言霊から現代語まで

 言霊(ことだま)とは「言葉に宿る神秘的な力」で、かつての日本人は言霊を信じていた。すなわち「心をこめて言葉を念じれば、その願いが叶えられ」、良い言葉を発すると良い事が起き、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされていて、古来から「言」と「事」は同じ概念で用いられ、日本は言魂の力による国であった。
 日本の神道では「言霊で念じれば、怨念を鎮魂できる」とし、怨霊以外にも、気候不順、天災や疫病も克服できると信じられてきた。さらに「言葉には命が宿っていて、使い方次第で人生までも左右する」としてきた。このことは現在でも、結婚式のスピーチに生きていて、結婚式では忌み言葉を避ける習わしが残されている。良いことを言えば良いことが、悪い事を言えば悪い事が起きるとされてきた。
 しかし現社会では逆である。ひとつの悪を100倍に悪く言う評論家が、ひとつの恐怖を100倍に膨らませて書く文筆家がもてはやされ、そのため世の中はいっそう暗いお化け屋敷になっている。
 平安時代は世界最古の長編小説「源氏物語」や「竹取物語」「古今和歌集」などの名作が数多く創作されたが、それらは我が国独特の「言霊」の世界観による。紫式部は藤原氏絶頂期の藤原道長に仕えていたが、その紫式部が「藤原物語」ではなく、なぜか「源氏物語」を書き、それを藤原道長が絶賛しているのである。最高権力者なら絶賛ではなく懲罰であろうが、それは書いた目的が違うからである。源氏物語は政敵たちの怨霊を鎮魂するために書かれたものなので、物語の中で不幸な生い立ちの「光源氏」を美化することで、皇位につけずに高い官職にも就けなかった幾多の「負け組」たちの怨念を鎮魂するために書かれた物語だからである。藤原氏を中心とした平安貴族たちは、陰謀による蹴落とし陰謀政争にうしろめたさがあった。「負け組」の怨念から逃れるために、彼らの恐怖心が世界最高峰の文学を生んだのである。
「竹取物語」も同じである。竹取は賤民の総称で、かぐや姫は賤民の代表であった。その賤民のかぐや姫が貴族や天皇を袖にする有様を描き、朝廷に虐げられた人々の怨念を鎮めたのである。古今和歌集も同じで、小野小町を初めとした六歌仙は政争に負けた人たちで、古今和歌集の紀貫之らの撰者たちは、彼らを美化して怨念を鎮めようとしたのである。
 ちなみに神社も鎮魂のためで、出雲大社は大国主尊(おおくにぬしのみこと)の霊を慰め、太宰府天満宮は菅原道真の霊を慰めるためである。これが英雄賞賛に変えたのが豊臣秀吉で、秀吉は豊国神社の豊国大明神に、徳川家康は日光東照宮の東照大権現になっている。
 言霊だけでない、言霊以上に重みがあるのが日本語である。ありがとうは「有難たい」、つまり滅多にないことへの感謝の気持ちである。ごめんなさいは「御免」で、どうかあなたの寛大さで許して下さいである。このように本来意味深い言葉が軽く頻繁に使われている。
 さらに言霊以上に重要なことは、無言の重みである。たとえば英語のアイに相当するのは、私、僕、自分、俺、小生など多数あることが指摘され、西洋人は「I Love You」というが、これは日常の挨拶語で、もともと日本には同じ語句はない。Love の表現は、恋しい、いとしいで、いつくすむなど20種類以上あるが、日本人は言わなくてもわかる」という「察しの文化」があるので、大切な人ほど愛という言葉は使わない。「男は黙ってサッポロビール」の名句のように、言葉以上に無言の言葉には力がある。
 現代において、昭和の歌がまだ歌われている。それは哀愁を帯びた歌詞が心を震わすからである。時代が変われば歌も変わるが、今の若者たちの歌はどうだろうか。英語混じりの意味不明の歌詞である。これを表現するならば統合失調症(分裂病)の歌詞である。言霊などあるはずがない。4649(よろしく)と言えば、931(くさい)と答える語呂合わせ以下である。 このような歌詞が心に響くはずがない。