大塩平八郎の乱

 大塩平八郎の乱とは江戸時代に起きた反幕の乱で、この乱は江戸時代の三大飢饉のひとつである天保の大飢饉がきっかけになった。

 大塩平八郎の乱は天保8年(1837年)に、大坂東町奉行所の元・与力で陽明学者の大塩平八郎とその門人が起こした反乱である。大塩平八郎は貧困に苦しむ人たちを救うため門人、民衆とともに武装蜂起した。だが奉行所与力時代に彼が行った摘発に対する逆恨みや、奉行所の組織(巨悪)にはめられ潰された側面が強い。大塩平八郎の清廉潔白さが災いしたのだった。旗本が出兵した戦いとしては島原の乱(1637年)以来200年ぶりのことであった。

大塩平八郎 
 1793年、大塩平八郎は大阪・天満で大塩家に生まれた。大塩家は代々与力として禄を受け、彼の父も与力を務め、初代の六兵衛成一から数えて八代目の与力であった。大塩平八郎は14歳で与力見習いになり、25歳で大坂東町奉行所の正式な与力になった。

 大塩平八郎が与力になって驚いたのは奉行所が腐敗していたことであった。大塩が事件を担当すると当事者から菓子折りが送られてきて、開けると小判が入っていた。このようなことは日常茶飯事で、同僚の中には自ら賄賂を要求する者も多数いて、捜査に手心を加えることも公然と行なわれていた。
 清廉潔白な大塩平八郎は同じ与力に弓削(ゆげ)という悪党がいることを知った。弓削は裏社会のボスで、部下に恐喝、強盗、殺人をやらせ、自分は遊郭で遊んでいた。正義漢から大塩は弓削と戦うこと決意し、弓削の手下を片っ端から摘発して不正を次々に暴いた。そのため弓削の集団は壊滅し弓削は自害した。その辣腕ぶりは市民の尊敬を集め、大塩は没収した3千両の金銭を貧民へ施した。
 この捜査の過程で、幕府高官が不正に加わっていた証拠を掴んだが、幕府中枢部から圧力を受け、幕府高官の悪事は揉み消された。大塩は深い失望を味わった。この揉み消しから1ヵ月後に内部告発を助けた上司の東町奉行・高井実徳に連座する形で40歳という働き盛りの若さでも奉行所を去り、25年にわたる奉行所生活を終えた。
私塾・洗心洞
 大塩は奉行所を辞める前の、32歳の時から私塾「洗心洞」を大阪・天満の自宅で開いていた。教えていたのは独学で学んだ陽明学で、大塩は学者として広く知られており、与力や同心、医師や富農などに陽明学の思想を説いていた。塾の規律は厳しく、朝2時に講義が始まり、真冬でも戸を開けぱなしにしていた。講義は厳格そのもので門人たちは緊張のあまり大塩の目を直視できなかったほどである。
 奉行所を辞め隠居した大塩は養子の大塩格之助に跡目を譲り、陽明学者として学問の道を究めようとした。陽明学は朱子学と同じ儒教であるが「思想を持つだけでなく、実践を伴わなければ学問とは言えない」、つまり「知行合一の思想」であった。大塩は洗心洞剳記(さつき)を書き、最後を「口先だけで善を説くことなく、善を実践しなければならない」で締めくくっている。この「洗心洞剳記」は門弟と共に富士山に登り山頂に納められた。

天保の大飢饉
 当時は、比較的天候に恵まれ、不作らしい不作は起きなかった。しかし東北地方の暖冬、冷夏、長雨に祟られ、この異常気象を皮切りに台風による大被害が3年連続し、餓死者が20~30万人に達した。これが世に言う「天保の大飢饉」である。

 江戸時代を通して、米の生産力が一番高い時期は元禄時代であった。その元禄の頃を中心として年貢が取られた。一番高い時の水準で年貢を決められたので、少しでも不作になると、すぐに百姓の生活に降りかかってきた。四公六民、あるいは五公五民の年貢を取られると、飢饉になるとたちまち多くの人間の死に直結した。
 南部藩などは24万人の人口のうち、天明の飢饉で6万4000人、約4分の1が餓死している。天保の大飢饉でも6万人ぐらい死んでいる。そのため人口が減少し、結局、生産力が下がってしまった。飢饉によって農村や都市部では貧窮者があふれ、追いつめられた農民や庶民らによって一揆や商家の打ちこわしが続発した。

 天明の飢饉では飢饉で米が入ってこなかった。とくに京都は丹波からは例年の5分の1程度、亀山(亀岡)からは40分の1しか米が入ってこなかった。米の値段は3倍以上に高騰し、死者は京都だけで毎日70人に上った。大坂の城代、あるいは町奉行は米の移動を禁止し、このことが平八郎が乱を起こす要因になっていく。このような全国的な大飢饉に対し、幕府や各藩は救民対策を行わなかった。逆に商家にコメを買い占めさせ、暴利をむさぼっていた。
 大阪は「天下の台所」と呼ばれ、全国から多くの物資が集まっていた。この経済の中心地である大阪においても、買い占めでコメ不足となり、多くの人々が飢えに苦み、1日170人余りの餓死者が出る事態となった。
 これを見かねた大塩平八郎は、何度も奉行所へ窮状を訴えた。凶作とはいえ大阪には全国から米が集まるのだから、庶民は飢えても米問屋や商家に米はあるはずである。「豪商たちは売り惜しみで値をつり上げている。人々に米を分け与えるように奉行所から命令を出すべき」と大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)に訴えたが耳を貸すどころか「意見するとは無礼者」というだけだった。
 奉行所は大阪に搬入されるはずの米を兵庫で止め、それを船で江戸へ送っていた。奉行所は購入した米を幕府への機嫌取りのために、また将軍・徳川家慶就任の儀式のために江戸へ廻していたのである。

 豪商らの米の買占めにより大阪の米の値段は6倍に急騰し、さらに奉行所は大阪から米を持ち出すことを禁止し、京都や地方から飢えて買い付けに来る者を牢屋に入れた。
 こうした飢饉に拍車をかけたのが、1837年に幕府が行った天保通宝の発行であった。1枚が百文に相当するこの貨幣の発行により、貨幣の相場を下落させ、物価の上昇を招いたのである。大阪町奉行は餓死者が出ているのに救済の手を打たなかった。

 大塩は三井、鴻池ら豪商に「人命がかかっている、貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と20数名の門人の禄米を担保に1万両を貸してほしい」と持ちかけた。しかし鴻池善右衛門に相談された東町奉行の跡部良弼が、平八郎の売名行為として「断れ」と命令したため、平八郎の救済策は実現しなかった。

 飢えた人々を救う手はほとんど打たれなかった。大坂や京の街には餓死者の数が日に日に膨れ上がっていった。大塩は学者にとって宝ともいえる5万冊の蔵書を売り、手に入れた600万両を1万人の貧民に配った。私財を投げ打ち貧民救済を行うが、万策尽きたことを実感し、大塩平八郎は役人や豪商たちに激しい怒りを覚え、飢饉は天災ではなく人災であるとして武装蜂起を決意した。
 この決断は陽明学における知行合一の精神、すなわち「知っていて行わないのは、知らないのと同じ」を実践した。陽明学を学んだことも宿命として起つ時がきたと決意した。もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に、根本的解決は望めないとしたのである。事態は一刻を争った。窮民への救済策が1日遅れれば、それだけ人命が失われる。大塩はついに力ずくで豪商の米蔵を開けることを決意した。「仁・義のすたれた世をこのまま傍観してはおられぬ。陽明学を学んだものの宿命として、起つ時がきた。もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に、根本的解決は望めない」と判断したのである。
 大塩平八郎は綿密な計画を立て、大量の米を備蓄していた大阪城の米蔵を襲うことを最終目標にした。家財を売却し、家族を離縁し、大砲などの火器や爆薬を整え、さらに私塾の師弟に軍事訓練を施した。近郷の農民に檄文「豪商らに天誅を加えるべし」を回し、決起への参加を呼びかけた。檄文は下記のごとくである。
 「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者に、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉の惨状に対し、大阪町奉行は何の対策を講じないばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ自分の利益だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価を吊り上げている。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅をなす時で、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である」。この連判状には約30名の門下生が名を連ね、それは与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、その他3名であった。
 決起の日を、新任の西町奉行・堀利堅が初めて市内を巡回して、東町奉行・跡部良弼に挨拶に来る2月19日の夕刻と決め、同日に両者を爆薬で襲撃し、爆死させる計画を立てた。

建議書

 さらに決行前日、江戸幕府の6人の老中宛に「大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える」手紙を書き送った。「公然と賄賂をとる政治が横行しているのは、世間の誰もが知っているのに、老中たちはそれを知りながら意見すら言わない。その結果 、天下に害が及ぶことになった」。
 蜂起が失敗しても、心ある老中が一人でもいれば改革を行なってくれると願って書いたのである。武家およびその家臣が無尽に関与することは禁じられていたが、財政難で苦しむ諸藩は自領内や大都市で無尽を行って莫大な利益を得ていた。大塩は大坂で行われていた不法無尽を捜査した際にこの事実を告発したが、無尽を行っていた大名たちの中には幕閣の要人も多くおり、彼らはその証拠を隠蔽して捜査を中断させた。大塩はその隠蔽の事実を追及したのである。大塩が告発した中には、水野忠邦や大久保忠真ら、事件当時の現職老中4名も含まれていた。
    大塩の告発状が入った書簡を江戸に運んでいた飛脚は、その中に金品が入っていると思って箱根の山中にて書簡を開封し、金品がないと知るや書簡ごと道中に放り捨ててしまっていた。それを拾った者によって書簡が韮山代官江川英龍の元に届けられ、内容の重大性に気付いた江川英龍が箱根関に通報した。建議書が箱根で押収されたことには、皮肉にも当時の社会の腐敗が飛脚にまで及んでいたことが背景にあった。

 さらに今度は幕府から朝廷に対して大塩追跡の状況を知らせた文書が、同じ箱根山中で同様の被害に遭い、事情を知った関白鷹司政通が武家伝奏徳大寺実堅を通じて京都所司代に対して抗議したことが、同じ武家伝奏の日野資愛の日記に記されている。
大塩平八郎の乱
 決起直前になって密告者が出て、計画が奉行所に察知されてしまった。門弟の与力2人が裏切り、計画を奉行所へ密告しのだった。当直で奉行所に泊まっていた別の門弟が、この密告を大塩に急報し、事態の急変を知った大塩は、午前8時に「救民」の旗を掲げて蜂起した。朝の大阪に大砲の音が轟いた。計画が早まったことから、仲間が集まらず最初は25人で与力・朝岡宅を砲撃し、続いて洗心洞(大塩邸)に火を放った。
 大塩は「天満に上がった火の手が決起の合図」と伝えていたので、近隣の農民が次々と駆けつけた。難波橋を南下し船場に着いた昼頃には町衆も加わり総勢300人になった。彼らは「救民」の旗を掲げ、船場の豪商家に大砲や火矢を放った。鴻池善右衛門、三井呉服店、米屋平右衛門、亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々に襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していった。しかし火災が広がり、天満を中心に大坂市中の5分の1が焼失し、大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人(約2万軒)が焼け出された。火災は翌日の夜まで続いた。
 島原の乱から200年目の武装蜂起は大坂の街の真中で起き、奉行所の出兵に加え、大阪城から2000人の幕府軍が出兵し大塩一党は総攻撃を受け「大塩平八郎の乱」は半日で鎮圧された。
 事件後の執拗な捜査で門下生たちは捕縛されたが、大塩平八郎と養子の格之助だけは行方が掴めなかった。大塩平八郎は戦場から離れた後、跡部の暗殺を狙い淀川に船を浮かべ、夕暮れまで大阪東町奉行所の様子を伺っていた。
 数日後、大和から再び大坂に舞い戻って、下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛の裏庭の隠居宅に潜伏した。大塩親子はおよそ40日余り潜伏していたのである。
 大塩は江戸に送った建議書に期待していたが、建議書は江戸に届いたが、大坂町奉行所から差し戻し命令があり幕府に届けられずに、返還途中の箱根の関で、字の読めない飛脚が中身を見て、金目のない膨大な訴状だけを見て、その重要性を知らずに捨ててしまった。
 大塩平八郎は失意のまま、美吉屋の店(西区靱油掛町)に匿われたが、出入りする奉公人によって大坂城代・土井利位に通報され、その家老・鷹見泉石らに包囲され、養子の格之助とともに火薬を用いて自決した。遺体は判別不可能な状態であった。大塩平八郎、享年44であった。
 幕府側の元役人が大坂で挙兵したことは、幕府にとって大きな衝撃となった。薩摩や長州といった大名でさえ幕府に従順だった時代に、個人の力で数門の大砲を用意して白昼堂々と大阪の中心地で豪商の米蔵を打ち壊し奉行所や大阪城襲撃を目論んだのである。このような事態は誰も想像もしていなかった。この事件は徳川政権を揺さぶった。
 大塩平八郎は蜂起前に資産を処分して貧民に配り、自分を犠牲にして幕府に庶民の救済を求めた。それは25名の門下生も同じで、そのため大火で焼け出された人々は、大塩に怒りをぶつけず「大塩さま」と呼んでその徳を称えた。
 幕府はこの騒動が各地に及ぶことを恐れ、反乱の実態を隠し「不届き者の放火騒ぎ」とした。しかし大塩が1ヶ月以上も逃亡したため広範囲な手配が必要となり、平八郎の人相書が全国に配られ、乱の事実が短期間で全国へ知れ渡った。しかも爆死したことから「大塩平八郎死せず」の噂が流れた。
 奉行所は大阪周辺の村に対して、大塩平八郎の「檄文」を差し出すよう命じた。しかし農民たちはこれに従わず、厳しい監視の目をかいくぐって写筆し全国各地に伝えた。大塩平八郎の乱から2ヵ月後の4月に、広島の三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、6月には越後の柏崎で国学者の生田万が「天命を奉じて国賊を誅す」と代官所を襲撃(生田万の乱)し、さらに全国でも同様の乱が続発し、その首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」などと称した。
 また「大塩平八郎は生きている」「海外に逃亡した」との風説が流れ、身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止し、同年アメリカのモリソン号が日本沿岸に現れたことから「大塩平八郎と黒船が江戸を襲撃する」との噂まで流れた。
 幕府は事件を収めるため1年後に磔を行うが、それは塩漬けにされた人相も不明な十数体の遺体を磔にするという異様な処刑であった。大塩の遺体は判別できるはずはなく、さらに生存説に拍車がかかった。
 また大坂が京都に近いことから、2月25日に京都所司代から光格上皇および仁孝天皇にも事件の報告が行われ、朝廷からは諸社に豊作祈願の祈祷が命じられ、朝廷は幕府にその費用を捻出するように命じた。江戸幕府が朝廷の命を受けたことは、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上がる幕末の兆しと見ることができる。
 大塩平八郎の乱は決して倒幕の戦いではなかった。明治維新のような倒幕ではなく、また四民平等の社会を目指したものでもなかった。大塩平八郎の乱は、徳川幕府の支配体制の中で多くの人々の幸福な生活を願ったものであった。
 大塩平八郎は徳川幕府への反逆者ではなく、忠臣としての使命を果たそうとしたのである。「士農工商」の身分制度の中で、武士は社会の指導者であり、農民たちの生活を良くするように導かなければならない。農民たちの苦しみを救わなければ、武士としての職責を果たしたことにならない。それは徳川幕府の武士として恥ずべきことである。つまり農民たちが苦しんでいるのは、武士が悪いのであって徳川幕府を良くするための乱だったのである。