徳川家康

徳川家康

 徳川家康(松平元康)は戦国時代の武将で、日本史上屈指の有名人である。織田信長、豊臣秀吉とともに東海地方に生まれた三大英雄のひとりで、織田信長は「うつけ」と呼ばれながら桶狭間で大勝利をおさめ(家康より8歳年上)、豊臣秀吉は百姓の出ながら織田信長の部下として大出世した(家康より5歳年上)。それに比べると三英傑の中で徳川家康は地味であり人気はやや劣る面がある。それは信長の桶狭間や本能寺のように派手なエピソードはなく、秀吉のように存在自体が超希でもないことが影響している。要するになぜか全然カッコよくない狸親父の姿である。

 しかし徳川家康は子どもの頃から人質になり、三河(愛知県東部)の小領主から身を起こし、織田信長と同盟を結んで勢力を伸ばし、武田信玄に苦戦した後、豊臣秀吉に臣従し、数多くの苦難を経験して最終的に天下を制している。家康家康は264年に渡る長期安定政権である平和な江戸時代を築いた。

 織田信長と豊臣秀吉が日本の戦乱を終焉させ、徳川家康がその仕上げとして江戸幕府を創設したが、徳川家康の人生は波乱に満ちている。織田信長の台頭と今川家の衰退のはざまで独立を果たし、織田信長と清洲同盟を結ぶと、今度は織田信長から圧迫を受け、信長から嫡男・信康に謀反の疑いを着せられ、嫡男と正妻を自らが処刑する悲劇を体験している。さらに武田信玄の猛攻を必死にしのぎ、自らの失敗を悔いて意図的に醜悪な自画像を描かせている。織田信長が本能寺で自害すると、豊臣秀吉と対立しながらも臣従し、その後、最終的な勝利者として日本を支配する体制を確立した。

 

戦国時代の勝者 

「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」という作者不明の風刺狂歌がある。これはまず織田信長が餅をついて、ついた天下餅を羽柴(豊臣)秀吉がのして、出来上がった餅を何もしなかった徳川家康が座ったまま食べたという意味で、最終的には徳川家康の下に天下が転がり込んだことを皮肉った川柳である。これを江戸時代の歌川芳虎が描いて下図で出版している。

 信長が旧体制を次々と打破し、その後で信長の家臣であった秀吉が、軌道修正をしながらも信長の政策を引き継いで新体制を築き上げ、その二人の業績があったからこそ最終的に家康は260年にも及ぶ徳川時代の基礎(幕藩体制)を確立する事が出来たということで、この落書は信長が苦労して乱世の世の天下統一を進め、それを受け継いだ秀吉が天下統一を完成させ、家康が何の苦労もなくそれを引き継いだ印象を持たせるが、しかしこれは家康を酷評したもので、家康は簡単に天下を手に入れた訳ではない。幼少時から人一倍苦労をして耐え忍んできたのである。この絵を描いた歌川芳虎と版元は処罰されている。

 家康の人生は、家康の家訓にあるように「人生は重荷を背負って遠い道を行くようなもので、急いではいけない。不自由が当たり前と思えば不満は生じない。心に欲が起きた時には、苦しかった頃を思い出し、我慢することで怒りは敵と思え。勝つことばかり知って、負けることを知らないことは危険である。自分の行動には常に反省し、人の責任を攻めてはいけない。足りないほうが、やり過ぎるより優れている」と、その自らの人生を集約している。家康はまさに戦国時代の苦労人であった。

 豊臣秀吉は下克上の申し子であるが、家康は下克上を防止して固定的な秩序を求めた。天下人となった家康は抜本的な構造改革を行い、家康が理想とした「優秀な官僚が人民を支配統制する保守的で固定的な社会」である江戸時代を築いた。

 秀吉も同様の考えで検地と刀狩りをおこなったが、それは「武士が民衆を支配する社会」を作る点では同じでも、秀吉は一族の地位を守るために下克上を禁圧したが、家康は徳川家を守るための制度をつくりながら同時に平和な時代を作った。家康は応仁の乱から100年以上続いた戦乱の戦国時代、安土桃山時代に終止符を打ち、264年間続く平和な江戸時代の礎をつくったのである。

徳川家康の生まれ 

 1542年、徳川家康は松平氏を祖先に持ち、戦乱の世のたけなわに松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれている。岡崎城のそばには「東照公産湯の井戸」や家康のへその緒を埋めた「東照公えな塚」など、家康が生まれたことを示す史跡や銅像がある。

 母は松平広忠正室・於大の方で水野忠政の娘である。しかし家康3歳のころ母の実家の刈谷城主・水野信元が尾張の織田氏と同盟したため、今川氏の庇護を受けていた父の松平広忠は母と離縁し、竹千代は幼くして母と生き別れとなった。徳川家康は幼いころに母と別れ、母を知らずに育つ事になる。

 松平氏は家康の祖父・清康の代に勢力を伸ばして西三河を制したが、その後はふるわずに衰退していた。当時の松平氏は織田家と今川家に挟まれて圧迫を受けながら三河国の小大名(豪族)という最悪の環境にあった。

 小勢力の松平氏は、東の今川義元と西の織田信秀に圧迫を受け領地を失いかねない情勢になっていた。この滅亡の危機を打開するために父・松平広忠は今川義元の支配下に入って庇護を受け、今川氏側について織田氏と対決していた。

 そのため6歳で竹千代と呼ばれていた家康は、人質として駿府の今川氏に差し出されることになった。幼少期の家康(竹千代)は、生家から引き離され、織田氏と今川氏に順繰りに人質に取られるという悲運を経験している。このように戦国時代に小大名に生まれたばかりに家康は苦労を重ねることになる。

 

人質生活

 まず人質として竹千代(家康)を今川方へ送り届ける役として、今川義元から命じられたのは田原城主・戸田康光であった。この戸田康光は松平氏と同様に今川義元の傘下になっていた。しかし戸田康光は岡崎城で竹千代を預かると、渥美半島の老津の浜から舟で駿府に向かうと見せかけて舟は西に行き先を変え、尾張の織田信秀(織田信長の父)のもとに向かった。

 このように戸田康光が今川義元を裏切り、家康の身柄は尾張国の織田氏へ送られ、織田氏の人質として尾張に留められることになる。これに怒った今川義元は田原城に兵を出し、戸田康光は嫡男・戸田尭光とともに討死し、戸田氏は滅亡した。

 織田信秀は竹千代(家康)の身柄を受け取ると、父・松平広忠に織田家に従属するように要求するが、松平広忠は嫡男を取られたにも関わらず「子を殺されれば誰でもそうするように、私も仕返しをするだろう」とこれを拒否して、今川義元への従属を変えなかった。

 竹千代(家康)は尾張にとどめ置かれ、織田信秀は竹千代(6歳)を織田家の菩提寺「万松寺」に預けた。この頃に織田信秀の嫡男・織田信長13歳と面識を得ている。織田信長は若いころは「うつけ者」と呼ばれていたが、当時から親分肌の一面があったので慣れぬ土地に来た竹千代にも親しく接した。

 このようにして家康の人質生活が始まるが、人質とはいえ縄で縛られて閉じ込められる生活ではなく、一種の客人として扱われたが、それでも不自由な暮らしに違いはなかった。

 1549年2月20日、松平広忠は今川の援軍を受け、織田方の安祥城を攻略して織田信秀の嫡男・織田信広を生け捕りにした。このようにして織田信秀の嫡男が今川氏の人質になったことから、今川氏と織田氏の間で人質交換の話がまとまり、今度は竹千代(家康)は供7人に連れられて今川氏のもとへ送られ、岡崎城で今川氏に監視されながら、今川氏の人質として10年近くの歳月を過ごすことになる。三河の松平氏が今川氏と織田氏に挟まれた緩衝地にある小勢力だったからである。

 今川氏の人質になってから2年後に、父・松平広忠(享年24)が家臣・岩松八弥に暗殺される事件が起きた。父・広忠の死にも関わらず、家康はそのまま駿河に置かれ、松平氏の領地と岡崎城は今川氏の代官が治めることになった。こうして松平氏はその勢力を今川氏に完全に取り込まれていた。

 なお駿府の人質屋敷の部屋の隣の部屋には、同じく北条家から人質で来ていた北条氏規がいて、この2人は義元の軍師として知られる太原雪斎から教育を受け、元服までの8年間を過ごすことになる。また病弱だった竹千代に、於大の方の母・源応尼(華陽院)、すなわち母方の祖母が世話をして智源院の智短和尚からも学問を学んだ。

 

駿河で成長する

 今川義元は家康を駿河に置き、今川氏に属する武将として育て、松平衆を今川軍の尖兵として用いた。家康は帰郷の時以外は駿河にとどめ置かれ、岡崎城に戻った際には代官が本丸にいるため二の丸に宿泊していた。三河は今川氏の植民地扱いになり、家康は今川氏に搾り取られる松平家の家臣たちの経済的苦境を知り倹約に励むことになった。家康の節約は一生続き後に莫大な財産を子孫たちに残すことになる。

 父・広忠が暗殺されると、松平氏は直ちに継承者を置き、松平家を立て直すはずだった。しかし肝心の家康が人質に取られていたので、それは叶わぬことだった。松平の家臣団は今川氏に自由に使われ、戦場では苛烈な役割を背負わされた。このように家康は幼い頃から織田家、今川家に人質として預けられ、まさに戦国という時代に翻弄される小勢力の悲哀を経験している。

  1551年、織田信秀が亡くなり、織田信長が織田家の家督を継いだが内紛があり、1559年になって織田信長は、ようやく尾張の支配権を確立している。

 

元服して初陣を飾る

 1555年に竹千代(家康)は13才で元服を許されて、今川義元から「元」の一字を拝領して松平元信と名のったが、人質状態はこの後も続いた。1556年、今川義元の計らいで松平元信は岡崎の父の墓参りと法要を許可され初めて亡き父の墓参を果たした。 

 この時、岡崎衆の鳥居忠吉より岡崎城を案内され、松平元信の帰国を夢見て、家臣たちは質素倹約をし軍資金・兵糧米など蓄えていると説明を受け、松平元信は必ず家臣に報いることを誓った。
 この年、美濃の斎藤道三は斎藤義龍との戦いに敗れて命を落としている。しばらくして松平元信は名前を元康に変えているが、これは勇将として名高い祖父の清康にあやかったもので、しばらくは「松平元康」の名で過ごすことになる。今川義元の仲介で、今川家の一門・関口親水の娘・瀬名姫(築山殿)15歳と結婚して、家康は今川氏と縁戚になった。

 1558年に家康は織田氏に通じていた加茂郡の寺部城主・鈴木重辰を攻め落とし、城下を焼き払うなどの初陣を飾った。この際、松平家の菩提寺・大樹寺の登誉上人が僧兵を率いて加勢した。家康は16才であったが今川義元から腰刀をもらい旧領の一部を取り戻し、ここから73才まで長い戦いの人生を過ごすことになる。翌年、駿府にて長男・松平信康が誕生し、幼名は竹千代を襲名した。

  1567年に勅許を得て徳川に改名しているが、松平元信時代には次郎三郎の通称で源氏を称していた。徳川家康は次に藤原氏を名乗るが、このように名前を変えるのは武士が血筋を重視していた名残りである。

 

桶狭間の戦い
 1560年5月12日、今川義元は尾張への本格的な侵攻を開始する。駿河・遠江・三河の3ヶ国の兵を集め、2万5千の大軍で5月に尾張に侵入した。この時、家康は松平衆を率いて今川方の先鋒隊を務めている。

 先鋒隊は強い武将に任されるため、それだけに若い家康の武勇が評価されていたが、同時に先鋒役は損耗が激しいため、松平衆にその負担を押しつけたともいえる。

 家康は今川氏の先鋒武将として、今川方の前線基地である大高城の兵糧補給を命じられたが、織田軍が大高城を包囲しており、大高城へ兵糧を運ぶには包囲網を突破する必要があった。そこで家康は鷲津砦と丸根砦の間を突破して、5月18日の夜に兵糧を大高城に送り込み、翌日には丸根の砦を攻め落とした。

 家康はいわゆる「兵糧入れ」を行い、大高城で今川義元の本隊が合流するのを待った。ちなみに家康が丸根・鷲津砦に攻め込んだとの一報を受けた信長は、あの有名な「敦盛」を舞い、熱田神宮で戦勝祈願をして桶狭間に向かっていた。

 大高城にとどまっていた家康に、思わぬ知らせが届く。それは今川義元の本隊が織田信長に襲撃され、義元が戦死したという知らせだった。今川軍の2万5千に対し、織田軍は5千で5倍もの兵力の差があった。そのため総大将の義元の戦死を予測した者は誰もいなかった。しかし桶狭間の今川義元の本隊に対し、豪雨に乗じて接近した信長が2千の精兵で奇襲をしかけ、義元とその側近武将たちを討ち取ったのである。義元は大軍を率いていたにも関わらず、信長の一か八かの奇襲作戦に敗れたのである。

 織田信長による奇襲戦(桶狭間の戦い)で、今川家の当主・今川義元が討たれると、敗れた今川軍はすぐさま三河を離れて駿河に引き返した。総大将の今川義元が討たれてしまい孤立した家康は大高城の兵糧守備にあたったまま動かなかった。撤退するか織田軍に挑むか、家康は迷うが大高城からの撤退を決意すると、松平家の菩提寺である岡崎城下の大樹寺の先祖の墓前で切腹しようとした。しかし大樹寺の登誉上人が「泰平の世を築くべく生きよ」と諭し自害を思いとどまった。

 父のいない家康にとって、名前の一字をもらい、結婚相手を世話してくれた今川義元は支配者以上の存在だった。このように家康は急変事に自害しよとうろたえることが多く、この時は大樹寺の住職に諭されて、独立した武将として歩むことになる。

 岡崎城近くでしばらく様子を見ていると、岡崎城を守っていた今川勢の城代・山田景隆が岡崎城から撤退した。家康はこれを知ると、空になっていた岡崎城に5月23日に入城した。混乱している今川軍の隙をついて、家康は懐かしい岡崎城へ戻ったのである。家康が人質となってから12年ほど経っていたが、岡崎城に入ると松平氏の立て直しを開始し、独自の軍事行動をとり、今川氏からの独立を果たすことになる。

今川氏真との敵対

 戦わずに岡崎城を取り戻した家康は、今川義元の後を継いだ今川氏真に対し再度の尾張侵攻を進言している。織田信長を倒して義元の仇討ちをするようにと促すが、今川氏真は動かなかった。三河の隣国である遠江では、桶狭間の戦いで家臣の多くが戦死しており、今川氏真は激しく動揺していたのである。家康の長女・亀姫が駿府で誕生しており、瀬名姫と竹千代(松平信康)らは駿府にて今川家の人質となっていた。このような情勢で、家康は今川氏から完全な独立を図ることになる。

 1561年、家康は東三河にある今川方の牛久保城を攻撃し、今川からの離脱の意志を明らかにし、今川氏との絶縁をはたした。今川氏真は家康の離反に激怒するが、駿河と三河の間にある遠江の情勢が不安定なため、容易に三河に介入できなかった。

 家康はこの状況下で西三河の豪族たちの平定に力を注ぎ、着実に勢力を拡大していった。当時の三河は今川氏の勢力圏にあったが、義元を失った今川氏の力は急速に弱っており、家康が三河の平定に突き進む勢いを止めることはできなかった。

 今川氏の背後には盟友・武田信玄・北条氏康が控えていたが、関東管領・上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵への対応に追われ、武田・北条からの兵は来ないと家康は判断しての離脱であった。 

 徳川家康は将軍足利義輝に早道馬を献上して、室町幕府との関係を築くと、幕府に領主としての地位を認めさせた。これは今川義元の後を継いだ今川氏真にとって痛恨の事態であった。徳川家康は藤波畷の戦いに勝利すると西三河の諸城を攻略した。

 駿河の今川家との全面対決となった松平元康は、尾張の織田信長への接近を考え、片腕であった石川数正を交渉役として織田信長と同盟を結ぼうとした。松平氏と織田氏は長年に渡って西三河をめぐって争っており、家康が独立した後も小競り合いが続いていた。

 しかし家康は西の織田氏と東の今川氏の双方と争い続けるのは得策でないと判断し、母の兄・水野信元の仲介によって信長と和解した。1562年に松平元康は清洲城を訪問して、織田信長と会見して同盟を締結した。この同盟は尾張の清州城で行われたことから「清洲同盟」と呼ばれている。

 しかし瀬名姫(築山殿)の父・関口親永は娘婿である松平元康が織田信長と同盟を結んだことから、今川氏真の怒りをかい正室と共に自害している。松平元康は松平清善と甲賀衆を用いて上ノ郷城を落とした際に、今川一門である鵜殿氏長と鵜殿氏次を捕縛した。

 この捕虜の2人と今川家の人質となっている松平元康の正室・瀬名姫(築山殿)と嫡男・竹千代(松平信康)、長女・亀姫との人質交換を成功させ子供たちは岡崎城に入った。しかし瀬名姫(築山殿)20歳は松平元康の母・於大の方に嫌われ岡崎城に入る事を許されず、菅生川のほとりにある惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられた。

 この清洲同盟によって家康は三河の平定に集中できるようになり、信長は北の美濃の攻略に集中できるようになった。清洲同盟は相互に利益のある同盟で、互いにその目的を果たした後も堅持され、信長が死を迎えるまで同盟は継続された。

 家康は今川義元を討った若き織田信長につき、西側の不安を断ちきると三河を平定し、東の今川氏をうかがうようになった。この時代の同盟は短期間で破られることが多かったが、20年にも渡って信長との同盟を守ったことで「家康は律儀である」との評判を得ることになった。また水野氏との関係が改善され、母の於大が家康の元に戻ってきた。家康は独立を果たし、盟友を得て母が戻るという人生の大きな転機を迎えた。

 

改名

 1563年、今川義元からもらった名前元康家康に改名した。家康は人質生活から「三河の平定」まで何度か改名している。幼名は竹千代で、今川氏のもとで元服した時は今川義元の元の字を貰い元信となり、その後、元康に改め、信長と同盟を結んだ頃には元の字を捨てて家康と改めている。

 これは今川氏との関係を絶ったことを鮮明にするためであった。さらに家名も、三河を平定すると松平から徳川へと改め、徳川家康という名が誕生することになる。家康20代半ばの頃のことであるが、徳川家康の名に至るまでは長い段取りがあった。

 三河を統一した家康は、朝廷に三河守の官位を要請したが、朝廷は源氏である松平氏が三河守になった前例はないとしてこれを断わっている。家康は公家の近衛前久(さきひさ)に相談すると、それならば「得川」を名乗ってはどうかと勧められた。得川氏は新田源氏の支族で一時は藤原氏を名乗っていたことがあった。松平氏はかつて、この得川氏の支族である世良田氏を名乗っていたので、得川氏を名乗ることは可能であった。得川氏になれば藤原氏の一族になり、藤原氏は三河守に就任したことがあるので家康が三河守になるのに問題はなかった。前例踏襲主義の朝廷から官位をもらうにはこのような手順が必要だった。

 家康は「得川」をより良い意味を持つ「徳川」に変え「徳川家康」を名乗った。これによって氏の障害がなくなり家康は三河守に就任した。他の松平氏はそのまま残して家格に差をつけ、これによって三河における徳川家康の特権的な立場を示すことができた。軍制の改革と合わせ、この家康の家中統制は見事なもので、政治家として長けた資質をのぞかせている。

  また同年3月には、嫡男・松平信康と織田信長の娘・徳姫が婚約し、織田信長との関係を深めた。しかしまだ2人とも5歳であったため、結婚は9歳(1567年)になってから行われた。

 

三河の統一

三河の一向一揆
 三河の統一で、家康は一向一揆の強い反抗を受けることになった。一向一揆は浄土真宗の信者たちによる領主への反抗勢力となった。一向一揆はいくつかの地域や国を支配するほどで、家康の家臣が浄土真宗の本證寺(ほんしょうじ)に侵入した無法者を捕縛した際、守護不入の特権が侵害されたと本證寺から訴えられている。

 守護不入とは寺院の治外法権のことで、武家が立ち入って権限を行使することは出来なかった。これに違反したとして本證寺の呼びかけで一向宗の宗徒たちが立ち上がり、反家康を掲げる勢力が三河に誕生した。

 三河一向一揆が勃発すると本多正信、本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、内藤清長、加藤教明ら家康の家臣の半分が一向一揆に味方し一向宗の反乱に加わり「犬のように忠実」とまで言われた三河武士たちを敵に回したことで家康は窮地に陥いり、松平家一族が分裂する内紛となった。さらに家康の三河支配に反感を持つ豪族たちが加わり、また今川家の残党も加わり、松平氏は家中を2つに割る闘争になった。

 もともと家康は一向宗の信徒の武士団を取り込んで勢力を拡大していたので、武士としての忠誠を取るのか、信仰する宗教を取るのかで家臣たちが分かれたのである。


一揆の鎮圧
 今川氏に味方する勢力も一向宗の信徒に加わり、一揆勢はさらに力を増し、一時は岡崎城にまで攻め込むほどだった。しかし1564年の決戦に家康は勝利すると戦況は有利に傾き、和議を行い一揆を解体させた。家康は反抗した家臣たちに帰参を許す寛大な処置をとったため、武士の多くは一揆を離脱して家康の元に戻った。

 こうして一揆を鎮めると家康は、一向宗の寺院に改宗を迫り、拒んだ寺院を破却して三河での一向宗の布教を禁じた。このようにして三河の反抗勢力を撲滅し、最終的には家康が三河支配を確固たるものにした。この一向一揆は家康にとって危機的状況にあったことから、家康の三大危機のひとつとされている。
 1564年1月15日の馬頭原合戦の勝利で、松平家康は優位に立ち和議に持ち込んで一揆の鎮圧・解体に成功した。帰参を願う本多正信など敵対した家臣にも寛大な処置で許し、一向一揆の撃破によって西三河の勢力を固めた家康は、東三河にも進出し戸田氏などの諸豪族を取り込み、今川氏真の討伐軍を撃退して支配権を確立し、1566年頃までには三河の統一に成功した。

 こうして家康は独立してから6年で一国の主となり、祖父の清康を超える松平氏最大の勢力を築いた。この時の家康は24才で、若くして戦国大名としての優れた手腕を持つことになる。

軍制の改革
 三河を統一した家康は家臣団の再編に着手する。東三河と西三河に家臣団を振り分け、東三河衆を酒井忠次に任せ、西三河衆を石川数正に率いさせ、両者は家臣団の筆頭として家康の活動を補佐していくことになる。

 家康は同時に「旗本先手役(さきてやく)」という親衛隊を編成し、これを直属の強力な軍団として育てていった。旗本先手隊に所属した武将には、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らがいて、後に「家康の四天王」と呼ばれる精強な指揮官たちに育ってゆく。旗本先手役の費用はすべて家康持ちで、この直属の強大な軍団を従えることで、家康は自分の権力を強化した。

 土地持ちの武将たちは半ば独立勢力なので、潜在的には家康に反抗する可能性があったが、直属の強力な部隊を抱えておくことは重要な軍事施策であった。これは織田信長が「馬廻」という親衛隊をまねたもので、先手隊の費用の一部を信長が援助し、信長との関係がこの頃にはかなり深まっていた。

 信長は家康を自分の弟分として扱い、何かと気をつかった。信長には戦闘力が高い三河の武士団の力を借りたい気持ちがあり、家康も信長を頼るようになり、家康は三河武士の力をもって信長の覇権に協力くしていくことになる。

 このように家臣の反乱や一向一揆などの苦難はあったが、東三河の土豪を抱き込み、軍勢を東へ進め、敵対勢力を排除して数年後には先祖伝来の三河国を統一を果し、次は今川氏の本丸とも言える駿河・遠江(静岡県)への侵攻が待っていた。

 

遠江今川領への侵攻
 三河を平定した徳川家康は、今川氏真を攻めるにあたって甲斐の武田信玄と手を組んだ。武田信玄にとって海に面した領地はのどから手が出るくらい欲しいものだった。

 武田氏の領地である甲斐と信濃は海に面していないため、食料は農産物に頼りきりだった。当時は肉を食べることが習慣化していなかったので、蛋白源は大豆か魚介類に限られていた。また人体に不可欠な塩も海からしか取れなかった。そのため今川義元を失った駿河はまさに「棚から牡丹餅」であった。今川義元亡き後の今川氏真は北条氏を頼り、北条氏と連合して武田・徳川に対抗するが敗北が続いた。

 今川領の東に大きな勢力を持つ武田信玄が、ついに今川領に侵攻を始めた。西の徳川家康も信玄に協力する形で今川氏を攻め立て、今川領の大井川を境に西の遠江国を徳川領、東の駿河国を武田領とする協定が結ばれた。

 武田信玄が駿河の今川領へ侵攻すると、家康は遠江に侵攻を開始し、今川氏真は逃げのび、今川領は武田氏と徳川氏の手に落ちた。今川氏真は駿府城から掛川城に本拠を移したが、開城勧告に応じて北条氏の元に落ち延びる羽目になる。

 徳川家康は遠江国を支配下に置いたが、武田氏が駿河に侵攻すると、今川氏の同盟国だった北条氏と武田氏が対立し、さらに武田の家臣・秋山虎繁(信友)が信濃国から遠江国を侵攻してきた。そのため徳川家康と武田信玄の同盟に摩擦が生じ、家康は武田との同盟から離脱した。

 この時、武田信玄は徳川家康の同盟者である織田信長と親交を深めていた。今川を倒し美濃を手中に収めた織田信長は上洛を最優先にしたかった。そのため武田氏と仲良くして牽制しておく必要があった。信長は姪の遠山夫人を養女として信玄の嫡男・武田勝頼に嫁がせた。しかし遠山夫人は信玄の孫である信勝を生むとすぐに夭折してしまう。信長は自分の嫡男である信忠を信玄の五女・松姫と婚約させ武田との同盟関係を維持してゆくが、武田信玄と徳川家康は互いに同盟している織田信長を挟んで対立していった。

 家康は武田信玄と手切を変えずに武田信玄と敵対関係にあった。さらに同じ頃、織田信長は朝倉・浅井氏と戦うが、この戦いにも家康は全面協力することになる。

 

姉川の戦い

 1568年、織田信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて、上洛の途につくと、家康も浜松城を築いて岡崎から移り信長へ援軍を派遣した。かつて敵対していた今川氏真を浜松城に迎え、朝倉義景・浅井長政の連合軍との戦い、いわゆる「姉川の戦い」に参戦して織田信長を助けている。

 足利義昭が織田信長を管領に任命し、家康も左京大夫に任命されるが、信長が辞退したため家康も辞退した。1570年に足利義昭から家康に送られた御内書の宛名が「松平蔵人」になっているが、これは義昭が家康に不満を抱いていたからである。

 後年、足利義昭が信長と対立すると、義昭は家康への書を「徳川三河守」と変えて送っている。足利義昭が信長包囲網を築こうとして、家康に副将軍への就任を要請したが、家康はこれを黙殺して織田信長との同盟関係を守った。

 姉川の戦いでは、姉川を挟んで織田信長&徳川家康と浅井長政&朝倉景健が対峙して激突した。徳川軍は数の上では不利であったが、対峙する朝倉軍は総大将・朝倉義景が出陣せず、気力にまさる徳川軍が有利に勝ち進んだ。浅井長政は織田軍を押し気味であったが、朝倉勢を押しやった徳川勢が横から浅井勢を突き織田信長を助けている。

武田信玄との戦い
 織田信長の支援を受けながら、家康は相模(神奈川県)の北条氏康と連携して、武田の駿河領を東西から攻撃して奪還を図った。

 今川領の分割について、家康は大井川から西を徳川領とし、東を武田領とする協定を武田信玄と結んでいた。しかし武田の家臣・秋山虎繁が協定を破り遠江国へ侵攻したため、家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けたのである。

 しかし1571年に北条氏康が死去すると、その嫡男・氏政は信玄との同盟を復活させ家康と敵対した。東からの圧迫がなくなった信玄は、駿河の支配を確立しさらに強勢になっていた。

 このように家康が不利な立場になり、武田信玄と完全に敵対し、信玄は徳川領である遠江国・三河国への侵攻を開始した。

 この頃の武田信玄はすでに強大な力を有しており、天下を意識し、その第一歩として京を目指して兵を動かそうとした。家康の領地は上洛の途上にあったため、家康は「武田信玄との全面対立」を決断した。
 武田信玄と織田信長はかつては友好関係にあった。しかし将軍・足利義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を糾合し、信長包囲網に武田信玄を加え挙兵したのである。足利義昭は各地の大名たちに信長討伐の書状を送ったが、これは家康にも届き、副将軍の地位を与えるかわりに信長との同盟を打ち切り、信長を攻撃するように要請してきた。しかし家康はこれを黙殺すると、信長との同盟を堅持した。

 この頃の家康は律儀で、人を裏切ったり騙すことはなかった。そのこともあり情勢に応じて態度を変える義昭や信玄のような者に従う気にはなれなかった。家康は信長が最終的な勝者になることに賭けたが、それゆえに大きな苦難に見まわれることになる。

 室町幕府最後の将軍・足利義昭からの書状は武田信玄にも届いていた。足利義昭の書状は「織田信長の排除に助力してくれれば、相応の地位を約束する」というものであった。この書状を受けた武田信玄は三河への出兵を決心した。それは信長の同盟者・家康を倒すことが信玄にとって信長包囲網のひとりとして意味があった。

 1572年10月、武田信玄は遠江・三河に侵攻すると、織田信長の同盟国の家康を攻め、家康は信長に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍が織田領の岩村城を攻撃しため援軍は送れず、徳川軍は単独で武田軍と戦うことになる。

 遠江国に侵攻してきた武田軍と戦うため、家康は天竜川を渡って見附(磐田)に出た。徳川軍は浜松北方の要衝・二俣城を守るため、武田軍の動向を探るために偵察を出すが、そこで武田軍と偶然遭遇して敗走してしまう。

 武田信玄は徳川方の諸城を東西に分断するため、本隊と別働隊の二手に分けて侵攻してきた。そのため三河方面への防備を固められず二俣城は孤立した。二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれた城で、この川が文字通り天然の堀を成していた。城将は中根正照で城兵の数は1200人ほどであった。一方の武田軍は2万7000人の大軍であった。
 孤立した中根正照は家康と信長の援軍を期待して、信玄の降伏勧告を拒否していた。そのため武田軍の攻撃が開始されたが、二俣城の攻め口は北東の大手口しかなく、その大手口は急な坂道になっていて攻め上る武田軍は次々と矢弾の餌食となった。武田軍は二俣城を攻めあぐみ、武田軍の攻撃に進展はなく12月に入った。

 信玄は力攻めでは二俣城は落せないと判断し、水の手を絶つ方法を考えた。二俣城には井戸がなく、天竜川の井楼から水を汲み上げていた。そこで信玄は大量の筏をつくり天竜川の上流から流し、筏を井楼の柱に激突させて破壊した。この作戦は見事に成功し、大量の筏に激突された井楼は崩れ落ち二俣城の水が絶たれた。
 信玄は水の手を絶った上で開城を迫った。中根正照は万一に備えて桶に雨水を貯めていたが1200人もの人数である。いつまでも持つわけがなく、そのため正照は信玄に降伏・開城して浜松城に落ちていった。こうして二俣城は信玄の手に落ちた(二俣城の戦い)。

 

三方ヶ原の戦い

 ようやく織田信長から佐久間信盛と平手汎秀が率いる援軍が送られてきた。武田軍本隊は別働隊と合流して家康のいる浜松城へ近づいてきた。

 家康は対応を迫られるが、武田軍は徳川家康が篭る浜松城を素通りして織田領に向かった。佐久間信盛らが籠城を唱えたが、家康は素通りさせては武士の面目が立たないと追撃した。武田軍を背後から急襲する策を取ったのである。

 しかしこれは武田軍の罠であった。信玄が家康の浜松城を無視するかのように西へ向きを変えたのは、家康を城外の三方ヶ原の台地に誘うためだった。時間のかかる城攻めより野戦の方が得策とする武田信玄の作戦であった。家康は同日夕刻、織田信長からの援軍とともに城を出て武田軍を追いかけた。

 武田軍は徳川軍の急襲を予測して三方ヶ原で待ち構えていた。その結果、徳川・織田連合軍は惨敗し、鳥居忠広、成瀬正義などの家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出した。

 武田信玄と戦う家康の決断は勇敢であるが、それはあまりに無謀だった。武田信玄を相手にするには家康はあまりに小さく若すぎた。

 家康はこの戦いでこれ以上はないほどの惨敗をきたし、家康自身の命も危なくなるほどだった。この種の合戦で、総大将の命が危なくなるほど押し込まれるのは滅多にないことであった。

 戦力で劣る者が、戦力で上回る者を倒すには奇襲しかないが、奇襲は看破されると効果はなかった。徳川軍が幸いしたのは、合戦の開始時間が午後3~4時くらいに始まったため、日が落ちて辺りが暗くなったため武田軍の追撃の手が緩んだことである。

 家康は山県昌景の軍勢に追い立てられ、その恐怖のあまりに馬上で脱糞したほどである。家康は家臣に助けられ、命からがら浜松城に逃げ帰った。家康は敗戦時の情けない顔を絵師に描かせ、この絵を心の自戒として家康は生涯座右を離さなかった。自分の弱さを真正面から見つめる絵である(下右:しかみ像)。

 武田の軍勢は浜松城まで追撃してきたが、帰城した家康は空城計を用いて武田軍の追撃を断念させた。空城計とは門を閉ざさず、あえて門を開けさせ、城内で篝火をさかんに焚き太鼓を打たせて城内の戦意が衰えてないことを見せつけたのである。浜松城に押し寄せた武田軍はこれを不審に思い「徳川に計略あり」として城を攻めずに引き返したのである。

 

野田城の戦い

 武田軍は浜名湖北岸で年を越すと、三河への進軍を再開して家康の本拠めがけて侵攻してくるはずであった。ここで家康の命運が尽きたと思われたが、武田軍はぴたりと攻撃の動きを止めてしまった。

 無視しても構わないような小さな野田城を1ヶ月に渡って包囲続けたが、それは信玄の発病であった。そして信玄はそのままこの世を去ってしまう。家康にとって強運というほかない出来事であった。武田信玄、享年53であった。

 武田信玄と徳川家康の戦いは野田城の戦いを最後に終結した。間一髪で命拾いした徳川家康は信玄が病気で倒れていなければ、あるいは三方ヶ原の戦いがもっと早い時間に始まっていたら天下を取ったのは武田家だったのかもしれない。

 武田軍の突然の撤退は信玄死去の疑念を抱かせ、家康は信玄の生死を確認するため武田領の駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めた。この行動で武田軍の抵抗がなかったことから家康は信玄の死を確信した。

 信玄側の奥三河の豪族・奥平貞能・貞昌親子を調略すると、奪回した長篠城に奥平軍を配し武田軍の再侵攻に備えた。
 武田信玄の西上作戦は失敗に終わった。信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還して駿河の武田領まで脅かした。

 これに対して信玄の後継者の武田勝頼も攻勢に出て、1574年には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田は攻防を繰り返した。また家臣の大賀弥四郎らが武田に内通していたとして捕えられ処刑された。

 

長篠・設楽原の戦い

 武田信玄の死後家督を継いだ武田勝頼は武田騎馬軍を率いて攻勢に出た。武田信玄の死後、徳川家康は「北三河地域を武田氏から取り戻そう」と、奥三河の要塞である長篠城を奪還した。これに対して武田勝頼は奪還された長篠城を三河侵攻の橋頭堡とすべく攻略に向かった。

 長篠城が武田勝頼に攻められ、このままでは全員討死か餓死かと悩みに悩んだ奥平信昌は、徳川家康への救援要請をすることにした。しかし長篠合戦で長篠城から信長へ援軍の要請に向った鳥居強右衛門を武田勝頼は捕らえ磔にしてしまった。

 それを聞いた徳川家康は「武田勝頼は大将の器ではない。勇者の扱い方を知らぬ。鳥居のような豪の者は、敵であっても命を助け、その志を褒めるべきである。これは味方に忠義とはどういうものかを教え込むためのもので、自分の主君に対して忠義をつくす士を憎んで磔にかけるべきでない。そのうちに勝頼が武運尽きて滅亡するときは譜代恩顧の士も裏切って敵となるであろうから。見ているがよい」と呆れたように言ったが、その通りになった。
 1575年の「鉄砲対騎馬」の戦いとして有名な設楽原の戦いで信長は武田氏と戦い、武田氏は主要な家臣を数多く失う大敗をきたした。家康は勝利に乗じて光明・犬居・二俣城を攻略し、さらに諏訪原城を奪取して大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位性を強めた。家康は長篠城主の奥平貞昌の戦功に対し、名刀・大般若長光を授け、翌年には長女・亀姫を正室にしている。
 越後上杉氏で御館の乱が起き、武田勝頼は北信濃に出兵したが、上杉景勝が乱を制したため、武田・北条の甲相同盟が破綻した。1579年9月、北条氏は家康と同盟を結び、やがて武田氏は滅亡した。これにより家康は信長から遠江を与えられることになる。(下左:浜松城、下右:しかみ像)

築山殿殺害と長男・信康の自刃

 織田信長から徳川家康の正室・築山殿と嫡男・信康が武田と内通しているとの疑惑がかけられた。織田信長は娘(徳姫)を家康の嫡男・信康に正室として嫁がせており、今川の血を引く姑の築山殿とは折り合いが悪く夫・徳川信康とも不和になっていた。

 徳川信康の正室・徳姫は父・信長に築山殿と信康が武田家と内通しているとして「信長十二ヶ条」を送ったのである。信長は謀反の内容を信じ、家康は酒井忠次を使者として織田信長と談判させたが、酒井忠次は信長の詰問を概ね認めたため嫡男・信康は切腹を命じられた。

 家康は武勇も優れ人望もあった嫡男・徳川信康の処遇に苦慮した末に、信長との同盟関係を維持することを優先させ、正室・築山殿を殺害し嫡男・信康を切腹させたのである。

 徳川家康の正室・築山殿(鶴姫)は、今川義元の一族で桶狭間で死去した今川義元の姪にあたる。その血筋からか意のままにならない苛立ちに、家康との意識のずれが加わり、わが子・信康可愛さのために暴挙に出たとされている。

 徳川家康が今川家の人質生活だった時に、家康の正室となった。二人とも年齢は16歳であった。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れ、徳川家康が岡崎城に入ったことが築山殿の人生を大きく変えた。

 築山殿の父・関口義広は家康が信長側についたことから今川氏真の怒りを買い、関口義広は正室とともに自害させられた。築山殿は今川義元の2人の遺児と家康の次男・源三郎と亀姫の人質交換により、駿府城から二人の子供たちと家康の根拠地の岡崎に移った。

 しかし於大の方(徳川家康の母)の命令により、岡崎城に入ることは許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で幽閉同然の生活を強いられていた。

 

築山殿は悪女だったのか

 徳川家康の嫡男・信康と織田信長の長女・徳姫が結婚したが、築山殿は城外に住まされたまま3年後にようやく岡崎城に移った。しかしほぼ同時期に、織田信長の長女・徳姫が織田信長に夫・信康と築山殿を讒訴する「12ヶ条の訴状」を送ったのである。

 徳川家康と別居状態にあった築山殿は、唐人の鍼医・減敬と内通し、築山殿と信康は武田方への内通を確約し、徳川信康を大将にして謀反の計画を進めているということであった。

 徳川信康の正室・徳姫は織田信長の娘であり、今川義元の姪にあたる母・築山殿にすれば仇である。そこで嫁の徳姫に辛くあたり、このこともあり信長が家康に築山殿と嫡男・信康の処刑を命じたのである。

 築山殿にとっては今川家を見限り、宿敵である織田信長と急接近した夫の家康に対しておもしろいはずはなかった。さらに信長の娘・徳姫が自分が生んだ信康に嫁いだのである。築山殿が徳姫を暖かく迎えるはずはなかった。嫁姑のいがみ合いではすまされぬ程の憎しみがあった。
 徳川家康は居城を浜松へ移し、築山殿と嫡男・信康は岡崎城に残されたままだった。「家康の妻・築山殿と長男・信康がご乱行の限りをつくし、築山殿と唐人医師・減敬が密通し武田氏に通じ、織田と徳川を滅ぼうそうと企んでいる」という徳姫の手紙を見た信長が徳川家康に「正妻・築山殿と嫡男・信康を殺せ」と、徳姫の手紙を鵜呑みにして、何も調べずに信長が命じたとは信じ難いことである。しかし「12ヶ条の訴状」での築山殿の裏切りは家康の長男・信康切腹の理由づけになった。

 大久保彦左衛門が書いた「三河物語」の中で、家康の長男・信康は「得難いほどの若殿で、あまりに聡明だったのを織田信長が疎んじて殺せ」と命じたと書いてある。この三河物語は徳川家公式記録で、公式記録にお家のことを悪く書くことはないので、その真実は不明であるが、当時の家康にとって織田との同盟は最重要事項であり、信長の命令を断れる状況にはなかったことは確かである。しかも武田勝頼と戦っている最中に、同盟相手である家康にそのような無理難題を押し付けるとは考えにくいことである。信長が信康を恐れて処刑したのではなく、家康と信康の関係が悪化していたためとするのが妥当ではないだろうか。

 築山殿は夫の家康が単身赴任で遠ざかっており、実家の今川氏は家康によって滅ぼされており、その関係が悪化したのであろう。築山殿の不満が信康に影響を与え、家康に謀反を起こさせ徳川氏を乗っ取ろうとしたのではないかと思える。ともあれ家康は正室と嫡男を自らの手で粛清することになった。
 1570年に、徳川家康は岡崎城を長男・信康にまかせ浜松城へ移ったが、この事件が起きるまでの9年間、甲斐・武田氏の最前線に位置する浜松城と裏方の役割を荷った岡崎城の役割に大きな亀裂が生じていた。
 最前線の浜松城は、事が起きれば功名を挙げ恩賞に預かるが、兵糧や兵の準備を担当する岡崎城の武士たちには恩賞は望めなかった。裏方に恩賞がつかないのは仕方のないことで、岡崎城の武士たちには不満があった。

 浜松城の井伊直政と岡崎城の本多重次を比べると、1575年に井伊直政は今川家から徳川家に鞍替えしたが、わずか1年後には1万石となり、7年後には4万石になり、その後も加増し続けた。しかし岡崎城の本多重次は家康の祖父の時代からの家臣であるが3千石のままである。このようにこの二つの城の武士たちの間で確執があったのは確かである。

 岡崎城の武士は禄高の加増が望めず、裏方に徹しなければならなかった。浜松城から見れば、今川の娘・築山殿を拒む者もいたはずである。また嫡男・信康には今川の血が流れていたので、それを不快に思う者もいた。

 家康には岡崎と浜松の対立を解決できず、信長の命令で妻と長男を殺害した。この事件の後に岡崎城の家臣団は散り散りになり、徳川の公式記録から消えている。このことは徳川家を揺るがす一大事が岡崎城内にあったのではないだろうか。

 8月3日、家康は武装して岡崎城にやってきた。親子二人で面談後、信康は岡崎城から大浜城へと移され、さらに西尾城から堀江城へ移されている。これは岡崎城の武士たちを警戒してのことなのか、家康の親心だったのかは不明であるが、最後に移った遠州・二俣城で信康は切腹する事になる。

 家康が信康を粛清した理由ははっきりとしないが、信康につけていた三河衆を城から遠ざける措置を取っている。このことは信康が家康に逆らい謀反を企んでいたことも否定できない。

 信康を家臣たちから切り離し、逆らえないようにしてから処断する。この信康に対する処置は、謀反人を処分する際に取られるものだった。さらに信康の実母・築山殿も処刑している事から、築山殿と信康が共謀して家康に謀反を企み、これを防ぐために2人を処断したというのが事件の真相と見ることができる。

 かつて武田信玄も嫡男・義信を粛清したことがある。戦国の大名家では親子もそれぞれ家臣を持ち、独立した権力を保持していたので、親子に抗争が起きることは珍しいことではなかった。

 最後まで無実を訴えた徳川信康は9月15日に切腹、享年21。介錯人として遣わされた服部半蔵は、徳川家康の主命とはいえ「三代の主に刃は向けられない」と言って、その場に太刀を投げ捨て介錯を拒んでいる。服部半蔵の心の中にはいったい何があったのか、さらに不可解なのは家康の重臣・石川数正である。

 石川数正は命がけで築山殿と信康を今川から取り戻し、その後は信康の後見人となった。この石川数正が信康の事件に顔を見せず、しかしも信康事件について石川数正の名は記録に登場していない。さらに6年後、石川数正は家康を裏切り、一族郎党を連れて豊臣秀吉のもとへ走っているのである。

 この石川数正の裏切りは、秀吉と会ううちに魅力を感じたためなのか、あるいは法外な報酬で秀吉から引き抜かれたのか多くの諸説があるが、この信康切腹が石川数正の心に深い傷を負わせていたことは確かであろう。

 信康の正室・徳姫は織田信長の娘であり、今川義元の姪にあたる築山殿にすれば仇の娘であり、嫁の徳姫に辛くあたたのは無理もないことである。また後世、徳川幕府が始祖・家康を神聖化するため、家康の長男殺害という汚点を築山殿に押し付けた可能性がある。

 しかも築山殿は嫉妬深い女だった。築山殿の侍女おまんに目に留めた家康が手がつけ身籠ったが、このことを知った築山殿はおまんを木に縛り付け、裸にして散々に打ち据え、そのまま放置したとされている。このようにわが子・信康可愛さのあまり正常な神経では考えられない暴挙に出た可能性は残されている。

 いずれにしても家康にとって築山殿は年上で、恐ろしく嫉妬深く、気の強い女性であった。この築山殿の存在が、家康の女性観に大きな影響を与えたことは否定できない。身分の高い女など懲りごりとするトラウマが家康にあったのだろう。

 築山殿を除くと、家康が愛した女性は一人として上流階級の出身者はいない。下級武士や下級神職の娘や百姓の後家など、すべて下層民の出である。天下の徳川家康の女性観を決定づけた築山殿とはそのような人物だった。家康は長男・信康を切腹させたことを後悔する言葉を多く残している。(下右:築山殿)

武田の滅亡

 1575年、長篠の戦いで多くの武将をなくし、弱体していた武田勝頼は、徳川家康の高天神城攻撃に援軍することをせず、その結果、武田家の威信を大きく下げることになり重臣の造反が始まった。
 穴山梅雪の勧めにより本拠地を甲府から新府城(韮崎)移すが、軍資金のない武田家は家臣や領民に課すことになり、武田勝頼と一族・家臣・甲府領民との決裂を決定づけた。
 まず妹の婿である木曽義昌が離反すると、織田信長・徳川家康連合軍、さらに北条軍も加わった25万の大軍が武田領に攻め込んだ。長篠の戦い以降、織田氏と武田氏は大規模な抗争をせず和睦を模索していたが、信長はこれを封殺すると、1581年に家康は総攻撃をおこない高天神城を奪回した(高天神城の戦い)。

 同年3月に武田勝頼は武田氏は自害して滅亡した。家康は甲府へ着陣し、信長は甲斐の仕置を終えると帰還している(甲州征伐)。
 家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが本能寺の変直前の家康外遊であった。

 またこのころには家康の参謀として秀吉死後の天下取りや豊臣氏滅亡などに暗躍した本多正信が徳川家に正式に帰参している。

 

本能寺の変
 1582年の3月、信長は武田家を滅ぼした。これには家康の調略などの協力が不可欠であり、信長は大いに感謝していた。そのため信長は駿河国(静岡県)をまるごと家康に進呈した。家康はこの駿河拝領の礼のため信長の招きに応じて穴山信君とともに安土城を訪ねた。しかし戦国の世である。信長と家康は「戦国で唯一、双方ともに裏切らなかった」が、信長が家康を謀殺するとの噂もあり、本多忠勝など後々徳川四天王と呼ばれる選り抜きの家臣団と共に行動した。

 家康が安土に滞在中の接待役が明智光秀で、家康がまだ滞在中なのに「サルの援軍に行け」と言われている。

 安土城では信長自ら給仕やお酌をするなど、大歓迎を受け能見物などで数日過ごした後に京都へ向かった。家康は予定通り京都を見物して、5月30日からは堺見物をしている。
 しかし6月2日、家康が堺を遊覧してら京へ帰る途中で、京都から来た茶屋四郎次郎に「本能寺の変で織田信長が横死した」ことを知らされた。家康の盟友・織田信長が本能寺の変によって自刃したのである。

 京都から堺は当時でも一両日程度の距離であった。もし明智光秀が「信長に味方した奴を全部殲滅させる」と言い出せば、真っ先にやられてしまう。このときの家康の供は少人数で極めて危険な状態だった。狼狽した徳川家康は取り乱し、一度は、明智光秀の支配下にある京都に上り松平家にゆかりのある知恩院に駆け込んで自刃すると主張した。しかし本多忠勝を始めとする家臣たちに説得されて帰国を決意し、伊賀国を経由して三河国へ帰還した。

 信長死すとの報を届けてきた商人・茶屋四郎次郎は「私もお供しますので、一刻も早くお逃げください。金を出せば通してくれるところもあるはずです」と逃亡を勧めた。少人数だからこそかえって目立たず逃げやすいと思ったのである。

 まともな道を通ったのでは「どうぞ怪しんでください」というのと同然で、落ち武者狩りに遭う危険もあった。服部半蔵の進言を受け、伊賀の険しい道なき道を越え、伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。伊賀者190人が伊賀から家康を守るためお供をした。

 それがかつて信長が伊賀を攻めたとき、伊賀の者を皆殺しにしたが、三河に逃げ込んだ者を家康はひとりも殺さず、生活の世話をしたことをありがたく思っていて「こんなときにご恩をおかえししなくては」と家康にお供したのである。家康が岡崎に到着したのが6月4日で本能寺の変は6月2日なので、わずか3日で岡崎に戻っている。伊勢国から三河国大浜までの船を手配した伊勢商人・角屋七郎次郎秀持は、家康より「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」と喜ばれ、以後廻船自由の特権を与えられた。

 家康は岡崎に到着すると明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、中国地方からの羽柴秀吉によって、すでに光秀が討たれたことを知った。時代は大きく動いていった。

旧武田領での争い

 織田氏の領国となった旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起き、さらに越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領国の上野国と佐久郡の支配を担っていた滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3ヶ月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかった。

 武田遺臣による一揆が相次いで勃発しているため、滝川配下にあった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨てて畿内へ敗走した。甲斐と信濃諏訪郡を支配していた河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死している。
 関東方面の支配を任されていた滝川一益は、関東の北条氏政が本能寺の変で信長の死を知った後も、北条方から引き続き協調関係を継続する旨を受けていた。しかしこれは表面的に友好関係を維持していただけで、北条氏政が深谷に軍勢を差し向けると滝川一益もこれに呼応して軍勢を差し向けるなど、互いに不信感は増幅していった。
 さらに数日後には対立が明白になって、武蔵国児玉郡上里町で両者は戦いとなった。北条氏の軍勢は滝川軍の3倍の6万の兵が武蔵・上野国境を襲来した。滝川一益は北条氏直を迎撃したが、北条軍は大勝し、滝川一益は尾張までの敗走を余儀なくされた(神流川の戦い)。

 このため甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯になり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒として、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。
 いっぽう北条氏直も、北条氏規や北条氏照が5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦して南へ進軍した。家康は甲府の尊躰寺に本陣を置いたが、新府城(韮崎市)に本陣を移すと若神子城(北杜市)に本陣を置く北条勢と対峙した。

 徳川軍と北条軍の全面対決の様相をみせたが、滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法により戦意を喪失した北条軍は家康に和睦を求めた。和睦の条件は上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の二女・督姫を氏直に嫁がせることであった。こうして家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へのし上がった。秀吉と手を組むべきか対立すべきか、家康はいったんは対立の道を選ぶが、その後、臣従することになる。

 

小牧・長久手の戦いから家康を臣従へ
 織田信長の死後、羽柴秀吉が台頭してきた。秀吉は信長の次男・織田信雄と手を結び、1583年には織田家・筆頭家老であった柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破り影響力を強めていった。しかし織田信雄は賤ヶ岳の戦い後に三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は今度は家康に接近してきた。秀吉は信長にとことん仕えた家康を自分の味方に出来ればとしており、何としても臣従させねばならないと思っていた。
 織田一族は蚊帳の外に置かれ、安土城”から追い出された不満は秀吉に向けられた。急先鋒である次男の織田信雄は、徳川家康と手を結び、秀吉の懐柔の手になびいた3人の家老を処刑した。それに怒った秀吉が信雄討伐を決意した。

 戦いは秀吉と反秀吉に天下を2分し、家康は関東の北条氏、土佐の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し反秀吉包囲網が構築された。秀吉も越後の上杉氏や安芸の毛利氏、常陸の佐竹氏らに呼びかけ外交戦の様相を呈した。

 兵力は秀吉軍10万人に対して徳川軍3万人の戦いで秀吉は普通なら負けるはずがなかった。1584年3月、羽柴秀吉は織田信雄に味方する徳川家康と戦う決意をし、これを察知した徳川家康は、3月7日に浜松城を8000で出陣し、3月13日に織田信雄3000が籠る清洲城に入り合流した。

 同じ3月13日、秀吉から美濃を与えられて張り切る池田恒興が尾張・犬山城を陥落させると、4月4日、家康は小牧城で、秀吉は楽田で、目と鼻の先で睨み合ったまま膠着状態が続いた。この膠着状態を打破する為、池田恒興は羽柴秀吉に次のように進言した。「家康が小牧山に居座っているため、本拠である岡崎は手薄になっているはず。密かに岡崎を攻めれば、家康は岡崎へ動くだろう。その隙に攻撃すれば勝利は間違いない」これは織田信長が得意だった「中入作戦」であったが、織田信長以外での成功例が少ないため、羽柴秀吉は最初は断った。
 しかし羽黒の戦いの汚名返上で功を焦った池田恒興は、翌日も再度中入を申し入れた。羽柴秀吉は池田恒興の機嫌を損ねると、諸将が寝返る恐れがあった為、池田恒興の中入を承諾した。
 4月月6日夜半、森長可・池田恒興ら2万人が小牧城にいる家康軍を迂回して三河の岡崎城を目指し出兵した。しかし伊賀衆の情報網に捕捉され、徳川家康は翌日にはその情報を得ていた。翌4月8日夜、家康は兵13500を自ら率いて出撃し、同月9日には長久手において両軍は激突した。

 徳川軍は森・池田勢を撃退した。先鋒の池田恒興勢が岩崎城から出撃した丹羽氏重勢の挑発の銃撃を受け、それが池田恒興が乗っていた馬に命中し、落馬した池田恒興は激怒し、この作戦が「奇襲」であることを忘れ岩崎城を大々的に攻めた。さらに隠密行動を取って進軍していた三次秀次、森長可、堀秀政軍は細長く四隊に編成されており、尾張旭白山林で休息中の秀次隊8000人は後ろから襲い掛かって来た徳川隊に壊滅させられた。徳川勢が奇襲攻撃を仕掛けた格好となり、三次秀次勢は総崩れとなり、三次秀次も自身の馬を失い供回りの馬で辛くも逃た。火急の報に駆け付けた秀吉本隊2万は間に合わなかった。

 小牧・長久手の戦いは秀吉の完全な負けであった。完全なる情報戦の負けであった。圧倒的な兵力を保有する秀吉軍はこの敗戦では敗退せず、この「小牧・長久手の戦い」は再び膠着状態に陥いった。 

 しかしなんと織田・徳川軍の総大将・織田信雄に、秀吉から伊賀と伊勢の半国割譲で手打ちが持ちかけられ、信雄は秀吉と単独講和を結んでしまったのである。
 家康は戦いの大義を失ったため、軍を引いて三河に引き返してしまった。秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とすることにした。

 戦後の和議は秀吉に優位であった。越中の佐々成政が厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが家康は承諾しなかった。1585年に入ると紀伊の雑賀衆や土佐の長宗我部元親、越中の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康に迎合していた諸勢力が秀吉に服属し、さらに秀吉は7月11日に関白に叙任して豊臣政権を確立した。
 家康は武田の甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有していた相模国の北条氏と同盟関係を築いたが、同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、上田城主・真田昌幸が秀吉方に帰属して抵抗した。家康は大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉らを派兵して上田城を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵した(第一次上田合戦)。
 徳川氏は勢力圏を拡大するが、徳川氏の領国では1583年から翌年にかけて地震や大雨に見舞われ、特に5月から7月にかけて「50年来の大規模水害」に見舞われていた。
 この状況下では北条氏や豊臣政権との戦いを予定していた徳川氏の打撃は深刻であった。小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員され、田畑の荒廃と飢饉を招いたため、徳川家康は領国の荒廃からの立て直しを迫られることになる。
 このような情勢の中、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉との和睦は北条氏との関係に緊張を生じさせた。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が起きる。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったため、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革した。また駿河を支配した家康は浜松より居城を駿府城に移した。
 1586年、秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み、4月23日には要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を離婚させて正室として家康に差し出した。家康はこれを迎え、秀吉と家康は義兄弟となった。

 それでも上洛の気配を見せない家康に対し、秀吉は実母・大政所を朝日姫の見舞いと称して岡崎に送った。大政所は秀吉にとって最も大切な実母で、事実上の人質として送ったことになる。関白の母子が共に人質として送られてきたとあってはさすがの家康も上洛に応じざるを得ず、ついに重い腰を上げた。

 同年10月26日、家康は大坂に到着すると、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜に秀吉本人が家康に秘かに会いにきて改めて臣従を求めてきた。こうして家康は秀吉に屈することになり、翌27日、大坂城で秀吉に謁見し、家康は諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に、家康は秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執ることはないという意思を諸侯の前で誓った。

 秀吉47歳、家康41歳で小牧・長久手の戦いでは「殺し合う間柄ではなく、利用し合う間柄」を確認し合った結果になった。

 

豊臣家臣時代
 1586年11月5日、家康は京で正三位に叙任すると多くの家康の家臣も叙任した。11月11日に家康は三河国に帰還ると、翌日には大政所を秀吉の元へ送り届けている。12月4日、17年間過ごした浜松城から本城を駿河国の駿府城へ移した。これは秀吉側に出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたためである。
 1587年8月、再び上洛すると秀吉の推挙により朝廷から従二位・権大納言に叙任され、その所領から駿河大納言と呼ばれた。12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託され、秀吉の推挙により家康は駿府左大将と呼ばれた。
 家康は北条氏と縁戚関係にあることから、北条氏政・氏直父子宛てに、次の起請文を書き北条氏に秀吉への恭順を促した。
  「家康は北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない。今月中に兄弟衆を京都に派遣するが、豊臣家への出仕を拒否する場合には娘(氏督姫)を離別させる」。

 家康の仲介で旧友の北条氏規を上洛させるなどの成果を挙げたが、北条氏直は秀吉の臣従に応じず、秀吉は北条氏討伐を開始した。

 家康も豊臣軍の一軍として参戦し、関東を支配していた北条氏が敗北し滅ぼされて豊臣秀吉が天下を統一した(小田原征伐)。

 家康は馬術の名手であるが、秀吉の小田原攻めに出陣した際、谷川にかかった橋が細かったので馬では渡れず、橋の上を歩いて渡っていた。家康が橋に差し掛かった時、それを山の上から丹羽長重、長谷川秀一、堀秀政が見ており「家康公は有名な馬の名手。細橋を渡るところを見ておこう」とすると、家康は馬を従者に渡し背負われて渡った。それを見た三将の兵たちは「家康公は馬の名手なのに、橋を越すことが出来ず背負われて渡られた」と笑ったが、三将は非常に感心し「あれほどまでに馬の達人とは、馬上の巧者は危険は冒さないもの。特に秀吉公の御陣前、慎重に危ないことはされない。これは馬の巧者と言うべきだ」と感心した。諸兵に笑われながらも、家康の行動は三将の手本にされた。
 家康は小田原攻めに先立って「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を駿河で断行していた。これは北条氏討伐に対する準備と同時に、領内の実情の把握のためであった。この直後に秀吉によって関東へ領地を移封されたが、ここで得た経験が新天地の関東統治に生かされることになる。

関東八州に移封
 小田原攻めが成功して北条氏が退けられた後、秀吉は家康に褒美を与えるどころか、関東への領地替えを命じた(関東移封)。しかも北条氏が自慢していた小田原城ではなく、新たに城を建てろとのことであった。
 秀吉の命令で長年の根拠地だった駿府を失い、さらに遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、その代わりに北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国・常陸国に移封された。家康の関東移封の噂は以前からあり、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心がないと約束していたが、結局は北条氏の領国に移されることになった。
 小田原合戦の前に、伊達政宗が豊臣秀吉の惣無事令(戦い禁止令)を無視して東北で大暴れしていた。摺上原(すりあげはら)の合戦で、蘆名氏を破って会津(福島)を占拠して全国でも屈指の領地を持つに至っていた。
 小田原城の落城直前に、豊臣秀吉は会津出陣の準備を行っていた。そのため近江(滋賀県)から会津までの街道の整備と、各宿泊地に豊臣秀吉の休憩所を設置する必要があった。東海道の近江から江戸までの区間が整備され、また江戸から下野(栃木県)までは2つの路線が整備された。
 江戸は豊臣秀吉が会津出陣の際に通る予定の大中継地だった。そのため豊臣秀吉は家康に小田原城でなく江戸城に本拠を置くように指示したのである。
 家康は北条氏の旧領である関東の6ヵ国を秀吉から与えられ、150万石から250万石へ大幅な加増を受けたが、徳川氏に縁の深い三河を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党による不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、この税率を上げるわけにもいかず、石高ほどの収入を見込めなかった。  この移封は秀吉の家康に対する優遇策なのか冷遇策なのかの議論は古くからあるが、家康は秀吉の命令に従い関東に移ると、北条氏が本城とした小田原城ではなく江戸城を居城にした。秀吉にすれば苦渋をなめさせられた三河軍団が弱体化すれば御の字であり、関東支配に失敗すば取り潰しの口実ができた。
 しかし家康は関東の統治のため家臣を支城に配置し、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を配備し難なく統治した。関東は現在に至るまで大きく発展を遂げることになる。

 

江戸城

 1590年7月に、関東の雄として勢力を欲しいままにしていた北条氏の本拠地である小田原城が落城すると、豊臣秀吉の命令により徳川家康は関東へ転封させられた。北条氏の本拠地だった小田原城にそのまま入ればよいのに、北条氏が小田原攻めに滅亡すると、徳川家康は小田原城の支城にあたる江戸城に入ることになる。
 当時の江戸は舟板3・4枚を並べただけのみすぼらしい城で、また城下町も大手門の外側にかやぶきの家が100軒ある程度で、城の東側は湿地帯で萱(かや)の野原が広がっていた。このような辺鄙な田舎町をなぜ家康が本拠地にしたのか、それは豊臣秀吉がそうしろと命じられたからである。
 豊臣秀吉が家康を江戸に追いやったのは、家康の力を恐れた秀吉が家康を少しでも遠くに置きたかったからである。また関東では北条家の残党が残っていて混乱しており一揆が起きることを秀吉は見越していた。それまで家康が領地としていた三河、遠州、駿河、甲斐、信濃の土地から関東への国替えはあまりに見劣りがした。江戸への国替えは秀吉の嫌がらせと家康の家臣達は不服を唱えた。しかし家康は淡々とそれに従った。

 1457年、太田道灌が江戸氏の居館の跡に江戸城を築いたが、江戸は田舎で荒れ果てた湿地帯で、江戸という名も穢土(汚れた土地)から来ていた。日比谷から丸の内は海辺で漁民が住み、風光明媚な海岸線であったが、東国との水運と太平洋の海運とが江戸の将来を示していたのである。
 秀吉の小田原攻めが行われた時は、北条氏の重臣である遠山氏が守りを固めていて、その数は騎兵1000騎だった。当時の北条氏は騎馬武者1人につき、旗持ち1人・鉄砲持ち1人・槍持ち2人がいたので合計5000人が江戸城にいたことになる。5000人もの兵士が入っていた城が、玄関に舟板3枚なんてことあり得ない話である。
 江戸は北条氏の頃から、江戸城を中心に岩槻(埼玉県)、関宿(千葉県)、佐倉(千葉県)の支城網が出来ていた。小田原合戦では江戸城開城後に、豊臣秀吉の休憩所をつくる計画があった。実際の江戸城は徳川家康が入城する前から、立派な城だったと想像できる。ではなぜ玄関に舟板3枚などとみすぼらしく書かれたのか、なぜ江戸時代の史料にはそのようなことが書かれているのか。

 それは老人のかつての苦労話と同じである。つまり「昔は貧乏だったが、みんな一所懸命に仕事して心は豊かだった。それにひきかえ今の若い者は」と言うのと同じ発想だった。自分たちが頑張ったことを強調するために、当時の江戸城の様子についても、初期は貧しいく、後に盛りあげたとしたのであろう。
 このことは徳川吉宗の頃の史料「岩渕夜話」に書かれているが、徳川吉宗が紀州藩主から将軍になったこともあり、これまでの将軍とは異なる血筋であるため、徳川家康との血のつながりを主張する必要があり、その流れで徳川家康の功績も今まで以上に盛る必要があった。ぼろぼろの江戸城を立派にした家康の成功物語を作るために、当時の江戸城をみすぼらしい城という設定にしたのである。

 しかしこれだけでは豊臣秀吉が徳川家康に小田原城でなく江戸城に入ることを指示した理由が分からない。まず当時の政治情勢について考えてみる。


家康はなぜその後も江戸に
 1591年1月、伊達政宗と蒲生氏郷との間で和議が結ばれ、東北は豊臣秀吉のものになり平和な時代を迎えた。その1ヶ月後、東北の押さえとして関東に入った徳川家康に再転封の噂が流れた。結果として噂は噂にすぎなかったが、ここで徳川家康はいよいよ本格的に関東に根付いていくことになる。ここで東北に攻め込む必要のない徳川家康には江戸城を本拠地にする必要はなかった。では徳川家康はなぜ江戸城に残ったのか。

 まずは江戸の持つ地形の条件が関係している。江戸が大きな都市になるにいくつかの条件があり、その一つとして広大な平地を持ち、海、大きな川に面しているということが重要であった。江戸は広大な関東平野や東京湾に接し、日本の河川の中で最大規模の利根川から水を引くことが出来た。江戸はまさにその成立条件を満たしていたと言えた。
 また都市を発展させる為には物流が欠かせない。江戸は北条氏の頃から次第に発展を遂げ、海上交通が盛んであった。とくに発展したのは伊勢と品川のルートであった。江戸に多いものとして「伊勢屋・稲荷に犬の糞」と歌われたように、海上交通を利用して伊勢商人が多数江戸にやってきた。また品川は多摩川を介して中世の武蔵の中心である府中にも便利な場所であった。

 当時の物流は馬による陸路と川による水路が重要で、利根川の水を上手く利用することで家康は江戸の物流を整える計画をした。江戸は水路を軸として街が作られ、物流の発達と共に都市はどんどん大きくなっていった。
 海上交通の基点の品川に加え、陸上交通の基点の浅草、この2つのまちに囲まれた場所が江戸城だった。江戸にはまだ発展の余地が十分に残された土地であった。ではそのような素晴らしい江戸を北条氏はなぜ本拠地にしなかったのか。
 それは中世を通じて利根川が江戸のすぐ横を流れ、利根川をはさんで南北で対立していたからである。江戸は非常に便利な街だったが、あまりにも南北の境界線が近く非常に危険な土地であった。そのため古くは源頼朝が鎌倉を、北条氏は小田原を本拠地にしていたのである。北条氏政の頃に北条氏が関東地方を統一し、南北対立はなくなり江戸は平和な街になっていた。その状態で徳川家康は関東に転封になったので、徳川家康は迷うことなく江戸を本拠地にしたのである。

 家康が入城した当時の江戸城は本丸、二の丸、三の丸のみで構えは小さく、鄙びた土塁造りで濠も狭かった。しかし1592年、家康は江戸城の拡張工事に着手し、西の丸を築き現在の皇居一帯を城郭内とした。次に政治的な理由から見ると、江戸幕府が開かれた1603年当時の徳川家は、京都の二条城や伏見城を政治の中心にしていた。伏見城が関ヶ原の戦いにおいて落城して消失し、伏見城の復興も二条城と共に中途半端になっていた。大坂にはまだ力を持った豊臣家がいて、本拠の江戸から京都までの距離が離れていることから、江戸に幕府を置くことにした。

 そのため仕方なく消極的に江戸を選んだのだといった印象があるが、寒村の江戸を発展させた家康の業績を持ち上げてみせるため、このように消極的な理由だったからかもしれない。また後に、家康は征夷初代将軍になると江戸幕府を開き中央政権を行うに相応しい規模施設にするため、全国諸大名に助役普請を命じて改修工事を始めている。神田台地を崩し海岸や湿地を埋め、日比谷.銀座.日本橋.浜町の市街地もこの当時に造られた。さらに大手町.日比谷.桜田門外.皇居外苑などに大名町を造り、諸大名の豪華な屋敷が華美を競って建ち並ぶことになる。

奥州鎮圧後
 1591年6月20日、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため豊臣秀次を総大将に奥州仕置軍を編成した。 家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などの鎮圧に協力した。

 九戸政実の乱のとき、家康は武州岩附まで出陣し井伊直政に「出陣して蒲生・浅野と協力して九戸の軍事を計るように」と命じた。これを聞いていた本多正信は「井伊直政は重要な執権なので、このたびの討ち手は下の者をつかわし、もし叶わないときこそ、井伊直政をつかわすのが妥当ではないか」と進言すると、家康は「それは思慮のない者、北条氏直などがすることだ。最初に軽い者をつかわして埒が明かないといって、次に重い者をつかわせば、最初に行った者は面目を失い自害にするほかない。理由もなく家臣を殺すことは惜しいことだ」と答えた。

 翌年から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく肥前国・名護屋城に在陣していただけである。
 しかし1595年に「秀次事件」が起き、この豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ事態の鎮静化を図った。豊臣政権における家康の立場は高まっており、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより、中央政権の政治システムを学ぶことになった。
 1596年、秀吉の推挙により家康は内大臣に任ぜられ、これ以後は江戸の内府と呼ばれている。1597年に再び朝鮮出兵が開始されたが、日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに備えたが、このときも家康は渡海していない。
 1598年に秀吉が病に倒れると、秀吉は豊臣政権を磐石にするため後継者である豊臣秀頼を補佐するために「五大老・五奉行」の制度を定め、家康は五大老の筆頭になり、秀吉は死の直前に跡継ぎの秀頼の将来を再度家康に託した。

 秀吉の死後には五大老・五奉行が朝鮮からの撤退を決め日本軍は撤退した。家康は朝鮮に兵を送ることなく、財力の消耗を免れて自国を固めることができた。 渡海を免除されたのは家康だけではなく、東国の大名は肥前国・名護屋城に残留したままであった。

 

秀吉死後
 豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で頂点になった。また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けた。この頃より徳川家康は本多正信を参謀として天下人への道を歩み出す。

 家康は秀吉により禁止されていた大名家同士の婚姻を積極的に行い、婚約した娘らを全て家康の養女として嫁がせた。この婚姻により家康は細川忠興や島津義弘、増田長盛らと縁戚になり、彼らの屋敷に頻繁に出入りして関係を強めた。

 このように豊臣秀頼をないがしろにする政権運営をめぐって大老・前田利家や五奉行の石田三成らは横暴と反発し、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣された。しかし家康は吉晴らを恫喝して追い返すと、前田利家と徳川家康は「利家が家康を、家康が利家を相互に訪問し、家康が向島へ退去する」という誓書を交わし和解した。
 しかし豊臣秀吉が亡くなってから7ヶ月後の1599年閏3月3日、前田利家が病死すると、その翌日には福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃した。石田三成は大坂を脱出すると伏見城に逃れ、その後、家康の仲裁により三成は奉行を辞して佐和山城に蟄居し、三成の護衛役として家康の次男・結城秀康がついた。

 このように家康は三成を失脚させたが、筆頭家老として中立的と見られ、まとめ役としての正統性が得られた。家康の評価は高まったが、同時に三成を生存させたことから豊臣家の家臣同士の対立は依然として続くことになる。

 9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として家康は大坂に入ると、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日には登城して豊臣秀頼に重陽の節句の祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り大坂城で政務を執るようになる。
 9月9日に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んでいることが増田・長束両奉行より密告があり、10月2日に浅野長政を徳川領の武蔵府中で蟄居させ、大野治長は下総国の結城秀康のもとに、土方雄久は常陸国・水戸の佐竹義宣のもとへ追放した。

 また首謀的な前田利長には加賀討伐軍を出そうとしたが、利長が亡き前田利家の正室・まつ(芳春院)を江戸城に人質として差し出したため出兵は取りやめられた。これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれた。

 石田三成は上杉景勝の家臣・直江兼続と密謀を交わし、上杉景勝が先手を打って徳川家康に対して挙兵し、常陸の佐竹家もこれに応じて挙兵させることになった。さらに大坂では豊臣秀頼を中心に石田三成が挙兵して、徳川家康を東西から挟み撃ちにする計画を立てるが、上杉景勝はこれには応じず、佐竹家の反応も曖昧なため実現はしなかった。

関ヶ原の戦いの前兆

 日本史の運命を決した関ヶ原の戦いの発端は、豊臣秀吉の死去によってもたらされた内輪もめであった。秀吉は息子秀頼の将来を家康らに頼んで死去し、豊臣家の舵取りは五大老と五奉行に委ねられた。
 五大老は五大老で、五奉行たちは五奉行で、秀吉の葬儀の準備もそこそこに自らの軍備充実に動き出した。つくられた法度(法律)もなく、世の中は混乱の兆しが増幅していくだけであった。果たして誰が豊臣秀頼を守るのか、あるいは豊臣政権の後を誰が継ぐのか、石田三成は家康を特に警戒していた。徳川側もまた豊臣側もお互い疑心暗鬼となっていた。
 ところが石田三成が増長していることに不快感を示した加藤清正らは、石田三成から離反して徳川家康に近づいた。すると逆に三成が危険にさらされることになる。三成は奉行から外れ佐和山城に退き、そこで家康が頭角を表した。

 諸大名は東西のどちらかの陣営に属し、それぞれ誓詞を差し出して結束を誓うことになる。大方の仲間を獲得した家康は、豊臣秀吉の象徴といえる伏見城を自分の居城に利用し、天下人のように振る舞い始めた。さらに大軍を大坂城に派遣しそこに兵士を駐屯させ、家康は伏見城の次は大坂城へと大胆に動き始めた。家康は大坂城西の丸に大坂城本丸と同じ天守を造営しそこに居座る作戦に出た。大坂城内には本丸天守と、西の丸にも天守が並ぶという不思議なことが起こった。こうなると大坂城の淀君が納まらなかった。淀君は側近の片桐且元を責め続けるが何ら手応えがなかった。このような家康を見て、石田三成は家康打倒を諸大名に呼びかけた。
 家康は1600年の正月には、豊臣の大名たちは大坂城に登城し年賀の挨拶を行うことが恒例であったが、どちらを先に拝謁すべきか迷った。家康は家康で西の丸で諸大名を謁見し、秀頼(当時8歳)は秀頼で本丸で淀とともに大名を謁見した。大坂城内には天守が二つありさながら城主が二人いることになった。

 こうした状況に激怒した石田三成が立ち上がったのも当然で、彼は正義の戦いを挑むことになる。これが関ヶ原の前触れであった。双方は何食わぬ顔で戦時体制を固めていった。

 1600年3月、越後の堀秀治、出羽の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせが届いた。上杉の家臣で津川城主・藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠の元へ「上杉氏に叛意あり」と訴え、徳川家康は会津若松城主・上杉景勝に上洛を要請した。しかし、上杉景勝は拒否したため、弁明の使者を送るよう上杉景勝に命じた。
 これに上杉家重臣・直江兼続らは反発し、挑戦的な態度で徳川家康を痛烈に非難する文書(直江状)を送った。上杉景勝は三成の西軍に呼応して家康に抵抗の姿勢を示したのである。家康はすぐさま会津征伐の指揮を嫡男・秀忠に命じ、秀忠と異母兄弟の結城秀康も会津征伐の作戦に参加させた。一方の石田三成は毛利を味方にし、家康が会津に攻め込んだところで挙兵して江戸を東西から挟み打ちする計画を立てた。

 大谷吉継は徳川勢に加わろうとする道中、佐和山城で石田三成と面会した。大谷吉継は冷静に見てこの戦いは「家康の術中にはまるようなもの、会津征伐は家康の罠(わなな)として三成に注意した。家康は家康で本多正純に西国諸大名の動きを逐一監視させ、東軍の体制も徐々に固まっていった。
 石田三成は毛利の安国寺恵瓊(えけい)に毛利対策を命じると、安国寺恵瓊は勝ち目があるならば毛利輝元を総大将として、毛利を中心に西国の諸大名をまとめることが勝利への道であると諭した。三成は同意し、西軍総大将として毛利輝元は大坂に来て軍議に参加した。毛利輝元は家康弾劾状を作成し、諸大名にこれを配布して大坂方への味方を募った。弾劾状の中身は、家康が勝手に伏見城を占拠したことや、大坂城内の西の丸に天守を勝手に築いたことなどであった。東軍に参加予定の諸将を食い止めるための関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。また島津義弘は徳川家康との約束に従い伏見城に入城しようとしたが、鳥居元忠に断られて止む無く西軍に身を投じた。
 家康弾劾に呼応する大名たちは大坂城に参集し、伏見城攻撃を以て開戦の・狼煙(のろし)とした。これを知った家康は、会津征伐を東北の大名とともに三成誘導作戦に出た。東西相まみれての大名獲得工作はエスカレートし、特に家康は東北勢の伊達政宗、佐竹義宣に徳川になびく方策を取った。

 しかし石田三成が挙兵した訳ではなかったので、徳川家康は7月21日には江戸城を出発し、7月24日に下野・小山に到着した。

 この小山で石田三成が挙兵して伏見城を攻撃したことを知らされた。徳川家康は下野・小山の陣において家臣と協議し石田三成を討伐する事に決め、翌25日に上杉征伐に従軍していた諸大名の大半を集め「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転することを告げた(小山評定)。家康の本隊は西に向かって大軍を動かしたが、上田城の真田昌幸と幸村は家康と決別し、西軍に加勢し徳川の大敵となり、後の大坂冬の陣でも徳川軍を悩ますこととなる。
  関ヶ原の準備は着々と整っていった。徳川家康の心配の種は、毛利輝元の行動と福島正則の去就であった。毛利も完全に豊臣陣営と一枚岩でないことを知っていた家康は、毛利輝元が徳川になびけばこの戦いは勝てると確信し、毛利輝元には領地加増で優遇することを密かに文書で伝えていた。

 江戸城に入った徳川家康は、裏切りを警戒ししばらく江戸城に留まった。徳川家康は、藤堂高虎や黒田長政らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めようとした。
  関ヶ原合戦は最後の最後まで誰がどこで裏切るかわからなかった。お互い疑心暗鬼の中で、西軍は大垣城から関ヶ原へと大軍を動かした。情勢は未だ依然として定まらない中での行動であった。この西軍の動きに家康は動揺し、また家康の心理が読めなかった東軍の行動に頭を抱えた。石田三成挙兵の知らせは諸大名の耳にも既に入っており、関ヶ原の戦いで石田三成につくのか、徳川家康に味方するのかであったが、みな判断に苦慮していた。


関ヶ原の戦い
 岐阜城が落ちたとの報を受けると、徳川家康は9月1日に3万3000を率いて西上開始。
一方、中山道を進んでいた徳川秀忠3万8000は上田城にて真田昌幸・真田幸村(真田信繁)の抵抗に合い関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
 1600年9月14日、家康は赤坂の岡山に設営した本陣に入った。東軍よりも先に関が原に布陣した西軍は高所を抑えて有利な布陣を敷き、9月15日、早朝から深い霧の中で2時間ほど両軍は対峙した。そこに井伊直政と松平忠吉の小隊が、先陣を任されていた福島正則の横を通り抜けようて前方へ進出し、井伊直政隊が宇喜多秀家に向けて鉄砲を打ち込んだ。
抜け駆けされたと福島正則隊は宇喜多秀家に向けて突撃開始して関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。関ヶ原の戦いが始まったが、わずか6時間で勝敗が決まった。

 家康最大の勝因は、西軍の小早川秀秋の裏切りと毛利輝元の不参である。家康は毛利輝元が姿を表さないことをすでにわかっていた。黒田長政が調略していた松尾山の小早川秀秋の兵15000が石田三成を裏切り大谷吉継の右翼を突いた。その後、傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4200も石田三成を裏切り、大谷吉継の側面を突き敗北を悟った大谷吉継は自刃した。(享年42)
 その後、旗本中心の徳川家康本隊30000も動き出し、宇喜多秀家や小西行長が敗走した。石田勢も島右近などの重臣は討死して壊滅し、石田三成は伊吹山方面に逃走した。
島津義弘隊1500は、福島正則を正面突破して戦線離脱に成功し撤退した。大勝利した徳川家康は裏切者の小早川秀秋らに石田三成の兄・石田正澄を城主とした石田三成の本城・佐和山城の攻撃を命じ落城させた。

 大坂・堺を引き回された石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らは10月1日、京都六条河原で斬首され、首は三条大橋に晒された。石田三成、享年41。石田三成の辞世は「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく わが身なりけり」である。

 9月27日に大阪城に入った徳川家康は、豊臣秀頼と淀殿と会見したあと、西ノ丸に入り井伊直政・本多忠勝らに命じて、味方した諸大名の論功行賞調査を開始した。誤解されやすいが、関ヶ原の合戦は「家康勢と石田三成勢の戦いで、どちらも豊臣家のため」と称していたことである。

 関ヶ原の合戦の後、徳川家は家康から秀忠へ、秀忠から家光へと徳川三代にしてようやく落ち着いたといえる。その間には徳川家康が将軍職を降り、駿府で大御所として采配を振るっていた。その時に大坂冬夏の陣が起き、豊臣家は滅亡した。二代将軍となった秀忠は、家康以上に大名統制を強硬に実施し、また大坂城を徳川家の城として大改修を行った。

家康の晩年

 関ケ原の戦いで家康は勝ったが、大坂城の豊臣秀頼の地位が低下したわけではなかった。家康はその後も秀頼を主君とする五大老の筆頭であって地位はそのままだった。ところが、1603年、家康が征夷大将軍に任じられた。これに対し秀頼はそのまま豊臣政権のトップとして大坂城にいた。これによって幕府を開いた「江戸の徳川政権」と「大坂の豊臣政権」という二つの政権が併存することなった。大坂方には家康が征夷大将軍になったのは当座のことで、秀頼様が成人すれば政権を戻すはずという楽観論があった。

 しかしその2年後に、家康は子息の秀忠に将軍職を譲った。さらに追い打ちをかけるように家康は天皇の権威を使って、1606年、朝廷に対し「武家の官位は、家康の推挙なしには今後与えないように」と申し入れた。将軍職を息子の秀忠に譲ったのは、将軍職は徳川が継続することを内外に示すためであり、徳川の天下取りを確かなものとするためであった。

 将軍職を秀忠に譲ったが、家康は大御所となって依然として幕府権力を握ったままであった。二代将軍・秀忠は駿府の大御所家康が決めたことを江戸城において決裁するだけであった。「大御所時代」とは家康が駿府で亡くなるまでの約10年間である。家康は駿府を舞台に大胆な政策を展開し江戸幕府の安定策を次々と打ち出した。

 ちょうどその頃、朝廷にとって一言も弁明できない不祥事がおき、朝廷工作を有利に進めることができた。朝廷側の不祥事とは1609年の宮中の「官女密通事件」だった。後陽成天皇の寵愛を受けている宮中の女官たち5人が、北野、清水などで数人の中級青年公家たちと乱行を楽しんでいたのだった。この事件を家康は巧みに利用した。
 この密通事件で家康は処罰は天皇次第とし、天皇は主謀者以下、全員を極刑(死罪)に処すべしと判断した。これは幕府や京都所司代が予想もしていなかった厳刑だった。官女の密通事件は珍しいことではないが斬罪に処された。天皇は家康の官位授与の申し入れを飲まざるを得ず、朝廷としての不祥事に対して天皇は怒りをあらわにした。

 朝廷の劣勢は続き、この密通事件の処分についても最終的には家康の裁断に任された。後陽成天皇は愛妾らに裏切られ、さらにその処罰について幕府の強い干渉を受け、二重に屈辱を被った。このようにして家康は、朝廷・公家を押さえ込むことに成功した。

 将軍が家康から秀忠に替っても、大坂の豊臣方との緊迫関係は依然として続き、関ヶ原の戦い後の大名の編成を終えても、豊臣と気脈を通じた諸大名が西国を固めていた。これら外様の諸大名たちの動向が家康には気になった。

 豊臣家に対しては、神社の再興などを勧め、その資金を消費させたが、豊臣秀吉が残した財力はその程度で底を尽くことはなかった。

 そうこうするうちに徳川家康は70歳を過ぎ、余生があるうちに最大の懸念であった豊臣秀頼を消し去ることを決め、方広寺の梵鐘の銘文「国家安康」に言いがかりをつけ「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」を経て、遂に豊臣家を滅亡に追い込んだ。

 家康は道義に基づいた道義立国を目指し、一国一城令を発し、武家諸法度.禁中並公家諸法度.寺家諸法度の制定を行った。
 1616年1月、鷹狩に出た先で倒れが、3月21日に朝廷から太政大臣に任ぜられた。武家出身の太政大臣としては平清盛、源義満、足利義満、豊臣秀吉に次いで5人目であったが、4月17日巳の刻に駿府城において死去した。享年75。

 家康は当時としては長寿であり、徳川歴代将軍の中でも2番目に長命であった。
 2首を辞世の句を詠んでいる。
嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ
 死因としては、鯛の天ぷらによる食中毒説が長くいわれてきたが、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、1月21日の夕食で、死去したのは4月17日で日数がかかり過ぎている。ことから食中毒を死因とするには無理があり、現在、主流となっているのは胃癌説で、徳川実紀では家康の病状を「痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは手で触って確認できるくらいだった」と書かれていることから胃癌説となっている。いずれであれ、江戸城内では天ぷら料理は禁止されている。

 

日光東照宮
 1616年、徳川家康が駿府(静岡)で死去すると、葬儀は増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」という浄土宗の戒名がつけれた。遺言によって遺骸は駿河の久能山に葬られ、久能山東照宮の納められたが、一周忌に下野国の日光に改葬されることになった。家康の遺言では「小さなお堂をたて」としていたが、江戸幕府は威信をかけ藤堂高虎を作事奉行とし1617年に社殿を完成させると、家康21年忌の1636年に大造替が行なわれ、今日見られる荘厳な社殿に改築された。宮大工は江戸はもとより京・大阪からも集められた。

 徳川家康は八州の鎮守を目指していた。八州の鎮守とは日本全土の平和の守り神で、家康は不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を目指していたのである。
 神号は秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現となり、1617年2月21日に東照大権現の神号となった。東照社は東照宮となり、家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様とも呼ばれ崇拝された。

 日光東照宮の建物には多様な動物の木彫像がみられる。これらの動物のほとんどは平和を象徴し、眠り猫は踏ん張っていることから、家康を守るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をとっている。その裏面では雀が舞っているが「猫も寝るほどの平和」を表している。

 猿の彫刻を施した8枚の浮彫画面があり、これは猿が馬を守る動物という伝承から用いられている。8枚の浮彫は猿の一生が描かれており、これは人間の平和な一生の過ごし方を説いたものである。日光の木彫像の中でよく知られている「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な三猿は神厩舎に造られた1枚で、「見ざる、言わざる、聞かざる」は「幼少期には悪事を見ずに、悪事を言わない、悪事を聞かない方がいい」という教えで「自分に不都合なことは見ない、言わない、聞かない方がいい」という教訓になる。

 日光東照宮の奥社は墓所となっている。他の霊廟としては松平氏の菩提寺である愛知県岡崎市の大樹寺や高野山の安国院殿霊廟など、各地に東照宮に祀られている。また臨済宗の寺院としては東福寺の南明院が徳川家の牌所である。
 なお「谷中墓地」に徳川慶喜の墓地があるが、谷中墓地は都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地が含まれ、徳川慶喜の墓地は寛永寺墓地に属している。

最後の勝者
 徳川家康が戦国時代を制して平和で安定した江戸時代をもたらしたが、その理由を探っみたい。まず家康には忠誠無二の人材がそろっていた。戦は一人で出来るものでなく、家来を動かすため、大名にとって部下(家臣)がいかに自分のために働いてくれるかが一番のカギとなった。さらにはその家臣の下につく末端の雑兵が、どれだけ戦ってくれるかが重要であった。

 戦国大名が目指したのはもちろん戦いの勝利であるが、一番怖れていたのは「家臣の裏切り」であった。室町幕府第13代将軍・足利義輝が松永久秀と三好三人に裏切られて殺害されたように、いつ裏切られるのかわからなかった。そのため人心掌握が重要で、戦国時代にはどの大名も家臣には大変気を配っている。
 天下を取った徳川家康には、古くからの「信頼できる家臣」がいた。何よりも「義」「誠実さ」を重んじる家康には、その真っ直ぐな精神を物語る多くの逸話が残されている。家康には多くの優れた部下がいて、特に三河国時代から仕えていた武士たちは「三河武士団」と呼ばれ、その強さは日本中に広まっていた。戦国時代で最も強いのは武田氏の甲信兵、あるいは上杉氏の越後兵とされているが、家康の三河兵もこれらに劣らず、あるいは優っていた。

 豊臣秀吉が関白だったころ、秀吉は諸大名を集めて自分の宝物を自慢し、家康にどんな宝物を持っているかと尋ねた。これに対して家康は「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。私にとって一番の宝は私のために命を賭けてくれる武士500騎ほどで、この武士たちが何ものにもかけがいのない宝と思っている」と答えている。

 家康は家臣に全幅の信頼を寄せていた。だからこそ家康の家臣(三河武士団)は「主君・家康の為には命を惜しまぬ。主君のためなら火の中、水の中」の意識があった。また能力を持った優れた人材を発掘して育成にも力を注いでいた。たとえ相手が敵だろうが、志を持つものには忠義を評価して家臣にしたことが、後に天下統一を成した大きな要因になった。

 織田信長の織田家は尾張守護・斯波義統の家臣に過ぎず、しかも清洲城主の織田家の主家ではなく、清洲城主・織田家の配下の分家の3つの中の1つであり、立場の弱かった分家が本家を凌いだだけでなく、守護である斯波家よりも力をつけた。その意味では下剋上の典型例である。
 織田信長に強力な家臣が多かった訳ではない。そのため忠誠心には不安な点があり、実際に筆頭重臣となった柴田勝家はかつては信長の敵であった。さらに強力なリーダーシップで信長が尾張を統一に向かうと、その過程で何度も裏切った弟・織田信行を暗殺したのである。織田信長は家臣の統制には結果を求めることで統率した。

 信長は槍の長さを敵の槍より長くしたり、城下に兵士を住まわせるなど革新的な方法によって勢力を拡大し、家臣も手柄を立てれば領地が増えることから信長に従った。やがて天下が見えてくると、比叡山焼き討ちなどで宗教勢力を完全に殲滅した。

 やがて信長は残虐さが目立つようになり、荒木村重が謀反を働いたのは信長の不寛容を知っていたからである。その後も林秀貞や佐久間信盛などの名だたる武将を追放し、その結果、明智光秀による本能寺の変を生じさせることになる。すなわち信長は家臣を大事にしなかったため、裏切られて命を落としたのである。
 豊臣秀吉は農民出身の成り上がり者である。そのため自分に忠節に仕えてくれる譜代の家臣はいなかった。家康と違いは数代に渡って仕えた家臣の結束がなかったことは、乱世においては悪条件であったが、それでも秀吉は天下を取ったのだから、その偉業はすごいとしか言いようがない。しかも豊臣秀吉は額(ひたい)に傷があるだけで、家臣らを前面で戦わせて自分は後方で指揮に専念していた。
 秀吉一番の危機ともいえる金ヶ崎の戦いの殿(しんがり)では、敗走する後方で追撃してくる敵の大軍を相手に戦い主君・信長を逃がすが傷は負っていない。このように自分のために戦ってくれるよう、持ち前の求心力で有能な家臣を登用し、より出世させるために家臣は大いに働いた。さらに宴会ではその場を盛り上げ、家臣に感謝の言葉を常に述べ、信頼関係を築くために気を使った。信頼できる譜代家臣はいなかったが、秀吉の人柄に惚れた竹中半兵衛や黒田官兵衛などの優秀な武将が働いてくれた。
 1590年の小田原攻めの際には、箱根湯本の温泉につかりながら、他の武将を動かしている。臣従した大名の妻を大阪城下に住ませ、事実上の「人質」にとり裏切りを防止しているが、実際にはうまく機能している。

 このようにして秀吉は天下を取ったが、心の底から信頼できる家臣は最後まで少なく、豊臣秀次など最も信頼できる身内ですら静粛している。
 しかし明智光秀の家臣は元々が武士ではなかったため、譜代の家臣を持っておらず、軍勢としては素人のようなものであった。明智光秀に頼りになる家臣がいたとしても、その明智光秀に仕える家臣は新参が多く、戦術的にも技術的にも戦闘能力は低く、明智光秀には武人としての才能がないと酷評されている。
  また強大な豊臣政権を作り上げた豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康が巧みに天下を狙ったが、それは秀吉は家臣・家康に裏切られたと言える。
 徳川家康が生まれた松平家も、家臣に裏切られているが、桶狭間の戦いで今川家が衰退するなど家康は運が良く、しかも家康は岡崎城主・松平宗家の第9代目であり、初代・松平親氏は室町時代に基礎を築いており、家臣との信頼関係がある武家であった。

 古参の家臣も約150年も前から譜代の家臣になっており、家臣と主君の間の信頼関係も強いものがあった。家臣は末端に至るまで戦闘に長けており、精強で忠誠心が強く、それが「三河武士」と呼ばれる由縁である。そのため浜松城から無理に出陣した三方ヶ原の戦い以外、徳川家康は「野戦」で負けたことがない。
 徳川家康は生まれた時から家臣に恵まれ、このことが豊臣秀吉と異なっている。もちろん家康に大将としての魅力と器量があったことから、家臣も必死になって戦ったのだろう。

 織田信長の死後に、家康は甲斐を得ると武田家臣をこぞって登用し井伊直政に預けている。これは甲斐・信濃の治安のためだけでなく、経験豊かな武士を敵に回し、または他家に仕官させるのではなく、自分に取り込みより強力な軍事力を得た方が得策だと考えたのである。ただし石川数正のように、徳川家康に見切りをつけた重臣がいたのも事実であり、徳川家康と言えども完全に家臣を掌握できていたわけではない。

 このように戦国大名は家臣の裏切りは一番心配な要素であったが、織田信長・豊臣秀吉と比較すると徳川家康は恵まれていた。
 次に財力であるが、どんなに信頼できる家臣や兵力がいても、軍資金がなければ鉄砲を購入したり軍勢を動かす事は出来ない。小田原攻めの後、徳川家康は先祖伝来の三河を失い関東に移封されたが、256万石の大きな資金源を得ている。さらに諸大名が消耗した朝鮮出兵も九州・名護屋城に詰めだけで兵力を温存している。
 豊臣秀吉が莫大な富を得たのは「太閤検地」である。太閤検地までは農民は己申告で年貢を納めていが、「太閤検地」では山奥の田畑にまで実際に出向いて、農地を計測して税収を得らるようになった。つまり農民に正しい納税を行わせることで税収増となった。
 検地は豊臣秀吉が最初と思われがちであるが、実は織田信長も大規模な検地を行っており、豊臣秀吉はそれを真似したのに過ぎなかった。その意味では織田信長は革新的な考えであったが、豊臣秀吉はそばでそれを見知っていたのである。

 楽市楽座は1549年に近江の六角定頼が観音寺城で行ったのが始めで、これを織田信長が真似たのである。要するに織田信長も豊臣秀吉も「良い政策」を真似たのである。

 いずれにせよ実力をつけた徳川家康には豊臣家に次ぐ財力を持つことになった。小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れた秀吉は、自分の妹や実母を人質に出してまで徳川家を操ろうとしたが、これはやむを得ないことであった。
 さらに徳川家康には知力があった。徳川家康は幼い頃は今川義元のもとで人質生活をして太原雪斎から学んだが、織田信長の命にて嫡男・松平信康を失うなど、自分よりも強い権力を持つ者には逆わない人生を送ってきた。誰にも命令されずに自分で決めたいと思っても、すぐには行動に出ずチャンスを伺っていた。

 織田信長や豊臣秀吉の時代を耐え忍び、信長や秀吉の成功例や失敗例を見て学び、裏切りを抑える知恵を出したのである。今川家の衰退、織田信長の横死、豊臣秀吉の政策など過去の良い例・悪い例を参考にしたのである。関ヶ原の戦いに勝利して天下を取るまは長くて遠い道だった。

 織田信長・豊臣秀吉と比較して、家康の天下取りに向けての忍耐強さは抜きん出ており、関ケ原後も家康は秀頼を主君とする五大老の筆頭であって地位はそのままで、順調に徳川政権への道が開かれたわけではない。

 ところが、1603年、家康が62歳のとき征夷大将軍に任じられ天下を取ったのである。これに対し秀頼はそのまま大坂城にいた。これによって幕府を開いた江戸の徳川政権と大坂の豊臣政権という二つの政権が併存することになった。

 大坂方には家康が征夷大将軍になっても、秀頼が成人すれば政権を戻すという楽観論があった。しかし2年後、その大坂方の楽観論は無残に打ち砕かれた。家康が突然、将軍職を子の秀忠に譲り、将軍職は徳川家が世襲することを内外に宣言したのである。
 ちょうど同じ頃、家康は天皇の権威を使って豊臣家の権威を乗り越えた。1606年、家康は宮中に参内し「武家の官位は今後、家康の推挙なしには与えないように」と朝廷に申し入れている。すなわち各大名と朝廷との官位の直接取引を禁止したのある。戦国期のように大名が金を積んで官位を買い取ることを禁止したことは官位授与権の独占であり、大坂の秀頼に官位を与えることを防ぐためであった。このことによって秀頼と家康の立場は完全に逆転した。
 この後、老獪な家康は豊臣家に対し様々な謀略を仕掛け、豊臣政権に不満を持つ豊臣家の大名を巧みに自派に取り込み、豊臣家に対しては神社の再興などにその資金を消費させ「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」を経て、遂に豊臣家を滅亡に追い込んだ。秀吉は全国を統一してから豊臣家滅亡までわずか25年の短命だった。徳川家は15人の将軍によって江戸時代は265年続いたのである。

 

将軍の世襲
 徳川家康は隠居して、将軍を徳川秀忠に譲って世襲させたが、これに不満を持つ豊臣家が戦を仕掛けてくるか、そのまま弱体していくかだったが年月だけが経っていった。そうこうするうちに徳川家康は70歳を過ぎ、余生があるうちに最大の懸念である豊臣秀頼の静粛を行う事を決めた。
 この点も死ぬ前にやらなければ豊臣秀吉と同じ失敗になるとしたのである。この時、真田幸村や後藤又兵衛ら、徳川家に歯向かう恐れがあった武将も同時に一掃できた。さらに徳川政権下で所領を安堵されている諸大名、例えば伊達政宗や薩摩藩など誰一人として、徳川家を裏切らず徳川の天下は固まった。

 江戸幕府は古くから臣従していない大名は「外様」として江戸から遠くに所領を与え、信頼できる者を本拠地・江戸の近くに配置し、特に江戸城から近い関東には譜代の徳川家臣を置いた。また諸大名の軍事力を削らせるため江戸城の普請などを命じているが、これは豊臣秀吉が伏見城などの普請を諸大名に行わせたことを真似たのである。
 また大名の妻子を江戸に住まわせたが、これも豊臣秀吉が大阪城下に大名の妻を住まわせていたのと似ている。なお江戸には大名の妻子だけでなく、その重臣からも子供などを人質として江戸に住ませた。つまり諸大名だけでなく、その重臣らに対しても徳川家を裏切って主君をそそのかしたりしないように対策を講じていた

 戦国時代には討死・殺害など若くして亡くなった武将が多かった。豊臣秀吉、享年62。徳川家康、享年75である。徳川家康は自分で薬を作るなどして健康維持を欠かさなかった。人間は死んでしまったらおしまいであることをよく理解していた。
 徳川家康の健康対策が功を奏したかどうかは不明であるが、事実として豊臣秀吉より13年も長生きしている。そのため大阪の陣をなしえ、また1603年に征夷大将軍に就任したが、徳川秀忠だけの能力で、徳川政権が維持できたかどうか分からない。このように「長く生きた者が勝ち」なのである。

 死ぬ覚悟で事に当たっても、死んでしまえばおしまいである。夢をかなえるには「死んではいけない、生きること」である。さらに最後まで諦めないことが最大の戦略となる。
  「人財智生」を備えた徳川家康が多くの家臣や敵将の命と引き換えに天下を取り、盤石で安定した江戸時代を築くことができた。

 

徳川家康の名言
人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず。
勝つことばかりを知り、負くること知らざれば、害その身に至る。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
世におそろしいのは、勇者ではなく臆病者である。
戦いでは辛抱の強い者が勝つ。
いくら考えても、どうにもならぬときは、四つ辻へ立って、杖の倒れたほうへ歩む。
得意絶頂のときこそ隙ができることを知れ。
決断は実のところそんなに難しいことではない。難しいのはその前の熟慮である。
人は負けることを知りて、人より勝れり。
人生に大切なことを五文字で言えば「上を見るな」。七文字で言えば「身のほどを知れ」である。
己を責めて、人を責むるな。
いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある。
天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず。
家臣を扱うには禄で縛りつけてはならず、機嫌を取ってもならず、遠ざけてはならず、恐れさせてはならず、油断させてはならないものよ。
家臣を率いる要点は惚れられることよ。これを別の言葉で心服とも言うが、大将は家臣から心服されねばならない。
人を知らんと欲せば、我が心の正直を基として、人の心底を能く察すべし。言と形とに迷ふべからず。
最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える。
われ志を得ざるとき忍耐この二字を守れり。
われ志を得んとするとき大胆不敵この四字を守れり。われ志を得てのち油断大敵この四字を守れり。
愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。でなければ聴くに値することを言う者までもが発言をしなくなる。
大事を成し遂げようとするには本筋以外のことはすべて荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ。
道理において勝たせたいと思う方に勝たすがよし。
願いが正しければ、時至れば必ず成就する。
滅びる原因は、自らの内にある。
不自由を常と思えば、不足なし。
心に望み起こらば、困窮したるときを思い出すべし。
人間は健康でありすぎたり、得意すぎたりする時にも警戒を要するのだが、疲れたおりの消極性もまた厳に戒めなければならない。
多くを与えねば働かぬ家臣は役に立たぬ。また人間は豊かになりすぎると、結束が弱まり、我説を押し通す者が増えてくる。
大将というものは、家臣から敬われているようで、たえず落ち度を探されており、恐れられているようで侮られ、親しまれているようで疎んじられ、好かれているようで憎まれている。
真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず。
怒ったときには、百雷の落ちるように怒れ。