泣く子と地頭

 当たり前のことであるが、人間社会は人間によって構成されている。この人間社会を構成するさまざまな人間を2つに分類するとしたら、どのような分類が可能であろうか。

 男性と女性、大人と子供、日本人と外国人、自分と他人、さまざまな分類が可能であろう。しかしたとえどのように人間を分類したとしても人権は誰も同じであるから、分類によって人間が差別されることはない。

 才能のある者とない者、裕福な者と貧しい者、高学歴と低学歴、美人と不美人、健康人と病人、このように分類しても、それは人間の差異であって差別には相当しない。勉強ができなくても、音楽の才能がなくても、俳優にほど遠い容貌であっても、それは誰もが認める人間の個人差であって、権利としての人権に変わりはない。この分類によっても差別は生じない。あるいは人間の個人差によって差別を生じさせてはいけない。

 患者と医師、学生と教師、弟子と師匠、この分類では有形無形の供与関係が生じるので、与えられた者は感謝の気持ちを、授けた者はそれを喜びとすることができれば、両者はよい関係を保つことができる。問題が生じるのは、授けた者が傲慢になり、与えられた者が感謝を忘れた場合である。道を譲る者と譲られる者、介護する者と介護される者、この関係もまた同様である。このような気持ちが人間社会の潤滑油の働きをしている。

 では次の分類はどうであろうか。迷惑をかける者と迷惑を受ける者、自己チュウ人間と協調性を大切にする者、ゴネ得を得意とする者とそれを恥とする者。このように分類しても人権問題は生じない。しかし生じないところに人間社会の大きな問題が隠されている。それは迷惑をかける者が人並み以上の人権に守られているからである。

 どの社会においても迷惑人はごく少数派である。しかし全体に及ぼす影響はきわめて大きい。それでいて迷惑人は周囲に迷惑をかけている自覚はない。むしろ不快な問題を糾弾する正義を自認している。そのため被害者が多数いても迷惑人が社会問題になることはない。傍若無人、変わり者、ワガママ人間、非常識と陰で言われても、彼らは人権に守られその自覚をもたない。

 人間社会の困り者は迷惑人やクレーマーばかりではない。良識ある一般人が無意識のうちに困り者になっていることもある。簡単な例を示そう。

 流れに逆らい、制限速度を守りながら運転する車を見ることがある。彼らは後ろに何十台も車が連なっていてもスピードを上げようとはしない。法的正義は困り者の先頭車にあるので、後続の車はクラクションを鳴らすことはできない。馬鹿じゃないのと心で叫んでも、ただじっと耐えるだけである。

 「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざがある。泣く子に理屈を言っても通用しないという意味である。この理屈が通用しないのは泣く子だけではなく、地頭もまた同様である。地頭とは平安・鎌倉時代に荘園を管理して、税金を取り立る役人のことであるが、権力を振りかざして横暴を働いてもそれがルールと言われれば従うしかない。知的な理屈屋もいれば暴力を振りかざす者もいる。このような場合、論争を挑み消耗するか、勇気をもって立ち向かうか、じっと耐えてやけ酒を飲むくらいしか方法はない。

 懐かしい話になるが、日本には沈黙を美徳とする伝統があった。民は黙ってお上に従い、女性は黙って男性に従い、男は黙ってビールを飲むのがよいとされてきた。文句を言わず、言われたままに従うのを美徳としてきた。この美徳は人間の従属関係を悪とする人権の考えにより廃れてしまったが、この沈黙はお互いの信頼関係の上に成り立っていたといえる。

 この沈黙が消失し、世の中が騒がしくなった。そして人間の信頼関係も希薄になった。

 理屈を言い合う世界よりは、黙ってわかり合える社会のほうがよい。契約社会よりはナアナア社会のほうが住みやすい。毎朝、愛してると言いながら離婚する夫婦より、何も言わず信頼で結ばれた夫婦の方が良いに決まっている。日本人の古い考えをいけないとする何でもアメリカ主義、何でも西欧主義に押され、ブラックバスに追われたフナのように日本のよき伝統が失われたように思える。

 世の中、泣く子が増え、みんなの世界が「私は、私は、・・・」の世界になった。ワガママや理屈を言う者、声の大きな者が多くなった。そしてそれを恥とする多数の人々にとって住みにくい世の中になった。

 当たり前のことであるが、人間社会に必要なことは、感謝の気持ちと信頼関係である。また人権も大切であるが、迷惑人の人権を恐れ、人並み以上の人権を与えるのもいけない。

 泣く子と地頭、この言葉は最近めったに聞かなくなった。それは何を言っても泣く子と地頭には通用しない、という大人の判断あるいは諦めなのだろうか。