太原雪斎

 戦国大名と僧侶とは切っても切れない深い関係にある。なかでも禅宗の一派である臨済宗は室町幕府の庇護を受け、その教えが地方に伝播すると大名たちから熱烈な支持を受けた。やがて臨済禅は積極的に政治権力とかかわりを持つようになる。

 太原雪斎(たいげんせっさい)は寺の住職でありながら今川義元の軍師として活躍した。太原雪斎は今川家の合戦では家臣として軍勢を率い、今川義元に代わって差配をしていた重要な人物である。さらに今川家の政治・外交をも任されていた。

 

太原雪斎
 太原雪斎の父は庵原城主の庵原政盛で、母は水軍を率いた横山城主・興津正信の娘で、両家とも今川家の家臣という環境で育った。代々今川氏譜代の家系であるが、太原雪斎は嫡子ではなかったため、父の死を契機に14歳で剃髪して駿河の善得寺に入り、その後、京都五山の建仁寺護国院にて18年修行を続けた。

 駿河の戦国大名・今川氏親は「家臣の庵原佐衛門尉の子が、禅寺で修行を積んでおり、その秀才ぶりは優れている」という話を聞いて、そこでちょうど生まれた五男・方菊丸(のちの今川義元)の養育を依頼するため京都に使者を出した。

 太原雪斎はこの依頼を2度断ったが、再三の要請から駿河に戻ると、芳菊丸(今川義元)を教育することになった。僧侶の役割は多岐にわたるが教育者としての役割もあった。僧侶は仏教だけでなく儒学などにも通じた知識人で、儒学は個々人の道徳的修養と徳治主義的政治を重視し、まさしく帝王学と呼ぶにふさわしい学問で、大名にとって必須の教養であった。

 今川氏親は方菊丸(今川義元)の兄・今川氏輝に家督を継がせるつもりであった。そのため僅か6歳で方菊丸(今川義元)は仏門に出され善得寺に預けられた。雪斎と芳菊丸(今川義元)は23年の年齢差があったが、太原雪斎は芳菊丸に兵法を教え、やがて太原雪斎と芳菊丸は2人で京都に赴くと、五山で学び公家などとも交流を広めた。

 

今川義元の家督継承・花蔵の乱
 1526年、今川氏親が死去したあと、芳菊丸の兄・今川氏輝が家督を継いだ。しかし今川氏輝は14歳で病弱でもあり、母の寿桂尼が後見人となり補佐役となった。
 小田原城の北条氏綱とは同盟関係であり、今川氏輝は甲斐の武田信虎と敵対していたが、1536年に今川氏輝が24歳の若さで急死する。また同日に、今川氏輝の次弟・今川彦五郎も死去しており、2人の突然死は毒殺説や自殺説などが噂された。兄の今川氏輝は病弱だったが、弟と同日に急死するような状況ではなかった。いずれにせよ今川氏輝に子がおらず後継者争いである花倉の乱が勃発する。
 この事件を起こしたのは兄・玄広恵探であった。戦国大名には正妻と側室がおり、当時は正妻が生んだ子どもが優遇された、今川義元の正妻は今川氏輝や彦五郎と同じ母で、京の公家中御門氏の娘であったが、玄広恵探は側室の子だった。
 玄広恵探の母は家臣の娘であり、側室の子・玄広恵探は家督を継ぐことはできないが、今川氏輝・彦五郎がいなくなれば、玄広恵探に家督が転がり込む可能性があった。玄広恵探はそこにかけたのである。
 今川義元が家督を継ぐことになったのは、寿桂尼と太原雪斎が芳菊丸(今川義元)還俗させ、京の足利将軍から偏諱を受けて「今川義元」と改名させたのである。

 僧侶は大名間の交渉において、和睦交渉などの役割を担当した。太原雪斎は武田信虎と和睦すると、支援を受けて今川義元に家督を継がせようとした。また室町幕府にも裁定を求めていた。室町幕府は普段は軽んじられているが、いざ問題が起きた場合には利用されたのである。雪斎と義元は京の建仁寺で修行をしていた。この間に培った人脈で家督相続の許可を得たのである。
 今川氏輝、彦五郎が亡くなってから、約2ヶ月弱で室町幕府から家督相続の許可を得ている。もちろん玄広恵探側は屈せず、家督相続に名乗りを挙げた。下克上の空気が充満している時に起きたのが花蔵の乱である。

 花蔵の乱で雪斎はすぐに多数派工作を行い、玄広恵探らを孤立させると花倉城に総攻撃を行った。玄広恵探は花倉城から逃れると自刃し、今川義元が晴れて今川氏の当主となった。

 父や兄を速くに亡くした義元にとって、雪斎はその代わりとなる存在だった。今川義元は今川館の近くに臨済寺を創建して、太原雪斎を住職に据えると政治・外交・軍事分野とあらゆる面での最高顧問(軍師)として重用した。

 

甲相駿3国同盟
 当時、今川義元は駿河・遠江の2カ国を手中にして三河を目指していた。武田信玄は甲斐を治め信濃の大半を治め、北条氏康は関東地方を治めつつあった。。当時、今川氏は甲斐国・武田氏との関係が悪化しており、長年の懸案事項であった。この問題を収束すべく雪斎は動いた。雪斎が手を付けたのは婚姻による関係の改善と強化であった。

 1537年、太原雪斎は甲斐・武田信虎との関係改善のため、武田信虎の長女・定恵院を今川義元の正室に迎えた。それだけでなく武田信虎の子・武田晴信(武田信玄)に対しては、京の三条公頼の娘(今川家の遠縁)の輿入れを行い甲駿同盟を成立させた。当時、婚姻関係を結ぶことは、同盟関係を構築することを意味した。これは甲駿同盟と呼ばれている。

 しかし甲駿同盟に反発した相模の北条氏と今川氏は敵対関係にあり、交戦状態になり(河東の乱)北条氏綱は駿河東部に侵攻し、今川家は領地の4分の1を失っている。そのため1545年には関東管領・山内上杉憲政を誘い武田晴信と共同して駿河東を取り戻した。

 武田信玄は父の武田信虎をクーデターによって追放し今川氏に引き取らせていた。当時の武田氏は信虎によって何とか甲斐はまとまっていたが、武田信虎を追放し武田信玄(武田晴信)が当主になれたのは家臣たちの総意によるものであった。武田信玄は飾り物の当主から領国を拡げて家臣から認められるようになった。武田信玄は甲斐を1国治め、信濃にも領土を拡大させてたが、今川氏と北条氏との力の差は歴然としていた。もし2者のうちどちらかが1方が勝てば武田氏はすぐさま飲み込まれる恐れがあった。

 西では尾張の織田信秀が三河を伺っており、1546年10月、岡崎城主・松平広忠が今川家に救援を要請したため、竹千代(徳川家康)を人質に受ける条件にて、全面的に松平家を支援した。しかし織田信秀は松平家の家臣を買収して、今川家に人質に出されたはずの竹千代を捕縛してしまう。
 その為、1549年11月に太原雪斎自らが軍勢を指揮して、三河安祥城主・織田信広を攻めて捕虜とすると、織田信秀と交渉をし織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)との人質交換を実現させて、今川家のもとに取り戻した。竹千代は善得寺に入り、今川義元が幼い時に教えを受けたように太原雪斎による英才教育を受けた。
 1550年6月、武田家から迎えていた、今川義元の正室・定恵院が死去したため、引き続き武田家との婚姻同盟を模索し、今川義元の長女・嶺松院を、武田晴信の嫡子である武田義信の正室へと送り婚姻関係を再び結んだ。

善得寺の会盟
 雪斎はかねてから今川義元、北条氏康、武田晴信の同盟締結を目論んでいた。そこで3人を善得寺に招いて会合を開き「甲相駿同盟」を結んだ。

 太原雪斎は犬猿の仲である武田信玄と北条氏康を説得して同盟させたのである。

 この三国同盟は武田氏が求めていたことである。武田氏側が今川氏・北条氏との争いに仲介者として関わり、一気に3国同盟までもっていこうとした。武田氏家臣・駒井高白斎が今川氏・北条氏の間を往来し、今川氏側からは太原雪斎が、北条氏側からは北条幻庵が対応した。

 雪斎を含めた3者でのやり取りで、今川氏・武田氏・北条氏の3者が相互に自分の娘を輿入れさせることで決着がついた。今川義元の嫡子・今川氏真に北条氏康の娘・早川殿が嫁いで三国同盟を締結したのである。

 今川家は駿河・遠江・三河の3カ国69万石となり、後顧の憂いをなくし「街道一の弓取り」とまでうたわれた今川義元は尾張攻略に全力を注ぐことになった。織田信秀が亡くなり、今川義元は若い織田信長の尾張への進出を目論み、織田家の家臣への調略を開始した。
 その後も、雪斎は今川義元を軍事、政治の両面で支え続けた。甲斐の武田家との和睦や北条家、織田家との戦いは勿論、今川家の分国法、今川仮名目録の制定にも雪斎は関わった。

 太原雪斎は1553年に、今川家の分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条の制定に関与した。この追加21箇条は室町幕府の後ろ盾を必要とせず、自らの力だけで支配を展開することを謳った点で非常に重要な戦国家法であった。

 今川家の繁栄に尽力した太原雪斎はまさしくブレーンという立場にふさわしいものであった。しかし1555年10月10日、駿河の長慶寺にて死去した。享年60。

 

桶狭間での今川義元敗死
 駿河・遠江・三河の3カ国69万石となり、後顧の憂いをなくし「街道一の弓取り」とまでうたわれた今川義元は、尾張攻略に全力を注ぐことができるようになり、織田家の家臣への調略も開始する。

 この桶狭間の戦いは歴史的に有名な合戦であるが、桶狭間の戦いには太原雪斎が関わっていない。義元が桶狭間で横死したのは、太原雪斎の死から5年後の1560年のことである。以後、今川家の家督は子息の氏真が継いだが、今川家は坂道を転がるように転落した。もし雪斎が生きていれば、その後の今川家は違った歩みをしたのかもしれない。桶狭間の戦いは太原雪斎を失った今川家の悲劇といえる。

 雪斎は政治・外交・合戦の全てに関わっていた。しかし雪斎の死によって義元が政治・外交・合戦を行うことになるが、雪斎のように適切な対処ではなかった。

 徳川家康は「今川家は雪斎1人で持っていて、他の家臣の存在感が薄い。だから雪斎が死んだ後は政治が乱れてしまった」と述べている。徳川家康は幼少期に人質として雪斎から学問を教えてもらっていた。なお「軍師」という言葉は戦国時代には存在せず、近世以降に用いられたものである。