士族の不満

四民平等と士族の受難
 明治政府は封建的な身分制度の廃止を行った。まず版籍奉還によって諸大名が領地と領民を天皇に返還し、次に藩主と藩士との主従関係を解消した。
 明治2年、藩主や公家は華族を名乗り、藩士や旧幕臣は士族と呼ばれ、それ以外は平民とされた。翌明治3年には平民も苗字を名乗ることが許され、華族・士族との結婚も許され、職業の選択の自由が認められた。さらに明治4年には身分解放令が出され穢多(えた)・非人(ひにん)の呼称をやめ平民とした。このように四民平等が実現したが、長い間続けられてきた差別の根本的な解消は容易ではなかった。

 明治4年に戸籍法が公布され、翌5年には日本初の近代的な戸籍である壬申戸籍がつくられた。ちなみに当時の日本の人口は約3,300万人で、そのうち平民は約3,110万人で全体の93.4%を占めていた。
 四民平等は実現したが、政府は華族や士族に給与(家禄)を与え、また維新の功労者にも禄を支給した。これらは国の歳出の約30%を占め、明治政府にとって大きな負担になった。

 明治6年には徴兵令が定められ、士族とは無関係に兵力を確保できた。士族には秩禄の支給を停止する代わりに一時金の支払いを定めた。つまり早期の希望退職者の募集であり、この制度によって全士族の約3分の1の秩禄が整理された。さらに明治9年には全士族に金禄公債証書を与え、代わりに秩禄を廃止した(秩禄処分)。
 秩禄処分によって金禄公債証書が支給されたが、5年間は現金化が禁止され、満期を迎えても抽選に外れれば現金化できない仕組みだった。そのため華族は生計ができたが、多くの士族は生活できないほど困窮した。
 士族は官吏(役人)や巡査、教員などに転身し、あるいは一時金で商売に手を出した。いわゆる「士族の商法」であるが失敗する者が多かった。政府は士族救済のために事業資金を貸し付け、北海道の開拓事業などを行わせたが、成功例は少なく没落する士族が増えた。さらに士族の帯刀を禁じる廃刀令が出され、それまでの特権を奪われた士族の不満は次第に強くなった。このような流れから大きな反乱が起きるようになる。

 

西南の役
 征韓論で西郷隆盛らが敗れて下野したことは、士族の働き場所が失われたことを意味していた。彼らは自分たちが明治維新に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇に不満を持ち、武力によって政府を倒そうとする者が現われた。
 明治7年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂で馬車で移動中に士族に襲われて負傷した(赤坂喰違の変)。また同年2月、征韓論争で下野した前参議の江藤新平が出身地の佐賀県で挙兵したが激戦の末に鎮圧され江藤新平は処刑された(佐賀の乱)。
 明治9年に政府が秩禄処分や廃刀令などで士族の特権を奪ったこともあり、同年10月には熊本県の神風連(敬神党)が反乱を起こし熊本の鎮台を攻撃した(神風連の乱)。この神風連による反乱は各地へ飛び火し、同年、福岡県の秋月では旧藩士らが乱を起こし(秋月の乱)、山口県の萩では前参議の前原一誠が乱を起こした(萩の乱)。
 征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島で晴耕雨読の日々を送っていたが、地元では西郷隆盛を冷遇した政府に対する不満が渦巻いていた。明治10年1月、鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起きた。西郷隆盛は不平士族らをなだめていたが、この事件をきっかけに周囲に推され挙兵を決意した。西郷隆盛の決起が九州各地の不平士族を巻き込み大規模な反乱となった。しかし西郷隆盛らが熊本城を攻めあぐねている間に形勢が逆転し、追いつめられた西郷隆盛は同年9月に鹿児島で自刃した。西郷隆盛によるこの戦いは西南の役(西南戦争)と呼ばれているが、政府と不平士族とによる半年以上に及ぶ長い戦いは日本の歴史にとって大きな意義があった。
 西南の役の勝者は政府軍で、敗者は不平士族であったが、これは政府が組織した徴兵令による軍隊が、戦争のプロである士族に勝利したことであった。一人ひとりは強くない兵であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛え上げ、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給を行うことで士族の軍隊に勝つことが出来たのである。
 逆に士族たちは、自分たちの武力では政府を倒せないことを思い知らされた。西南の役の後、士族たちは反乱をあきらめ、言論の世界で政府に対抗するようになる。すなわち日本で自由民権運動が本格化することになる。なお西郷の自刃と呼応するかのように、同年には木戸孝允が病死し、西郷隆盛の盟友久保利通も翌年に暗殺され維新の三傑が相次いでこの世を去った。

 

近代的軍事制度の確立
 欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐためには、近代的な軍事制度が急務だった。明治4年に断行された廃藩置県に先立って、不測の事態に備えて編成された御親兵は、翌年には近衛兵として天皇周辺の警護にあたった。廃藩置県によって藩兵は解散したが、一部は兵部省の下で、明治4年に東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)の4ヵ所の鎮台に配置された。
 明治5年に兵部省は陸軍省と海軍省に分れ、翌年には名古屋・広島に鎮台が設けられ、明治21年には師団に改組された。現代の陸上自衛隊における第○師団という編成名は、これに由来している。
 明治維新までは日本の軍事は武士が中心だったが、欧米列強に負けない近代的な軍隊を編成するには、すべての国民が兵役に服するべきとする、いわゆる国民皆兵が重要とされた。この国民皆兵は初代兵部大輔(ひょうぶたいふ)の大村益次郎が唱えたが、大村益次郎が明治2年に暗殺されると、その志を継いだ山県有朋によって具体化された。明治政府は、明治5年に全国徴兵の詔と徴兵告諭を出し、翌6年1月に徴兵令を公布した。徴兵令によって満20歳に達した成年男子全員が、身分に関係なく3年間の兵役義務を負うことになる。近代国家として徴兵令が整えられたが、軌道に乗るには様々な紆余曲折があった。
 当初の徴兵令には様々な例外規定があり、戸主(家の代表者)や官吏(役人)、学生などは兵役が免除され、また代人料として金270円を納めた者も免除された。このため兵役についたのは、ほとんどが農家の二男以下で、徴兵告諭の外国語を血税と直訳したため、「徴兵されたら血を抜かれる」と誤解され、血税一揆など徴兵令に反対する騒動が起きた。このような混乱はあったが国民皆兵は次第に広がった。このことは同時に、「軍事の専門職」としていた士族が不要になったことを意味しており、政府はこの後に秩禄処分や廃刀令で士族の特権を奪う政策を行った。特権を奪われた士族は各地で反乱を起すが、徴兵令で編成された政府の軍隊に敗北することで、国民皆兵が定着することになった。
 軍事制度とともに国内の治安を守るための警察制度も整備された。明治4年、東京府で見まわりの兵卒である邏卒(らそつ)が置かれ、同年には正院の下に置かれた司法省が警察権を管轄するようになった。明治6年に内務省が設置されると、警察組織は内務省に統括され、翌明治7年に東京に警視庁が創設された。
 警視庁の設置と同時に、それまでの邏卒が巡査に改称され、川路利良が初代の大警視(警視総監)に就任した。なお川路利良は近代的な警察制度の改革に尽力し、「日本警察の父」と称えられている。