安全保障としての医療

安全保障としての医療
 国家公務員110万人の中で最も職員数の多い職種は何であろうか。それは防衛庁と郵政省の職員で両者はともに約27万人で、この両者を合わせると国家公務員の半数を占めることになる。郵政省の職員には大いに働いてもらいたいが、対GDP比の1%を占める(総額の約44%は人件費)防衛庁の職員にはあまり働いて欲しくはない。これを正確に言うならば、自衛隊が働くような事態になって欲しくないということである。
 自衛隊は昭和25年から災害派遣や国際貢献などを行ってきた。そして現在、南スーダンで国連のPKO(平和維持活動)に当たっているが、今日に至るまで国防という本来の仕事をしていない。では「本来の仕事をしていない自衛隊は不必要か」と言えばそうではない。かつての日本社会党は自衛隊を憲法違反と批判したが、党首村山富市が連立政権の首相に選ばれると「自衛隊は違法であるが存在は認める」さらに「日米安保条約は堅持する」と宣言した。政治家の建前と本音はこんなものと分かっていたが、いずれにしても自国を守る自衛隊は必要である。
 次に警察官、消防隊員、救急隊員は地方公務員であるが、警察官は26万人、消防職員15万人である。彼らもまたなるべく働いて欲しくない。彼らの活動が少なければ少ないほど良い社会といえるからである。もちろん彼らは公務員なので給料は税金から出ているが、誰もが税金の無駄遣いとは思っていない。それはいざというときに、彼らは日本人の安全な生活を守ってくれるからである。
 自衛隊は国を防衛するため、警察官は住民の安全を守るため、消防隊員は災害と火災から住民を守るため、そして救急隊員は住民の救護のために必要であることはだれも異論はないはずである。しかし同じ日本人の生命を守る医療はどうであろうか。日本人の生命に直結している国民の医療そのものがあまりに疎んじられている。
 日本ではどんな過疎地でも郵便物は届く、また宅急便もモノを届けてくれる。しかしもし若い夫婦が過疎地への転勤を命じられたら悩むことであろう。妊娠した場合、子供が病気になった場合、急病となった場合、まともな医療を受けられないからである。また過疎地の医師不足が問題となっているが、高額な報酬で過疎地の医療を依頼されても、多くの医師は断るであろう。それは家庭の事情はもちろんのこと、もし自分が専門外の病気になった場合、医師である自分でさえ必要な医療を受けられないからである。
 政府は最近まで医師過剰時代と宣伝し、次には医師の地域的偏在を指摘している。しかし都市部で医師が余っている訳ではない。都市部の病院も医師不足が問題になっていて、過疎地ではそれ以上に医師が少ないのである。全国の病院の25%が医師の配置基準を満たさず、多くの医師は労働基準法違反の労働を強いられている。
 数年前、インフルエンザワクチンが3万人分不足して社会的問題となったが、実際にはある病院が抱え込んでいて36万人分の在庫が生じたのである。つまり国民の安全を守るには、ワクチンは2割程度余るように余裕を持たなければいけないのである。このように生活を守るためには余裕のある医療が大切である。これを無駄だというのは安全保障という概念が欠如した考えである。
 自衛隊は国防のために存在するが、彼らの存在は海外への抑止力だけで十分である。これと同じように普段は必要がなくても、いざというときに受診できる医療機関が近隣にあることが絶対に必要である。小児科医のいない所に安心して若夫婦が住めるはずはない。一人暮らしの老人でも歩ける距離に医療機関があれば安心である。いつでも医療機関を受診できるという安心感、この安心感こそが国民医療にとって最も大切である。
 日本人を外部から守る自衛隊、そして日本人を内的から守る医療、この両者の理念は安全保障という点において同じである。
 この国民の健康と生命を守る日本の病院や診療所を、自衛隊、警察、消防、救急と同じように国民の安全保障と捉えるべきである。そして犯罪の増加により警察官が増員されたように、医療に質と安全を求めるならば、それ相応の費用をかけるべきである。医療を経済で考える最近の風潮ほど愚かなことはない。