外交

国際関係の変化

   89年、長らく中断していた遣唐使の派遣計画が、突然、持ち上がった。唐の商人がもたらした手紙の中に、長らく日本から唐朝への朝貢がない。ついては一度遣唐使を出して欲しい」との派遣要請があったからである。その要請は江南に勢力をもつ朱褒(しゅほう)のもので、唐帝の徳治を慕った朝貢使の来航を皇帝へ点数稼ぎにして、自らの権力基盤を強固にしようとしたものだった。唐帝からの寵愛を受けている朱褒の要請であり、日本としては無下に断ることができなかった。このように遣唐使派遣計画は日本側の受け身の形で始まった。しかし遣唐大使に任じられていた菅原道真の派遣中止要請は唐の国情にあった。

派遣の中止


 菅原道真が遣唐使派遣の中止を建議したのは、唐は安禄山・史思明の乱(安史の乱)以降衰退を続け、危険をおかして遣唐使を送る価値がないと判断したからで、この道真の意見から遣唐使の派遣は中止となった。黄巣(こうそう)の乱などで衰弱した唐は907年に滅び遣唐使が派遣されることは二度となかった。

宋との交流

 
唐が滅亡すると華北には後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝が興亡し、他の地方には10の国々が興亡し、これら総称して五代十国という。この五代十国時代の混乱を収拾して中国の再統一したのは、趙匡胤(ちょうきょういん)が建国した宋(北宋)である。
日本と宋との間には正式な国交はなかったが、日宋の交流は活発におこなわれた。 宋の商人は九州の博多に書籍・陶磁器(青磁・白磁)・薬品などをたずさえ、かわりに金・水銀・真珠などを持ち帰った。
朝廷の許可を得て宋にわたる僧たちがいた。なかでも東大寺学僧の奝然(ちょうねん)が持ち帰った釈迦如来像は、京都嵯峨の清涼寺に安置されて人びとの篤い信仰を獲得した。その他、聖地を巡礼し「参天台五台山記」を著した天台僧の成尋(じょうじん)や寂照(じゃくしょう)は有名であるが、無事帰国したのは奝然だけであった。

遼と高麗
 

 中国東北部では耶律阿保機(やりつあぼき)が率いる契丹(キタイ)族がを建国し、奈良時代からわが国と親交のあった渤海を滅ぼした。
朝鮮半島では新羅の内乱状態が続いたが、935年に王建が建国した高麗が新羅を滅ぼし半島を統一した。
日本はこれらの諸国とも正式に国交を結ぶことはなかったが、1019年に刀伊(とい)と呼ばれた沿海州地方の女真族が北九州を襲い(刀伊の来襲)、大宰権帥の藤原隆家や地元武士たちの奮戦によってその来襲を撃退したが、多くの日本人が刀伊によって連れ去られた。しかしこれら捕虜を高麗が刀伊から奪い返し日本に送還してくれた。正式な国交はなかったが、高麗とわが国の友好的関係が続いた。