善意と感謝

 生物がこの世に生を受けて数億年、人類が地球上に誕生して150万年、生きとし生きる者の原則は弱肉強食である。この神から授かった弱肉強食の本能は、人間を唯一の例外として地球の歴史とともに延々と続いてきた。そして知恵ある人間だけがこの弱肉強食の原則に手を加えたが、その歴史はたかだかこの数十年のことである。

 国王が民衆を搾取する、資本家が労働者を搾取する、地主が小作人を搾取する。この搾取という悪道パターンが歴史の反動を生み、群衆の喝采とともに社会主義国家が誕生した。そして気がつけば平等主義に毒された民衆の堕落から、知識人が笛吹けど社会主義は踊らずついに崩壊した。いっぽう資本主義の日本は、社会主義国家以上の平等社会を達成している。

 日本の政治は政党名が何であれ、強者が弱者を助ける政策になっている。これは富の再分配という国家の仕事が、数の上で優位に立つ弱者の人気取りになっているからである。さらに弱者援助を美徳とする美意識を日本人が獲得していたからである。この美徳は弱肉強食の本能に反するが、これもまた神から授かった日本人の本性といえる。しかしこの本性は「強者の善意と弱者の感謝」という美意識が根底にある場合にのみ成立するのであって、この気持ちがなければ、生物の道ばかりではなく、人間の道をも踏みはずすことになる。

 最近、世の中が住み難いと感じるようになった。これは神から与えられた弱肉強食の本能が逆転し、人間の美意識から発生した弱者救済の政策が醜悪な姿を晒けだすようになったからである。弱者は助けを当然として感謝を忘れ、補填のみを主張する。強者は弱者権力に「金持ち喧嘩せず」の心境になっている。努力した者が努力しない者に搾取され、稼いだ者が稼ぎの悪い者にたかられる。富の分配が上から下への自然な流れであれば文句は生じない。しかし下から上が無理矢理強奪される世の中に思えてならない。弱者と強者の立場が仮面を被ったまま逆転している。

 日本の勤労所得者の1200万人が税を納めず、納税者の6%である年収1000万円以上の者が所得税全体の40%を負担している。強者の税金で支えられる多数派の弱者が感謝を忘れ、権利のみを主張するようになり社会の歯車がおかしくなったのではないだろうか。これは弱者の徳が金銭の優遇によって麻痺したせいであろう。

 かつて姥捨て山の露と消えていった老人は、観劇や観光地を元気に独占し、貯金高はどの世代よりも群を抜いている。子供は過保護に甘え、学校では恩師の影を踏みながら遊んでいる。加えるに筆者はスマホもなければ自分の部屋もない。車も八年目のボロならば、オレオレ詐欺にあっても払う金はない。

 このような現象は、世間や政治家が弱者をおだて過ぎたせいではないだろうか。人間はおだてられると堕落するのである。汗をかかない金銭の供与は人間をダメにする。

 人間は人間が作った浅知恵により、弱者の堕落と強者のやる気の喪失を生むことになった。人間を平等とする妄想が、人間の脳をアルコールのごとく心地よくマヒさせ、ついには日本人を廃人にしようとしている。弱者にとって必要なのは自立する精神であり、その障害になるのは相手への依存心である。強者にとって必要なのは差し伸べる暖かい手であって搾取される富ではない。

 医療においては医師は強者、患者は弱者のパターンが確立されている。この先入観が医師と患者の信頼関係を時におかしくする。まれではあるが自分を弱者であると威張る患者が目立つようになった。そして弱者を優しくするのが強者であると、度を超した要求を求めてくるのである。

 これほどの情報化時代に、医師が病気に対し無力であるとは宣伝されず、逆に何でも治せるスーパーマンと思われている。そして、スーパーマンが何で可哀想な自分を助けないのかと患者は食い下がる。これは風邪だから我慢しなさいと言えば、非人道的医師のレッテルを貼るのである。病気を責めずに医師を責める風潮が起きている。病気が治らないのを医者のせいと非難するのである。

 医療はサービス業との宣伝に乗せられ、医師がクスリ屋からおだてられて馬鹿になったように、患者も周囲からおだてられて堕落した。自分のことは自分で守るという病気の基本を忘れ、不都合のみを医療や介護に押しつけようとしている。自分の不都合を他人のせいにするのは、国民全体が人間としての責任と自立を忘れ、つねに他人をあてにするクセがついているからである。医師や看護師が患者のためにつくすのは当然であるが、この奉仕に対し感謝の気持がなければ医療側のやる気が喪失しても不思議ではない。

 人間が生物の持つ弱肉強食の本能を変えたのは、人間の知恵と美徳によってである。そしてそれを成り立たせている「強者の善意と弱者の感謝」を、今の日本人は忘れているように思えてならない。正確に言えば「善意と感謝」そのものを今の日本人は忘れているように思える。