竹槍精神論

 かつての日本人は手に竹槍を持ち、鬼畜米英のかけ声で戦争に勝てると信じていた民族である。そして精神論だけでは戦争に勝てないことを痛感しながら、今でも精神論に捕らわれている。何か問題が起きると科学的分析は二の次になり、精神論うんぬんで原因を求めようとする。これではいつまでたっても本質は見えず、同じ過ちを繰り返すことになる。

 精神論はスポーツにおいて著明である。またその解説においてもきわだっている。「勝てば精神力の勝利、負ければ精神力の欠如」と言えば、何となく解説らしく聞こえてくるから不思議である。野球で三振を取れば気持ちがまさっていたから、ホームランを打たれれた投手は気合い不足と解説される。このように勝敗の原因を精神論に求めるのは、相撲、柔道、サッカー、マラソン、いずれのスポーツにおいても同じである。勝敗の原因を精神論に置き換え、そして観客までもそれで納得してしまう。これでは負けた選手が可哀想である。

 医療事故が毎日のように報道されている。そして医療事故についても医師の精神論に原因を求めようとする傾向がある。医師としての思いやりの欠如、患者に対する驕りの表れ、自覚のない怠惰な注意力、このような医師としての精神の腐敗が医療事故を招いたと解説される。そして、それで何となく納得してしまうのが恐ろしい。個人に責任を負わせ、それで問題が解決すると錯覚してしまうのが恐ろしい。

 これは問題を安易に解決させ、安心を得ようとするスケープゴートの心理である。では本当はどうなのであろうか。医療事故を冷静に分析してみよう。評論家の多くは問題を分析する場合、米国との比較をおこない、日本と異なる米国のシステムを無条件に賛美し、そのシステムの導入が解決に結び付くと解説するのが常である。では彼らに習い、日米の医療事故を比較してみよう。

 国民1人当たりの入院日数は日本は米国の約3倍、外来受診率は約3倍である。そして日本の人口当たりの医師の数は米国の0.7倍である。いっぽう医師が患者から訴えられる確率は、米国の医師は日本の医師の約10倍である。この数値を基に計算すると、日本の医師は米国の医師よりも約50倍医療訴訟が少ないことになる。どのような計算をもってしても、米国の医師が日本の医師より優れているという科学的証拠はでてこない。

 医療事故に対する反省を忘れてはいけないが、この数字を見れば日本の医師は何と真面目に働いているかが理解できると思う。誰もほめてはくれないが、日本の医師は神業に近い精神力で医療を行っているのである。まさに神経をすり切らせて働いているのに、日本の医師全体が志の低下などと精神論で非難されたくはない。

 日本人は精神論が好きである。また好きゆえに何でも精神論で片づけようとする。かつて10倍の物質的優位にあった米国と無謀にも戦争を行ったが、50倍の医療訴訟の差をもってしてもまだ日本の医療に精神論を持ち出すのだろうか。ちなみに日本の医師の収入はアメリカの医師の約半分である。

 医療事故に対し危機管理が必要だという。確かにそうであろう。しかし、不眠不倒で働く医療関係者に間違いを犯すなというのは酷である。問題はアリバイ作りの危機管理の議論ではなく、事故を未然に防ぐための労働環境の整備である。医療にとって最も必要なマンパワーの整備を行い、医療事故を未然に防止することが先決である。生命を守る医療関係者の精神的ゆとりを確保することが、医療事故防止には何んとしても必要である。

 物忘れをしない人、計算違いをしない人、転んだことがない人、このような人間などどこにもいない。ミスを犯すのが人間であり、ミスをいかに防ぐかが人間の知恵である。

 毎年、1万人弱の人たちが交通事故で亡くなっている。この人たちの大半は怠慢ゆえに事故を起こしたわけではない。だれもが事故の可能性を持ちながら、運悪く事故に遭遇したのである。事故を防ぐため、車の運転は40分、間に20分の休憩を挟むことが推奨されている。6時間ぶっ通しの外来診療、12時間立ちっぱなしの手術、注意力の必要な医療においてなぜこの推奨が言われないのだろうか。

 徹夜で働く医療関係者の労働環境を改善せずに、精神論を持ち込むのは問題のすり替えである。竹槍で戦争に勝てと言うようなもの、南方の島で玉砕した英霊に精神力が足りなかったと言うようなものである。医療事故を防ぐためには様々な方策が提言されている。しかし生命に関することは、生命に関することゆえに、生命に見合うだけの財源の確保と感謝の身持ちが何よりも必要と思われる。