資本主義

資本主義の発達
 明治政府は旧幕府や諸藩が経営していた造船所や鉱山などの事業を引き継ぐとともに、殖産興業を目指して、富岡製糸場などの官営模範工場を次々と開設した。しかし、官営事業の多くが赤字経営だったうえに、西南の役による多額の出費で財政危機を迎えた政府は、明治13年に工場払下げ概則を公布して、官営事業の民間への払下げを始めた。ところが、払下げの条件が厳しかったために進展が見られず、その流れのなかで明治14年に開拓使官有物払下げ事件が起こってしまったことから、政府が明治17年に概則を廃止すると、ようやく払下げは軌道に乗った。なお、払下げのうち、有力鉱山に関しては、三井や三菱・古河などの政商が受けましたが、彼らがこれを足掛かりとして、石炭や銅などの生産高や輸出量を増やして成長し、やがて財閥と呼ばれるようになった。
大量の物資や人員を一度に輸送できることから、鉄道業にも投資が集中しました。明治14年に華族を中心として設立された、我が国初の私鉄である日本鉄道会社が、明治24年に上野~青森間を開通させたのをはじめ、商人や地主らの会社設立ブームに乗ったかたちで、鉄道会社の設立が相次いだ。明治22年に官営の東海道本線(東京~神戸間)が全通した頃には、営業キロの総数で民間が官営を上回る勢いとなり、その後も関西鉄道や山陽鉄道、あるいは九州鉄道などの民営鉄道が、幹線の建設を進めた。
 その後、軍事上あるいは経済上の観点から、国が一括して鉄道を運営したほうが良いと判断した当時の第一次西園寺内閣は、日露戦争後の明治39年に鉄道国有法を制定し、民営鉄道の17社を買収して国有化とした。国有化によって、当時の国鉄の路線は一気に三倍増となり、軍事輸送の効率化や、国内の物産を素早くかつ安価で清や韓国に輸出しやすくなるなど、大きな効果がありました。また、路線を売却した民間鉄道も、多額の買収金を得たことで、大株主であった財閥が重工業などの分野に積極的に進出し、結果として国富を増やす道を切り拓くことにつながった。
 重工業部門においては、政府による造船奨励政策によって、日清戦争後に三菱長崎造船所などの民間の大規模な造船所が建設された。しかしその材料となる鉄鋼は輸入に頼っており、19世紀後半の厳しい帝国主義の世界においては、武器の製造や造船業など、国家の諸産業にとって最重要となる鉄鋼の国産化、すなわち製鉄業を我が国のものとすることは喫緊の課題であった。そのため、政府は明治30年に、日清戦争で得た賠償金を費用の一部として官営の八幡製鉄所の建設を始め、明治34年には操業を開始した。
 技術的な苦難を乗り越えた八幡製鉄所は、日露戦争後には生産が軌道に乗り、やがて我が国の鉄鋼業の中核として成長しました。また、日露戦争の前後から、我が国は重工業部門での産業革命が進行して、日本製鋼所などの民間の製鋼会社も設立された。なお、この頃までに我が国の造船技術も世界レベルにまで成長したほか、工作機械においても、池貝鉄工所が優れた旋盤の国産化に成功し、他にも水力発電が本格化したことで電力事業も始まり、大都市で電灯が普及するようになりました。
 日露戦争は多額の戦費を公債や外債でまかないましたが、賠償金をもらえなかったことが我が国の経済に深刻な影響をもたらしたことで、明治40年の恐慌をきっかけに企業の倒産が相次ぎ、不況が続くようになった。そんな中、財閥と呼ばれた少数の企業家が、我が国の経済を懸命に支えた。財閥は金融や貿易、運輸、あるいは鉱山業など多方面の事業を積極的に経営し、やがて独占的な力を発揮するようになった。
 明治42年には三井財閥が三井合名会社を設立したほか、三菱・安田・住友などの財閥も、持株会社のように株式を所有することで、企業を支配するコンツェルンの形態を持つようになった。なお、財閥と言えば独占的なマイナスイメージが強いですが、彼らが経済の根本を支えたことによって、我が国は近代国家として世界に名乗りを挙げることが可能になったのです。その意味においても、財閥が我が国に果たした役割は、極めて大きなものがあったといえる。

 

殖産興業
 徴兵令によって日本の軍事力の基礎ができたが、欧米列強に負けないためには富国強兵で経済力を高める必要があった。生産力を増やして産業を盛んにするため政府は殖産興業に力を注ぎ産業の近代化をめざした。明治政府は江戸時代までの封建的な制度を撤廃するため、株仲間の特権や関所などを廃止し、地租改正によって土地の所有権を確定し自由な経済活動が行えるようにした。
 明治3年には工部省を設置して、旧幕府が経営していた佐渡・生野(いくの)などの鉱山を政府直営とし、東京と大阪に砲兵工廠(こうしょう)を置いた。工廠とは兵器・弾薬などの軍需品を製造・修理する工場のことである。また横須賀には造船所を整備した。
 殖産興業を進めるために外国から多くの技術者が招かれ、彼らは工部省で日本人技術者の育成にあたった。当時の日本の輸出品は生糸が中心であったが、貿易自体は大幅な赤字となっていた。そのため政府は明治5年に生糸の生産拡大のため群馬県に富岡製糸場を設けた。この富岡製糸場は官営工場で、平成26年に世界文化遺産となっている。明治6年に設置された内務省は警察組織だけでなく殖産興業にも大きな役割を果たし、各地に製糸や紡績などの官営模範工場を設立された。また、内務省は明治10年に東京上野で第1回内国勧業博覧会を開いている。
 農業や牧畜においても技術の改良が行われ、三田育種場や駒場農学校では近代的な農学教育が行われた。政府は北方開発にも力を注ぎ、明治2年に蝦夷地を北海道と改称して開拓使を置き、アメリカ式の農場経営を行い、明治7年に屯田兵制度を設けて開拓とともにロシアへの備えとした。また明治9年にはクラークを招いて札幌農学校(北海道大学)を開校した。先住民のアイヌを保護する政策を行ったが、アイヌは長い年月の間に日本人との同化が進み固有の伝統や文化が失われていった。
 交通や通信の制度にも力を入れ、明治5年には新橋~横浜間に鉄道が開通し、その後も神戸~大阪~京都間が結ばれた。海運業では土佐藩出身の岩崎弥太郎が郵便汽船三菱会社を創設した。岩崎弥太郎の三菱や三井などは政府から特権を与えられ、やがて政商と呼ばれ海運や貿易・金融などで独占的な利益をあげた。三井三菱などの政商が国力を増加させ日本の経済力を押し上げた。
 通信では前島密によって、飛脚にかわる官営郵便制度が発足し、全国均一料金制によって発展した。現在の1円切手に前島密が描かれているのはその功績を称えたものである。その他の通信手段としては、明治2年に東京~横浜間に電信線が架設され、明治10年には電話が導入されたが、これはベルが電話を発明してからわずか1年後のことであった。

 

資本主義の成立
 西南の役などによる財政危機を脱するため、政府は松方財政を断行したが、全国でデフレや不況を引き起こし、自由民権運動が崩壊の危機を迎える遠因となったりしました。しかし明治19年頃から好況へと転じ始めた。この好況の背景には欧米列強の好景気があった。松方財政によって日本は銀本位制を確立させ、この銀の価格が下落したことから列強が日本の商品を求めやすくなり、日本の貿易が大幅な輸出超過となった。当時の日本の輸出は主に紡績や製糸などであったが、輸出超過はこれらの産業に活気をもたらし、物価の安定や金利の低下によって、我が国の有力企業への貸付が活発化した。またこれらの企業の株式配当が増加したため、全国で株式の取引が広く行われるようになった。日本は紡績や鉄道を中心に会社設立がブームになり、企業勃興が本格化した。
 会社設立のブームは株式への多くの払い込みをもたらしました。しかし折からの米の凶作もあって、資金の需要が巨額となったことから各金融機関の資金が不足がちとなった。この景気の過熱に不安を持った日本銀行が金利を引き上げたことで株式が急激に下落して、我が国最初の恐慌が明治23年に発生した。
 その後、米の豊作や銀の価格の下落による生糸などの輸出の回復などもあって、不況を脱した日本に日清戦争の勝利によって得た莫大な賠償金が入り、戦後経営に取り組んだ。
 明治13年、貿易のための為替を取り扱う横浜正金銀行が設立されたが、これに加えて債権の発行権を持つ日本勧業銀行や、企業のための長期の融資を行う日本興業銀行、あるいは新たに日本の領土となった台湾の台湾銀行などの特殊銀行が次々に設立された。
金融面からの産業の振興をはかった日本は、明治30年に貨幣法を制定し、同年に日清戦争の賠償金を準備金として金本位制を確立し、欧米列強と肩を並べた経済あるいは金融の秩序に加わった。金本位制とは金を通貨価値の基準とする制度で、各国の金の保有量で通貨の発行高が決まる制度であった。また同時に貿易での金のやり取りが景気を左右するため、一定の金を常に保有することが原則となり、その資金として賠償金を活用したのである。なお日本勧業銀行や日本興業銀行は、現在のみずほ銀行の前身にあたる。
 日清戦争から三国干渉へと続いた歴史の流れは、ロシアの圧力への対抗として日本の軍事力を拡大するもとになるが、軍事予算を確保するには、租税を多く徴収しなければならなかった。しかし国民の負担にも限度があり、無い袖は振りようがなかった。そのため政府は租税負担に耐えられるだけの経済力の育成に力を入れることになった。こうような政府の方針から、鉄道や紡績を中心に再び企業勃興が生じ、産業界が活気づき日本にも繊維産業を中心に資本主義が本格化した。
ただし、資本主義は経済の発展をもたらす一方で、その反動ともいうべき不況も発生しやすくなります。当時の我が国でも明治33年に過剰生産を主な原因として資本主義的恐慌が発生し、地方中小銀行の多くが破産する騒ぎになりました。
四方を海で囲まれた我が国では、海洋国家をめざして大型の鉄鋼船を建造することが最重要の課題でした。このため、政府は明治29年に航海奨励法や造船奨励法を公布し、鉄鋼船の建造や外国航路への就航に、奨励金を交付することにしました。
こうした海運業奨励政策によって、我が国では遠洋航路の開設が次々と行われましたが、なかでも日本郵船会社は、明治26年にインドのボンベイ航路を、明治29年には欧米やオーストラリアへの各航路を開きました。
遠洋航路の開設もあって、貿易は飛躍的に拡大し、我が国からの生糸や綿糸・石炭などの輸出が増えた一方で、綿花などの原料品や、機械・鉄材などといった重工業製品の輸入が増加したため、結果として我が国の大幅な輸入超過となってしまいました。
なお、貿易品の取扱いを主に行ったのは、三井物産会社などの商社であり、横浜正金銀行が貿易の金融にあたりました。また、日本郵船会社は明治18年に、三菱と半官半民の共同運輸会社が合併して設立され、現代に至っています。
我が国における産業革命を支えたのは、綿糸を生産する紡績業でした。綿織物業は、幕末の開国によって外国の安価な製品が輸入されたことで、一時は衰退していましたが、輸入綿糸を用いた農村の問屋制家内工業で飛び杼を導入して手織機を改良したことで、次第に生産力が回復しました。
綿織物業の業績回復は、原料糸を供給する紡績業にも大きな発展をもたらし、明治16年には渋沢栄一らが大阪紡績会社を設立すると、イギリス製の紡績機械や蒸気機関を使用して経営に成功しました。
これに刺激を受けたかたちで、我が国では鐘淵紡績会社(カネボウ)や摂津紡績・尼崎紡績など大規模な紡績会社が次々と誕生し、機械製生産が急増しました。
その一方で、従来の手紡やガラ紡による綿糸生産は衰えましたが、明治23年には国内の総生産高が輸入高を上回ったほか、日清戦争後にインド産の輸入綿花を原料とした綿糸の生産が増えたことで、中国や朝鮮への綿糸輸出が急増し、明治30年には輸出高が輸入高を上回るようになりました。
その後、日露戦争を迎える頃には、大紡績会社が合併などによって独占的地位を固めて綿織物の大量生産を行った一方で、豊田佐吉が発明した木製の国産力織機が多くの中小工場に普及したこともあり、明治42年には綿布の輸出額が輸入額を超えるようになりました。
綿糸や綿織物の輸出が増加した我が国でしたが、原料の綿花や紡績機を全面的に輸入に頼っていたために、綿関係品全体としては輸入超過の拡大が続いていました。それだけに、国産の繭(まゆ)を原料とした生糸を輸出することで、多くの外貨を得ることができる製糸業が果たすべき役割は重要でした。
農村による養蚕業を基礎とする製糸業は、幕末の頃は簡単な手動装置の座繰製糸が中心でしたが、輸出の激増によって機械生産の必要性が高まったため、政府は明治5年に富岡製糸場を開設しました。
いわゆる官営模範工場の設立を通じて、政府が見本を示したことによって、器械製糸は長野県や山梨県などの農村地帯を中心に我が国で急速に普及し、やがて明治27年には、器械製糸の生産高が座繰製糸の生産高を上回りました。
また、政府が生糸の輸出を増やすと同時に、品質改良にも積極的に取り組むなどの努力を重ねた結果、日露戦争後にはアメリカを中心に生糸の輸出がさらに伸び続け、明治42年には清を抜いて世界最大の生糸輸出国となりました。
生糸輸出の増加は農村にも大きな変化をもたらし、生糸と関わりの深い桑の栽培や養蚕が盛んとなりましたが、その一方で、安価な輸入品におされて、綿や麻・菜種などの生産は衰えました。
また、松方財政によるデフレの影響で、全農地における小作地率が増加していましたが、この傾向はこの後も続き、結果として、大地主自身が農業を経営せず、小作人からの現物による小作料収入に依存するという寄生地主が増加しました。これを寄生地主制といいます。
当時は都市人口の増加によって米の供給が不足がちとなり、米価が上昇傾向にありましたが、そんな中で、小作人から高額な現物による小作料を集めて、定額の金納で地租を納めた地主の収入は莫大なものとなり、地主の多くが企業を興したり、あるいは公債や株式に投資したりするなど、資本主義経済に積極的に関わるようになりました。
一方、政府は明治26年に農事試験場を設置して、米や麦の品種改良をめざすなど、農業技術の研究を進めることで農産物の増産をはかりました。また、農村の経営を救済する目的で、明治32年に農会法を、翌明治33年には産業組合法をそれぞれ制定しました。
ところで、前述した寄生地主制と関連して、一般的な歴史教科書で必ずと言っていいほど紹介されている項目のひとつに、当時の「小作農の生活」の様子があり、以下のような内容が一般的です。
「高額な小作料の支払いに苦しむ小作農の中には、子どもを工場へ出稼ぎに出したり、副業をしたりして何とか生活を営むという有様でした」。
寄生地主と比較して貧富の差を強調することで、いわゆる「貧農史観」を前面に押し出す姿勢がみられますが、このような「富を憎む」といった社会主義あるいは共産主義的な見方だけでは、当時の歴史を正しく理解することはできません。
当時の我が国は、政府をはじめとして「富国強兵」や「殖産興業」を国是(こくぜ、国民が認めた一国の政治の基本とし、国全体の経済力を高めること、すなわち国富を増やすことが何よりも重要視されていましたが、実は寄生地主の存在こそが、国富の増大に大きく貢献していたのです。
寄生地主の多くは企業を興したり、あるいは公債や株式に投資したりしましたが、彼らの行為は結果として形を変えて国家の収入を増やしたことになります。まさに「カネは天下の回りもの」ですね。
もちろんすべての寄生地主が成功することはなく、様々な興亡を繰り返したうえで、より大きな寄生地主が誕生することになるのですが、成長した寄生地主が、より多額のお金を国内で投資することで、さらに国家全体の財政が潤うという側面もあったのです。
なるほど、寄生地主の下で働いていた小作農の生活が貧しかったのは確かに事実ですから、そのこと自体を教科書に載せることは決して間違ってはいません。
しかしながら、寄生地主を一方的に「悪の象徴」と決めつけ、現代からの視点のみで断罪するのではなく、彼らが「歴史の大きな流れ」の中で果たした役割を正当に評価してこそ、「歴史の真実」を見極めることが可能になるのではないでしょうか。