軍師

 軍師とは学問的な秀才が、現場のたたき上げの人間達に勝つという中国的世界観で書かれた人物像である。軍司令官や君主ではなく、その助言者として描かれ、諸葛孔明の影響が大きい。敵に対する策謀は狡猾だが、軍師自身は無欲で忠実な人物に書かれることが多い。軍師は江戸時代の講談を書く際に、三国志演義や水滸伝などの小説をモデルとしたために日本でも広まった。そのため竹中半兵衛(豊臣秀吉の軍師)、山本勘助(武田信玄の軍師)、黒田官兵衛(豊臣秀吉の軍師)などの逸話は必ずしも事実ではなく創作された部分が大きい。

 

竹中半兵衛
 
竹中半兵衛は美濃斎藤氏の家臣で美濃国大御堂城(岐阜県大野町)の城主・竹中重元の子として生まれる。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で父の死去により、美濃国の国主・斎藤義龍に仕え、義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕える。

 戦国の下剋上の世において、出世欲のない寡黙な人物であった。竹中半兵衛は自分の兵法を用いることに生きがいを感じ、あえて主張しない性格から、竹中半兵衛を知らない他の武将からの評価は低かった。出陣するときも静かに馬に乗っているだけだった。容姿は女性のように華奢でだったことから「青ひょうたん」と呼ばれていた。
 半兵衛は秀吉に仕える前、美濃の斎藤家に仕えていた。当時の斎藤家は尾張の織田家に幾度となく攻め込まれており、居城の稲葉山城(後の岐阜城)が堅城だったこともあり領土を守っている状態であった。斎藤道三から数えて3代目の龍興は酒と女に溺れて政務を怠り、家臣の忠誠は離れかけていた。
 そんなある日、半兵衛は人質として稲葉山城にいた半兵衛の弟・久作に仮病を演じさせ、弟の見舞と称して屈強の配下14人と長持に武器が忍ばせ稲葉山城に登城した。夕刻、になり竹中半兵衛は弟の居室で武装を整えるや、家臣とともに宿直部屋を急襲して番士を討ち取り、城を乗っ取ってしまった。突如として稲葉山城を乗っ取ってしまうのである。
 信長が何度も攻めあぐねた稲葉山城をたった16人で占領してしまったのである。これを聞いて信長は、半兵衛に「美濃半国を与えるから稲葉山城を明け渡さないか」と持ちかけるが、半兵衛はこれを一蹴して、半月後には主君の龍興に城を返還する。
 半兵衛の目的は自身の野心から稲葉山城を乗っ取ったのではなく、政務を怠る主君をいさめるためだった。その後、22歳の半兵衛は謀叛の罪の責任を取るとして伊吹山の麓に
隠居したのである。戦国時代において清廉潔白・無欲恬淡な人物である。
 その後、稲葉山城は信長の手に落ち、斎藤氏は滅んでしまう。
こへ秀吉が何度も足を運び、織田家に仕えてほしいと懇望して秀吉の家来になった。秀吉の客将(配下ではないお客さん武将)としてならと条件に応じたとされている。信長の直下に仕えることを拒んで客将として仕えることになったが、実質的には織田家の武将となった。

 信長包囲網が敷かれ信長と浅井長政が敵対関係になると、半兵衛は浅井家臣団との人脈を利用して調略活動で活躍した。浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせている。直後の姉川の戦いにも安藤守就の部隊に参加した。この合戦の後に信長の命で横山城に秀吉とともに残し置かれ、この頃から信長直臣から秀吉の与力へと転じたと推測される。

 長篠の戦いでは、武田勢の一部が向かって左側に移動した。秀吉は回りこまれるのではないかと焦ったが、重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動と進言した。秀吉は重治に従わず迎撃のため兵を動かしたが、重治は反対し手勢と共に持ち場を離れなかった。まもなく武田勢は元の位置に戻って秀吉が不在の地点に攻めてきた。重治が守っている間に秀吉もあわてて帰還し、重治が正しかったことが証明された。

 半兵衛の得意とするところは説得による制圧であった、敵味方お互いの犠牲を最小限に抑えることに重きを置いた。この方法は以後秀吉に受け継がれるが、信長は反抗勢力に対しては徹底殲滅策を取る。この辺りの違いからも、信長とは折り合いがつかなかったのではと想像できる。

 竹中半兵衛は持病の労咳(結核)を押して三木城包囲しし兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させている。この無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも通じている。秀吉は半兵衛を京で養生するように戒めたが、半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断っている。

 信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、黒田官兵衛は敵側に寝返った荒木村重の有岡城へ単身で説得に乗り込んだが、説得できなかった官兵衛は、荒木村重によって土牢に幽閉される。この官兵衛の投獄は、信長秀吉にすら把握しておらず、官兵衛との連絡が途絶えた織田信長は寝返ったと思い込み、「人質の松寿丸(黒田長政)を殺せ」と秀吉に命じる。官兵衛のことを信じていた竹中半兵衛は信長の命に背き、全責任を持ち、信長の首実検に際し、偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、密かに松寿丸を自分の領地に引き取り、家臣の不破足矢の屋敷に匿った。(上:竹中半兵衛、禅幢寺所蔵

官兵衛が幽閉されて1年後、有岡城は織田軍によって陥落し、土牢から官兵衛が発見さる。官兵衛の無実が証明されたが、信長は人質の松寿丸を殺してしまったことを悔やむことになる。しかし後に竹中半兵衛によって匿われていたことを知り胸をなでおろします。
官兵衛もまたこの件を聞いて半兵衛に大変感謝をし、お礼を言うため半兵衛の元へ訪れようとするが、それは叶わぬものとなっていた。竹中半兵衛は黒田官兵衛が幽閉されてる間、三木陣中にて没していた。

(上:竹中半兵衛が眠る岐阜県垂井町の禅幢寺の墓)

黒田官兵衛 
 黒田官兵衛は播磨国(兵庫県)の出身で、西播磨に勢力を置く小寺氏に仕えていた。居城は世界遺産で有名な姫路城である。官兵衛が秀吉の家臣になる前の播磨国は西に毛利氏、東に織田氏が勢力を競っており、
小寺氏は東西を大国に挟まれた微妙な位置(緩衝地帯)にあった。まだ国内は統一されず、播磨の小豪族は毛利と織田のどちらに付くか日々顔色を窺っている状態であった。

 当時の播磨は毛利氏の影響が強く、主君の小寺氏や重臣達は毛利氏に付くことを考えていたが、まだ若い官兵衛は「将来性のある織田氏に付くべきだ」と他の重臣達を説き伏せた。
 中国地方の攻略を任された羽柴秀吉の軍勢が播磨に入り、官兵衛が居城している姫路城を中国攻略の拠点にするべきだと進言して姫路城を秀吉に明け渡した。その後は竹中半兵衛と一緒に秀吉の指揮下で才能を発揮してゆく。
 黒田官兵衛が秀吉から警戒されるきっかけになったのは、1582年に本能寺の変が起こり信長が横死したときのことである。天下統一目前まで来ていた織田軍団は大混乱に陥り、備中(岡山県)の地において秀吉もまた絶望に打ちひしがれていた。
「織田軍は各地に散らばってしまっている。今、ただちに大軍を動かせられるのは我が軍のみ。畿内の明智光秀を討てば」秀吉の天下取りへの野望が芽生えることになる。だがそのような態度を周囲に見せてはいけないので、秀吉は大号泣し自暴自棄の芝居をする。ところがその演出を壊すかのように官兵衛が耳元で、
「殿、これで天下取りへの道が開けましたな」と漏らしてしまった。秀吉はその言葉を聞いて、まだ誰にも気付かれていない秀吉の心中を見透かすようであった。官兵衛は悪意を持って言ったわけではなが、秀吉に官兵衛の末恐ろしさを植え付け、以後秀吉が死ぬまで警戒するきっかけになった。
 秀吉が「自分の死後天下を取るのは誰か」と近習に質問したところ、前田利家や蒲生氏郷、徳川家康といった名前が出るなか、秀吉は「末恐ろしきは、官兵衛よ」と答えている。
 五大老で250万石もの領土を持ち、後に天下を取る徳川家康をさしおいて、10万石程度の官兵衛の名前を真っ先に挙げたのである。秀吉は官兵衛の才覚を相当に恐れ、わざと低い石高に抑えていた。10万石は官兵衛の活躍にはとても釣り合わない石高であるが、秀吉は「奴に100万石も与えてみろ。たちどころに天下を取られてしまう」と述べている。
 これを聞いて官兵衛は家督を息子の長政に譲り、水のごとくしなやかな意味で自身を「如水」と称して隠居する。時の権力者に目を付けられ、
敵意の無いことを強調したのである。
 1600年、秀吉の死後、天下をめぐって日本が東西まっ二つに分かれて争う関ヶ原の戦いが勃発する。毛利輝元を擁する西軍と、徳川家康を擁する東軍が覇権を賭けて激突する中、
隠居後に豊前中津(大分県)にて穏やかな余生を過ごしていた黒田官兵衛(如水)であるが、官兵衛は全国を巻き込んだ混乱のなで壮大な構想を立てその野望を再燃させる。

「東西を二分するこの戦いは長期化するだろう。戦力が中央に集中している隙をついて九州を席巻し、その余勢を駆って東西両軍が疲弊した中央政権に攻め込み、黒田の旗を立てる」

 この天下取りの真相は官兵衛にしか分からないが、実際に官兵衛は貯め込んでいた私財を投げ売って民兵を組織し九州の諸城を落としていく。ところが皮肉なことに息子の黒田長政が調略した小早川秀秋の寝返りがあり、関ヶ原の戦いはたった一日で終わってしまう。その後は東軍の家康に戦勝祝いをするとともに、兵をまとめて豊前中津に凱旋帰国しる。黒田官兵衛は表向きは東軍として動いていたので、官兵衛の野望が明るみに出ることはなかった。

 関ヶ原の合戦は竹中半兵衛の領地内で起きており、半兵衛の息子「竹中重門」と官兵衛の息子「黒田長政」は共に東軍として奮戦する。竹中重門は西軍武将の小西行長を捕縛するという手柄を立て、黒田長政もまた小早川秀秋の調略等で福岡52万石を与えられている。
 黒田官兵衛と息子の黒田長政はともに有名である。息子の黒田長政は初代福岡藩主で、福岡民謡「酒は呑め呑め 呑むならば」の黒田節で有名な「黒田」とは、この黒田氏のことである。(上:黒田官兵衛 福岡市美術館蔵)