アリとキリギリス

 イソップ物語は紀元前6世紀に作られた古代ギリシャの寓話集である。この寓話集が時代や国境を超えて読まれてきたのは、道徳や善悪、生きるための知恵が分かりやすく示されているからである。歴史や教科書はその時代の政治により常に勝者の視点で書かれてきたが、イソップ物語は政治に利用されることもなく普遍的な人生訓として伝えられてきた。
 奴隷のイソップが大人たちを相手に話したように、イソップ物語は子供ばかりでなく大人が読んでも興味深い。アリとキリギリスの話を振り返ってみよう。
 この物語は、暑い夏の日差しの下で一生懸命働いているアリを見ながら、遊び人のキリギリスが「そんなに仕事が楽しいの」とあざ笑う場面から始まる。やがて木枯らしが吹く冬になり、空腹のキリギリスがアリに助けを求める場面で終わりとなる。この短い物語が興味深いのは、その結末の記載がないことである。アリがキリギリスに食料を恵んだのか、断ったのか、あるいはアリがキリギリスを食べてしまったのか、その記載がないのである。
 もし「その後の話」を子供に訊かれたら、母親はどのように子供に説明するであろうか。多くの母親は「アリがキリギリスを助ける美談」として話をするであろう。しかしその後のキリギリスについては、時代とともに、国によっても解釈が異なっている。
 歴史の大部分を占める解釈は、食事を断られたキリギリスが木枯らしの中をトボトボと帰る姿である。戦前の日本は生命の価値は低く、江戸時代の武士ならばアリに頭を下げるよりむしろ死を選んだであろう。また欧米合理主義の考えに立てば、痩せたキリギリスに食料を与え、太らせてからアリが食べた、と解釈できる。母親が当然とする相互扶助、生命第1主義の考えは社会が豊かになった戦後の日本の概念にすぎない。
 夏の間、キリギリスが病気で寝込んでいたならば、あるいは働く意志があっても仕事がなかったならば、仕方がない。しかし夏の間、保険料を払わずギターを弾いて遊んでいた者に、なぜアリの蓄えた保険金から生活費を支給する必要があるのだろうか。アリに蓄えがなければ、キリギリスが列をなしたなら、どうするのだろうか。傲慢なキリギリスをアリが救済する美談には無理がある。
 現代において弱者に対する強者の援助は当然とされている。累進課税、医療保険、福祉行政、年金制度、海外助成金などはこの思想の上に成り立っている。しかし富の再分配は社会が恵まれているから可能なのであって、財源がなければ成り立たない。
 多くの人たちは建て前では相互扶助を理解しても、他人を救済する気持ちは少ない。銀行や保険に金を預けても、募金活動などはきわめて低調である。弱者に対する慈愛精神は低く、人権主義者に声援を送っても、資金を援助する者は少ない。まして自分に蓄えがなければ、また相手が遊び人であれば、なおのことである。富の再分配に割り切れない気持ちになるのも自然なことである。富の再分配への不満が表面化しないのは、その負担が直接感じにくい税金や社会保険によって福祉が賄われているからである。
 戦後、70年を迎えている日本は、社会の衰弱と老化をきたしている。資本主義の日本において富の再配分という社会主義的思想が成り立ってきたのは、戦後の若い日本がアリのように一生懸命働き社会の富を築いてきたからである。
 これからの高齢社会では、かつての蓄えが減少する時代である。今の老人は心配ないとしても、若い世代には重い負担がのしかかってくる。確実にやってくる高齢社会を前にして危機感が乏しいのは、豊かな社会が作ったユートピア的幻想に依然としているせいである。現在、国の財政は借金だらけ、赤字国債の乱発により自転車操業で生き延びているにすぎない。福祉社会が財政難から崩壊する前に、この幻想から目を醒ますべきである。どんなに福祉を叫んでも財源がなければ無いものねだりの子供と同じである。
 かつての人々がイソップから学んだことは、将来のために努力を惜しんではいけないこと。努力する者を笑ってはいけないこと。さらに笑った相手に援助を求めてはいけないことである。この自立の精神を教えず、暢気に美談を作り上げても子供への教訓とはならない。逆効果である。母親の話から子供が得るものは、働かずに生きてゆく他人への依存心だけである。助けを期待する、助けを当然とするキリギリスを増やすだけとなる。キリギリスを愚か者と蔑む気持ちがあるうちはまだいい。援助を当然と思い込むことが危険なのである。福祉国家は恵まれない人たちを救済するのが目的であって、恵まれない人たちを増やすことではない。
 豊かな社会に甘え、アリを食い物にするキリギリスが増えている。キリギリスを正す教育や政策はなく、援助ばかりを求める風潮となっている。
 福祉社会は負担と給付を同一にする基本的考えが必要で、例外を乱発することは「ずるい者」を増やすことになる。人権主義的ユートピアの固定観念に捕らわれていると、日本は活力を失い亡国への道を辿ることになる。これがイソップの教えるところであろう 。