人間集団のポアソン分布

人間集団のポアソン分布
  人間は生まれながらに平等で、かつ誰もが尊い存在である。人間の価値を金銭で表現することは馬鹿げたことで、かつての奴隷制度を除けば人間の価値を金銭で測ることはできない。
 このような耳に心地良い文章は、あまりに当然すぎることなので、疑問を持つ者は少ないであろう。しかし人間の存在としてはこの通りであるが、人間の存在と現実の人間社会とは違うのである。上段の文は人間社会の現実と人間感情の本質に目を閉ざした虚構の表現で、人間特有の思い込みによる幻想、あるいは実現不可能な理想を表した文章にすぎないのである。
 過言を承知で言うならば、まず人間は生まれながらに平等ではない。才能の有無、頭の回転の速さ、身体の大きさ、親の財産の程度、これらによって人間は誕生した日から優劣に差が生じている。もちろん美人は不美人よりも優位で、美人は美人の親から生まれる。大学予備校の教師は、子供の学力は親の学歴を見ればわかるという。カエルの子はカエルであって、トンビがタカを産むのはまれである。この生まれながらの不公平は誰も口に出さないが、人間の真実として認めざるをえない。
 青春時代を振り返えれば、多くの人たちは学校の成績や自分の容貌に悩み、後塵を走る屈辱や貧困に心を痛めた記憶をもつであろう。そしてこれらの多くは、生まれながらの不公平による苦悩といえる。努力が足りないと言われても、努力で身長が伸びないように、努力で補える部分には限界がある。先天的な形質を後天的な努力で変更できると考えるのは、白鳥を夢見るアヒルのおとぎ話、根性ものの漫画の世界と同じ次元の話である。
 もちろん努力や偶然によって人生は大きく変わりえる。努力そのものが人間形成の上で役に立つことがある。しかし先天的形質や能力の違いはどうにもならないことなので、多くの人たちは見ないようにしている。また差別的言動との批判を恐れ話題に上ることもない。
 高い所から高尚な理想を述べたとしても、人間集団はポアソン分布で成り立っている。このポアソン分布の左端に位置する人たちは社会的弱者、右に外れているのは天才と呼ばれる人たちである。彼らは目立ちはするが、少数派ゆえに大きな力にはならない。むしろ対立できるのは集団の中でポアソン分布の左側に位置する大勢の人たちである。
 彼らはたとえ弱者であっても、労働者であれは集団の力で資本家と対立が可能である。低所得者であれば票の力で政治家を動かすことができる。社会的弱者であれば人権侵害と訴えることもできる。しかし才能がない者、頭が悪い者、背の低い者、病弱な者、器量の悪い者、このようなポアソン分布の左側にいる大多数の人たちは集団を形成できず行き場のない悩みをもつ。彼らの悩みは大きい。また弱者とは認知されないので世間からの同情はない。たとえ同情があっても彼らのキズを癒すことはできない。
 このように存在において人間は平等であっても、個々の内容においては平等とはいえない。他人との相違を感じなければ悩みは生じないが、他人より良くありたいと願う欲求が悩みの原因になる。たとえポアソン分布の右側に位置していても、さらに右側に他人がいる限り満足は得られない。それは絶対的位置関係に加え、相対的位置関係も悩みの種となるからである。自分の価値判断で自分と他人を比較するからで、試験で2番の者が1番になれなかったと悔し涙を流すのがその典型例である。
 商品に値段があるように、資本主義社会は人間にも商品としての価値を定めている。自分は他人からの評価は受けないと力んでみても、給料という金銭で評価されている。
 シビアな金銭で能力そのものの評価を受けているのはプロのスポーツ選手たちである。彼らの評価のすべては成績であり、成績が良ければ数億の大金を得、悪ければクビになる。歩合制のサラリーマンもこれに近い。人間を容貌で評価しているのは、芸能界、コンパニオンなどの業界である。このように実力の世界ほど、また多くの人たちが憧れる職業ほど人間を金銭で評価している。男女雇用機会均等法はあっても容貌や能力雇用均等法は存在しない。
 戦前の日本はこの考えが著明で、官僚や教授の給料は今の数倍以上だった。資本家は富を独占し裕福な家庭には使用人が働いていた。そして政治家の別荘は、現在では旅館や記念館として名を残すほど豪邸であった。
 表面的平等主義の戦後は、給料による適切な評価が崩れている。特に学校の先生などの、それまで聖職と呼ばれていた職業ほど戦前との落差が大きい。官僚が天下りに執着するのは、事務次官といえども月30万円以下の年金では生活ができないからである。世間では官僚の悪口を言うが、この年金では志があっても、やる気を削がれるであろう。それだけの評価だから、それだけの仕事となる。
 資本主義社会は欲望を満たすための競争で成り立っている。そしてこの社会の長所は競争による活力である。逆に短所は無意味な競争がもたらす殺伐とした人間関係である。
 現在の日本を健全な社会にするためには、健全な競争ルールとその適正な評価である。さらに身の程を知り無意味な競争を避けることも重要である。