唯物論と唯心論

 人間の身体は、星の数とほぼ等しい約60兆個の細胞から成り立っている。そしてそれらの細胞の1つひとつが、調和を保ちながら人体を形成している。また人間の血管の全長は約10万キロで、これは地球2周半に相当する。つまり人間は誕生から死に至るまで、心臓から10万キロのパイプをとおして60兆個の細胞に絶え間なく酸素と栄養を送りこんでいるのである。
 このように人体は小宇宙に例えられるが、人間は喜怒哀楽の感情を持つので、小宇宙ではなく大宇宙に等しい存在になる。人間が泣いたり、笑ったり、怒ったり、楽しんだりする感情などの人間の心情は脳代謝の動きで説明することはできない。まして人間がなぜ誕生して、なぜ死ぬのかも分からないのだから、人間そのものが大宇宙的な存在になる。
 医学は科学的(唯物論)学問であるが、医療はむしろ非科学(唯心論)の部分が大きい。医学の知識は大切であるが、医療は人間を相手にするので文学、宗教、哲学的な素養も必要になる。
 医師が医療現場において間違いやすいのは、医学的には正確な説明でも、相手が理解し納得しなければ意味がなく、医学用を並べても、患者は煙に巻かれたまま、思わず頷いてしまうのである。ここに医師と患者との間に溝をつくることになる。また患者の心情を考慮しない説明では、患者は心から同意するはずはない。医療にとって最も大切なことは、医師と患者の信頼関係であるが、この信頼関係は単なる病気の説明だけでは構築できない。むしろ患者の心に接し、病気と共に闘う共同戦線の同志と思わせることが肝心なのである。
 「癌の告知」に立ち会うと、医師の力量がよく分かる。初対面の患者に素っ気なく癌を告知し、治療法を説明し、さあどうしますかと選択を迫る医師がいる。欧米の医師なら良いかもしれないが、日本では患者を突き放す最悪な医師になる。患者は悲観にくれながら頭の中は真っ白で、医師の説明など頭に入らない。ただ涙を浮かべながらうなずくしかない。癌の告知は難しいが、学校では教えないし、試験にも出ないので、無関心な医師が意外に多い。
 本来ならば、相手の心情、年齢、学歴、社会的背景を考慮し、予後を念頭において告知するかどうかを判断し、そして最も大切なのは告知をした後のフォローであろう。癌という死刑囚を前に、家族のように患者の心に接し、宗教家のように患者の心を癒すようにしなければいけない。死という同じ運命を背負った人間として、医師は同朋の心情で患者に接しなければいけない。その意味では、医学知識の多い医師が、臨床に必要なこの患者の心情を理解しているとは限らない。
 昭和の後半頃から、医学の進歩が著しくなり、医師国家試験は問題数を増やし、難問にして若者の貴重な時間を潰している。しかしペーパー試験で人間が分かるものではない。人体の設計図や病気の仕組みを暗記しても、人間を見つめる優しい眼差し、患者への同情心が生まれるわけではない。限られた脳みそに重箱の隅を詰め込んでも、そのような知識は数ヶ月で忘れてしまうものである。
 いっぽう人間とはなにか、死とはなにか、などについては何ら教育されていない。最近のゆとり教育は学力の低下を招いたが、医師としての素養を高めるには、ゆとりある教育が大切である。
 研修医に訊いてみると、森鴎外の「高瀬舟」の名前を知っていても読んだ者はいなかった。深沢一郎の「姥捨て山」、カミユの「ペスト」などは、その名前さえも知らなかった。これでは人間の心、患者の心情など理解できるはずはない。
 今の医学教育にとって一番大切なことは、唯物論的な医学を唯心論的な臨床にいかに融合させるかである。
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