倒幕

尊王攘夷運動の激化
 公武合体を進めていた薩摩藩で、幕府に「文久の改革」を実行させた島津久光が江戸から鹿児島へ戻った頃である。幕府が外圧に屈し通商条約に調印したことから、京都では尊王攘夷運動を主張する長州藩の動きが盛んになり、長州藩は三条実美(さねとみ)らの攘夷急進派の公家と結んで、将軍の上洛と攘夷を幕府に強く迫り、長州藩は幕府と対立した。
 幕府はやむを得ず、1863年5月10日に攘夷を実行することを諸藩に命じ、横浜港の閉鎖を諸外国に通告したが、軍事行動を目的とはしなかった。ところが攘夷を軍事行動と思い込んでいた長州藩は、5月10日に藩内の下関海峡を通過していた外国船を砲撃して攘夷を実行したのである(長州藩外国船砲撃事件)。

 攘夷実行で意気が上がった長州藩であったが、公武合体派の薩摩藩も1年前に同じように外国人を攻撃していた。前年の8月21日、島津久光が江戸から京都へ向かう途中の生麦村(横浜市鶴見区生麦)で、馬に乗ったイギリス人の一行が久光の行列の前に立ちはだかった。大名行列が通りがかった際には、道を譲って土下座して礼を尽すのが通例であったが、それを知らないイギリス人の一行は馬に乗ったまま立往生してしまった。これを無礼な行為として薩摩藩士は一行に襲いかかり一人を殺害する乱暴に及んた(生麦事件)。自ら攘夷を実行した長州藩に対し、偶発的な事件から攘夷を行うことになる薩摩藩であったが、両藩はその後に外国から報復されることになる。
 朝廷では長州藩による尊王攘夷派が優位に立つが、この動きは公武合体を目指す幕府や薩摩藩にとっては目障りな存在であった。1863年8月18日、薩摩藩と松平容保(京都守護職・会津藩)は手を結び、三条実美や長州藩の尊王攘夷派を京都から追放するのに成功した(八月十八日の政変)。これは天皇を敬い、外国人を排斥しようとする尊王攘夷派を京都から一掃する政変であった。いわゆる三条実朝ら7人の公卿を長州藩とともに追放したのである。いわゆる「7人公卿落ち」であった。

 この動きに前後して公家の中山忠光(ただみつ)や土佐藩士の吉村虎太郎が大和五条の代官所(奈良県五條市)を襲い(天誅組の変)、福岡藩士の平野国臣(くにおみ)らは但馬生野(兵庫県朝来市生野町)の代官所を襲(生野の変)ったが、いずれも失敗に終わっている。しかし長州はこの動きに尊王攘夷派が再び勢いを増してくる。
池田屋事件

 京都を追われた長州藩は、諸藩の尊王攘夷の志士とともに密かに京都に舞い戻って勢力の回復を期した。しかし彼らの動きは幕府側の知ることになった。

 密かに京都へ戻った長州藩士を中心とする尊王攘夷派の志士たちは、風の強い日に御所に火を放ち、その混乱に乗じて佐幕派(幕府支持派)の公家を幽閉し大名を暗殺し、さらには孝明天皇を長州に連れ去るクーデターを計画した。しかし彼らの動きは京都守護職・松平容保が預かる新選組に察知され、新選組は武器の調達や情報活動をしていた尊攘派志士の古高俊太郎を捕まえ厳しい拷問にかけて自白させた。
 クーデターの全容を知った新選組は、会津藩や桑名藩に連絡したが両藩の部隊が来る前に新選組局長の近藤勇や副長の土方歳三らは新選組のみので探索を始めた。尊攘派の志士たちは、古高俊太郎が新選組に捕えられたことを知ると、善後策を講じるために京都三条木屋町の池田屋に集まった。集まった志士たちは池田屋を突き止めた近藤勇の一行が近づいていることに気付いていなかった。

 1864年6月5日の午後10時頃、祇園祭の賑わいの余韻が残る蒸し暑い夜であった。祭の雰囲気を吹き飛ばすような激闘が始まろうとしていた。新撰組は裏手を固め、近藤勇は沖田総司とともに少人数で池田屋の表口から堂々と進入した。「御用改めである」と告げると、近藤勇らは正面から斬り込み、尊攘派の志士らと大乱闘となった。近藤勇らは苦戦したが、別働隊の土方歳三らが到着すると形勢は一気に逆転した。

 最後には会津藩や桑名藩の部隊が到着して、志士らは壊滅状態となり宮部鼎蔵(ていぞう)ら多数が戦死した。この新選組の活躍は天下に轟き、この激闘は池田屋事件と呼ばれている。なお長州藩士のうち桂小五郎(木戸孝允)も池田屋にいたが、到着が早かったため外出しており難を逃れた。池田屋事件によって尊攘派の多くの逸材が失われた。この池田屋事件により、明治維新が1年は遅れたとも、逆に尊攘派の反発を強めたため維新が早まったとも言われている。
 多くの尊攘派の志士たちが池田屋事件で殺傷された。このことに激高した長州藩は勢力の回復を目指して挙兵した。池田屋事件への報復論による上洛軍が結成され、1864年7月に京都で会津藩・薩摩藩・桑名藩の藩兵と衝突した。1000人たらずの長州藩が8万の幕府軍と戦ったのである。長州藩は数では劣っていたが、果敢にも3方向から攻め入り激戦となった。最大の激戦となったのは蛤御門で、長州藩と会津軍が戦闘を展開し、長州藩は御所に侵入するほどだった。しかし西郷隆盛が率いる薩摩軍が駆けつけ、この激戦は逆転して会津藩や薩摩藩の勝利に終わり、長州藩は敗北した。この戦いで長州藩の指導的立場の久坂玄瑞(くさかげんずい)が戦死している。この事件は京都御所の御門付近で激戦が行われたことから、禁門の変または蛤御門の変と呼ばれている。
 翌1864年8月、禁門の変によって朝敵とされた長州藩に対し、幕府が諸藩を動員して討伐の軍を起こした(第一次長州征伐)。幕府に攻められた長州藩に追い打ちをかけるように、長州藩外国船砲撃事件の報復としてイギリス・アメリカ・フランス・オランダの4ヵ国が下関を砲撃して占領した(四国艦隊下関砲撃事件)。長州藩は国内外から同時に攻め込まれボロボロの状態になった。そのため長州藩では保守派の勢力が強くなり、藩内の尊攘派を弾圧して幕府への恭順の意を示した。このことから幕府の討伐軍は長州から引き揚げた。

 長州藩は攘夷による欧米列強の報復を受けたが、薩摩藩も同じような報復を1年前に受けていた。1862年に起きた生麦事件に対する報復として、1863年7月にイギリスの軍艦が鹿児島湾を攻撃していた(薩英戦争)。
 四国艦隊下関砲撃事件や薩英戦争によって列強の実力を知らされた長州・薩摩は武力による攘夷が不可能であることを悟り、外国から学びながら力を蓄えることになった。長州藩や薩摩藩が攘夷をあきらめたことは、当時の欧米列強の軍事力が日本にとって深刻な脅威であったことを意味している。また欧米列強は武力によって日本との貿易を優位に進めようとした。

 1865年9月、欧米列強は兵庫沖にまで軍艦を進め、兵庫の開港と安政五ヵ国条約の勅許を要求した(兵庫開港要求事件)。欧米列強の圧力に屈した朝廷は、ついに条約の勅許を与え、勢いを得た列強は、翌1866年、幕府と交渉して改税約書を結ばせた。

 これは安政の五ヵ国条約で定めた平均20%の輸入税を一律5%に引き下げ、諸外国に有利となるもので、日本は安い輸入品が大量に出回ることから国内の産業や経済に大きな打撃となった。なお京都御所に近い兵庫の開港は朝廷の反対が強く、1867年になってようやく勅許が与えられた。
 当時、日本と積極的に干渉したのはイギリスとフランスであった。イギリスは薩摩藩や長州藩に、フランスは幕府に接近して軍事的・財政的な支援を続けた。イギリスの駐日公使パークスは、攘夷から開国へ転じた「薩摩藩や長州藩が幕府を倒して天皇中心の雄藩連合政権」を期待した。フランスの駐日公使ロッシュは、イギリスに対抗するため幕府支持の立場をとった。
 このような両国の姿勢に対し、薩長や幕府は支援そのものは受けたものの、過剰な肩入れは断った。幕府を倒す際に外国の力に頼り過ぎると事後に外国から法外な干渉を受けることを知っていたのである。この絶妙なバランス感覚が、倒幕後も日本が欧米列強の植民地になることなく明治維新を迎えることができた要因となった。

 

討幕運動の展開
 第一次長州征伐や四国艦隊下関砲撃事件で、長州藩は保守派の勢力が強くなったが、尊攘派から開明政策へと転じた高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)にとって、幕府側の保守派は許しがたいものであった。高杉晋作は1864年末に奇兵隊を率いて下関で挙兵した(功山寺挙兵)。高杉晋作の兵力は伊藤俊輔(伊藤博文)の兵力と合わせても100人に満たなかったが、挙兵後すると続々と兵が集結し、ついに藩内の保守派を一掃することになった。

 高杉晋作や桂らが政治の実権を握ったことで、長州藩は討幕へと一気に転換することになる。高杉晋作によるわずかな人数による挙兵が長州藩の、ひいては日本の歴史を大きく変えたことになる。

 高杉晋作はそれ以前にも、日本が他国によって占領される危機を回避していた。それは1863年に起きた四国艦隊の下関砲撃事件の後、長州藩は戦後処理についてイギリスと上海で話し合いを持ったが、その時に交渉を任されたのが高杉晋作であった。高杉晋作は脱藩の罪で謹慎中であったが、清の上海への留学経験があったため交渉役に抜擢されたのである。

 藩の家老と偽って交渉に臨んだ高杉晋作に対し、イギリスは関門海峡の入り口の軍事的に重要な彦島の租借を要求した。通常の交渉なら、外国の脅威に屈して彦島の租借に応じただろうが、高杉晋作はイギリスの要求を断固として拒否して、粘り強い交渉で撤回に成功している。

 高杉晋作がイギリスの要求を拒否したのは、高杉が上海へ留学したときの経験があったからである。高杉晋作は1862年に藩命で上海へ留学したが、当時の清(中国)はアヘン戦争やアロー戦争の敗北から欧米列強からの強い圧力を受けていた。欧米人が我が物顔で上海の町を歩き、清国人は欧米人を避けるように歩いていた。またイギリスは香港を租借しイギリスの植民地と化していた。そのような風景を見た高杉晋作は、列強に領土を奪われれることを身をもって感じていた。そのため高杉晋作は絶対にイギリスの要求を受け入れなかった。もし高杉晋作がいなかったら、彦島が清における香港のような存在になり、これをきっかけに日本の植民地化が進んだと考えられる。高杉晋作によるまさに命がけの行動のおかげで、現在の私たちが存在しているといっても過言ではない。なお高杉晋作はその後も討幕に向けて活躍したが、病に倒れ幕府の崩壊を見ることなく1867年4月に29歳の若さで死去した。

 高杉晋作や桂小五郎らによって討幕へと転換した長州藩は、大村益次郎らの指導によって西洋風の軍制改革を行い軍事力の強化に努めた。幕府は長州藩に対して第一次長州征伐における戦後処理として領地の削減を求めたが、保守派から討幕へと転換した長州藩がそれに応じなかったため、幕府は再び長州藩を征伐することを宣言した。
 しかし薩英戦争によってイギリスの影響を受けていた薩摩藩も、藩論をそれまでの公武合体から討幕へと転換し、幕府の命令に従がわず敵対関係であった長州藩と密かに結ぼうとしていた。薩摩藩で政治の実権を握っていたのが西郷隆盛や大久保利通であった。
 薩摩藩主・島津斉彬は身分に関係なく有能な人材を登用したが、その中のひとりが西郷隆盛であった。西郷隆盛は島津斉彬の急死に絶望して自殺を図り、島津斉彬の死後に藩政の実権を握った島津久光と何度も衝突して島流しにあっていた。

 西郷隆盛の親友であった大久保利通は島津久光に取り入り、側近として重用されたが、島津久光の保守的な考えに賛同したわけではなく、時代が西郷隆盛を必要になるみていた。大久保利通の見立てのとおり、生麦事件から薩英戦争の流れの中で、この非常事態に対応できるのは西郷隆盛しかいないということで、西郷隆盛は幕末からの歴史の表舞台に登場するようになった。

薩長同盟

 西郷隆盛や大久利通らによって薩摩藩は討幕へと向かうが、同じ考えを持つ長州藩と同盟を結ぶことは絶対に考えられないことであった。それはそれまで両藩は敵味方に分かれて激しく争っていたからである。ペリーの黒船来航以来「攘夷を主張し幕政を批判していた長州藩」に対し「薩摩藩は幕府と結んで公武合体」を目指し両藩は対立関係にあった。 そのため1863年の「八月十八日の政変」や1864年の「禁門の変」などにおいて両藩は激しく戦い多くの犠牲者を出していた。そのことから両藩は、ともにこの世に生きられない(不倶戴天)と思えるほど恨みや怒りの仇同士となっていた。

 しかし倒幕のためなら、薩長両藩が手を携えたほうが良いに決まっていた。歴史の経緯と誇りが両藩の和解を阻んでいたが、その両藩を結びつけた人物がいた。その人物とは土佐藩の坂本龍馬中岡慎太郎であった。彼らによって薩摩藩と長州藩は同盟を結ぶことが出来た。坂本龍馬や中岡慎太郎は知人を通じて薩長の和解を力説し、一度は西郷隆盛と桂小五郎の会談を実現させる寸前までいったが果たすことが出来なかった。

 しかし長州藩は幕府ににらまれ、朝敵つまり天皇の敵ともされ、武器の購入を禁止されていた。武器が手に入れられない長州藩にとって薩長同盟は武器を得る最大のチャンスだった。薩摩藩は薩英戦争後のイギリスや琉球藩とのつながりで財政は潤っていた。この薩摩藩の財政状況を脅威に感じていた徳川幕府は、薩摩藩の力を弱めるため長州討伐を命じたのである。薩摩藩にとって長州藩と戦えば軍事力も経済力も衰えてしまう。さらに幕府には力のある藩を潰す風潮があった。もし長州藩に勝てば、次は薩摩藩が潰される心配があった。また薩摩藩にとって長州藩と戦わなくても、長州藩が幕府と戦ってくれた方が得だった。

 坂本龍馬や中岡慎太郎は、討幕のために最新鋭の武器が欲しい長州藩と、琉球を通じての密貿易が得意な薩摩藩という両藩の思惑を一致させ、薩長両藩の和解を実現させた。長州藩の人物は木戸孝允(桂小五郎)、薩摩藩側は西郷隆盛と大久保利通が主な人物で、小松帯刀(薩摩藩)の屋敷で行われた。1866年1月、薩長両藩は軍事同盟の密約(薩長同盟、薩長連合)をむすんだが、薩長同盟は大政奉還の1年前のことだった。

 敵対していた薩長両藩が軍事同盟を結べたのは坂本龍馬や中岡慎太郎の功績であった。また両藩が経済的に結びいたのは坂本龍馬ならではの発想といえる。坂本龍馬は土佐の商家出身で亀山社中を組織し、現在の株式会社の原型ともいえる亀山社中を海援隊と名を変えている。

 この薩長同盟の動きを知らない幕府は、1866年6月に第二次長州征伐を行ったが、薩摩藩は出兵を拒否し諸藩は集まらず、幕府の士気はふるわなかった。第二次長州征伐は幕府に不利な戦況になり、大坂城へ出陣した14代将軍の徳川家茂が21歳の若さで急死すると、それを口実に戦闘を中止した。
 第二次長州征伐の失敗は、武力で他藩を支配することで成り立っていた幕藩体制の崩壊を意味していた。幕府の威信は文字どおり地に堕ちたが、その幕府に追い打ちをかけるように同年年末に大きな不幸が起きた。
 それは孝明天皇が37歳の若さで崩御されたことである。孝明天皇は攘夷の考えで討幕を好まれずに公武合体の立場にあった。そのため幕府にとっては大きな痛手となった。孝明天皇の皇子でまだお若い明治天皇が122代天皇として即位され、幕府は15代将軍として一橋家で水戸藩出身の徳川慶喜が就任した。