和宮

和宮(静寛院宮)

 1846年5月10日、和宮親王は仁孝天皇の第八皇女として京都御所で誕生した。母は側室・橋本経子観行院)で、父の仁孝天皇は和宮の誕生前に崩御したので、和宮は勅命により橋本邸で養育された。

 1851年、和宮5歳の時に兄である孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約する。和宮は小柄で可愛らしく、婚約してからは有栖川宮家に世話になり勉学に励んだ。

 1853年、ペリー艦隊が来日し、1858年に幕府の大老・井伊直弼が朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約に調印した。これに怒った孝明天皇は譲位の意思を示し、大老の井伊直弼および御三家に説明を求めた。しかし井伊直弼は多忙を理由に京都所司代の酒井忠義、老中の間部詮勝が京都へ行くことになった。その一方で7月11日に日露修好通商条約、7月18日に日英修好通商条約が勅許のないまま調印された。

 尊王攘夷の志士らは朝廷に働きかけ、孝明天皇は水戸藩などの御三家や幕府などに密勅を下された(戊午の密勅)。戊午の密勅とは諸藩が協力して幕府に攘夷を勧めることで、孝明天皇は「公武合体」をも要求した。

 孝明天皇は将来、鎖国に戻るという説明を間部詮勝から受け、さらに和宮が徳川家に降嫁(結婚)すれば公武一和(公武合体)に役立つと説得された。孝明天皇は公武一和は良いが和宮は熾仁親王との婚約が決まっていると述べた。

 この和宮が徳川家へ降嫁する話は、和宮の生母・観行院(橋本経子)の叔母で元大奥の勝光院に伝わり、勝光院は兄である橋本実麗に真相を尋ねた。観行院は降嫁の話は信じなかったが、幕府のやり方ならありえるとした。観行院と橋本実麗は降嫁の噂を和宮には話さなかったが、翌年、九条家の家宰・島田左近が橋本実麗へ和宮の降嫁の話を持ち出し、噂が事実であることが分かった。

 1860年4月12日、幕命を受けた酒井忠義は関白・九条尚忠へ和宮の将軍家降嫁を願い出た。孝明天皇(和宮の兄)は和宮には既に熾仁親王との婚約が成立していて、先帝の娘であり異腹の妹である和宮の進退は、天皇の意志のままにはできない。和宮は自分が異人のいる関東へ行くのを嫌がっていると断った。

 しかし酒井忠義は関白・九条尚忠へ再考を願い出ている。すなわち和宮と熾仁親王はまだ結納を済ませていないため、婚約を取りやめても天皇の信用を損なうものではないこと。皇妹の縁組は先例もあり、遠い関東へ移るならなおさら大事に扱うこと。朝廷から人数を送り、また関東は武士が参勤する地なので警護も十分にできるとした。さらに孝明天皇が国内の安定を願っていることを幕府は理解していると伝えた。

 「京都と関東で書信の往復ばかりが繰り返され降嫁が決まらなければ、公武一和にも影響がでかねない」と決断を求めた。幕府は重ねて和宮の降嫁を要請し、同時に生母・観行院と伯父の橋本実麗、さらには勝光院を通じての説得工作も行った。

 橋本実麗は説得に折れ、何事も天皇の思召しに従うとした。孝明天皇は、侍従・岩倉具視に意見を求めと具視は「幕府に通商条約の引き戻し(攘夷破約)を確約させ、幕府がこれを承知したら、御国の為と和宮を説得し納得させた上で降嫁すべき」と回答した。6月12日、天皇は「攘夷を実行し、鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める」と勅書を出し、幕府が「10年以内の鎖国体制への復帰」を約束したことで、天皇は和宮の降嫁を決断した。

 和宮は宮中へ上がり、縁組を硬く辞退した。しかし「幕府に攘夷を約束させたのに降嫁が決まらなければ、朝廷の信義が疑われる」と、孝明天皇は和宮があくまで辞退するなら、前年に生まれた皇女・寿万宮を代わりに降嫁させる。幕府がこれを承知しなければ、自分は責任をとって譲位し、和宮も林丘寺に入れて尼にするとした。天皇の譲位の決意、親族への圧力を受けた和宮はこのことから降嫁を承諾された。

 降嫁にあたって和宮は、父・仁孝天皇の十七回忌の後に関東に行き、以後も回忌ごとに上洛すること。大奥に入っても、万事はこれまでの流儀を守ること。御所の女官をお側付きにすること。御用の際には伯父・橋本実か御年寄を上洛させること。この5か条を条件とした。

 孝明天皇は和宮の提示した条件を遵守し、老中が交代しても攘夷の誓約は変わらず、和宮の降嫁は公武の熟慮の上で決定したことを天下に周知させること。外国との貿易によって国民生活が窮乏しないように対策を講じること。降嫁前に和宮の内親王宣下を行うことなどの条件を幕府に提示している。早期の婚儀を望む幕府は年内の降嫁を要請した。和宮はこれを拒むが、10月5日に孝明天皇の説得を受けて明春の江戸行きを承諾する。

 孝明天皇は和宮の降嫁を勅許し、和宮付女官の選定に入った。

 しかし和宮の江戸行きが近づくと、世間では「降嫁は幕府が和宮を人質とするためで、久我建通らが幕府より賄賂を受け、天皇を騙して幕府の計画を手助けしている」と噂が持ち上がった。この噂を耳にした天皇は、岩倉具視と千種有文を召し出し「和宮について江戸に下向し、老中と面談して事の真偽を確かめるとともに和宮の意向が叶うようにせよ」と勅語を与えた。

 10月20日、和宮一行は桂御所を出た。東海道では河留めによる日程の遅延や妨害の恐れがあるとして中山道を江戸へ向かった。行列は警護や人足を含め総勢3万人に上り、行列は50km、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員された。 和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ることや寺院の鐘などの鳴り物も禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋がれ、さらに火の用心を徹底するなど厳重な警備が敷かれた。この和宮一行が木曾街道を通行する前後の情況は島崎藤村「夜明け前」に描いている。

大奥の和宮

 1861年11月15日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入った。登城した岩倉具視・千種有文は老中の久世広周・安藤信正と会見し「幕府は和宮を人質に天皇に譲位を迫るつもり」との風説について詰問した。幕府は二心がないことを示すため、将軍自らが書いた誓約書を朝廷に提出した。

 12月11日、和宮は江戸城本丸大奥に入る。江戸到着から入城まで1ヶ月近くを要したのは、御所風の遵守という約束から和宮側と大奥側の調整が難航したためである。

 この頃の様子について庭田嗣子の書状では、和宮の「御所風の暮らし」の要望がほとんど守られていないこと。明春の仁孝天皇の十七回忌のための上洛が「和宮や女官たちが江戸での暮しに慣れていない」ことを理由に延期を要請されたことを述べている。

 さらに天璋院が和宮に様々な無礼をはたらき、和宮と自分達の部屋は暗くて狭いこと。また大奥の女性たちと折り合いが悪く、和宮が涙を流したことがあることなどが書かれていた。天皇は釈明のため老中か若年寄を京に呼び出すように指示したが、九条尚忠・岩倉具視らが幕府と交渉して、天璋院に事の次第を糾すことなどで決着を図った。ただし孝明天皇は「御所風は和宮に限った特例である」としており、後の御台所がこれに倣う必要のないことや、武家の棟梁たる将軍が御所に影響されて柔弱にならぬようにと和宮に宛てて手紙を書いている。

 1862年2月11日、和宮と家茂の婚礼が行われた。その様子はそれまでの13代の将軍たちの婚儀とは異なっていた。和宮が征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という立場で行われることとなった。これは後々まで、江戸城内において様々な形で尾を引くことになる。

 その後京都では尊王攘夷を唱える志士が各地から集まり、朝廷は薩摩藩の島津久光に市中の警備を依頼した。これに応えて朝廷の信頼を得た島津久光は、自身が構想する幕政改革案として、将軍が諸大名を率いて上洛して国事を議する。5大藩の藩主を大老に任じて国政に参加させる。一橋慶喜を将軍後見職にして、松平春嶽を将軍の補佐にあたらせる。この3ヶ条を朝廷に献策し、朝廷はこれを幕府に要求するため勅使を江戸に派遣した。

 勅使一行は薩摩藩兵に警護されて6月7日に江戸入りして、幕府への勅書とは別に和宮宛の勅書も持参していて、それには「天皇の思召しと行き違いが無い様、3ヶ条の要求は和宮から将軍に伝えるように」とあり、6月13日に和宮は勅書の写しを将軍に手渡している。

 7月1日、幕府は3事策を受け入れた(文久の改革)。8月に入ると京都では攘夷を実行しない幕府への批判から、天皇の「攘夷親征」に期待する声が強まった。同時に和宮の降嫁に尽力した公卿や女官への反発も強まり、久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直が蟄居・辞官・落飾する。前月に関白を辞していた九条尚忠も重慎み・落飾となった。堀河紀子・今城重子は辞官・隠居・落飾を命じられた。

 10月12日、朝廷は幕府に破約攘夷を督促するため勅使として派遣した。勅使は将軍に対面すると「攘夷実行について説明するため上洛する」と返答した。

 1863年2月13日、徳川家茂は江戸を出た。和宮は家茂の無事を祈り増上寺で御百度を踏んでいる。家茂は2月19日に二条城に入ると、3月7日に参内して孝明天皇の加茂行幸に供奉するが、4月11日の石清水八幡宮への行幸には風邪を理由に欠席した。これは天皇から「攘夷の節刀」を受けるのを避けるために仮病とされている。しかし5月10日を以って攘夷を実行することの奉答書は出さざるを得なかった。6月16日に家茂は、海路にて江戸に帰還した。

 8月18日の政変で、過激な攘夷破約を唱える長州藩が京都から追放されると、同29日、家茂に対し再び上洛せよとの天皇の勅命が出た。和宮は春日神社にお百度詣でを行い、御用の済み次第、将軍の速やかな江戸帰還を願った。12月27日、家茂は海路を京へ向け出発して翌年5月8日帰府している。

 1864年7月19日、先の政変で都を追われた長州藩が御所を襲撃する禁門の変が起こる。家茂は長州征伐の命を下し、長州藩は事変の責任者を処分し藩主父子が謝罪文を提出して事態は一旦収束する。しかし12月15日、長州藩で政変(功山寺挙兵)が起こり、尊攘派が再び政権を握ったため、家茂は自ら指揮を執っての長州征伐に乗り出す。1865年5月16日、家茂は大奥対面所で和宮の見送りを受けた後、品川から海路大阪へ向かった。これが二人の今生の別れとなる。

 

家茂死後

 1865年8月、和宮とともに江戸に下向した母・観行院が死去する。9月16日にはアメリカ・イギリス・フランス・オランダの軍艦が通商条約の勅許と兵庫開港を求めて兵庫浦に集結し、幕府の奏請を受けた孝明天皇は条約を許した。

 条約勅許の報を受けた和宮は「攘夷の実行を条件に徳川家に嫁いだのに、条約が勅許されては歴代の天皇に申し訳ない」と攘夷を貫徹するよう朝廷に要請している。一方、長州征伐は勅許を得たが薩摩藩の出兵拒否などがあり延長された。

 翌年になると大坂城の家茂は体調を崩し、病状が伝えられると和宮は湯島の霊雲寺に病気平癒の祈祷を命じ、医師も蘭方医から漢方医に変えるよう手配し、医師3名を大坂に向かわせた。しかし7月20日、徳川家茂は大坂城で死去した。

 徳川家茂の訃報が江戸に届くと、老中から「継嗣は家茂の遺言通り、田安亀之助でよいか」と問われた。和宮は「幼い亀之助ではいかがなものか。確かな後見人がいればよいが、そうでなければ然るべき人物を後継に立てるべき」と申し出た。そのため老中・板倉勝静らは一橋慶喜を15代将軍に立てることになる。幕府は朝廷に慶喜の徳川宗家相続と征長出陣の許可を求めるが、戦況は幕府の敗戦が濃厚となり、9月2日には休戦協定が結ばれて終結した。

 和宮は慶喜に「攘夷の実行」を願う書状を何度も出しているが、慶喜はそれを黙殺している。和宮は静寛院宮と改めたが、孝明天皇が崩御し和宮は1年余りに母・夫・兄を次々と失うことになった。

 1867年1月9日に明治天皇が即位すると、佐幕派で占められていた朝廷の顔ぶれは大きく変わった。和宮は朝廷に「攘夷のために下向したが、その甲斐も無くなり、外国人が徘徊する江戸にいては朝廷の威信を汚すことになるので善処して欲しい」と要請があり「翌年1月中旬までに上洛させる」ことで決着した。

 10月14日、将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返還し(大政奉還)、徳川家が列侯会議を主導する形での徳川政権の延命を図った。しかし薩長両藩と手を結んだ朝廷内の討幕派は12月9日、王政復古の大号令を発し、慶喜に辞官と領地の返上を求めた。

 1868年1月3日、幕府側は徳川家の領地の返上などの冷遇に怒り、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発する。徳川慶喜は最初から朝廷と戦うつもりはなく、鳥羽・伏見の戦いの前日に軍艦「開陽丸」で江戸へ戻ってしまった。江戸城では軍議が開かれたが結論は出なかった。大勢は主戦論に傾いていたが、朝廷への恭順の意を固めていた徳川慶喜は和宮に取り成しを頼んだ。

 1月15日、徳川慶喜は和宮に面会、隠居と継嗣の選定、謝罪の伝奏を伝えたが、和宮は謝罪の件のみを引受けた。和宮は使者を差し向けると、朝廷の返答は「願いの儀については朝議を尽くす」「謝罪の道筋が立てば、徳川家の存続は可能」とあった。

 朝廷では徳川征討を主張する西郷隆盛ら薩摩藩と、外国の干渉を懸念して徳川家への寛大な処分を唱える岩倉具視らが対立して結論が出ずにいた。しかし次第に厳罰論が優勢となり、2月15日に東征大総督・有栖川宮熾仁親王の進発が決定した。

 3月5日、勝海舟が西郷隆盛に面会のために山岡鉄舟に託した手紙には「慶喜の恭順の意を解さぬ士民が決起した場合、こちらには統御の術が無く、和宮様の尊位は保ちがたい」との文言がある。山岡鉄舟は駿府にて西郷隆盛と面会して、江戸城の開城・徳川慶喜の謹慎・幕府海軍の武装解除など、徳川家存続の具体的な条件を引き出すことに成功している。

 これを受けて3月13日、江戸高輪の薩摩藩邸で勝海舟と西郷隆盛が会談した。勝海舟は「和宮様を人質にとろうなどという卑劣な考えは微塵も無いのでご安心されたい。その他のことは明日に改めて談判しよう」とだけ言って帰宅している。翌14日の会談で、勝海舟は山岡鉄舟の持ち帰った条件に添う形での恭順を示した歎願書を渡し、西郷隆盛もこれを受け入れて江戸城の無血開城がなった。

 3月18日、和宮は徳川家の家臣たちに「今は恭順謹慎を貫くことが徳川家の忠節であり、家名を守ることになる」と幕臣達の説得にあたった。朝廷は慶喜の助命と徳川家存続の処分を決定し、和宮と実成院(家茂生母)は清水邸へ、天璋院は一橋邸への立ち退きが決まり、和宮は朝廷に寛大な処分の御礼文を書いている。

 和宮は徳川家の城地・禄高について、家臣の扶助が継続できる禄高と国替えの宥免を願い出している。新政府は田安亀之助の徳川宗家相続のみを許可し、城地・禄高の決定は先送りした。徳川家の駿河国移封・所領は70万石との通達があったのは上野戦争が終結した後であった。

 

維新後

 徳川家の処分が終わると、新政府は和宮に上洛を願い出た。和宮は「仁孝天皇陵の参拝や徳川家処分の御礼のため上洛を願い出たが、徳川家の経済状況や江戸の市民感情を考えるとこちらからは願い出かねるので、適当な名目を立てて、朝廷から上洛を命じて欲しい」といわれた。

 明治2年1月18日、和宮一行は東海道を京都へと向かい、京都に帰着すると翌日参内して明治天皇と対面した。明治3年1月25日、和宮は念願だった仁孝天皇陵への参拝を果たした。その後も和宮は京都に住んだが、天皇が東京行幸(事実上の遷都)後、天皇が東京に住まうことから、再び東京へ戻ることを決めた。麻布市兵衛町(港区六本木)にある元八戸藩主・南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院をはじめとした徳川一門などと幅広く交流を持つようになる。

 しかしこの頃より夫の徳川家茂と同様の脚気を患い、転地療養のため箱根塔ノ沢温泉へ向かった。転地療養の塔ノ沢では地元住民との交流も行われたが、程なく明治10年9月2日、脚気心のため塔ノ沢で死去した。32歳という若さであった。

 明治政府は葬儀を神式で行う予定であったが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言から仏式で行われた。墓所は家茂と同じ東京都港区の増上寺にある。徳川将軍の墓で、夫婦二人の墓が横に並ぶのは篤姫と和宮の2組だけである。