マグロの涙、大海のメダカ

マグロの涙、大海のメダカ
 生を受けてから死を迎えるまで、回遊魚であるマグロは休む暇もなく泳ぎ続ける。そのスピードは最高80 km/h に達するとされるが、彼らは好きで泳いでいるのではない。泳ぎをやめれば、口からの海流が途絶え、エラ呼吸が止まるからである。生きるために、寝ているときも口を開け泳ぎ続けるのである。
 水族館ではドーナツ型の巨大な水槽にマグロを泳がせているが、泳ぎ続けるマグロを見ると、神が与えた運命とはいえ「生きとし生ける者」の哀れを感じてしまう。そして水槽の中に、追われるように走り続ける「現代人の姿」を見る気分になる。
 日本が高度経済成長を遂げて以来、経済成長率は常に私たちの関心事であった。誰もが右肩上がりを願い、経済成長が鈍化してもマイナス成長などは予想もしなかった。前年と同じ経済規模をゼロ成長というが、人々はゼロに驚きマイナスを恐れた。
 なぜ経済成長率がプラスでなければいけないのか、なぜマイナスを恐れるのか。それは資本主義社会においてはマイナス成長は死を意識させる言葉だと固く信じているからである。他人と自分、他社と自社、他国と自国、資本主義は常に他との競争で、自分が劣れば相手が優位になる。皆が皆、マグロのごとく何かに怯え走り続けることになる。
 マグロは死ぬまで泳ぎ続けるが、それは神から与えられた運命に従い何万年も前から同じ泳ぎを繰り返しているにすぎない。しかし人間は、神の意志に逆らいながら走り続けているように思える。
 そもそも野蛮そうに見える縄文時代までは戦争はあり得なかった。戦争が始まったのは、稲作が始まり米の蓄積が可能になった弥生時代以降である。かつては穏やかな日々を過ごしてきたが、相手の富を奪うため、奴隷として使うために戦争となった。経済も同じで、経済は自分たちの生活を豊かにするのが目的であるが、豊かにするには相手の富をいかに合法的に奪うかがその手段となる。
 科学技術においても同様で、科学技術の進歩は余裕もなく後ろからせき立てられる。コンピュータは1年ごとに新製品が登場するが、買い換えても以前ほどの感動はない。使い慣れたソフトや周辺機器は使えなくなり、金だけが消えてゆく。コンピュータの進歩を恨み、科学技術の進歩が止まればと思うが、進歩もまた競争で決して立ち止まることはない。
 競争と言えば聞こえはよいが、競争には勝ち組がいれば必ず負け組がいる。そのため競争には一定のルールがあるが、そのルールを守らない者、ルールを自分に有利に解釈する者が必ずいる。原爆のスイッチも、自国のために押すのが当然と平然と思う者がいる。
 私たちは良いモノを求め、快適な生活を求め、息を切らしながら走り続ける。便利さを求め不快な走りを続けている。生活を良くしているのか悪くしているのか、正しいのか間違っているのか。疑問を持ちながらも、誰もこの流れを止めることはできない。
 生を受けて成長し、結婚して子供を作り、老化を経て死を迎える。この人生の中で、全員が全員とも何にかにかき立てられ、どこかに向かって走り続ける。ネズミの大群が海に向かって走り出す集団自殺を想像させるが、私たちにできるのは、私たちがあのネズミの大群でないことを祈るだけである。
 魚にはマグロだけでなく、魚にはそれぞれの運命がある。コイのように200年の寿命を誇る魚もいれば、プランクトンのまま数日で生命を終える魚もいる。太陽を知らず深海で生涯を送る魚もいれば、太陽の下を飛び跳ねるトビウオのような魚もいる。のんびりと大海の中で昼寝を決め込むマンボウもいれば、釣り堀で釣り上げられるのを待つだけの魚もいる。
 一生に一度の産卵のために川を上り、産卵後に死を迎えるサケのような魚もいる。産卵のために精魂を燃えつくすその姿は壮絶かつ悲壮感に溢れている。子孫を残すことだけが人生ではないだろうが、サケのような人生が最も生物らしいと思える。
 マグロ、マンボウ、トビウオ、サケ、果たしてどのような人生が良いのだろうか。世間の流れに漂うことも、流れに逆らうことも、新たに流れを作ることも、私たちには可能である。道徳的、享楽的、刹那的、せわしない人生、のんびりとした人生、どのような人生も可能である。
 たとえマグロのように走り続ける人生であっても、食物連鎖の頂点に立つ人間は幸せである。しかしどのような人生を選択したとしても、病気、老化、死の現実を知る人間は、魚に比べればより不幸かもしれない。
 いずれにせよ、時空という大海の流れの中で、人間はメダカのように儚い存在にすぎないのである。