田沼時代

田沼時代
  徳川吉宗が将軍を退位して徳川家重が9代将軍となるが、家重は言葉がうまく話せなず、家重に仕えていた田沼意次(おきつぐ)が次第に重用されるようになった。また徳川家重の子の徳川家治(いえはる)が10代将軍になるが、家治は将棋ばかりで政治への関心は少なく、そのため1772年に田沼意次は将軍の側用人と老中を兼任することになる。

 もちろん田沼意次が生まれながらの才能があったのだろうが、有力大名と縁戚関係を結び、実質的に政治の実権を握ることになる。この十数年間を田沼時代という。田沼意次は幕府の財政再建の為に次々と政策を打ち出してゆくが、田沼時代といえば一般に賄賂政治といの印象を持つ。しかしこれは田沼意次が株仲間などの商人優遇政策に伴うもので、賄賂政治は田沼意次の部分的な評価にすぎない。

 江戸幕府は賄賂をもらうのが当たり前で、幕府の権力を保つために田沼意次だけでなく幕府首脳も積極的に賄賂を受け取っていた。清廉潔白で知られる次期老中松平定信(さだのぶ)も、幕閣入りを目指して田沼意次に賄賂を贈っていた。田沼意次は若い頃から徳川家重に仕え、有力大名と先代の将軍吉宗の重農主義に偏った政策では、経済は低迷し、幕府の財政は悪化し、幕府の直轄地での一揆が多発しているのを間近で見ていた。

国税構想

 江戸時代の初期は幕府の収入源である金銀産出量が多く、財政的に余裕があり、直轄地のみのでも幕藩財政は黒字だった。そのため各藩から税を取る必要はなく、幕府の税徴収権は天領のみであった。
 しかし江戸中期に入ると金銀産出が低下し財政が苦しくなった。1742年から復活した「御手伝普請」では、老中が任意で指名する藩に河川工事などを全額負担させていたが、田沼は街道の整備など公に関わる費用を全国民から平等に徴収しようとした。

 1708年に富士山大噴火し降灰除去を名目に国税徴収を計画した。課税額は高百石で二両の割合で五年分割とし百姓一世帯あたりで250文とし、宝永の国役金令では対象外だった町民には間口一間あたり300文を想定し寺社領も対象に加えた。5年間かけて徴収するのは、負担軽減以外にも5年間も徴収することで国税を徴収する仕組みを作り新たな政策に活かそうとしたのである。
 しかし財政難の藩は領民に重税を課しているため不満の声が高く、これ以上領民に負担を強いることが無理な藩が多かった。領地の徴税権は領主固有の権利として抵抗、藩が幕府に納めるため領民が導入に反対し徴収できない場合や徴収漏れがあれば藩の負担になるため反対意見が多く実現できなかった。日本全国から税を徴収する考えは今では常識であるが実現しなかったのである。

重農主義から重商主義
 年貢税率を増加させる政策は百姓の不満を高め各地で一揆を招いた。また、年貢収入は天候に左右されるため収入が不安定で、大凶作になれば収入は激減し財政に大打撃を与えた。このように年貢だけに頼るにはあまりにも危険が高すぎた。
 また米価以外の物価が上昇すれば、米は実質的に価値が下がるため年貢収入の増加が財政再建につながらず、年貢依存から脱却する構想が必要だった。

 そのため田沼意次は重農主義では幕政が機能しないとして、重商主義に切り替える政策を実行した。田沼意次の特徴は重商主義といわれるが、これは現在と同じ商業を重んじる考えである。商業資本に逆らうのではなく、その流れに乗ろうとしたのだった。伝統的な武士観では商業を卑しいものとして、武士が関わるべきではないとしていた。そのため幕府の収入は年貢のみでだったが、年貢だけでは米価の下落や飢饉、一揆などにより収入は不安定で財政にも限界があった。そこで田沼意次は商人からお金を取ることを考えた。

 重農主義から重商主義への転換であるが、それは「儒教と商行為」の呪縛からの脱却であった。商人は賤業ゆえに納税義務はなかったが、それでは農民が窮乏して商人が肥えるだけであった。田沼意次は商人の実力を認め、この状況を打破しようとしたのである。

 しかし商人たちからも、税を取られることから不満の声があがった。そこで田沼意次は商人から直接税を取るのではなく、彼らが扱う商品に税をかけることにした。物品ごとに仕入れから販売までのルートを同業者に確立・運営させ、その物品に流通税をかけたのである。「儒教と商行為」の影響を和らげ、商人たちには独占的に流通ルートを認め、その代わりに間接税を支払わせることになった。田沼は株仲間(財閥)の結成を後押しして、その上で彼らに運上金をかけた。すなわち「法人税(間接税)」の発明しである。

 田沼意次は、独占的な商売行為を条件に株仲間を奨励した。株仲間とはお酒、しょうゆなど特定の同業者の組合で、その株仲間から冥加金(みょうがきん)を受け取り、その代わり冥加金を納めた株仲間には商売の独占権を与え、株仲間に入らない者には商売を禁止した。冥加金は御礼という意味合いが強く納める側が金額を決めていた。異業種が実態不明の組合を作るなどの混乱を招いたが商人への課税の道を開いた。

 しかしこの方法の弊害として賄賂が多発した。政治家にお金を渡して商売に有利な条件をつけてもらえば儲かるからである。このようにして幕府と商人たちとの思惑が一致し、営業の独占権を与えられた株仲間が幕府の公認を受けることになった。
 株仲間が扱った商品は油や紙にロウソク、綿などの日用品や、銅や鉄などの金属が中心で、江戸では十組問屋(とくみといや)、大坂では二十四組問屋(にじゅうしくみといや)が結成され、彼らから集めた運上や冥加によって幕府の財政も潤おい、商業の繁栄は景気を上向かさせた。

幕政の予算の編成

 田沼意次は幕政の予算の編成をおこなった。それまでの幕府は必要に応じて金蔵から金銀を引き出すドンブリ勘定であったが、これでは経費節減はできない。そこで田沼意次は初めて予算制度が成立させた。

 当時の幕府財政は健全に見えていたが、幕府の年間収支はほぼ均衡していた。大災害など不時の出費が続けば、近い将来余剰金を使い果たすのは目に見えていた。田沼意次が保身を図るならば、将軍や大奥の費用を多めに計上するはずであるが、史実とは逆で年を経るごとに減らされ経費削減に成功している。その一方で町奉行などの民政に関する費用は据え置かれた。幕府のための政治を目指し、財政的に将軍家や大奥の機嫌を取ることな、逆に将軍家や大奥から支持された田沼意次は政治家として有能だったといえる。

通貨の一本化
 商業の発達によって経済の規模が全国に拡大したが、東日本と西日本で通貨が違うことが妨げとなった。当時の貨幣は江戸は金を中心に(金遣い)、上方は銀を中心に銀遣(ぎんつか)いが流通していた。このため東西で取引を行うには両替が必要で、金と銀、銅の為替相場は、幕府が提示する公定相場を両替商は無視して、変動相場制で毎日二回相場が決められていた。現代の感覚では円とドル、ユーロが同じ国で日常的に使われているようなものであった。

 銀貨は額面は記されず品質と重さで使用していた。西日本で銀を用いていたのは貿易決済という形で輸出していた銀を逆輸入し銀が国内で余っていたからである。東日本では小判のような金貨が中心ので、分・朱を単位とし、西日本では銀貨が銀を貫(かん)や匁(もんめ)といった重さにより通用させていた。

 金と銀の相場は、金銀の交換が必要で、交換には制約があった。そこで田沼意次は明和五匁銀(めいわごもんめぎん)をつくり、実際の質や量に関係なく通用させ、明和五匁銀12枚で金1両と交換できるようにした。田沼意次は次に南鐐弐朱銀をつくり、朱を単位とした銀貨を流通させた。南鐐弐朱銀8枚は金1両と同じ価値で、全国での通貨の一本化が進められた。

公共事業
 田沼意次は重商主義を進めるが、重農主義をやめたわけではない。公共事業として大規模な干拓事業にも積極的で、千葉の印旛沼を陸地化して広大な農地にしようとした。同様に手賀沼の干拓事業には大坂の商人の資本を導入して行った。

 干拓事業の目的は新たな農地の開発であったが、公共事業に景気上昇効果があることを知っていたのである。また利根川から江戸へ水路をつくり、新たな物資輸送を作ろうとした。この水路が完成すれば、江戸と北方を結ぶ航路の大幅な短縮が見込まれ商品流通の活性化が期待された。しかし、1786年の大洪水によって干拓は失敗に終わった。これらの公共事業でも事業者から賄賂が流れ込んだ。鷹揚な田沼意次はそれを遠慮なく受けたのである。田沼にしてみればこれも改革のための必要悪であったのだろうが、儒教道徳が脳髄の隅々にまで染み渡った者にすれば「賄賂は絶対悪」であった。田沼意次は多くの幕臣たちから白眼視されることになった。

貿易
 田沼意次は長崎における貿易にも力をいれた。それまで縮小気味だった貿易の規模を拡大し、金銀を積極的に輸入して外貨獲得を行った。しかし輸入を増やせば、それに見合う輸出を確保しなければいけない。そこで輸出品として国内で産出量が増えていた銅や、海産物としてイリコ(ナマコの腸を取り出し煮て乾燥させたもの)、ホシアワビ(アワビの身を取り煮て乾燥させたもの) 、フカノフレ(サメのヒレを乾燥させたもの)などの俵物(たわらもの)の輸出を促進した。外貨の獲得のために特産物の増産をはかり、地方の経済をも豊かにする重商主義であった。
 徳川吉宗の時代に漢訳洋書が解禁され、西洋の事情が少しずつ分かるようになっていた。その中で仙台藩の医者・工藤平助はロシアが南下してくる恐れがあり、また南下を防ぐために蝦夷地を開発すべきことを赤蝦夷風説考という書にまとめた。

蝦夷地
 田沼意次は工藤平助の意見を採用し、それまで松前藩に経営せていた蝦夷地を直轄しようとして、最上徳内を蝦夷地に派遣して調査させた。また商人がアイヌを通じてロシアと交易していることを知ると、これらの交易を幕府の直轄として、またアイヌの人々の生活を向上させるため農作業を教えようとした。松前藩はアイヌの生活を安定化させると、松前藩の財政を支える鮭や毛皮を獲らなくなるとして、アイヌの農民化を禁止していたのである。田沼意次の蝦夷地政策は開明的で、またロシアとの交易も視野に入れ、大きな花を咲かせる可能性があった。しかし残念ながらこれらは実現できなかった。

 

田沼時代の終焉
 
田沼政権は八代将軍の吉宗が将軍就任時に紀州から江戸から連れてきた者の子孫が中心であった。下級武士ゆえに慣習に捉われず斬新な政策を変えることができた。その出世頭が田沼意次で、重商主義や蝦夷地開発など江戸時代では異色の政策を展開させた。田沼政権が倒れた理由とその影響を考えてみる。

天明の大飢饉
 田沼時代の後半には、不幸な人災や天災がなぜか次々と続いた。江戸の三大大火と言われる「目黒行人坂の大火」、1783年には江戸で大地震おき、同年浅間山が大噴火して火砕流で15キロ離れた鎌原村では93戸の家が瞬時に押し流された。浅間山大噴火の被害は甚大で犠牲者は2万人とされている。また火山灰が原因で東北地方を中心に冷害が発生し天明の飢饉が発生した。さらに火山灰が川底に堆積して天明六年(1786年)に未曾有の大洪水が起こり、田沼政権の政策である印旛沼干拓は失敗してしまう。

 また田沼時代は世界的に小氷期にあたり全国的に気温が低く凶作になり、また1783年に浅間山が大噴火すると、噴灰は成層圏にまで達し、灰が日光の照射を妨げ不作から大飢饉になった。この天明の大飢饉は5年間続き、田沼意次は庶民から反発を受けた。
 天明の大飢饉によって東北地方を中心におびただしい餓死者が出て、年貢が払えない農民による一揆や、都市部では打ちこわしが多発した。この当時は「天災が起きるのは政治を行っている者のせい」と信じられていたので、この責任を田沼が背負されたのである。民衆は捌け口のない不満を田沼にぶつけ、一揆や打ちこわしが多発したのである。

 江戸時代に天候不順は何度か起きているが、過去の大飢饉の教訓は活かされず、藩が飢饉に備え米を備蓄するなどの対策はなかった。さらに幕府が食糧に余裕がある藩に飢饉で苦しむ藩への援助を命じるという考えすらなかった。このことも被害を拡大させた。

反田沼意次

 田沼意次は斬新な政治を行い経済や文化を発展させ、幕府財政を好転させたが、これらの政策を苦々しく見ている者がいた。それは商人の力を借りることを恥とする「儒教と商行為」の呪縛に縛られた人たちや、紀州藩の足軽に過ぎなかった田沼意次が老中まで出世したことを「成り上がり者」と嫉妬する人たちであった。

 成り上がり者の田沼意次は将軍の信頼以外に強力な支持基盤がなかった。徳川家治の側室お知保と親しい千賀道有の養女を通じて贈物を届け大奥を味方につけていた。また長男の意知を若年寄に就任させ、甥・意致は御側御用取次にして親類縁者で政権を固めていた。田沼意次は高齢になり、亡くなってもおかしくない年齢になると、親類縁者に改革の道筋を示したことから、次代にも継続させる考えに周囲からの反発を受けていた。縁故だけでなく能力主義の人事も行われたが、親類縁者で政権を固めることへの不満が強かったのである。その不満が長男の殺害事件を引き起こした。

田沼意知殺害事件

 1784年、息子の若年寄・田沼意知(おきとも)が江戸城内で斬殺される事件が起きたのである。この事件が田沼意次の権勢が衰え失脚するきっかけとなった。天明4年3月24日の夕刻であった。若年寄の田沼意知が執務から下城しようとして中ノ間から桔梗の間へ向かう途中で、新番士の佐野善左衛門に斬りつけられたのである。田沼意知は脇差を抜き、防ごうとするが防ぎきれず、肩などを斬られ近くの桔梗の間に逃げ込んだ。最初に刺された時点で助けられれば、田沼意知は死ぬことはなかった。致命傷は骨まで達し、この傷による出血多量が死因となった。大目付松平対馬守忠郷が佐野善左衛門を取り押さえ、目付柳生主繕正が手から脇差を落とした。

 殿中の刃傷事件は何度かあるが、私憤によるものがほとんどであった。幕府は佐野善左衛門の殺害動機を狂信・狂乱のためとしているが、佐野善左衛門が田沼意知に切り掛かるとき「覚えがあろう」と3度叫んでいる。佐野善左衛門は後の取り調べで、田沼意知と意次が先祖を粉飾するため佐野家の系図を借り返さなかったこと、上野国の佐野家領地の佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にしたこと、田沼家に賄賂を送ったが昇進出来なかった事をあげているが、この殺害事件には黒幕がいたとされている。
 この事件で処罰されたのは21人で、この程度の人数が現場周辺にいたと想像される。武家は軍人でもあり、被害者の立場であっても逃亡すれば敵前逃亡になり「武士にあるまじき行為」して厳しい処分を下されることになる。余談ではあるが背中に傷を受けて亡くなれば「相手から逃げた」という理由で改易絶家処分を下される時代だった。
 4月2日に田沼意知が享年36歳で亡くなると、翌日には佐野善左衛門が切腹させられる。切腹は厳密には死刑ではなく「自分の罪を自分で裁く」という武士としての面目を保った処分である。
 佐野善左衛門は切腹し自害したが、人気のなかった田沼意知を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められた。血縁に刑は及ばず、遺産も父に譲られることになった。田沼意知の葬列には石が投げられ罵声が浴びせられたが、佐野善左衛門が切腹後には、高騰していた米価が偶然下がり、民衆は佐野を「世直し大明神」と称えた。佐野が葬られた浅草本願寺地中徳本寺には参拝者が押しかけ幕府が門を閉じ参拝をやめさせようとしたほどであった。

徳川家治の死
 1779年、将軍家治の嫡子・家基が17歳の若さで鷹狩直後に病で亡くなっている。後に田沼意次の評価が下がると、世の人は意次の犯行と噂した。しかし将軍の信頼が唯一の後ろ盾である田沼意次にとっては順調な将軍位継承が望ましいことで、徳川家重が家治に「田沼意次を重用するよう」と遺言したように、徳川家治も家基に同じような遺言を残すと考えられた。

 しかし家基が死去したことから、養子入りした家斉が徳川家治の死去後に将軍に就任したのである。同時に田沼意次は失脚させられ、家基が亡くなって最も損をしたのは田沼であった。田沼意次は老中をやめさせられ、壮大な政治政策は半ばで中止され、失意のうちに1788年に死去した。
 11代将軍となった15歳の徳川家斉(いえなり)を補佐したのが、田沼意次に代わって老中となったのが松平定信(さだのぶ)であった。松平定信は吉宗の孫にあたり、将軍の後継者となる可能性が強かったが、複雑な事情があり白河藩の松平家の養子となっていた。

 松平定信は自分が白河藩の松平家の養子となって、将軍の後継者になれなかったのは、当時の権力者であった田沼意次のせいと深く恨んでいた。そのため政治の実権を握ると、田沼意次が幕府や日本のために続けてきた政策をことごとく打ち切りにしている。

失脚の影響
 田沼意次が失脚すると政権交代が起り処分が行われた。松平定信は田沼意次を恨み通常の処分よりもはるかに厳しい処分を課し、また田沼の政策に加担した者を徹底的に処罰した。田沼意次は隠居させられた。隠居はよくある処分であるがさらに永蟄居(生涯屋敷に幽閉)が適用された。これは異例のことで安政の大獄で一橋慶喜ら政治犯に適用されたことがある。すでに松平定信は老中の幕府は、病床の田沼を監視し、逐一病状を報告させ医師の往診をわざと控えさせ死期を早めたとある。真偽は不明だが田沼憎しの松平定信だけにありえない話とは言い切れない。「田沼のせいで将軍になりそこなえた」と逆恨み、殿中で彼を刺し殺すための短刀まで準備していたされる松平定信だけに私憤で処分を行ったとも考えられる。
 田沼家は遠州相良の領地没収の上、陸奥下村藩一万石に転封された。下村藩は東北で冷害の影響を受け、また参勤交代があり経済的に苦しい藩であった。田沼家を継いだ田沼意明(意次の長男意知の子供)は国許へ帰ることを許されず江戸で暮らした。
旧領遠州相良の城の廃城
 松平定信は没収した遠州相良藩の城を廃城にし壊させている。城を建てたのは田沼意次の代の話だが藩の領民の税で作った「公」の城をわざわざ壊すのは理解できない。大名を相良藩に転封させ城を残ることはできたはずである。意次憎しの一念で彼が建てた城まで潰さなければ気がすまなかったのだろう。さらに意次の三女の嫁ぎ先である遠江横須賀藩に城の破壊を命ずる。表向きは地理的に近いという理由だろうが身内に壊させるという嫌がらせである。
 意次が失脚する直前には大老は井伊直幸、老中首座松平康福、勝手掛老中水野忠友、老中が田沼意次、牧野貞長、西の丸老中が鳥居忠意である。井伊はに病免、松平康福と水野は解任された。鳥居は新将軍に従い本丸の老中になり、牧野は定信と共に勝手掛老中を兼ねるが田沼政権と新政権のつなぎ役として扱われたのか、政権が定信に固められると辞職し、田沼派の老中は解任された。側用人や御側御用取次もほとんどが解任された。
 松平定信は老中就任後に不正役人50人ほど処罰した。越後買米事件に関連して、田沼政権の官僚の大量処罰が行われている。越後買米事件とは飢饉で越後から米穀を購入を命じられた役人が不正を行い、不正を犯した役人を推薦した勘定組頭土山宗次朗(田沼の蝦夷地政策を後押し)が死罪、田沼政権では勘定奉行だった松本秀行、赤井忠晶ら官僚や不正商人ら数10人が処罰された。
 田沼失脚後に閉職に転任した二人は領地の半分を没収され、日中の外出を禁じられるまで処せられた。 また蝦夷地政策は田沼失脚後に計画が廃止され調査隊は報告書を提出するも受理されず、印旛沼の工事推進責任者は罷免され現地監督の代官宮村孫左衛門は「公金を預けておいた市中の者が行方不明」という理由で遠島の刑に処せられた。こじつけに近い理由で意次に協力した人物は徹底に処罰された。