高瀬舟

   森鴎外の名作「高瀬舟」は、江戸時代に島流しを命じられた罪人を京都から大坂へ護送する高瀬舟の船上でのはなしである。ある日のこと喜助という男が弟殺しの罪で連れてこられたが、喜助には島流しの罪を背負っている悲愴感がなかった。これを不審に思った護送役の同心の庄兵衛が話しかけた。すると喜助は「島流しなど今までの苦労に比べたら苦ではない。お上に居場所を作ってもらい、食べさせてもらえるのはありがたい」と語った。庄兵衛は、この純粋そうな男が弟殺しという恐ろしい事をするのだろうかと思い話を聞いてみた。

 すると喜助は、子供の頃に両親を亡くし、弟と2人で暮らしていたが、弟が病気で働けなくなり、貧しいながらも一生懸命働いて弟の面倒を見てきた。ところが、ある日、家に帰ると弟がのどから血を流し苦しんでいた。聞けばこれ以上迷惑をかけたくないと思い剃刀で自殺を図ったが、死にきれずに剃刀がのどに刺さったままになっていた。剃刀を抜けば出血で命を落とすことになるが、弟は剃刀を抜いてくれと必死に頼む。喜助は悩んだ挙句、剃刀を抜き弟は息絶えた。それを近所の人に見られ罪人になったのだった。

 遠島流刑となった喜助に、弟を死に至らしめた罪の意識はなく、流刑の罰に悔恨を感じさせない妙に爽やかな小説である。

 もし私たちが喜助の立場に置かれたら、どのような行動をとるであろうか。情に従い喜助と同じ行動をとれば、人間として許されても法律では罰せられる。法律は弟を苦しませ放置することを命じ、手を差し伸べ楽にさせる行為を殺人としている。このように人情と法律には相入れぬものがある。

 人間社会を守る刑法の目的は、被害者に代わり加害者に制裁を加えることである。また見せしめのために刑罰を与え、犯罪を予防することである。喜助の流刑に違和感を覚えるのは、喜助への刑罰がこの刑法の理念からかけ離れ、またこの小説が妙に爽やかなのは人情に従った喜助が殺害を後悔せず、貧困に悩む生活が罰によって解消するという欲のない人間らしい人間だったからである。

 喜助が行ったのは自殺に失敗して苦しむ弟を楽にしてあげることであった。安楽死に加害者も被害者も存在しない。加害者と被害者のいないところに、悪意のないところに犯罪が存在するのだろうか。法律になじまない人情を法律で裁くことに無理がある。
 多くの老婆はポックリ往きたいと願い、早く迎えがくればよいと言う。死は怖くはないが、痛いのはいやだと訴える。医師の使命は患者の望むことを行うことであるが、老婆の心情に反し濃厚治療を行うのが現在の医療である。老婆がどれほど苦しんでも、面倒に巻き込まれたくない医師の心理が老婆の尊厳を軽視することになる。
 安楽死事件として、かつて東海大附属病院の塩化カリウム事件、国保京北病院の筋弛緩剤事件があった。これらの安楽死事件を思うたび、2人の医師を擁護する医師が1人もいなかったことが不思議に思えてならない。この事件でだれが被害者だったのか。加害者とされた医師が最も大きな被害者だった。
 この事件でコメントを求められた多くの医師は、カリウムや筋弛緩剤を用いた積極的安楽死に異論をのべた。そしてそれが鎮痛剤などの消極的方法であったならばと理屈を言った。心の中では「もっと上手くやれば良かったのに」と不手際の悪さに同情しながらも、外に向かってはしたり顔のコメントであった。しかし積極的安楽死と消極的安楽死に、倫理上、道徳上の違いがあるのだろうか。合法、非合法は外面上の違いだけである。
 マスコミは安楽死の過去の判例を並べ、世の見識者はその定義に一致しないことを理由に医師を違法と責めたて、法律的にも人間的にも2人の医師を犯罪者とした。しかし その場にいない者が医師(喜助)の心情をどれだけ理解できたであろうか。マスコミが伝える医師(喜助)の心情脚本など信じるほうが浅はかである。
 この問題に最も冷静な判断を下したのは、私たちのような傍観者の医師ではなかった。法律学者でも、裁判官でも、マスコミでもなかった。それはひとりの検事であった。
 京都地検は殺人容疑で書類送検された京北病院前院長について「死因は進行性がんによる多臓器不全。投与された弛緩剤は致死量に達せず、死亡との因果関係は認められない」とした。京都地検はこの事件を嫌疑不十分で不起訴処分とし、裁判で決着することを断念したのである。
 この検事の判断は、文字通り証拠不十分で立件を断念したのではなく、証拠不十分を理由に安楽死を法律で裁くことを回避したのである。まさに大人の判断、人間の知恵である。
 この地検の判断によりこの事件は決着をみた。もし現場の医師ならば投与された弛緩剤が致死量以上であることを知っていたはずであるが、評論家の医師は現場を知らないので異を唱える者がいなかった。まさに地検の英断と評価するところである。
 人間の情、愛、倫理、道徳、宗教は法律より優先されるべき部分がある。人間社会のすべてを法律の網で覆うことは、人間のあるべき姿を失わせることになる。このことを京都地検は考えたのであろう。
 現在の医療は、何本ものクダを入れ、死んだ者を生かし続けることができる。遺体に呼吸をさせ、心臓を動かすことができる。このような医療技術の進歩の中で、人情を理解しない法律が医療を機械的医療に追いやる恐れがある。
 死を敗北とする考えもあるだろう。最後まで全力を尽くすという考えもあるだろう。しかし国民の8割以上が尊厳死を受け入れている常識的世論を忘れてはいけない。そして生命維持装置を使用するのも、そのスイッチを切るのも医師しかいないのである。
 医師と喜助との違いは、喜助は罪を罪と思わず、罰を罰と受け止めていないことである。喜助はそれまでの生活が罪人となったことで逆に楽になり、また自分の行為が正しいと受けとめているのである。
 安楽死の定義を裁判所が明示しても、医師たちは法的責任に関わりたくないと思うのが自然である。そしてそのことが冷たい医療、非人情的医療、機械的医療に移行させる可能性が危惧される。
 法的責任を恐れ、苦しむ者に手を差し伸べない医療を全人的医療と呼ぶことはできない。また人情を理解しない社会を法治国家と誇ることもできない。ここに人情を拘束する法律の副作用を感じるのである。