  どんなところでも、演じるたびに人々に拍手喝采をうける。何が求められているのか、その場その場の雰囲気を読み取り、自分をそれに合わせて能を舞う。このような直感的能力がなければ、人気を保つことはできないと世阿弥は言っている。
  世阿弥が「衆人愛敬」と言ったもうひとつの理由は、自分の人気が失せた時の対策であった。どんなに都でもてはやされていても、自分ではどうしようもないめぐり合わせで忍耐を強いられることもある。そんな時には、田舎や遠国での人気が支えとなり、自分の芸が絶たれてしまうことはない。自分を支持してくれる大衆さえいれば、都の評判如何に関わらず、なんとかやっていける。自分の場が失われさえしなければ、挽回のはある。

離見の見(りけんのけん)
  自分の姿を左右前後からよく見なければならない。これが「離見の見」である。これは「見所同見」とも言われて、見所は観客席のことで、客席から見ている観客の目で自分をみなさい、ということである。実際には自分の姿を自分で見ることはできないが、客観的に自分の行動を批判してくれる人を持つなど、ひとりよがりになることを避けるように心掛けなければいけない。
  ではどうやって自分を第三者的に見ればいいのか。世阿弥は「目前心後(もくぜんしんご)」ということばを用いている。「眼は前を見ていても、心は後ろにおいておけ」ということで、自分を客観的に外から見る努力が必要だといっている。これは、単に演劇の世界に限ったことではない。後姿を見ていないと、その見えない後姿に卑しさがでていることに気付かないと言っている。
  歳を重ねれば重ねるほど:地位が上に行けば行くほど前を見ることが要求され、自分の後姿を見ることを忘れてしまうが、自分が卑しくならないためには、自分を突き放して見ることが必要で、全体の中で自分を客観的に見ることは、いつの世でも難しいが、しかし必要とされている。

家、家にあらず。継ぐをもて家とす
  家は代々続いているだけでは家を継いだとはいえない。その家が守るべきものを知る人こそが、その家の人と言える。その家の芸を継承してこそ、家を継いだといえる。世阿弥は「たとえ自分の子であっても、その子に才能がなければ、芸の秘伝を教えてはならない」としている。激しい競争社会の中で「家の芸」を存続させるには厳しい姿勢が必要で、さまざまな分野で「二世」が闊歩する今日では、この世阿弥の言葉をもう一度噛み締める必要がある。
稽古は強かれ、情識はなかれ
  「情識」とは傲慢とか慢心といった意味で、「稽古も舞台も、厳しい態度でつとめ、決して傲慢になってはいけない」という意味である。世阿弥は残した著作の中で繰り返しこの言葉を使っている。
「芸能の魅力は、肉体的な若さにあり、一時のもの」という社会通念を覆したのが世阿弥の考えで、それは、芸能とは人生をかけて完成するも」とする芸術思想がある。
「老骨に残りし花」は、老いて頂上を極めても、それは決して到達点ではなく、常に謙虚な気持ちで、さらに上を目指して稽古することが必要だと世阿弥は何度も語っている。慢心は人を朽ちさせる。それはどんな時代でも、どこの国にも当てはまることである。

時に用ゆるをもて花と知るべし
  物事の良し悪しは、その時に有用なものを良しとし、無益なものを悪しとする、という意味である。世阿弥はこの世を相対関係で考えていた。ここでは美しさ、魅力、面白さなど様々な概念を総合した意味で「花」という言葉を使っている。
年々去来の花を忘るべからず
  「年々に去り・来る花の原理」とは、幼年時代の初々しさ、一人前を志した頃の技術、熟練した時代の満足感など一段ずつ上ってきた道で自然と身についた技法を全て持つことで、これを忘れてはならない、という意味である。
  ある時は美少年、ある時は壮年の芸というように、多彩な表現を示しながら己の劇を演ずるべきだと世阿弥は説いている。入門時から現在の老成期まで芸人は、その一生を自分の中に貯え、芸として表現しなくてはならない。日々の精進が大切なのである。

住する所なきを、まず花と知るべし
  「住するところなき」とは、「そこに留まり続けることなく」という意味である。停滞することなく、変化することが芸術の中心であると世阿弥は言っている。

よき劫(ごう)の住して、悪き劫になる所を用心すべし
  劫とは「功績」の意味で「良いとされてきたことに安住すると、それがむしろ悪い結果になってしまう。このことに用心せよ」ということである。世阿弥は世間の変化の中で、その変化と関わりあっていくのが人間であり芸術とした。その変化の中で変化することを恐れない精神を世阿弥は求めたのである。