医学の進歩と情の衰退

医学の進歩と情の衰退
 医学の飛躍的な進歩は誰もが認めることである。病院や介護施設などの医療環境は社会の流れによって改善しハード面は良くなった。しかし社会の流れから人情が廃れたように、家族愛も医療の心も低下した。
 患者中心の医療などと高い所からご託を列べても、医学の進歩にともなう新たな検査や薬剤に医療財源を奪われ、家族は親を施設に預けたたまま、病院職員は検査や雑務に追われ、患者が望む心ある絆は遠のくばかりである。
 政治家は国民の為と言う。行政は住民の為、教育者は子供の為、家族は親の為。そして医師は患者の為と言う。しかし、このように恩きせがましい言葉ほどその内容は空虚である。偽善な言葉、思いつきや借り物の内容、誰もが望んでいないのに多くが望んでいるように思わせるテクニック。このような詐術では、本質的改善は遠ざかるばかりである。医療においては、大御所といわれる医師ほど現場を知らず、患者の気持ちを知らず、それでいて口だけが達者だから始末が悪い。
 診察室に入っても、医師はコンピュータの画面ばかりを見つめ患者の顔色を見ずにいる。患者が症状を訴えても「検査をします、クスリで様子をみます」の優しいワンパターンばかりで、なぜ検査をするのか、なぜ処方が必要なのか、患者は訳も分からず三分間でタイムアウト退場となる。
 この三分診療を医療などと呼べないことを多くの医師たちは知っている。しかし多くの患者をさばくためにはベルトコンベアーのスピードを落とせないのである。モダンタイムズのチャップリンのごとくである。
 病棟の医師は嵐のようにやってきて嵐のように去ってゆく。医師の説明は訳の分からぬ早口で、患者は肝心なことは何も理解できないまま頷くばかりである。入院から退院まで、人間らしい情ある触れ合いはない。医療はデパートと同じサービス業なので、にこやかな表面的対応に、患者は感謝の気持ちもなければ、それが当たり前と思っている。
 医師を補佐する看護師もまた同様である。看護師の仕事は患者を看護することであるが、これもまた看護の本質を取り違えている。毎日カンファランスをやることが、勉強会や看護研修に行くことが、准看ではなく正看を増やすことが、患者のためかといえば否であろう。
 患者は病気の話よりも、息子の悪口や孫の自慢話を聞いて欲しいのである。看護師にとって患者の側にいる時間が以前より長くなったと言えるだろうか、逆である。医学的看護など患者は求めていないのである。
 看護師は廊下を走り回り、ナースステーションを覗けば机に向かって一心不乱にコンピュータと格闘している。立っている看護師は殺気だって声もかけられない。昔に比べ看護師の数は増えているのに、患者と接する時間は確実に減っている。あの横浜市大の患者取り違い事件は、ひとりの看護師が二台のベッドを一度に手術室に運んだことが原因で、看護師の人員不足が生んだ悲劇であった。
 お偉い人たちは、カルテや看護日記をきちんと書くことが患者の為という。しかしそれは単なる管理医療を患者の為と思い込んでいるにすぎない。もちろん患者の記録を残すことは重要であるが、それは時間に余裕がある場合である。机に向かう時間があるならば半分位の時間は患者の側に振り分けるべきである。
 現代医療の欠点は医学の進歩が招いた余裕のない医療で、「智を重んじ、情を失った」ことである。医師は管理医療に時間を振り回され、知らず知らすに患者を冷たい医療へ追いやっている。医学がどれほど進歩しても、患者の心を癒すのは医学ではなく「医療の情」である。そして情を示すには時間的余裕が必要である。
 日本の医療を良くするためには、暖かい医療を築くためには、医療従事者の心に余裕を持たせることである。そのためには医療財源を増やし医療関係者を増員する以外に解決策はない。しかしこれを誰も言わないから何も解決しない。
 医療をめぐる多くの議論は、財政の破綻を前提にしているので問題の解決には至らない。日本の医療費は40兆円であるが、米国一人当たりの医療費をそのまま日本に当てはめれば80兆円になる。日本の安い医療費で米国の医療のまねなど不可能である。医療費を増やし医療のハード面、ソフト面を改善させることであるが、高齢化で財源はなく、その負担は医療側にのしかかる。
 暖かい医療と医学の進歩は財源が同じ財布なので、互いに相反する関係にある。CTやMRIの導入を医学の進歩というならば、最新検査に人員と財源を奪われ、患者サービスが低下することを医療の衰退という。
 お偉い人たちは世間受けを狙い医療従事者の意識改革が必要と言う。しかし患者サービスの充実はすなわち医療従事者の数を充実させることで、「暖かい医療」と「医学の進歩」を両立させるためには、医療財源を増やす以外に方法はない。これがいやなら医学の進歩、医療サービスなどを医療に持ち込まないことである。