桃山文化

桃山文化
 鎌倉文化、室町文化(北山文化・東山文化)に続くのが「安土・桃山文化」となる。また安土・桃山文化を単に「桃山文化」と呼ぶこともある。織田信長や豊臣秀吉によって国内が統一され、政治の実権を握ったのが安土・桃山時代であるが、約100年におよぶ戦乱の世が終わりに近くなり、文化面においてもさまざまな芸術家が活躍する土壌ができ大きな発展を遂げた。戦国の世を勝ち抜いた大名、戦争や貿易によって巨万の富を得た豪商たちが華やかな文化の担い手になった。

 安土・桃山文化の名称は信長の本拠となった安土や、秀吉が最後を迎えた伏見城(京都市伏見区)の跡地に桃の木が植えられことより桃山と称された。

  安土・桃山時代はわずかな期間であるが、その文化の特色は新鮮味あふれる雄大で豪華なもので、日本の文化は大きな変貌を遂げることになる。

 まずその特徴として信長や秀吉よって寺院が衰退したため、かつての室町幕府に保護を受けた仏教色が薄まったことから世俗的で現実的な作品が多く生み出されたことである。溌剌とした絵画や彫刻が制作され、より人間味溢れる文化が花開いた。さらにポルトガル人の来航に伴って南蛮文化が渡来し、その影響からそれまでにない多彩な文化となった。

 雄大な天守閣を持つ姫路城や大阪城、その内部に飾られた狩野永徳や狩野山楽による屏風絵などが代表的な作品で、庶民のあいだでは後の歌舞伎につながる「かぶき踊り」や三味線などが広まった。

 

城郭建築
 桃山文化の特徴として壮大で美しい城郭建築が挙げられる。鉄砲の伝来によって、それまでの山城の利点がなくなり、むしろ城に篭って狙い撃ちができる平城の利点が勝るようになった。平地に城を造れば攻められやすいが、城の周囲に堀や土塁をめぐらせれば防衛力が高まった。

 室町時代の城は、山頂や丘の上に造った砦であり、戦闘用に特化した構造であった。しかし平城はそれまでの戦闘用から大名の権力を誇示し、城の本丸には重層の天守閣が設けられ、交通の便を重視した壮大な城へと変わっていった。

 城は山城、平山城、平城山へと変わってゆくが、平城であれば防御だけではなく邸宅や政庁を兼ねることができた。代表的な城としては安土城や大坂城・伏見城・姫路城などがある。そのなかでも姫路城はその美しさから白鷺城と呼ばれ、世界遺産として登録されている。また秀吉が築城した大坂城や伏見城は、いずれも権威ある天守閣と石垣で防御を固めた巨大建造物としての威厳を高め、豪勢な襖絵などの装飾にもこだわった。防御よりも天下人としての威信を内外に知らしめたのである。

 現存して国宝にしてされているのは愛知県の「犬山城」、長野県の「松本城」、滋賀県「彦根城」、兵庫県の「姫路城」である。

 

大坂城

 大阪城は「太閤さんのお城」と呼ばれている。石山合戦で焼失した石山本願寺の跡地に織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣し、その後秀吉によって領有されて大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となった。大坂夏の陣で焼失したが徳川家が再建し、江戸幕府は西日本支配の拠点となった。

姫路城

 シラサギが羽を広げたような優美な姿から「白鷺城」の愛称で親しまれている。白漆喰の鮮やかな白の城壁や5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守からなる。姫路城は応仁の乱後に黒田氏の城主となり秀吉に献上し、秀吉が3層の天守閣を築いた。関が原の戦の後に池田輝政、本多忠政、松平忠明、酒井忠邦が城主になった。

熊本城

 加藤清正が改築した平山城で、江戸時代には細川家の居城となる。熊本城は別名「銀杏城」とよばれている。明治の西南戦争の直前に焼失し、現在の天守は鉄筋コンクリート造で復元されたものである。それでも江戸時代からの建物も残っていたが、2016年の熊本地震で石垣・櫓・天守閣が被害を受け復旧中である。(図上大坂城、図上姫路城、図下熊本城)

絵画
障壁画(障屏画)
 城郭や寺院内部には建築や絵画・彫刻など、桃山文化を結集した象徴的な作品が散りばめられている。城の内部は書院造で居館が設けられ、広間の壁、襖、屏風、天井には豪華な障壁画が描かれた。金箔をはりつめた画面に青や赤、あるいは緑などの原色で彩色したものを濃絵(だみえ)といい、障壁画には屏風絵を含めることがある。

 濃絵による豪華な障壁画は墨絵に対する言葉で彩色絵画を指している。濃絵のなかで全面に金箔が押され青色系のものは「金碧画」とよび室町時代からある。

 障壁画としては濃絵(金碧画)と水墨画の2種類あるが、金碧障壁画は表座敷や客間など公的な場所に飾られ、私的な空間には水墨画が愛され飾られた。
 天下統一の活気にあふれる時代には黄金が好まれ、濃密な色彩とともに力強い絵画が求められた。城郭は新しい権威の象徴であったが、その権威を示すため黄金の輝きが効果的であった。また金色への志向は灯火の得られない座敷において照明効果をもたらし、花鳥風月など日本的な画題や唐獅子・竜虎など漢画(宋元画)風が好まれ、金雲や金地が大画面のなかの風景を仕切り、画題を実物大に描くことで真にせまる迫力を得た。
狩野永徳
 金碧障壁画の中心となったのは狩野派であった。狩野派は日本古来の大和絵の色彩主義で室町時代にさかんにしてたが、狩野元信の孫の狩野永徳はそれを受け継ぎ、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図を特色とする装飾画を大成した。

 1543年に生まれた狩野永徳の祖父・元信は「狩野派」の様式を確立させた名絵師で、父の松栄はその様式を受け継いだ絵師である。まさに狩野永徳は狩野派の跡取りであるが、狩野永徳は確かな才能・腕前を持っていた。名家の跡取りといえば、小さくまとまり画風の殻を破れない印象があるが、永徳には当てはまらない。依頼人は京都の貴族や戦国大名など大物ばかりで、永徳は若い頃から作品を描いている。

 狩野永徳は権力者に依頼されて、安土城や大坂城などの障壁画を多くを描いたが、施設そのものが破壊されたため現存する作品は少ない。しかし残った作品は日本絵画史に燦然と輝くものばかりである。中でも「唐獅子図屏風」が有名で、二匹の唐獅子が描かれた絢爛豪華で大迫力の巨大な屏風絵である。「洛中洛外図」ではその細密さと巨大さから圧倒され、信長から上杉謙信への贈り物として国宝に指定されている。狩野永徳は信長と秀吉に仕えたが、その絵は主殿や広間などにおいて、天下人とその家臣たちが居ながらにして絵画のなかで自然と一体化し、互いに共通の時間を生きる演出をになった。その意味で狩野永徳が描く障壁画はすぐれて政治的な要素も持ち合わせていたが47歳で亡くなる。働きすぎが身体を蝕んだとされている。
 秀吉の小姓から永徳の門人になった狩野山楽は永徳の養子となり、その画風を継承した。狩野山楽の作品としては、装飾性の高い金碧障壁画である「牡丹図」や水墨画の「松鷹図」がとくに有名で大覚寺が所蔵している。

 狩野永徳の後継者のうち、江戸幕府に仕えた狩野派が江戸狩野と称され、京に残った山楽の系統は京狩野と呼ばれた。また門人の狩野山楽は松鷹図(しょうようず)や牡丹図などを描いている。

 上)狩野永徳「唐獅子図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館)。下)狩野永徳の「檜図屏風」(東京国立博物館)

長谷川等伯(とうはく)
 長谷川等伯は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師で、狩野永徳と同じ頃にに優れた作品を描いている。1539年に能登国(石川県)で生まれ、父は武士で戦国大名・畠山氏に仕えていたが、長谷川等伯は商人の養子になる。

 その養父に絵の心得があり等伯も絵の道に入る。10代、20代のころにはすでに質の高い作品をいくつも残しています。30代に入ると養父が亡くなり、等伯は京都へ行く。京都は文化の中心地で等伯を大きく成長させた。豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り画業に専念した。千利休とも関わることができ、その縁で絵の仕事を貰うようになり、等伯の画名は上昇した。
 当時の絵画は狩野派が占めていたが、等伯も「長谷川派」を率い、狩野派の牛耳る画壇に切り込むでゆく。狩野派をさしおき寺社の障壁画を受注するなど、長谷川派は勢いを増大させていった。作品は大画面の水墨画が多いが、金碧濃彩の屏風絵もある。

 織田信長や豊臣秀吉らよりやや年下で、利休が死に、時の天下人であった豊臣秀吉が死に、徳川家康の世になっても等伯の画名は衰えず、さまざまな依頼を受け多くの作品を残した。その最後は家康に招かれて江戸に向かったが病を発し、江戸到着後すぐにこの世を去った。

 長谷川等伯の名を知らない人でも、その作品は目にしているはずである。等伯は肖像画の名手で、「武田信玄像」はかれの手によるものである。ただしさまざまな資料から「武田信玄像」は信玄ではなく別人を描いたとされている。また「利休居士(千利休)像」も等伯の作品である。このような等伯の作品の中で、記念碑的な位置を占める作品が水墨画「松林図」である。日本の水墨画を完成させたとされ国宝に指定されている。

 上)花卉図(京都・妙心寺)、下)楼閣山水図(MOA美術館)重要文化財

 彫刻はそれまでの仏像彫刻が衰え、欄間(らんま)彫刻が盛んになる。欄間とは障子や襖と天井までの空間のことで、奈良時代から寺社仏閣に取り入れられていたが、この時代以降は一般の住宅にも取り入れられた。

 調度品としては豪華な意匠(デザイン)の蒔絵(まきえ)が盛んになる。蒔絵とは漆器に施した美しい装飾で、絵漆で模様を描いて金粉を蒔き付ける技法のことである。綺麗に輝く豪華なもので、江戸時代にはさらに盛んになった。

 なお奈良の東大寺大仏殿は戦火により焼失したが、秀吉は京都に方広寺大仏殿を建設した。方広寺は大仏造立を発願した秀吉が創建した寺で、これまで地震や火災によって何度も焼亡して現在は当時の状態をとどめていない。あの方広寺鐘銘事件で有名な梵鐘は現存しており重要文化財に指定されている。方広寺鐘銘事件とは鐘の文言にある「国家安康」が家康の名を分断し「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の繁栄を楽しむ。つまりは「徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うもの」と豊臣氏討伐を目論む家康が言いがかりをつけた事件である。

 桃山文化は武士だけでなく、この時代に力をつけた京都や大坂、堺、博多などの富裕な町衆も文化の担い手となった。

 調度品としては豪華な意匠(デザイン)の蒔絵(まきえ)が盛んになる。蒔絵とは漆器に施した美しい装飾で、絵漆で模様を描いて金粉を蒔き付ける技法のことである。綺麗に輝く豪華なもので、江戸時代にはさらに盛んになった。

 なお奈良の東大寺大仏殿は戦火により焼失したが、秀吉は京都に方広寺大仏殿を建設した。方広寺は大仏造立を発願した秀吉が創建した寺で、これまで地震や火災によって何度も焼亡して現在は当時の状態をとどめていない。あの方広寺鐘銘事件で有名な梵鐘は現存しており重要文化財に指定されている。方広寺鐘銘事件とは鐘の文言にある「国家安康」が家康の名を分断し「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の繁栄を楽しむ。つまりは「徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うもの」と豊臣氏討伐を目論む家康が言いがかりをつけた事件である。

 桃山文化は武士だけでなく、この時代に力をつけた京都や大坂、堺、博多などの富裕な町衆も文化の担い手となった。

 

茶道

千利休
 茶の湯を武士や大名に広めたのは織田信長である。諸大名もさかんに茶会をもよし、茶をたしなむことは武人にとって一種の威信になり、信長は茶の湯開催を功績ある家臣に対する許可制とした。

 堺の千利休は秀吉や諸大名の庇護を受け茶道を確立た。華やかな桃山文化のなかで、千利休は豪華さを求めず、茶道は静かな空間と簡素を重要視した。狭い茶室で簡素な茶器を用いて茶を楽しみ、これがのちに侘茶(わびちゃ)と呼ばれるようになった。利休の茶の湯は、湯をわかし茶をのむのではなく、禅の影響を受けた簡素な美を追求するものであった。利休に師事した武将には蒲生氏郷、芝山宗綱、細川忠興、高山右近などがいて「利休七哲」と称されている。

 いっぽうで派手好きな豊臣秀吉は、大坂城内に黄金の茶室を造り、また諸大名の中にも豪華な茶器を追い求める者が登場するなど、華やかな桃山時代らしい派手な茶の湯も存在した。茶道は秀吉や他の有力大名の保護を受けて流行し、茶室の建築や茶器の発達をうながした。なお1587年、秀吉は京都の北野神社で身分の上下を問わずに民衆を自由に参加させた大規模な茶会(北野大茶湯)を行い、参加した民衆は1,500以上におよんだ。(左:長谷川等伯による利休居士像(不審庵蔵)。

 秀吉の利休の信任ぶりは、大友宗麟によれば「内々の儀は利休、公儀のことは豊臣秀長に存じ候」と評され、千利休が秀吉の相談役として政治に関与していたことがわかる。秀吉は千利休に切腹を命じるが、秀吉は理由を述べず、利休も弁明しなかったことから切腹の理由は分かっていない。

 利休が大徳寺三門に利休の木像を二階に設置し、その下を秀吉に通らせたとする説、秀吉が利休の娘を妾に望んだが、利休が拒否した説が有力であるが、その他にも様々な説がある。安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした説。天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石などに使った説。秀吉の朝鮮出兵を批判した説、武将の戦功が利休に左右されることへの粛清説、秀吉と茶道に対する考え方で対立したという説などである。

 いずれにしても、秀吉は元々わび茶が嫌いで、権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決があったのであろう。利休の求道的態度や教養・能力の高さが災いしたのである。

 利休の茶の湯は名物を尊ぶ価値観を否定したことで、ある意味では禁欲主義ともいえる。そのために発案されたのが楽茶碗や万代屋釜などの利休道具で装飾性を否定している。唐物の名物に較べ、利休道具は高価なものではなかった。さらに茶室でも質素な草庵茶室を創出している。茶室を3畳にして、躙り口や下地窓、土壁、五尺床などを用い、茶室を土壁で囲い必要に応じて小窓を設けた。小窓は茶室の光を自在に操り、必要に応じて照らしたり暗くした。小間の無限ともいえる空間であった。

 千利休の家系はその後も茶道として存続し、表千家、裏千家、武者小路千家という家柄が未だに影響力を持っている。

陶磁器

 朝鮮人陶工の技術で有田焼などがつくられた。

庶民の生活出雲お国

 

 出雲お国の出自は諸説あり、詳しくは分からない。出雲の生まれで、父は出雲大社に召し抱えられていた鍛冶職人とされ、お国は大社の巫女だったといわれている。

 歌舞伎の歴史をみると、1603年に出雲お国が京都の五条で舞台掛けしたのが始まりとされる。お国は三百数十年前に亡くなったが歌舞伎の始祖といえる。
 安土・桃山時代から徳川の時代へ移るとき、出雲大社が勧進のため、お国たちを京へ上らせた。勧進とは寄付募集のことで、お国たちは神楽舞を舞り人々の喜捨を仰いだ。このとき田舎からやってきたお国は、信長、秀吉らが天下を握った時代の、自由奔放で生き生きとした息吹きを感じ、神楽舞や能、幸若舞などが早晩、時代遅れになると判断。一足でも早く新しいものを始めたものが勝つと見極めをつけ、勧進興行の一座を抜けた。
  出雲大社はカンカンになったが、お国は冷静に新しい企画に取り掛かった。お国まず女優だけの一座を結成した。「宝塚歌劇」を目にしているいまの私たちには何の新しさを感じにくいが、当時としては画期的なことだった。何しろそれまでは演劇も舞いも男ばかりであった。女役も男がするものと決まっていたのを、お国は逆手を取り、囃し方や道化は男が務めるが、二枚目の男はお国をはじめ男装の女性が演じた。たちまち好奇の目が集まり、お国一座は大人気を獲得したのだ。300年前のことである。
  お国歌舞伎はいつも主役の男役を演じ、主役と演出家を兼ねていた。れまで誰もやったことのない新しい演劇や舞踊を企画し、製作から興行・広告まで、お国一人でやってのけたのである。

 舞台も桃山風の小袖をまとって、はだけた胸からはキリシタンの金の十字架をのぞかせていた、時代の先端をゆく大胆で斬新奇抜なもので、踊りや芝居もエロチックなものだった。人気が高まるとひいき筋の客種が付くのは今も昔も同様で、お国は方々から引っ張りだこになった。諸大名や将軍家、果ては宮中にも招かれた。
  お国がここまで人気を獲得したのは、お国の芸能人としての根性であった。何事もお客様第一で、飽きられないように次から次へと新手を考え出した。お国の強力なブレーンとして、当時の一代の風流男、名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)いた。山三郎はイケメンで、少年時代には蒲生氏郷の小姓で男色の相手として有名で槍の名人でもあった。

 蒲生氏郷の死後、多額の遺産をもらって京で気ままな暮らしを始めた。山三郎はお国の一座のために巨額の金を出し後援したが、それだけで人気を博した。

 またお国は生半可なことではへこたれないしたたかさもみせた。頼みとする山三郎が旅先で、ある事件のために殺されてしまったのだ。山三郎の妹は武士・森美作守忠政に嫁いでいたが、山三郎がその領地で森家の家臣と口論したのが災いのもとだった。

 山三郎の訃報がもたらされたとき、都中の人がお国一座はもうダメだろうと思った。ところがお国はその直後、敢然と興行の幕を開けた。しかも驚くことに山三郎の死を題材にした狂言を上演したのだった。山三郎はお国の愛人との噂もあった。普通なら恋人の死に泣き崩れるところを、二人の経緯を自作自演したのだから、都中の話題をさらった。まさに芸能人のど根性である。大スターであり、歌舞伎役者・お国の真骨頂ともいえよう。  庶民の娯楽としては「能」に加えて、17世紀初めに出雲阿国(いずもおくに)が京都の四条河原にて伊達男の扮装で「かぶき踊り」を披露し喝采をあびた。出雲阿国は出雲大社の巫女で「かぶき踊り」が阿国歌舞伎としてもてはやされた。女歌舞伎であったが、江戸幕府3代将軍の徳川家光が女歌舞伎を禁止し、続いて少年による若衆歌舞伎が盛んになるがこれも禁止され、結局、男性が男形も女形も演じる野郎歌舞伎が主流になり、現在でも日本の伝統芸術として人気を誇っている。

 また琉球から伝えられた三味線が普及し、三味線を伴奏に人形を操って演じる人形浄瑠璃が始まった。他にも堺の商人の高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が小歌に節をつけた隆達節が民衆の人気を集め盆踊りも各地で行われた。

 庶民の生活にも変化が生じ、農村では昔ながらの萱葺(かやぶき)屋根の平屋が普通であったが、京都や大坂などの都市では二階建ての家や、瓦葺(かわらぶき)の家が見られるようになった。
 衣服は小袖が一般に用いられ、男子は袴を着ることが多く、肩衣(かたぎぬ)に裃(かみしも)を用いた簡単な礼服を用い、女子は小袖の着流しが普通 になり、男女ともに結髪するようになった。食生活が朝夕の二食から三食になったのもこの頃のことである。

南蛮貿易

 南蛮貿易によって、宣教師はキリスト教の布教の他に天文学や航海学・医学や地理学などの実用的な学問を伝え、油絵や銅版画の技法をもたらした。これらの技術によって西洋画の影響を受けた日本人の手による南蛮屏風が描かれるようになった。さらに金属製の活字による活版印刷術が伝えられ印刷機も輸入されキリシタン版や天草版と呼ばれたローマ字による日本語辞書や日本古典の出版などが行われた。その他、鉄砲、銅版画、地球儀、時計、眼鏡、西洋楽器(オルガン、クラヴォ、ヴィオラ)などがもたらされた。

 オルガンティノは京都に南蛮寺を建て、安土には神学校を建ている。宣教師たちは神学・哲学・ラテン語・音楽・絵画、さらには暦学、数学、地理学、航海術、医学(南蛮流外科)など実用的な知識を日本に伝えた。また教会の典礼音楽としてグレゴリオ聖歌が歌われた。

 南蛮人の渡来は新しい科学的な道具や物品をもたらしただけではなく、インド・中国・日本という世界観を打ち破り日本人の視野を広めた。

 南蛮文化そのものは江戸幕府の鎖国政策により短命に終わるが、タバコ・カステラ・パン・カルタ・コンペイトウ・カッパ・シャボンなど外来語として今でも残っている。