元禄時代

元禄時代
 1680年、4代将軍徳川家綱が子のないまま病死すると、3代将軍家光の4男の徳川綱吉が5代将軍となった。5代将軍・徳川綱吉が政治を行った頃を元禄時代というが、元禄時代の政治は前期と後期に分けることができる。前期は徳川綱吉は将軍就任に功績のあった堀田正俊を大老とした時代で、堀田正俊を中心とした老中の合議制で行われていた。このころから江戸時代の黄金期に入る。

 3代将軍徳川家光が参勤交代制度などを整えて幕藩体制を固めると世の中が平和になり、経済、農業が発展してさまざまな文化が生まれたのである。商人や民衆にもその文化が広まり、芸術では松尾芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴、学問では林羅山、山崎闇斎、荻生徂徠を生んだ。

 しかし1684年、堀田正俊は江戸城中で若年寄の稲葉正休(まさやす)に刺し殺され、稲葉正休はその場で斬り殺された。堀田正俊の暗殺は、稲葉正俊が厳しい幕府の政治に対する反感からで世間では稲葉正休に同情が集まったが歴史上は影の薄い事件であった。

 元々館林藩の藩主であった綱吉は、家康直系以外からの初の将軍だった。そのこともあり綱吉政権の後期は側用人の柳沢吉保を通じて将軍の権力をいかに高めるかが重視され、徳川綱吉本人の将軍親政体制となる。
 徳川綱吉が将軍に就任した頃は、江戸をはじめとして全国には「戦国の遺風」がまだ残されており、至るところで血なまぐさい事件が起きていた。殺伐とした暗い世情を一掃して道徳心を向上させため、綱吉は家綱の頃からの文治政治を一層強め、朱子学による道徳心を広めようとした。

 徳川綱吉は武士に染み付いた戦国時代の考え方を改めるため、1683年、武家諸法度を改定して「弓馬の道」を「忠孝の道」に改めた。それまでの武家諸法度では弓馬、すなわち武芸に励むことが武士の心得とされていたが、綱吉はこれを忠孝の道、すなわち人として生きる道や道徳に励むことが武士にとって大切としたのである。

 この武士の意識変革だけでなく庶民にも「忠孝の道」を求め、武士に対する武家諸法度のように法令を用いて庶民に道徳心を身につけさせようとした。

 1685年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触れが出され、それ以降、約20年間に渡って次々と新しい法令が追加された。世にいう「生類憐みの令」である。徳川綱吉というと「生類憐みの令」がすぐに思い浮かぶほど有名である。

 

生類憐みの令

 この生類憐みの令は、その名前の法令が出されたのではなく、約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令を総称している。生類憐みの令は「人間よりも犬を大切にする」法令で、違反した者は厳しく罰っせられ、多数の死者を含む数十万人の罪人を出したとされ、それゆえに綱吉は「犬公方」という別名で、現代でも暗君とされている。

 しかし生類憐みの令が出たのは、綱吉に男子に恵まれず、母親の桂昌院が薦める僧侶が「綱吉さまは前世で殺傷したから子供ができない。動物を大事にすれば子供ができる」と言う言葉を信じ、これが極端な動物愛護の精神を強制する令の根拠とされている。しかも綱吉が戌年生まれであったために特に犬を大事にし、小動物の殺生までもが厳しく禁止の対象とされた。この極端な法令には幕府内からも批判があり、水戸黄門でおなじみの徳川光圀は綱吉をいさめる為に犬の毛皮を送りつけたとされている。

 綱吉は特に犬を大切にするように厳しく命じたが、「生類憐みの令」の種類は多く犬に関するものは33件しかない。しかし鳥・獣・魚など生き物は絶対に殺したり、傷付けたりしてはいけないことになった。
 金魚を売ることが出来ず金魚屋は失業し、魚屋も商売を止められた。
特に犬となると飼い犬を登録させて養う費用を与え、犬の喧嘩は水を掛けて怪我をしないように引き分けもし怪我をしたら、犬を医者に
見せるように言いつけた。
 幕府は、江戸の中野と大久保に大きな犬小屋をつくり江戸中の野犬を4万8700頭も集め
、農民や町人から取立てた税でまたなった。法令の底辺にあるのは「動物愛護から人命尊重」への綱吉の思いがあったが、極端な面があったのである。

 しかしそれまでは、牛や馬は年老いたり病気になると用をなさないものとして撲殺され、死んだ牛馬を食べた野犬が人々に噛み付くなどして人々に伝染することが多かった。このような状態だったので、野犬化する前に保護するのが犬に関する法令であった。牛馬が病気になれば療養させ、捨て子は禁止され、人が旅籠で病気になっても面倒をみることを義務付けていた。

 生類憐みの令によって数十万人の罪人を出したというのは嘘で、処罰されたのは約20年間で69件で、その3分の2が武士によるものである。さらに死罪になったのは13件で、流罪も12件である。犬公方と呼ばれた徳川綱吉は愚者のイメージが強いが、それまで戦国の気風を残していた社会では「人殺しは当たり前」だった。しかし「生類憐みの令」が出たことで、その意識が劇的に変化したのである。生類憐みの令の本質は平和主義への転換であった。
 このように「生類憐みの令」は多くの人々から誤解されているが、江戸時代の社会はまだ戦国の遺風が残り殺伐としていた。病気などで苦しむ人々がいても誰も目を向けず、また動物も役に立たなければ捨てられていた。そのような風習が生類憐みの令によって一掃されたのである。しかし綱吉の死後、生類憐れみの令はすぐに廃止されたことから、生類憐れみの令は極端すぎて評判が良くなかったことは確かである。

 生類憐みの令を刑罰として考える場合、織田信長の領地における「一銭斬り」が参考になる。これは一銭であっても盗めば首が飛ぶという法令で、そのため信長の領地では夜道を女性が一人で歩けるほど安全になった。信長の無茶な法令に比べれば、生類憐みの令の方がよほど人道的というべきであるが、あまりに極端すぎたのである。
 江戸時代の落語の世界は「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったとされているが、江戸時代の初期は全く逆であった。この綱吉の出した法令がそれを180度転換し、生命を大切にするとともに相手の立場を尊重する道徳心をもたらし、私たちが当たり前のように備えている助け合いの精神を現代まで続けさせているのである。その意味では元禄時代は現在に続く日本人の基礎を作り上げたといえる。

 生類憐みの令は戦国の遺風をなくすための療法であったが、最初の頃はその「生類憐みの令」の慈愛に満ちた政策は正しかったが、あまりに極端に施行されたことが間違っていた。人命よりは犬を優先させ、魚、鳥、蚊、ハエの生命をも優先させたからである。

 綱吉の功績は生類憐みの令だけではない。綱吉による「悪政」と一般的に考えられている他の事項についても振り返ってみると、綱吉とともに悪人とされるのが柳沢吉保であった。

綱吉の政策

 老中・柳沢吉保の勤めは民意の意見をまとめて綱吉に報告し、意見をうかがうことであった。柳沢吉保のような側用人を置くシステムは綱吉が考え出したもので、家康の独断による江戸初期の時代、つまり2代将軍の徳川秀忠以後、意見をまとめた老中が将軍に決裁を依頼し将軍が承認するという形式が続いていた。

 柳沢吉保が私腹を肥やしたというが、天下が平穏に治まった頃には家柄や身分で政治を行っても大きな問題にはならなかった。

 世の中が変革を必要としているときは、その道に詳しい者でないと政治を任せられない。たとえ身分が低くても優秀であれば登用すべきであるが、平和時の身分秩序を基本とした合議制では無理なことであった。

 そこで綱吉は大老の堀田正俊が暗殺されると、老中の上に側用人を置いて、ワンクッションとして将軍の意見が通るにシステムに一新したのである。このようなシステムを考案した徳川綱吉は有能な政治家といえる。
 徳川綱吉には少なくとも2つの改革が必要だった。一つは「生類憐みの令」による武士や庶民の意識の変革で、もう一つは「幕府財政の改革」であった。それまで大量に発掘されていた鉱山の金銀が急激に減り始め、さらに度重なる火災による江戸城や市街の復興に、東大寺大仏殿の再建に象徴される寺社の造営など、支出の増大は幕府財政の悪化をもたらした。

 このような非常事態に、綱吉は経済に詳しかった勘定吟味役の荻原重秀を抜擢して、彼に経済対策を一任した。荻原重秀は綱吉の期待に応え、同じ一両でも金の含有率を従来の84%から57%に落とすことで貨幣の量を増やし、従来の小判と同じ一両と引き換えた。含有の金の量の差がそのまま幕府の収入につながる一石二鳥の策で乗り切った。なおこの時に発行された小判を元禄小判という。ところで一般的な歴史教科書には「元禄小判の発行によって貨幣価値が下がり、物価が上昇してインフレになり、庶民の生活に大きな打撃を与えた」と書かれているが、庶民のダメージは小さかったのである。
 江戸時代の初期には新田開発や都市機能の整備といった多くのインフラが必要で、そのため農民からの年貢が利用され、当時は「七公三民」の厳しい税率になっていた。しかし綱吉の治世の頃までにはインフラが一段落し減税となり、人々の暮らしに余裕が生まれ、その中から人々の多くが「遊び」を求めるようになり、そのニーズに応える形で様々な文化が生まれ、それが元禄文化である。

 生活の余裕はそれまでの自給自足から消費経済へ、さらには貨幣経済の暮らしへと変化していき好景気をもたらし、結果として都市の人口が急増した。それに見合うだけの物資がそろわず、供給が追いつかなかったために物価が上昇してインフレが発生したのである。
 つまりインフレの真の原因は景気の向上による物資の供給不足であり、元禄小判とは関係はない。またインフレで物価が上昇しても、景気が良ければ賃金が一緒に上がるので、全体の金回りが良くなり、生活の余裕が生まれ、元禄文化が栄えたのである。
 元禄小判の発行は世の好景気をもたらし、幕府の収入を増やしたが、貨幣の価値が下がったことに対して「金の価値を落とした偽物を市中に出回らせることで不正な利益を上げているのはケシカラン」という批判が幕閣の中で起きた。これに対し荻原重秀は「幕府が一両と認めるのであれば、たとえ瓦礫であろうと一両の価値に変わりはない」と反論した。この荻原重秀の考えは瓦礫を紙切れに換えれば、私たちが現在使用している紙幣と全く同じことになる。「お金の信用はその材質ではなく、裏打ちしている政府の信用である」という思想は20世紀のイギリスの経済学者ケインズが世界中に広めたが、それより200年以上も前に荻原重秀が実践していた。この先見性に対しては脱帽するばかりである。
 このように綱吉が次々と打ち出した政策は人々の意識を「人命を尊重する思いやりの精神」に改め、景気を良くして元禄文化の全盛をもたらした。ところが綱吉の晩年になると、綱吉にとって酷な事件が立て続けに起きたのである。
 それは大火事や天災の連続であった。1698年9月に大火事が発生すると、その5年後には関東を中心にマグニチュード8.1の大地震が起きた。この大地震は元禄大地震と呼ばれ、4年後には元禄大地震を上回るマグニチュード8.6と推定される大地震が発生し、その49日後の1707年11月23日には富士山が大噴火を起こした。富士山の噴火によって周辺地域は壊滅的な打撃を受け、また大量の火山灰が降り積もったことで江戸も大きな被害を受けた。その大地震は宝永大地震(ほうえい)と呼ばれ、富士山の大噴火は宝永大噴火と呼ばれている。
 このように立て続けに起きた大火事や天災は、元禄文化の残像を吹き飛ばし、庶民のやり場のない怒りや悲しみを時の為政者である綱吉にぶつけるようになった。また綱吉自身もショックが大きかったのか、1年後に64歳でこの世を去った。