死にざま

 白髪が増えても給料は増えず、皺が増えてもそれを知性と受け止める者はいない。目はかすみ、耳は遠く、胸のときめきは不整脈である。歯は抜け、四肢は痛み、小便は近く、気持ちはせいても足は前に出ず、気力は衰え、肉体はゆるみ、我が肉体は統制を失う。「年の功」は死語になり認知症(正確には認知機能障害)の新語が世にはびこっている。
 平均寿命に達すれば、友人の半数が死に、半数が生きている状態になる。そして死が近くになるが、老人は孤独の中で死の現実を知らずにいる。また死を予測しても終末医療の現状を想像しない。年とともに知恵、想像力、気力、すべてが同時に衰えるからである。
 子供はアニメの世界に浸り、青年はスマホで青春を謳歌し、壮年は日々の生活に追われ、誰も老人の心情や肉体を想像をしない。老化はその年になるまで実感できず、まして老化の先にある死については誰もが、幻想の世界、他人事である。元気な時に健康に気をつけ不老長寿を願いながら、老化と死の現実にフタをしているのが現代人である。
 人間は生理現象である老化と死から逃れることはできない。それは春から夏、夏から秋、そして冬を迎える自然の原理と同じである。そしてその時に必要なことは、生命保険や遺言状などではない。重要なことは自分の死に対する明確な意思表示である。
 生前に墓を買っても、多くは死の現実を知らずにいる。文学や哲学、あるいはテレビから死を想像しても、それは虚構の枠を出ない。生保会社や葬儀屋が教えるのは死後の形式だけで、肝心な死にざまについて教える者はいない。この情報化時代に、教える者がいないので誰もそこまで考えが及ばない。その結果、眠るがごとき大往生を願いながら、ポックリと死にたいと願いながら、多くは病院での壮絶な最後となる。
 私たちにとって「死を悲劇」ととれえやすいが、本当に悲劇なのはその死に方である。人々は死を恐れるあまり死を直視せず、死の悲劇から逃れるためにさらなる悲劇をつくっている。
 かつての日本人の意識には「死にざま」という言葉が常に存在していた。恥のない穏やかな死を重視していた。人生のすべてを死に集約させた有終の美学である。それを脳死患者でさえ生かし続ける現代医学が破壊したのである。
 もちろん生命絶対論者の言葉を借りるまでもなく生命の尊さは十分に承知している。しかし生命を偏重するあまり、人間としての尊厳を軽視してはいけない。患者の心を見ず、心モニターばかりを見つめる家族の即物的捉え方が魂の尊厳を奪っている。
 患者が医療に期待するのは、病気の治療と痛みの除去である。それ以外は何も望んでいない。しかし老人医療の現実は、声なき患者の意志は無視され、治らない生理現象を治そうとする医師の驕りと優しさ、家族の過度の期待と困惑が常に交錯している。
 その結果、善良な老人に鞭を打つような、枯れ木に水をやるような、家族のてまえ心マッサージをやるような、誰も望まない医療が行われることになった。魂の抜けた身体に呼吸器をつなぎ、何本もの点滴を入れ、どこに人間らしい死にざまがあるのだろうか。多くはそう思いながら、呼吸器のスイッチを切れないでいる。
 脳死を死と認めない生命絶対論者、終末医療を病院の儲けとする邪念、患者の死を敗北とする医学、これらにより日本の医療は心モニターの波形を動かすことばかりに専念し、人間らしい安らぎの医療は疎んじられてきた。
 日米の医療を比較すると、日本では人口当たりのモルヒネの使用量はアメリカのわずか20分の1である。この数値はアメリカ人に比べ20倍もの苦痛を患者に与えている証拠といえる。苦痛を取り人間らしい死を迎えさせることが私たちの使命のはずである。だがこの数値は天国に行く前に地獄の苦しみを与えている日本の医療を示している。老化や死を敵とせず、病気と捕らえず、自然現象とする視点が欠けている。
 大部分の人たちは自らの終末への意志を持たない。そのため残された家族が代弁することになるが、家族は戸惑うばかりで、結局はやれる限りを尽くしてくれという。そして医師は一様に終末医療の対応となる。
 患者の医療における自己決定権が話題になっているが、本当に決めてほしいのは自らの終末のあり方である。美田を残すより、人間としての死にざまを残す方がより重要である。元気なうちに死の現実を知り、死を受け入れる準備が必要である。
 そのためにはドナーカードと同様に尊厳カードを作ることも1案である。あるいは延命などの無駄な治療を拒否する1文を遺言状に書いておくのもよいだろう。人知のおよばない死後の世界より、誰もが経験する臨死について考える時である。
 もちろん医師の責務は、本人の意志を最優先させることであるが、本人の意志がわからないのが100%である。即物的医療から人間の精神を解放させることが、残された私たちの新たな責務になるであろう。