太原雪斎

 太原雪斎(たいげんせっさい)は今川義元の軍師として有名で、今川家の合戦では家臣として軍勢を率いた。今川家にとっては政治・外交・合戦を今川義元に代わって差配していた重要な武将である。
 1496年に生まれた太原雪斎は父は庵原城主・庵原政盛で、母は水軍も率いた横山城主・興津正信の娘で、両家とも今川家の譜代の家臣と言う環境で育つ。
 家系は代々が今川氏譜代の家系であるが、嫡子ではなかったため、父の死を契機に仏門に入ったとされている。14歳の時に剃髪して駿河の善得寺に入り、その後、京都五山の建仁寺護国院にて18年修行を続けた。

 今川氏親は兄・今川氏輝に家督を継がせる予定であった。そのため1525年に僅か6歳で方菊丸(今川義元)は仏門に出され善得寺に預けられた。今川氏親は太原雪斎の秀才ぶりを聞いており、方菊丸(今川義元)の教育係を三顧の礼をもって頼み、太原雪斎は方菊丸の教育係を引き受け駿河へと戻った。雪斎は1496年生まれで、義元(方菊丸)は1519年生まれなので、23年の年の差があった。太原雪斎は芳菊丸に兵法も教えた。やがて太原雪斎と芳菊丸は2人で京都に赴くと、五山にて学んだ他、公家などとの交流も広めた。

 

今川義元の家督継承・花蔵の乱
 父・今川氏親が死ぬと、兄の今川氏輝・弟の今川彦五郎が同日に亡くなった。兄の今川氏輝は病弱だったと言われているが急死するような状況ではなかった。2人の突然死は毒殺説や自殺説などがある。

 当時、氏輝が病弱だったこともあり、弟の彦五郎が氏輝の後継とされていた。この両名が同日に亡くなった事で、家督を継ぐ機会が訪れた人物は今川義元であった。しかし僧侶である義元には今川の家督相続を考えていた節はない。家督相続のゴタゴタを防ぐ目的で嫡子ではない義元を寺へ入れていたからである。
 今川義元にとって兄弟の死は青天の霹靂だった。この事件を起こしたのは兄・玄広恵探であった。しかし玄広恵探は側室の子だった。戦国大名には正妻と側室がおり、正妻が生んだ子どもが優遇された、今川義元の母は今川氏輝・彦五郎と同じ母で寿桂尼で京の公家中御門氏の娘であった。
 玄広恵探の母は家臣の福島(くしま)氏の娘であり、これでは玄広恵探には家督を継ぐことはできないが、今川氏輝・彦五郎がいなくなったなら、玄広恵探に家督が転がり込む可能性があった。そこにかけたのである。
 今川義元が家督を継ぐことになったのは、太原雪斎が還俗させたからである。また家督相続が行われる際、後継者が決まっていない場合、当時、まだ守護大名と戦国大名の明確な区分はなかったので、大名は室町幕府に裁定を求めたのだった。室町幕府は普段は軽んじているが、いざ問題が起きた場合には利用されていたのである。雪斎と義元は駿河の善得寺で修行していたが、3年前に京の建仁寺にで修行をしていた。この間に培った人脈で、家督相続の許可が得られたのである。
 天文5年3月17日に氏輝、彦五郎は亡くなり、室町幕府から家督相続の許しが出るのは、5月3日なので約2ヶ月弱で家督相続の許可を得たことになる。もちろん玄広恵探側は屈せず家督相続に名乗りを挙げ下克上の空気が充満していた。そこで起きたのが花蔵の乱である。花蔵の乱で雪斎はすぐに多数派工作を行い、玄広恵探らを孤立させると花倉城に総攻撃を行った。玄広恵探は花倉城から逃れると自刃し、今川義元が晴れて今川氏の当主となった。父や兄を速くに亡くした義元にとって、雪斎はその代わりとなる存在だった事は想像に難くない。今川義元は今川館の近くに臨済寺を創建して、太原雪斎を住職に据えると政治・外交・軍事分野とあらゆる面での最高顧問(軍師)として重用した。

 

甲相駿3国同盟
 当時、今川義元は駿河・遠江の2カ国を手中にして三河を目指していた。武田信玄は甲斐を治め信濃の大半を治めていた。北条氏康は関東地方を治めつつあった。

 今川氏・武田氏・北条氏の領国は隣接しており、3者による争いが度々起こっていた。

 太原雪斎は甲斐・武田信虎との関係改善に務め、武田信虎の長女・定恵院を今川義元の正室に迎えた。それだけでなく武田信虎の子・武田晴信(武田信玄)に対して、京の三条公頼の娘で今川家の輿入れにも尽力して甲駿同盟を成立させた。

 しかしこれらに反発した相模の北条氏と今川氏は敵対関係にあった。北条氏綱は駿河東部に侵攻したため、今川家は領地の4分の1を失っている。そのため、1545年には関東管領・山内上杉憲政を誘い武田晴信と共同して駿河東を取り戻した。このような状況では3者ともに背後を気にして領国拡大できなかった。

 武田信玄は父の武田信虎をクーデターによって追放し、今川氏に引き取らせていた。当時の武田氏は信虎によって甲斐を何とかまとめていたが、信虎を追放し、武田信玄(武田晴信)が当主になったのは家臣たちによるものであった。武田信玄は飾り物の当主から領国を拡げて家臣から認められるようになったのである。武田信玄は甲斐を1国治め、信濃にも領土を拡大させてはたが、今川氏と北条氏との力の差は歴然としていた。もし2者のうちどちらかが1方を飲み込んでしまったら武田氏はすぐさま飲み込まれたであろう。

 この三国同盟は武田氏が求めていたのであった。武田氏側が今川氏・北条氏との争いに仲介者として関わり一気に3国同盟までもっていこうとした。武田氏家臣・駒井高白斎を通じて、今川氏・北条氏の間を往来し、今川氏側からは太原雪斎が、北条氏側からは北条幻庵が関わっている。雪斎を含めた3者でのやり取りをして、今川氏・武田氏・北条氏の3者が相互に自分の娘を輿入れさせることで決着がついた。

 今川義元の嫡子・今川氏真に北条氏康の娘・早川殿が嫁いで、1554年3月に三国同盟を締結した。

 今川家は駿河・遠江・三河の3カ国69万石となり、後顧の憂いをなくし「街道一の弓取り」とまでうたわれた今川義元は尾張攻略に全力を注ぐことになった。織田信秀が亡くなり若い織田信長の尾張への進出を目論み、織田家の家臣への調略を開始した。
 その後も、雪斎は義元を軍事、政治の両面で支え続けます。甲斐の武田家との和睦や北条家、織田家との戦いは勿論、今川家の分国法、今川仮名目録の制定にも雪斎は関わっていました。

 

桶狭間での今川義元敗死
 桶狭間の戦いは歴史的に有名な合戦ですが、そこには太原雪斎が関わっていない。雪斎は1555年に駿河の長慶寺にて享年60で死去していた。その5年後に織田信長の攻略の為、今川義元は25000の大軍で攻撃を開始すた。

 それまで雪斎は政治・外交・合戦の全てに関わっていた。しかし雪斎の死によって、義元が政治・外交・合戦を行うことになるが、雪斎のように適切な対処法ではなかった。表面的には政治・外交・合戦をこなしていたが肝心の補佐役がいなかったからである。雪斎が存命だったなら、桶狭間の戦いは雪斎が出陣し義元敗死はなかったどろう。

 徳川家康は「今川家は雪斎1人で持っていて、他の家臣の存在感が薄い。だから雪斎が死んだ後は政治が乱れてしまった」と述べている。徳川家康は幼少期に人質として雪斎から学問を教えてもらっていた。