知識人の罪

 有識者、見識者、知識人、文化人、賢人会議、このような言葉を聞くたびに気恥ずかしい思いに駆られるのは何故だろうか。それはこのように称せられる人たちの多くが、この名称に相応しい知性と真面目さを欠いているからである。彼らはもっともらしい言葉でその場を飾りつけるが、それは飾る技術であって本質を見抜く知力ではない。また、あることないことを朝から晩まで喋り続けるが、自分の発言に責任を持たない点においても不真面目かつ恥を知らない。
 政府の審議会、新聞の論説、テレビの解説、様々な分野に知識人が登場するが、彼らは知性ゆえに選ばれたわけではない。彼らを登場させる行政やマスコミに都合が良いから選ばれたにすぎない。行政の提灯持ち、マスコミの広告塔として利用されているだけである。
 体制側、反体制側、いずれの知識人であれ、彼らは行政権力やマスコミ権力への迎合と追従ばかりである。体制側の知識人はたとえ政策が不合理であってもそれを支持し、反体制側の知識人は説明を聞く前から反対を表明する。この二つの力は「赤子の手を両方から引っ張る」ように日本をダメにした。もちろん良識ある洞察深い知識人も多くいるが、彼らは発言する場を与えられていない。
 知識人は突飛なことを言うが、責任ある態度を示さない。保身のための発言、本音を言わない形式論、裏を知りながら善人を演じ、不正を知りなが正義面をする。
 有識者は堅いイメージがあるが、そのイメージで世間を欺き、本当は世間に媚び、世間の陰に怯え、そして行政とマスコミの顔色をうかがっている。有識者や知識人の責任は、知性によって日本国をリードすることであるが、彼らがそれを演じたことはない。むしろ日本のミスリードの旗振り役になっている。日本を良くすべき知識人が日本と日本人を悪くしている。
 医療に関しても、素人の評論家がしたり顔で批判を繰り返すが、彼らの発言は表層思考、トンチンカンな考えばかりである。そして何よりも、彼らは医療や医師 の悪口に終始する。評論家は相手の悪口を言えば自分の地位が高まり、相手をほめれば逆に低下することを知っている。だから相手を良く言わない。悪口ばかりである。悪口ばかりの世の中では、全体が悪い方向へ向かうのも当然である。
 彼らはヒステリックに言葉を荒立てるが、それは周囲の目を意識したポーズである。しかしこの堂々としたポーズによって、彼らの発言が「世の矛盾を正す正論」と誤解されることになる。
 一般庶民にとって、知識人の発言に疑問を感じても、それを問う相手もいなければ時間もない。一方的に受け入れるだけである。そのため知識人の発言に扇動された一般人は、漠然とした不満と神経衰弱をきたすことになる。いかに評論家がいい加減なことを述べてきたかは、数年前の新聞や週刊誌を読み返せば分かることである。
 世の中には様々な問題があるが、物事の本質は極めて単純である。歴史の教科書を読めば、どの事件、どの政策でも、その本質は数行の言葉で説明されてい る。現在、様々な問題について一般庶民が理解できないのは、打算を含んだ問題を純粋な議論にすり替えているからである。政治家や評論家は「日本国全体の利益」を口に出すが、それは彼ら自身の利益を主張する場合の枕詞にすぎない。
 問題が複雑に見えるのは、物事を複雑にしているからで、複雑にしているのが知識人である。世の中にある様々な問題を解決するには、問題を単純化させることが必要である。多くの人たちの利害が絡んでいる問題は、彼らの理屈を排除することが必要である。
 日本の政治において多数決の原理は機能していない。また少数意見も尊重されていない。文句を言う者、利害関係を主張する者、既得権にしがみつく者、彼らに対する調整テクニックが政治になっている。政治家や官僚は利害の調節が主な仕事となり、汚れた手で理念を唱えても何ら良き政策は生じない。日本の良き監視 人となるべき評論家は批判、悪口という職業病におかされたまま、日本の足を引っ張っている。
 日本のオピニオンリーダーがこのような迷走状態にあるが、日本人の多くはまだ良識を持っている。理屈は言えなくても善悪を知り、知識はなくても常識を持ち、学歴はなくてもスジを通すことを知っている。
 落語に登場する熊や八、ご隠居のような庶民こそが、日本人の良識を代表する人たちである。熊や八が抱く素直な疑問、ご隠居の的確な解説。世の中が複雑になっても、熊や八に理解できないものはない、ご隠居に説明できないものはないのである。問題の解決にはご隠居レベルの多少の知識、熊や八の良識的直感があ れば、理屈などは聞くだけ害である。およそ庶民が理解できないものは、間違ったこと、あるいは議論に値しないものである。
 熊や八のような純朴な人々、ご隠居のような当たり前の人々。このような日本人が以前に比べ次第に少なくなっている。良識ある日本人が、悪意ある知識人のテクニックを真似、知識人の傲慢さを真似、人間を悪くしたのである。これもまた知識人がもたらした害である。
 知的破壊、知的傲慢、知的怠慢ばかりで、知識人は知的な誠実さ、知的な真面目さを持たない。