30万人目の責任

 DNAの解によると、私たち人間は約600万年前にサルから分離して進化したとされている。人間の出産年齢を20歳と仮定すると、600万割る20で、私たちは人類誕生から30万人目の子孫に相当する。
 またミトコンドリアの分析から人類の系統を調べた研究では、私たちは20万年前にアフリカで誕生した1人の女性に由来するとされており、最近ではこのミトコンドリア・イブ説が人類進化の有力な学説になっている。猿人、原人、旧人、新人、現生人類、このように長い時間をかけ、私たちは進化をとげてきた。
 人間の誕生から今日までの歴史を1年の時間に当てはめると、キリストが誕生したのは12月31日午後9時ごろ、現在の私たちが誕生したのは12月31日の最後の7分前になる。いかに有史以前の歴史が長いかがわかる。
 私たちの祖先たちは弱い自分たちを守るために群をなし、風雪に耐え歩んできた。狩猟、採取の原始的生活から、集落をつくり、共同作業をおこない生活の安定を図ってきた。やがて農業を中心とした文明が起こり、安定した生活を築くために様々な道具が工夫された。
 この栽培農業から産業革命を経て、飛躍的な変化が日常生活を変えた。蓄積された発明が生活レベルを確実に向上させ、情報革命とされる今日へと歩んできた。
 29万9999番目の人々は、便利になった生活を人間の英知が生んだ進歩と自慢した。集積された知識と機械化された毎日が知的で快適な日々を導くと、さらに理想的社会が目前にあると期待した。
 しかし現世代である30万人目の現状はどうであろうか。溢れる情報は多くの混乱を招くばかりで、仕事を減らすはずのコンピュータは仕事を増大させ、楽な生活をもたらすはずの機械化が毎日をより忙しくさせている。人々は時間に追いまくられ、精神の安定を失おうとしている。今の生活のどこに以前の人々が夢見た生活があるのだろうか。
 30万人目の私たちは30万1人目の次世代を考える余裕を失っている。明日のことを考えず、目の前のおいしい話に関心を奪われ、問題の回避ばかりを考えている。いったい30万人目の私たちは何をしているのだろうか。30万人目の後には30万1人目が控え、そして 30万2人目、30万3人目、30万4人目、30万5人目、・・と続いているのに、景気の変動に右往左往し、私たちは彼らのことを考える余裕すら持てないでいる。
 良いものを次世代に残すことがこれまでの人間の歴史であった。たとえ悪いものでも、教訓として残してきた。そしてこの人類の歴史の中で 、1番から29万9999番目までの遺産を次の世代に引き渡すことが、私たちに課せられた当然の責任といえる。
 この責任を果たすためには、今を基準に考えるのではなく、将来を基準に現在を考え直す必要がある。そして次世代に迷惑を残さず、未来を壊さないことを第1に考えるべきである。
 ふたたび話題を人間の誕生へと戻すと、人間の誕生にはご存じのように進化論と創造論の2つが対立している。もし創造論が正しいとすれば、神が宇宙と人間を創造したのは6.000年前となる。この創造論にそって計算をし直すと6.000割る20で、私たちは300人目の子孫に相当することになる。
 この創造論の弱点を述べれば、6.000光年以上離れている星雲の存在が否定され、さらに人間の盲腸、クジラの大腿骨、ヘビの後ろ足のような進化の退行を説明できない。では進化論が正しいかといえばそうでもない。
 進化論者は生命の誕生を、「化学反応による偶然」が数億年単位で起きたと説明している。しかしこの説では、コンピュータの部品を箱に入れ、振っているうちにコンピュータが完成したという飛躍が感じられる。また進化論者は「サルが木から下りて二本足で歩行したこと」が人間への進化のきっかけとしている。しかし二本足歩行がそれほど重要ならば、エリマキトカゲがなぜ人間に進化しなかったのか、疑問とともにそうならなかったことを思わず感謝したい気持ちになる。
 35年ローンの計算に疲れ、気分転換に電卓をたたいてみたが、考えてみれば35年ローンなどは小さな問題である。 ローンの自己責任以上に、30万人目あるいは300人目の責任を私たちは背負っているのである。
 目の前の環境問題、国の借金問題、年金問題、これらの問題を現世代で解決しないと、私たちは無責任の世代として後世に恥をさらすことになる。