生きる意味

 私たちは何のために生きるのか。このような質問に対し「愛する人のため、会社のため、患者のため、人々の平和のため」という模範解答は、多分ウソか思い込み、あるいは就職を有利にするためのテクニックであろう。「自分の欲望のために生きる」この答えは正直で、そのように偽るのが人間であり、それはそれで正直である。
 このような質問をあえて問いたのは、面接試験での発言と、その後の行動があまりにも違っているからである。また神の前で誓った結婚でさえあまりに離婚率が高すぎるからである。
 「愛する人のため生きる」いかにも美しい言葉である。しかし愛する人が死んだら、何のために生きているのか。「会社のために生きる」と言いながらなぜ転職率が高いのか。
  哲学者は「人間の生きる意味」を求め、もっともらしく答えを述べてきた。宗教家は「神を信じなさい」と一方的に答えを押しつけ、仏教では欲望を捨ててこそ浄土に行けるとしている。
 作家の三島由紀夫は「かつての人たちは、生きるための大義があったから幸せだった。日本のため、天皇陛下のため、家族のために命を捨てられたので幸せだった。今の人たちは生きるための大儀がないから不幸である」と述べている。
 しかしこの三島由紀夫の言葉を聞いた陶芸家の加藤唐九郎は「それは違う、人間には芸術がある。自己を救ってくれるのは芸術へのひたむきな努力であり、芸術に生きることこそが幸せである」と反論した。私は加藤唐九郎のこの言葉こそ、真を得ていると思う。芸術を「絵画や音楽」だけではなく、「研究や分筆、仕事や遊び」に言い換えても、生きるためには一途な気持ちが大切である。恋愛であっても一途なら、金儲けであってもそれが生き甲斐ならば、加藤唐九郎の言葉と同じ意味になる。つまり「自分が美、真理、より良い生活のためと思うことに近づくこと」が、たとえそれが金銭でも異性でも、権力でも良いのではないだろうか。
  振り返って今の日本を眺めれば、政治家も、経済界も、行政も、すべて醜い保身病に冒されている。日本を救いたいと多くの人たちが願っても、声なき多数の声は少数のクレイマーにかき消され、「東日本を助けよう」と言いながら、京都の大文字焼きでは震災地の薪を拒否する愚行に出た。被災地の住民のことを思えばこれほど恥ずかしいことはない。政治家は美辞麗句を並べ、茶番劇以下の詐欺師が多すぎる。産官民の構造は越後屋とお代官様の構図と変わらず、マスコミは私たちの不満や怒りを自らの利益のために利用している。そして私たちは、ため息をつきながら諦めの気持ちになっている。
 ところで日本初のノーベル賞を受賞したのは湯川秀樹であるが、湯川秀樹を指導した東大物理学教授長岡半太郎は研究に没頭するあまり、日露戦争を知らずにいた人物である。
 明治維新の高杉晋作の辞世の句は、「おもしろきこともなき世をおもしろく」、29歳で処刑された吉田松陰は「世俗の意見に惑わされず、人と異なることを恐れず、死んだ後の業苦を思い煩うな」と述べている。
 加藤唐九郎の陶芸美への執着心、長岡半太郎の研究への姿勢、そして勤王の志士たちの気持ち。私たちのも邪念を捨て、しがらみを捨て、携帯を捨て、一途な気持ちを持つべきであろう。
 生きる意味など考えなくても、自分に正直な気持ちが自分を救うのである。人間の生き方は人それぞれであり、人生など考えたい者が考えれば良いのである。人生を悩むことほど無駄なことはない。どのように生きようが、人生はなるようにしかならないという開き直りこそが悟りであり、生きる上で最も大切なことである。