黒船来航

欧米列強の接近
 日本が鎖国で平和な時代を過ごしている間に、世界では様々な変化が起きていた。18世紀末にアメリカがイギリスから独立して、アメリカは開拓を求めて西部へ移動した。また同じ頃にフランス革命が起き、ナポレオンが勢力を拡大しイギリスやロシアと戦いを繰り広げた。

 江戸幕府の崩壊は「開国」によって始まった。鎖国が維持できないことは保守的な官僚統制社会がその前提を失ったことを意味していた。日本に開国を迫ったのは、アメリカのペリーが最初ではない。ロシアもイギリスも幕府に開国を迫っていた。幕府の要人たちは官僚的な言い訳を繰り返して問題の先送りで煙に巻いていたのである。しかし4艘の黒船を率いたペリーにはこのような対応が通用しなかったのである。ペリー艦隊は許可を得ずに東京湾に侵入し、派手に空砲をぶっ放して江戸に脅しをかけた。いかにもアメリカ人らしいやり方ではあった。

ロシア 

 イギリスやロシアはアジアへの進出をもくろみ、特にロシアはシベリアを植民地にすると南下を進め、18世紀末にはしきりに日本近海に出没するようになった。ロシアの思惑に気付いた老中の田沼意次は、蝦夷地の開発を進めロシアとの直接交易を計画した。しかしこの自主的開国も田沼意次が失脚すると、後を継いだ松平定信によって再び鎖国の扉を固く閉ざすようになった。
 1792年、ロシアの使節ラクスマンが漂流民・大黒屋光太夫(こうだゆう)を連れて根室に来航し日本との通商を求めた。ラクスマンの要求は松前藩から幕府に伝えられたが、老中の松平定信は漂流民は受けとるが、通商については鎖国が祖法であるとして、通商を求めたければ長崎へ行くように命じた。
 ラクスマンは許可証を受け取るが、長崎に行かずそのまま帰国した。このラクスマンの来航を重く見た幕府は、蝦夷地や江戸湾の海防強化を諸藩に命じ、さらに近藤重蔵や最上徳内に択捉島を調査させ、1799年には東蝦夷地を幕府の直轄地とした。
 鎖国は徳川の祖法ではないが、幕府の頑な姿勢が幕末における未曾有の混乱をもたらすことになる。なお日本に帰還した大黒屋光太夫については、井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」に書き上げられ映画にもなっている。また近藤重蔵や最上徳内は択捉島に「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱を立て日本領であることを示している。

 1804年、ロシアの使節レザノフが、かつてラクスマンが持ち帰った入港許可証を持って長崎に入港し通商を求めてきた。幕府の入港許可証を持っているのでレザノフは公的な外交使節であり、幕府は交渉を行うべきであったが、半年間も長崎の出島に留めたうえで鎖国を理由に門前払いにしている。
 この冷酷な対応にロシアは、1806年から翌年にかけて樺太や択捉島を攻撃している。ロシアの強硬な態度に驚いた幕府は蝦夷地をすべて直轄地として松前奉行に見張らせ、東北の各藩に沿岸の警備を命じた。また間宮林蔵に樺太を探検させ、樺太が島であることを発見し、この間宮林蔵の功績から樺太とロシアとの海峡を「間宮海峡」と名付けられている。
 日本とロシアとの間で緊張関係が続くなか、1811年にロシア船が千島列島の国後島に上陸して測量を始めた。これに気づいた幕府がロシア人を拿捕して、艦長のゴローウニンを抑留した。ロシアは報復として翌年、日本船を拿捕すると淡路島の商人の高田屋嘉兵衛(やかへえ)を抑留した。両国間の関係は悪化したが、ロシアには日本を侵略する意図はなく、ゴローウニンと高田屋嘉兵衛は捕虜交換の形でそれぞれ帰国した。これら一連の出来事はゴローウニン事件と呼ばれているが、この後の日露の関係は修復へ向かい、幕府の直轄地となっていた蝦夷地は松前藩に返還された。なお高田屋嘉兵衛に関するエピソードは作家の司馬遼太郎によって「菜の花の沖」という名で小説化されている。

イギリス

 オランダと植民地をめぐって争っていたイギリスは、オランダがナポレオンによって征服されると、これを好機として東洋のオランダ植民地を攻撃した。そのような中、1808年にオランダの国旗を掲げた船が長崎の出島に入港した。オランダ商館員が船に乗り込んで出迎えようとすると、彼らは捕まり船に連行され、同時にオランダ国旗が降ろされイギリス国旗が掲げられた。
 この船はイギリスのフェートン号が化けたもので、フェートン号は人質を盾に長崎港内でオランダ船の捜索を行い、日本に燃料や食糧を求め、さらに要求が通らない場合には港内の日本船を焼き払うと通告してきた。イギリスの乱暴狼藉ぶりに長崎の松平康英は激怒したが、どうすることもできなかった。なぜなら泰平の世が長く続いたため、長崎の警備をしていた幕府や肥前藩の兵力が激減して戦える状態ではなかったのである。
 幕府は何の抵抗もできず、要求どおり燃料や食糧を提供してフェートン号に退去してもらうと、長崎奉行の松平康英は責任を取って切腹し、肥前藩の家老数名も切腹した。この事件で手抜かりを幕府に非難された肥前藩は、その後は近代化に全力を挙げ幕末から明治維新にかけて活躍することになる。
 この出来事はフェートン号事件と呼ばれているが、この後もイギリス船は何度も日本近海に出没したため、業を煮やした幕府は1825年に異国船打払令を出し、中国の清とオランダ以外の外国船を撃退するように命じた。この問答無用の異国船打払令は余りにも極端な対応であり、幕府の場当たり的な対応がさらなる悲劇をもたらした。

 異国船打払令から12年後の1837年、アメリカの一隻の商船が我が国に近づいてきた。その船はモリソン号という名前で、日本人の漂流民を乗せ、彼らを帰還させ平和的に通商を求めるためにやって来たのである。しかし幕府はモリソン号に対して異国船打払令を理由に砲撃を行い、轟沈されそうになったモリソン号は通商はおろか漂流民の引き渡しもできずに日本から去っていった。この騒ぎはモリソン号事件と呼ばれている。
 幕府によるこのような暴挙に対して、蘭学者の渡辺崋山は慎機論(しんきろん)を、高野長英は戊戌夢物語(ぼじゅつ)を書いて批判したが幕府によって弾圧された。この事件を蛮社の獄(ばんしゃのごく)というが、蛮社とは蘭学を「野蛮な結社」と一方的に断じる偏見が込められた言葉であった。この事件を指揮したのが南町奉行として天保の改革で暗躍すた鳥居耀蔵(ようぞう)だった。

渡辺崋山
 江戸詰の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町で生まれた。渡辺家は田原藩で上士の家格で代々100石の禄を与えられていたが、父定通が養子であることから27石に削られ、藩の財政難による減俸で12石足らずになり、幼少期は極端な貧窮の中で育った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出された。この悲劇がのちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され忠孝道徳の範とされた。少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って生計を支え、20代半ばには画家として著名となった。しかし学問にも励み、朱子学を学び18歳のときには昌平坂学問所に通った。1833年40歳で江戸詰家老となり,農学者を招くなど領民の生活安定のために献身的に活動をした。渡辺崋山は藩政を担当しながら,江戸で尚歯会と呼ばれる蘭学研究会で高野長英や小関三英ら多くの蘭学者との交流を深めた。
 モリソン号事件を知った渡辺崋山や高野長英は幕府の「異国船打払令」に危機感を持ち、渡辺崋山はこれに反対する慎機論を書いた。この書は海防を批判し、海防の不備を憂え、幕府高官に対する激越な批判に終わっていた。内心では開国を期待しながら海防論を装っていたが、田原藩の年寄の立場上匿名で発表することはできず渡辺崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していた。しかし約半年後の蛮社の獄での家宅捜索で草稿が見つかった。
 蘭学者弾圧の機会をうかがっていた鳥居耀蔵は「慎機論」の内容が幕政を批判しているとして高野長英らとともに重罰に処した。渡辺崋山は田原・池ノ原に家族とともに蟄居となったが,藩及び藩主に災いが及ぶことを恐れ,1841年、池ノ原の屋敷で「不忠不孝渡邉登」と書きし自刃した。享年49。

 渡辺崋山は東三河出身の中で最も知名度の高い歴史的人物で、渡辺崋山に関する詳しい資料は田原市博物館に展示してある。

 

 アヘン戦争とその影響
 8世紀後半からイギリスで始まった産業革命は大規模な工業生産力や軍事力をもたらし、全世界に大きな影響を与えた。つまり市場や原料の確保のため欧米諸国が競って植民地の獲得に乗り出したのである。欧米諸国による侵略はやがてアジアへ伸び、インドやビルマ(ミャンマー)はイギリスの、インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)はフランスの植民地となった。日本や清、朝鮮とシャム(タイ)を除いて、ほとんどの国々が欧米の植民地となり、侵略を免れた国々も欧米による圧迫に悩まされた。
 まず清が欧米の犠牲となった。19世紀前半、イギリスは中国産の茶を求めて清と貿易を行うが、イギリスは大量の茶を輸入するが、イギリスには売る商品がないため銀で支払っていた。そのためイギリス国内の銀が不足することになった。当時は国が保有する金銀の量が国の信用となっていた。つまり銀不足はイギリスにとって深刻な問題になった。
 しかし清に対して売るものがなかったイギリスは、悪魔のような手段を思いついた。それが植民地であるインドで生産されたアヘンを清へ輸出することであった。麻薬であるアヘンは身体に深刻な影響を与え、常習性によって一人の人間が大量にしかも死ぬまで求めるようになった。イギリスが持ち込んだアヘンはたちまち清に広がり、イギリスの茶の輸入量を上回り、今度は清が国内の銀不足に悩まされた。困った清はアヘンの輸入を禁止したが、アヘンの密輸が続けられ、清はイギリスにアヘン輸入の厳禁を宣言してイギリス商人からアヘンを没収した。
 清のアヘン輸入の厳禁は、国の経済や国民の健康を守るためであったが、イギリスは没収を口実にインドで編成した軍隊を送って清と戦争を始めた。1840年に始まったこの戦争はアヘン戦争と呼ばれている。アヘン戦争はイギリスに有利に展開して、1842年に清が降伏すると両国は南京条約を結んだ。

 南京条約によって、清はイギリスに多額の賠償金を支払い、さらに開港地を上海などの5港に増やし事実上の開国となり、香港を割譲したほか領事裁判権(治外法権)を認めるなど清にとって不利な内容になった。

 それまで「東洋の大国」とされていた清がアヘン戦争で敗けたことは、欧米の資本主義に屈服したことを意味し、その後の東アジアの歴史に大きな影響を与えた。ちなみに南京条約によって奪われた香港が中国に返還されたのは約150年後の1997年のことであった。
 アヘン戦争で清がイギリスに敗北したことを知った江戸幕府は大きな衝撃を受けた。当時の海防体制が貧弱だったからである。1808年に起きたフェートン号事件をきっかけに、1825年に異国船打払令を出し、日本に近づく外国船は、オランダや清などを除いて問答無用で撃退していた。しかしイギリス船が我が国に来航した場合、もし打ち払うような行動に出れば、イギリスに攻撃のきっかけを与えてしまう。幕府は南京条約が結ばれた1842年に天保の薪水給与令を出した。これは日本に来た外国船に対して、食糧や燃料を与えて速やかに退去してもらうことで、この法令によって外国との無意味な衝突は避けられた。
 日本と同じく制限貿易を行っていた清は、アヘン戦争でイギリスに敗け開国させられ不平等な条約を結ばされていた。我が国が清と同じ運命にならないためには、自主的に開国して外国と交易する必要があった。しかし幕府は鎖国が先祖の代から守るべきと固く信じていたのである。
 江戸幕府が鎖国に踏み切ったのは、スペインやポルトガルといったキリスト教のカトリック国家が、アフリカやアメリカ大陸の国々を次々と侵略し、その魔の手が日本に伸びてきたからである。そのためカトリックを禁止し、日本との交易をオランダや中国、朝鮮や琉球などに制限し、その状態が国を閉ざしたように見えたことから鎖国と呼ばれるようになった。
 侵略を受けないための制限貿易が、いつのまにか「鎖国」として定着し、徳川家康が積極的に諸外国と貿易をしようとした事実が忘れ去れ、鎖国が幕府成立以来の「祖法」という思い込みが絶対化していた。
 1844年、オランダ国王が幕府に開国を勧める新書を送ってきた。オランダは欧米諸国の中で唯一我が国と貿易を行っていたが、そのオランダが日本に開国を勧告したのは、自国の貿易の独占を失う可能性があったが、日本が自主的に開国をしても、オランダとの縁を忘れずに友好な関係を続けられるとの思惑があった。
 オランダが開国を勧めたのは蒸気船が製造されたことである。蒸気船は1807年にアメリカのフルトンが発明したが、この蒸気船が世界の歴史を、特に日本の運命を大きく変えたのである。それは我が国が「海で囲まれている島国」だったからである。
 日本が海で囲まれた島国であることは、長い間「海は天然の防壁」の役割を果たしてきた。もし他国が日本に攻め込もうとしても、大量の船が必要だったからである。大量の船を作ろうと思えば莫大な資本が必要で、失敗した場合のリスクを考えれば二の足を踏むのが当然であった。そのため日本は元寇などの例外を除いて外国からの侵略を受けることがなく、特に鎖国になってからは平和な状態が続き、日本の防衛力は低下していた。
 蒸気船の発明はこの「天然の防壁」を打ち破るものだった。丈夫な船を造ろうとすれば、鉄を使えばよいが、鉄は重すぎて沈んでしまう。しかし蒸気船が発明されたことで蒸気機関によって鉄製の船を浮かび上がらせ、船に多数の人間や大砲などの銃器を積み込むことが出来るようになった。
 もし海上から大砲や鉄砲などで対岸の陸地を撃てば、海で囲まれている日本はどこからでも狙われてしまう。つまり蒸気船の発明によって我が国は「天然の防壁」が、どこからでも狙われる国になってしまった。
 オランダは蒸気船の脅威が分かっていたので、我が国に開国を勧告してきたのである。これに対し老中の阿部正弘は世界情勢を知らず無視してしまった。鎖国は幕府の祖法であって変えることはできないとしたのである。

 

黒船来航
 当時の欧米諸国は、日本の開国に期待したが、特に強く要求したのがアメリカであった。アメリカが日本に開国を迫った動機は意外と単純であった。1776年に建国したアメリカは太平洋で大規模な捕鯨を行っており、日本の港湾を捕鯨船の補給基地として利用したかったのである。また中国貿易の中継地にするために、日本と友好な関係を持ちたいと考えていた。そんな思惑からアメリカは当初は紳士的な対応であった。
 1837年、日本の漂流民を乗せた商船のモリソン号が来航したが、幕府は異国船打払令を理由に砲撃して追い返した(モリソン号事件)。いわば門前払いで攻撃を受けたアメリカであったが、1846年にはアメリカの東インド艦隊司令長官のビッドルが浦賀に来航し、日本に平和的な通商を求めてきた。しかし幕府は鎖国を理由にアメリカの要求を拒絶し、面目を潰されたアメリカは激怒し、日本を開国させるため強硬手段を行うことになった。つまり日本を開国させるには下手に出るのではなく、強気の姿勢で対応すべきと判断したのである。このようなアメリカの思惑によって、1853年6月にアメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが4隻の黒船を率いて浦賀沖に現れ停泊した。

 日本人が初めて見た艦は帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関で航行し煙突からはもうもうと煙を上げていた。
 浦賀へ来航したペリーの艦隊の4隻の軍艦は黒船と呼ばれた。黒船は蒸気船であり、船上に計73門大砲を並べ、空砲を放つなどの威嚇を加え、上陸に備えて勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。この件は事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたのだが、最初の砲撃によって江戸は大混乱となった。しかし空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに花火の感覚で喜んだとされている。
 浦賀は多くの見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みるものもあった。このときの様子を「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味で「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と「わずか四杯(船は1杯、2杯と数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけている。

 幕府は浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを知るが、ペリーは親書は最高位の役人にしか渡さないとした。さらに「親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しする」と脅しをかけた。

 幕府に開国を求めフィルモア大統領の国書の受理を迫った。このようなアメリカの強硬な態度に対して、幕臣たちは鳩首したがどうしても妙案が浮かばない。焦った幕臣たちは問題の先送りを考えた。老中首座阿部正弘は、7月11日に国書を受け取るが「将軍が病気であって決定できない」として返答に1年の猶予を要求した。ペリーは「返事を聞くために1年後に再来航する」と告げた。ここでは文書の受け渡しのみで何ら外交上の交渉は行われなかった。翌年に回答することを約束し、7月15日にペリーは日本から退去した。

 しかしこれは結論の先送りに過ぎず、幕府はその後の対応に苦しむことになる。なお同年7月には、ロシアのプチャーチンも長崎に来航して、国境の確定と開国を要求してきた。
 先送りの口約束で、一旦は危機を免れたが、幕府は解決策を見いだせず、翌年1月、ペリーは約束どおり黒船7隻を率いて浦賀に来航して日本に開国を要求してきた。黒船による砲撃を恐れた幕府は、ペリーの言うなりに開国を認めざるを得なくなり、同年3月に日米和親条約を結ぶことになる。

 

日米和親条約/日米修好通商条約
日米和親条約の主な内容は
1.アメリカ船が必要とする燃料や食糧を日本が提供すること
2.難破船を救助し、漂流民を保護すること
3.下田・箱館(函館)の2港を開き、領事の駐在を認めること

である。日米和親条約は函館を開港はしたが自由貿易は認めず、水、石炭、食料のど決められた物資の販売のみであり、その価格は日本側で決め支払いは金または銀で払うというものであった。
しかし1858年にが締結された日米修好通商条約では函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎の5港を新たに開くことになった。日米和親条約では函館での自由貿易は認められなかったが、日米修好通商条約では函館でも自由貿易を行えるようになった。この日米修好通商条約は日本側に不利な条件で結ばれたのである。それはアメリカに領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなく、片務的最恵国待遇を認めたことだった。

 領事裁判権は在日アメリカ領事が日本で犯したアメリカ人の罪に対してその裁判ができるというもので、自国に有利な判決を下すことになった。

 関税自主権がないことは、関税自主権があれば商品に対しての関税を掛けられるので商品の価格を安定させることができた。それができないということは値段はアメリカの言いなりであった。例えばバナナ一房100円で購入したい日本に対して、アメリカは150円だと言ってきた。その時に50円の関税をかけて相殺するのが普通であるが、それができない仕組みであった。

 最恵国待遇とは日本が他国と条約を結んだ際に、アメリカよりも有利な条件を他国に認めた場合、アメリカも自動的にその条件が認めることで、逆にアメリカがイギリスやフランスなど他国と有利な条約を結んでも、日本にはその恩恵は与えられないというものである。外交知識に欠けていた幕府はアメリカの言われるままに最恵国待遇を認めてしまった。

 一度破れた例外は、絶え間なく続くことになる。官僚統制国家である江戸幕府はその前提が崩れると加速度的に弱っていくことになる。幕府はその後、イギリス・ロシア・オランダと同様の条約を結び、200年余り続いた鎖国体制から開国し、世界の荒波に揉まれることになった。幕府とアメリカが条約を結ぶと他国も同様の条約を求めてきた。

  1854年12月、江戸幕府とロシアのプチャーチンとの間で日露和親条約が結ばれたが、他国とロシアとの違いは日露との国境を確定したことである。すなわち両国周辺の島について、樺太は両国の雑居地とし、千島列島は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とした。
 その後、明治8(1875)年の樺太・千島交換条約で、樺太はロシア領、千島列島全部が日本領と変更されたが、日露和親条約で択捉島・得撫島間を国境と定めたことが、択捉島・国後島・歯舞諸島・色丹島のいわゆる北方領土が日本固有の領土であると主張する大きな根拠となった。なお日露和親条約が結ばれた2月7日を我が国では「北方領土の日」と定めている。
 黒船の来航に幕府は今後の対策をとろうとしたが、長年の平和が続いたこともあって、外国との交渉をまとめる能力がなかった。大老・井伊直弼はこの崩れかけた歯車を何とか元に戻そうと恐怖政治を敷いた。それが安政の大獄である。しかし勤皇思想を奉じる水戸藩士らによって、江戸城の桜田門外で暗殺された(1860年)。

 そのため幕府はやむを得ず、挙国一致の体制で諸藩に意見を求めた。政治意識に目覚めた外様大名は独自の路線で運命を切り拓こうとしていた。特に過激な動きを見せたのが、長州の毛利氏と薩摩の島津氏である。彼らは関が原で徳川家康に敗れたため、心ならずも幕府に臣従していた人々であった。また彼らは諸外国との交易によって絶大な力を蓄え、しかも藩政改革にも成功していた。このように幕府が諸藩に意見を求めることは、幕府の政策に対して口出しすることを認めることでになった。幕府は諸藩の意見をまとめて朝廷に提示したが、これは幕府の権威だけでは国論をまとめることが出来ないことを自ら証明したことで朝廷の権威を高めることになった。不平等貿易による物価の急激な高騰が怨嗟となり攘夷思想が産声をあげた。この攘夷思想は孝明天皇が大の外国嫌いだったことから、朝廷を擁護して弱腰の幕府を攻撃する尊皇攘夷思想へと進化した。

 幕府は対外的危機を回避するために、老中の阿部正弘が前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)や越前藩主の松平慶永(よしなが)、薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城(むねなり)、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)らを登用した。外様大名を含む諸藩を幕政に参与させ挙国一致体制で乗り切ろうとしたのである。
 また国防を充実させるため江戸湾に砲台(台場)を築き、長崎に海軍の教育機関・海軍伝習所を、江戸には蛮書和解御用を改編した洋学研究教育機関・蕃書調所を設けた。阿部正弘によるこれらの改革は「安政の改革」と呼ばれている。また幕府はこの危機を脱するためフランスと結んで軍事力の強化を進め、天皇の娘を将軍家に輿入れさせる「公武合体政策」を行った。

 

貿易の開始とその影響
 1859年より横浜・長崎・箱館の3港で外国との本格的な貿易が始った。日本からの主な輸出品は生糸・茶・カイコの卵が産み付けられた紙(蚕卵紙)や海産物などで、海外からは毛織物・綿織物、鉄砲・艦船などを輸入した。
 貿易の主な相手国はイギリスで、日本を開国させたアメリカは南北戦争を抱え貿易どころではなかった。貿易は大幅な輸出超過となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追いつかず、国内の品不足から物価が急騰した。また外国製の安価な綿織物の大量輸入で農村での綿作業を圧迫した。
 幕府は物価高を口実に貿易を規制し、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の5品を江戸の問屋を経由して輸出するように命じ(五品江戸廻送令)た。しかし地方の商人や自由取引の主張する外国の反対で成功しなかった。このことは開国や貿易に周到な準備をしていれば起きなかったことで、対策が後手に回ったのである。
 日本と外国との金銀の比価は外国では1:15だったが、日本では1:5であった。幕府はハリスが主張した「銀の価値による交換」が行ったが、日本の銀15枚は外国で交換すればは金1枚であったが、日本で交換すれば金3枚になった。つまり日本を経由するだけで資産が3倍になった。銀貨を日本に持ち込んで小判を安く手に入れる外国人が続出し、そのため日本の金貨が大量に海外に流出してその被害は10万両以上とされている。
 大量の金貨の海外流出に幕府は、小判の大きさや重さをそれまでの約3分の1にした万延小判を発行して被害を防ごうとしたが、これは同時に貨幣の価値を3分の1に低下させることになった。
 貨幣の価値が下がれば物価が上昇する。これは好景気の時に貨幣の金含有量を下げ、文化を向上させた元禄小判とは違い、貿易による景気悪化の時期と重なり物価は上昇して、悪質なインフレになり庶民の暮らしは大打撃を受けた。
 庶民の怒りは貿易への反発となり、貿易商人や在留する外国人が襲われ、ハリスの通訳・ヒュースケンが江戸で暗殺されている。これら外国人に対する襲撃は、そのまま攘夷運動につながった。農村では百姓一揆、都市では打ちこわしが多発し、これに対応できない幕府の権威はますます下がっていった。