幕末

安政の改革

 ペリーが来て幕府は動かざるを得なくなった。まず老中阿部正弘が行ったのは広く意見を求めることだった。生まれや出自に関係なく能力の高いものを積極的に登用した。これにより幕府には優秀な人材が集まるようになり、その後の明治新政府やその政策は現在でも色濃く残っている。ちなみに天保の改革のすぐ後にこの安政の改革がなされている。
 天保の改革は水野忠邦が行い、その後、老中の筆頭となった阿部正弘が改革を行ったのが安政の改革である。安政の改革で最も重要なのは、能力によって優秀な人材を幕臣として抱えたことである。その代表が勝海舟で、勝海舟なしに大政奉還はありえなかった。
 しかし阿部正弘は外様大名などにも広く意見を求めたことにより、諸大名が権力を持つようになった。優秀な外様大名が幕府に意見をのべるため、結果として幕府の影響力は弱くなった。幕府を守るために行った改革が、幕府の力を弱めてしまうことになった。

 外様大名とは関ヶ原の戦いで負けた大名たちの末裔である。それまでしいらげられてきた自分たちがのし上がるチャンスだと思ったわけで、幕府の勢力図が変化した。倒幕がなされた背景には関ヶ原の恨みがあり、関ヶ原の戦いの背景には豊臣方と徳川方の権力争いがあった。どっちについたかでその後の処遇が決まったからで、その逆転を狙った外様大名が幕末に重要な立場にたつことになる。

 ハリスから日米修好通商条約を迫られていた頃、幕府は別の大きな問題を抱えていた。それは当時の13代将軍・徳川家定に子がなく体調もすぐれないため、次の将軍を誰にするかであった。
 薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)や越前藩の松平慶永(よしなが)は、ペリーの来航以来混乱が続く幕府政治には賢明な将軍を擁立すべきとして、前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の実子で一橋家の養子であった一橋慶喜を推していた。
 いっぽう彦根藩主の井伊直弼などの譜代大名は、将軍家定と血統が近いことから、まだ幼い紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を推した。慶喜を推す一派を「一橋派」、慶福を推す一派を「南紀派」とよび、両派は対立するが、1858年4月に将軍徳川家定が重態になると井伊直弼が大老に就任し次期将軍を徳川慶福に決定した。なお慶福は名を徳川家茂(いえもち)に改め、家定の死を受けて13歳で14代将軍に就任した。
 井伊直弼は天皇の許可(勅許)なしに日米修好通商条約を結んでしまった。このことは攘夷の考えを持つ孝明天皇の怒りを招き、条約に反対する公家や大名、攘夷派の志士たちから激しい反発を受けた。特に前水戸藩主の徳川斉昭や水戸藩主の徳川慶篤(よしあつ)、尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)、越前藩主の松平慶永らは、登城日でもないのに江戸城へ押しかけ、井伊直弼を激しく問い詰めた。しかし井伊直弼は開国という国家の存亡にかかわる重要な問題に対し、それまでの幕府の先人たちが無責任に先送りしてきたツケを一気に解決しただけとした。
 さらに条約反対派や攘夷派が「外国人など、我が国から追い出せばよい」と威勢のいいことを言いながら、もし日本が侵略されたらどうするのかという問題には口をつぐんだままだった。このような有様も井伊直弼を苛立たせた。この攘夷派の無責任な反対に怒りを持った井伊直弼は、幕府大老の立場を利用して大粛清を行う。これが1858年から翌年にかけての安政の大獄である。

安政の大獄
 安政の大獄による処罰者は徳川斉昭や松平慶永などの有力大名から公家、幕臣の一部や越前藩の橋本左内や長州藩の吉田松陰といった志士に至るまで広範囲に及んだ。特に橋本左内や吉田松陰は若くして刑死するなど、安政の大獄によって攘夷派を中心にした多くの人材が失われ、井伊直弼による問答無用の強権的処置は多くの人々の恨みを買った。
 1860年3月3日、大雪の日の朝、江戸城近くの桜田門へと差し掛かった井伊直弼の行列に、水戸藩を脱藩して怒り狂った浪士らが襲いかかり井伊直弼を暗殺した。この事件を桜田門外の変という。
 桜田門外の変によって、最高権力者である大老が江戸城外で暗殺されたことから、幕府の威信がさらに低下し、自分の意見に反する者に対する血の粛清が常識化した。桜田門外の変から明治維新を経て政情が安定するまで、武力による実力行使を伴った血なまぐさい事件が日本国中で続発することになる。このような流れの中で日本は大政奉還、明治維新へと突き進んでいった。

 

公武合体と文久の改革
 井伊直弼の死後に幕府政治の中心となったのが老中の安藤信正である。安藤信正は幕府の安泰のためには朝廷(公)と幕府(武)とが一つとなり、それによって人心の融和を目指す公武合体を進めた。その象徴として安藤信正は「将軍徳川家茂の正室として孝明天皇の妹の和宮」を迎えることに成功したが、これでは将軍が天皇の義理の弟に相当することになり朱子学的には幕府に逆効果になった。
 朱子学では「義兄弟であれば、弟たる幕府は兄の朝廷に従わなければならない」と教えていた。そのため幕府は朝廷から攘夷を約束され、その対応に苦慮することになる。また家茂と和宮とのいわゆる政略結婚は尊王攘夷派の強い反発をもたらした。安藤信正は1862年1月に江戸城の坂下門外で、水戸藩の脱藩浪士らに襲われ負傷し老中を退いた(坂下門外の変)。
 幕府の実力者が二度も江戸城下で襲われるなかで、独自の公武合体の立場から幕府と朝廷につながりを持つ薩摩藩の島津久光が力を持つようになる。1862年、島津久光は朝廷の使者とともに江戸へ向かい幕政に改革を求めた。この意向を受けて幕府は、一橋慶喜を将軍の後見職にして、松平慶永を政事総裁職に、会津藩の松平容保(かたもり)を新設の京都守護職に任じた。
 幕府は参勤交代を3年に1回に縮小し、大名の妻の帰国を認め、西洋式の軍制を採用した。これらの改革は当時の年号から文久の改革と呼ばれている。
 京都には京都所司代があったが、京都守護職があらたに設けられた。長年の平和で京都所司代の役人が官僚化してしまい、武力組織として役に立たなくなったからである。会津藩の松平容保が京都守護職に任命され、京都守護職の保護を受けた新選組が京都で活躍するようになる。松平容保が京都守護職に選ばれたのは、会津藩の始祖である保科正之が「会津藩は将軍家を守護すべき存在である」という家訓を残していたからで、松平容保が京都守護職を引き受けたことから、会津藩は幕府と運命をともにし、幕府の崩壊後に大きな悲劇に襲われることになる。

 

攘夷と尊王攘夷
 江戸末期ペリーが浦賀沖にやっきて煮え切らない幕府の対応に端を発したのが攘夷運動である。攘夷とは夷狄(外国人)を打ちはらう意味で、外国勢力を追い払っい自分たちだけでやっていこうというものである。尊王攘夷とは言葉の通りで、攘夷思想の中心に天皇を敬おうとするものである。
 当時の幕府の考えは開国があった。開国派は幕府の方針に従う考えで、佐幕派は「天皇を中心に徳川家が主導権を持ちながら天皇の攘夷を実行していく」公武合体といった。
 違いやすのは攘夷対佐幕ではなく。尊王は倒幕を意味していない。そもそも幕府を倒す倒幕にしても、幕府を存続させる佐幕の考えにおいても天皇中心の尊王思想があったことである。
 はじめは広義での攘夷として志士たちは思想を巡らし、倒幕にたどり着くが、情報の早い幕府や一部の志士たちは、攘夷の無意味に気付いていた。そのため明治維新は、攘夷対開国でもなく倒幕対佐幕の権力争いとなった。
 攘夷には尊王ということばがつき、開国派には佐幕という言葉が重なっているが、佐幕とは幕府を盛り上げていこうという考えで、攘夷には倒幕思想の人たちも多かったが、攘夷派は開国派に変わってゆく。その有名人を列挙する。
木戸孝允(長州藩、当時は桂小五郎)
高杉晋作(長州藩、騎兵隊を組織)
吉田松陰(長州藩、松下村塾開祖、安政の大獄で処刑)
久坂玄瑞(長州藩、蛤御門の変で戦死)
伊藤博文(長州藩、初代総理大臣)
大村益次郎(長州藩、軍学者、新しい戦い方を取り入れた)
西郷隆盛(薩摩藩、西南戦争で切腹)
大久保利通(薩摩藩、版籍奉還や廃藩置県などを行った)
武市瑞山(土佐藩、土佐勤王党盟主)
岡田以蔵(土佐藩、人斬り以蔵の別名も)
池内蔵太(土佐藩)
中岡慎太郎(土佐藩)
坂本龍馬(土佐藩、龍馬は個人に倒幕が強かった)

 

雄藩の登場と経済の近代化
 幕府は重農主義や朱子学により商業軽視にる改革を進めることが出来なかったが、諸藩の中には藩政改革に成功した藩が次々と現れた。政治意識に目覚めた外様大名は独自の路線で運命を切り拓こうとした。

 鹿児島の薩摩藩は絶大な力を蓄え、しかも藩政改革にも成功していた。下級武士から登用された調所広郷(ずしょひろさと)は江戸・大坂・京都の三都の大商人からの多額の借金を250年間の無利子返済という事実上の棚上げに成功している。また調所広郷は大島・徳之島・喜界島(奄美諸島)の特産である黒砂糖の専売を強化し、支配下の琉球(沖縄)を通じて密貿易を行った。このような改革によって利益をあげた薩摩藩は、やがて藩主の島津斉彬によって製鉄のための反射炉を築造し、洋式の砲術による軍事力の強化が行われた。

 長州藩では村田清風が藩の借金を長期返済方式で整理し、代わりに藩の特産物である蝋(ろう)の専売を廃止して商人の自由な取引を認め、商人の運上金(税金)によって藩の財政を活性化させた。下関に越荷方を置いて諸国の廻船による商品(越荷)を抵当に資金を貸し付け、越荷の委託販売を行い大きな利益をあげた。

 肥前藩(佐賀)では藩主の鍋島直正(なおまさ)が均田制により農村の再建をはかった。均田制とは地主が小作人に作地を分け与えることで、本百姓を増やして農村を保護した。また特産品の有田焼の専売を進めて収入を増やし、その資金で大砲製造所を設けて洋式軍事力を強化した。土佐藩(高知)では改革派(おこぜ組)によって支出を切りつめて財政再建を行い藩政改革に成功した。

 これらの藩は有力な家臣を多数抱えるとともに、変動する社会に敏感に反応できたことで幕末の動乱期に雄藩として登場することになる。
 江戸時代の各地の特産品は、各藩の保護のもとで農村家内工業で生産されたが、都の問屋が原料や資金、道具などを農家に前貸しして問屋制の家内工業が組織された。さらに一部の地主や商人が作業場を設けて、農業から奉公人を集め手工業をつくり、大坂や尾張の綿織物業、桐生・足利など北関東の絹織物業などで発展させた。
 こうした社会の変化、経済構造の近代化により農業も盛んになった。大蔵永常は商品作物の栽培や農具の普及に努め、また二宮尊徳は藩や幕府の依頼に応じて農村の復興に努めた。二宮尊徳は庶民の尊敬を集め、我が国の歴史に名前を残すことになる。二宮尊徳は一円札の肖像画となり、戦前までの小学校では、二宮金次郎が薪を背負って本を読む像があるのが普通に見られた。
 農村の復興は年貢に依存する幕藩体制にとってプラスになったが、農村工業による商品生産や賃金労働といった資本主義の動き対応することが出来なかった。農村工業による近代化は、開国によって西洋の様々な知識や技術が導入され、幕府や各藩が洋式機械工場を建設したことによる。
 水戸藩では徳川斉昭(なりあき)が江戸に石川島造船所をつくり、肥前藩や薩摩藩が反射炉を設けて大砲などを製造した。なお石川島造船所はIHI(石川島播磨重工業)の元なっている。
 明治時代以後、日本は近代国家を目指して重工業を中心に力を入れるが、その流れは幕末の様々な近代化による。

 

幕末の社会状況と文化
 開国に伴う物価の上昇や混乱が、政局の激変ぶりによる社会不安が増大させ、変革を求める民衆運動は世直しとして大きなうねりとなった。全国の農村や都市部では一揆や打ちこわしが頻発し、備前の黒住教や大和の天理教、備中の金光教が急激に広まり、伊勢神宮への御伊勢参りも爆発的に流行した。庶民による膨大なエネルギーは、近畿地方にかけての熱狂的な「ええじゃないか」の集団行動をもたらし討幕運動に影響を与えた。
 幕府は積極的に西洋文化を受けいれ、医学では種痘所が設けられ、蕃書調所では様々な洋学が教えられた。また西周や津田真道、あるいは福沢諭吉や森有礼・伊藤博文などが、幕府や薩長などの諸藩から留学生として派遣された。また開国によって外国人の宣教師や新聞記者が来日し、彼らを通じて西洋文化が広まった。浮世絵をはじめとする我が国の文化が、1867年のパリ万国博覧会で紹介され文化の交流も盛んとなった。特に浮世絵はモネやゴッホなどのヨーロッパ印象派の画家に広まることになった。