第1回美人コンテスト

 日本の第1回美人コンテストは明治24年のことである。時事新報社が世界美人コンテストに選出するためコンテストを主催し、そこで日本一の美人は福岡県小倉市の令嬢末広ヒロ子となり、賞品のダイヤモンドの指輪を使者が届けに伺った。実は義理兄が末弘ヒロ子に内緒で写真を送ったからで、ヒロ子はそれを知ると「早く取り戻して下さい」 と泣くのであったが、写真と名前はすでに新聞に掲載されたあとだった。
 ヒロ子は学習院女子部に通学していた。学習院といえば風紀を重んじ、学習院院長の乃木希典はヒロ子に退学を命じた。写真を応募したのは義兄だったが、新聞社などへの抗議もむなしくヒロ子は退学させられた。
 乃木希典は日露戦争で旅順攻撃を指揮し、自分の二人の息子を戦死させ、多くの戦死者をだした軍人である。明治天皇の崩御の際には妻静子とともに殉死した国民的英雄であった。乃木希典は学風を守る為、ヒロ子に退学を命じたが、情深い人物であった。
 乃木希典はヒロ子のために結婚相手を探し回り、侯爵家の野津道貫元帥の息子野津鎮之助と結婚させ、自らが仲人を務めた。新郎の鎮之助は陸軍中尉の正服で着席し、花嫁ヒロ子は高島田に髪を結い三三九度の祝杯を挙げた。
 義父の野津道貫元帥は重患のため式にはでれず、病床で新郎新婦に「人道を重んじて、夫婦相和し、君に忠に、親に孝を尽くし、野津家の家名を汚すことのない様に致せ」と訓じた。鎮之助は「誓って御言葉を守ります」と答え、祖先の霊前にも報告した。 
 このように、乃木希典のはからいで、ヒロ子は侯爵夫人となったのである。