寛政/天保の改革

松平定信
 松平定信による「寛政の改革」は成果がなく終わっただけでなく、朝廷との関係をこじれさせ討幕運動の引き金になった。さらに開国の芽を摘み取ったことで、その後の黒船による混乱を引き起こした。

 なぜ松平定信が田沼意次を押しのけて老中にまで出世できたのか。それは松平定信が東北の白河藩の藩主であり、多くの人々が餓死した「天明の大飢饉」で白河藩は一人の餓死者も出さなかったことから、その政治ぶりが評価されたのである。餓死者がいなかったことは素晴らしいことであるが、大飢饉が続き鎖国で輸出入もできなかったことから、国全体のコメの生産量が少ないことに変わりはなかった。その中で白河藩だけがコメを集めたことから、他の藩のコメの流通量がますます少なくなった。松平定信によるコメの買い占めは重大な法令違反だった。
 天明の大飢饉に際して、政治上の最高責任者であった田沼意次は積極的な対応を行った。飢饉による被害を小さくするために凶作の地域での米の買い占めや売り惜しみをしないように命じたのである。飢饉で生産量が減ったコメを可能な限り全国に再分散して、凶作の地域での餓死者を一人でも減らそうとした。それは田沼意次の苦心の政策だったが、松平定信は大坂の米市場でコメを買い占め、自分の領地まで運んだのである。この結果、白河藩では一人の餓死者も出さなかったが、買い占めに走ったため米価が異常につり上がり、他の藩は米が買えずに餓死者がさらに増えることになった。白河藩の「餓死者が一人も出さなかった」という成果は、他の藩の多くの領民の犠牲の上に成り立っていた。
 国内全体のことを考えず、白河藩さえ良ければどうでもかまわない。このような人物のどこが「名君」なのか、しかも松平定信は田沼意次を失脚させた後に酷い仕打ちをしている。
 老中の地位を追われた田沼意次が失意のうちに1788年に死去すると、松平定信は田沼家の所領の5万7,000石を1万石に減らし、遠江(静岡県西部)から陸奥(福島県)へ強制的に移動させた。しかも松平定信は相良城を石垣ひとつ残らず破壊したのである。城は一度建てれば公有財産になるので、無駄な破壊はしないし、そもそも取り壊すのに費用もかかる。松平定信のこの暴挙は、相良城が田沼意次によって建てられた新しい城だったからで、田沼家を追い出しただけでは飽き足らず、まさに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに田沼意次の痕跡を抹消したかったのである。
 松平定信は熱心な朱子学者であるが、朱子学の由来は儒教にある。すべてではないが儒教の信徒は陰湿で粘着質な性格を持つことが多い。松平定信による信じられないような意趣返しもそのひとつといえる。
 田沼意次と松平定信のどちらが「名君」で、どちらが「暗君」だったのかは言うまでもないが、一般には逆の評価がされている。これは田沼意次は老中を追われてから数年で亡くなり、非難に対する弁解の機会が失われ、いっぽうの松平定信は老中を辞めた後も、白河藩主として30年以上も生き続けて、その間に多くの著作を残して田沼時代を徹底的に非難したからである。
 さらに低い身分から成り上がった田沼意次よりも、将軍吉宗の孫という血筋を持つ松平定信の主張を優先する傾向にあり、加えて松平定信が幕府の公式学問である朱子学の優秀な学者であったこともあり、松平定信によって意図的につくられた田沼意次の「悪人像」が後世にまで残ってしまったのである。
 前任者である田沼意次の重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治から、飢饉対策や厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などで一応の成果をあげた。田沼意次による政治を激しく憎んだ民衆も、松平定信による寛政の改革が失敗したことで田沼時代を懐かしんだ。老中当初から大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。

 また幕府のみならず様々な方面から批判が続出し、尊号一件事件も絡み僅か6年で老中を失脚することとなった。「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」の狂歌を残している。

 

寛政の改革
 老中に就任した松平定信は、祖父にあたる徳川吉宗を理想とする政策を行った。松平定信の政治は寛政の改革と呼ばれているが、それは田沼時代の全面否定であり徹底した緊縮財政だった。

 田沼意次による通貨統一の南鐐弐朱銀の発行を停止にして蝦夷の開発も中止した。これらの政策は定信が失脚した後に再開されてるが、再開されたことは松平定信の政策は幕府の無駄な時間と労力を費やしたことになる。
 1791年には林子平が海岸防備の必要性を説いた海国兵談を書いたが、松平定信は「世間を騒がす世迷言を言うな」とすぐに発禁にして版木まで焼いた。田沼時代であれば、意次はこの海国兵談を支持したであろう。そうであれば日本は半世紀以上も前に開国し、黒船に迫られて不平等条約を結ばずに済んだことあろう。
 さらに松平定信は政治を風刺する書物を禁じ、黄表紙や洒落本などを風俗を乱すということで発禁処分にした(出版統制令)。松平定信は吉宗と同様に、庶民にまで厳しい倹約令を強制し、田沼時代に花開いた町人文化は衰退し庶民の反発を招くことになった。そのため享保の改革で花開いた「寛政文化」と呼ばれるものは存在しない。

 寛政の改革で卑俗な芸文を取り締まった松平定信ではあるが、個人的には芸文を楽しむ面もあった。例えば「大名かたぎ」や「心の草紙」など自ら執筆した未刊の黄表紙風の戯作が存在する。また随筆類には市井の話題を熱心に取り上げるなどしているが、為政者として世情を理解しようとしたのであろうか。

浮世絵や絵巻にも親しみ定信自身も絵を描いている。

 いずれにせよ節約を奨励し、節約で浮いた町費の七割を積み立て、江戸町会所に運用させ、飢饉などの非常事態の貧民の救済に利用した(七分積金)。
 寛政の改革が始まった頃には、天明の大飢饉が続いており、庶民の暮らしは不安定のままであった。そこで松平定信は飢饉に備えるために諸藩に社倉や義倉をつくらせ穀物を蓄えさせた(囲米)。この他にも刑務所の原点ともいえる無宿人への職業訓練施設を石川島に設置した(人足寄場)。もっともこれは定信の案ではなく、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で有名な火付盗賊改方の長谷川平蔵が考えたものである。
 松平定信による倹約令は大名や旗本にも求められたが、いくら倹約しても彼らの借金は増える一方であった。そこで定信は旗本や御家人の救済のために棄捐令(きえんれい)を出し、武士に金を貸していた札差からの借金を帳消しにした。しかしこの棄捐令は徳政令と同じで、旗本や御家人の収入を増やす改革ではないので、結局は一時しのぎに過ぎず、再び借金をする際には棄捐令で痛い目にあった札差から断られ逆効果に終わった。
 松平定信は田沼時代の重商主義を否定し、吉宗の時代よりも厳しい重農主義の政治を行った。その中の一つに旧里帰農令がある。これは地方から江戸に流れてきた農民を元の農村に帰す法令であるが、農村へ帰されたところで今までと同じ苦しい生活の日々でしかなかった。重農主義に戻すことは吉宗の時代と同じく米本位制を続けることであるが、農村に帰郷しても再び江戸へ出て来ざるを得なかった。そのため旧里帰農令は失敗に終わったが、後の天保の改革でも再び同じ法令である「人返しの法」を出すことになる。
 松平定信は熱心な朱子学者で、朱子学を幕府の湯島聖堂で学ぶ唯一の学問とし、朱子学以外の学問を禁止した(寛政異学の禁)。この寛政異学の禁によって、諸藩も朱子学のみを教えるようになり、それ以外の学問、特に西洋の蘭学は衰退した。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策ぶりであった。
 ちなみに湯島聖堂は松平定信が老中を退任した後、昌平坂学問所と名称を変え、昌平坂学問所は幕臣の子弟の教育所となり、藩士や浪人を受け入れ、全国からの英才を集め活気にあふれる学問の場となった。この昌平坂学問所は現在の東京大学につながるほか、明治以降に設立された東京師範学校や東京女子師範学校ともなった。両校は現在では筑波大学、お茶の水女子大学となっている。
 松平定信による寛政の改革は、理想主義者にありがちな性急で厳しすぎるもので、多くの人々から反発を受けた。松平定信の周囲は日を追うごとに騒がしくなり殺傷事件まで起きた(尊号一件)。

 第119代の光格天皇が即位され、天皇の父君である閑院宮典仁親王が、禁中並公家諸法度により摂関家より地位が下になった。このため光格天皇は父君に太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした。皇位についていない皇族に尊号を贈ることは、鎌倉時代の後高倉院と室町時代の後崇光院の先例があったため、朝廷側は特に問題ないと思い幕府に願い出たが、松平定信は問答無用で拒否してしまった。

 松平定信の拒否によって光格天皇が気分を害し朝幕の関係は悪化した。また幕府の信頼は低下し、このことで天皇の権威が逆に高まり、幕末における討幕運動への遠因になった。尊号一件における松平定信の行動が幕府の運命を暗転させ、定信自身が政権の座から降りるきっかけをつくった。

 11代将軍である徳川家斉は吉宗と同じ御三卿の一橋家の出身であった。徳川家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済に対して前の将軍を意味する「大御所」の尊号を贈ろうとしたが、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、一橋治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得なかった。このことで一橋家斉は機嫌を損ね定信と対立し、やがて1793年に松平定信は老中を辞めさせられ、寛政の改革は6年で幕を閉じた。なお松平定信の失脚後も老中の松平信明(のぶあきら)らが「寛政の遺老」として政治を行った。

 

外交政策

 1791年には林子平が海岸防備の必要性を説いた海国兵談を書いたが、松平定信は「世間を騒がす世迷言を言うな」とすぐに発禁にして版木まで焼いた。田沼時代であれば、意次はこの海国兵談を支持したであろう。そうであれば日本は半世紀以上も前に開国し、黒船に迫られて不平等条約を結ばずに済んだことあろう。海国兵談を著して国防の危機を説いた林子平らを処士横断の禁で処罰し、田沼時代の蝦夷地開拓政策を放棄し、寛政異学の禁、幕府の学問所である昌平坂学問所で正学以外を排除、蘭学を禁止するなど結果として幕府の海外に対する備えを怠らせた。しかし実際には昌平黌に奉職しながら洋学・国際情勢にも通じていたともされている。

 欧州ではフランスがオーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発すると、フランスの隣に位置するオーストリア領ネーデルラントも戦場となった。このことは、極東の千島でオランダ東インド会社が1643年に領土宣言をして以来、長崎との南北二極で日本列島を挟み他の欧米諸国を寄せ付けなかったオランダの海軍力が手薄になったことを意味した。するとロシアが南下を開始し、1792年9月3日、日本人漂流民である大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めるのアダム・ラクスマンが根室に来航した。

 翌年、オランダの戦況はフランス軍による制圧が強まり、フランス革命はヨーロッパ全域に波及する勢いで広がった。1793年)6月20日、松平定信は大黒光太夫とラクスマン一行を松前に招き、幕府との交渉に応ずるよう指示した。さらにロシアの貿易の要求を拒否しない形で、長崎のオランダ商館と交渉するようにという回答を用意し、また大黒光太夫を引き取るよう指示した。しかしラクスマンは長崎へは行かずに帰路に就いた。

 対外政策は緊迫しており、オランダがフランスに占領された場合、ロシアが江戸に乗り込んで来る可能性があり、千島領やオランダ商館の権利がフランスに移る可能性が生じ、またイギリスが乗り込んで来て三つ巴の戦場となる可能性があった。松平定信は江戸湾などの海防強化を提案し、また朝鮮通信使の接待の縮小などにも努めた。しかし松平定信は、海防のために出張中に辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した。

 松平定信の辞任2ヵ月後、鎖国の禁を破った罪人の大黒屋光太夫は処刑を免れて江戸城で将軍家斉に謁見し、蘭学者たちは翌年からオランダ正月を開始し光太夫も出席した。定信の辞任はキリスト教国からの帰国を許し蘭学者勢力の隆盛をもたらした。

 国外ではオランダ共和国が滅亡し、代わってフランスの衛星国「バタヴィア共和国」が建国を宣言した。そしてオランダ東インド会社はアメリカ船と傭船契約を結び滅亡したオランダの国旗を掲げて長崎での貿易を継続することになったが、1799年にオランダ東インド会社も解散した。雇い主を失ったオランダ商館はなおもオランダ国旗を掲げさせたアメリカ船と貿易を続けた。

 松平定信の辞任は尊号一件が原因と言われている。幕府は朝廷の権威を幕政に利用するが、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとすると朱子学を奉じていた定信は反対した。この尊号一件を契機に父である治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていた将軍・家斉とも対立していた。

 

その後の松平定信

 松平定信引退後は三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継ぎ彼らは寛政の遺老と呼ばれた。定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。

 老中失脚後の定信は白河藩の藩政に専念する。白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また民政にも尽力し白河藩では名君として慕われた。定信の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。ところが寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が810年に実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した。

 1812年、家督を長男の定永に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われた。桑名には良港があったため、これが目当てとされている。ただし異説として前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった定永が、江戸湾岸の下総佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図ったために、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄・堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある。

 1829年の1月下旬から風邪をひき、2月3日には高熱を発した。3月21日には神田佐久間町河岸から出火し、火が日本橋から芝まで広がり、多数の建物が焼失し2800余人の焼死者を出し、松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、さらに中屋敷も類焼した。そのため定信は避難する事となるが、避難する際に定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送されたため、道が塞がって民衆が迷惑したという。さらにこの時、松平家の家人が邪魔な町人を斬り殺したという噂が世上に流布した。この時の大火に関する落首や落書があり、「越中(定信)が、抜身で逃る、其跡へ、かはをかぶつて、逃る越前(福井藩のことで、福井藩にも町人を斬り殺した噂が流布していた)」「ふんどしと、かはかぶりが、大かぶり」と無届の一枚刷りによって多数刊行された。これは寛政の改革の際に出版統制を行なった定信に対する業界の復讐であったとされる。

 屋敷の焼失により、定信は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難したが、手狭のため松山藩の三田の中屋敷に移った。この仮屋敷の中で病床にあった定信は家臣らと歌会を開き、嫡子の定永と藩政に関して語り合った。一時は回復の兆しも見せたが、5月13日頃から呻き声をあげ始め、医師が診察する中で急に脈拍が変わり死去した。享年72、辞世は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」 。墓地は東京都江東区白河の霊巌寺にある

 

天保の改革
 1841年、徳川家斉は将軍退位後も大御所として政治の実権を握ったが、家斉が死去すると、家斉の子で12代将軍の徳川家慶(いえよし)の老中・水野忠邦による天保の改革が始まった。

 水野忠邦はかつての享保・寛政の改革を手本にして江戸幕府の権力強化を目指したが、その手法は先の両改革よりも過激で、庶民の暮らしは大きな打撃を受けた。水野忠邦は将軍や大奥を含め非常に厳しい倹約令を出し、贅沢品や華美な衣服を禁じた。ここまでは前の改革とはそれほど大きな差はないがその陰湿さが問題だった。
 幕府の意を受けた南町奉行所は、町に密偵を放って幕府の政治に対する悪口を言わせて、それに乗ってきた庶民を「幕府を批判した」と言って捕まえ、倹約令で禁止された絹の着物を着ている女性がいると、往来の真ん中で無理やり裸にした。
 このやり口を指揮したのが「蛮社の獄」を取り締まった南町奉行の鳥居耀蔵(ようぞう)で、もう一人の北町奉行が、水野忠邦や鳥居耀蔵と対立する「遠山の金さん」で有名な遠山景元(かげもと)であった。
 水野忠邦による厳しい統制は庶民のささやかな楽しみを容赦なく奪い、人情本の作家・為永春水(ためながしゅんすい)が処罰され、歌舞伎も江戸の場末であった浅草へ強制的に移転させられた。

 また農村から江戸へ出稼ぎに来た農民や、貧困のために江戸に流入した貧民に、帰郷を強制させる「人返しの法」を出した。これは寛政の改革の旧里帰農令と同様に、農村へ強制的に返すことであるが効果は得られなかった。さらに無宿者や浪人らも農民と同様に江戸を追われ、そのため江戸周辺の農村の治安が悪化した。
 水野忠邦による厳しい倹約令は、過去の享保や寛政の改革と同じように、庶民にとっては苦痛以外の何物でもなかった。財政の支出を抑えるために幕府の倹約は間違ではないが、それを一般庶民にまで強要すれば消費が冷え込み景気は悪化し、精神面でも余裕がなくなってしまう。そのため文化は衰退し、世の中全体が殺伐とし、庶民の生活は灯が消えたような寂しいものとなった。

 また天保の頃までには、米を含めた諸物価の値上がりが著しかったが、この原因は人口増により消費増えた都会への生産地からの供給不足であった。需要が増え供給が不足すれば物価が上がるのは当たり前である。水野が実際に考えた対策は経済の原則を無視したものであった。
 水野が享保や寛政の改革を手本にした天保の改革は、時代にそぐわない重農主義の復活を意味していて、幕府公認の学問であった朱子学に由来する儒教の精神が、商行為を極端に嫌っていることが根底にあった。
 水野は諸物価の値上がりは流通システムを仕切っている商人の株仲間が原因として、北町奉行の遠山らの反対を押し切って1841年に彼らの解散を命じた。しかし株仲間を解散するということは、曲がりなりにも長年続いた物資の流通システムを壊してしまうことになった。
 そのため流通網が混乱し、かえって物価が上昇する逆効果をもたらしたが、水野らは明確な責任を取ることもなく、さらなる改革を強引に推し進めた。なお、株仲間は10年後の1851年に再興されている。
 物価の上昇は米の俸禄によって生計を立てていた旗本や御家人の生活を圧迫した。このため水野は寛政の改革と同じように棄捐令(きえんれい)を出して旗本や御家人の借金を棒引きし、札差に対して低利の貸し出しを強制した。これらによって旗本や御家人の暮らしは一息ついたが、商人は大きな打撃を受け、また厳しい倹約令によって不景気が続いたことで庶民の不満が次第に高まっていった。
  水野は財政の改善や対外防備を強化し、幕藩体制の強化を目的に江戸・大坂周辺の約50万石を幕府の直轄地とする上知令を出した。しかし上知令の対象となった領地を所有していた譜代大名や旗本らの反発を招き、これをきっかけに水野への非難が激しくなり、上知令が中止になっただけでなく、水野自身も老中を辞めさせられた。
 約2年という短い期間で天保の改革が失敗に終わったことは幕府の政権能力の減退を意味し、この後わずか10年余りで激動の幕末を迎えることになる。