外交

国際関係の変化

   長らく中断していた遣唐使の派遣計画が、突然、持ち上がった。唐の商人から「長らく日本から唐朝への朝貢がない。ついては一度遣唐使を出して欲しい」との派遣要請があったからである。その要請は江南に勢力をもつ朱褒(しゅほう)によるものであった。唐帝の徳治を慕い「朝貢使の来航を持ち出し、皇帝への点数稼ぎとして自らの権力基盤を強固にしようとしたもの」だった。唐帝からの寵愛を受けている朱褒の要請であり、日本としては無下に断ることができなかった。このように遣唐使派遣計画は日本の受け身の形で始まった。しかし遣唐大使に任じられていた菅原道真は遣唐使の廃止を考えていた。

 菅原道真が遣唐使派遣の中止を建議したのは、唐は安禄山・史思明の乱(安史の乱)以降衰退を続け、危険をおかしてまで遣唐使を送る価値がないとしたからである。この菅原道真の意見から遣唐使の派遣は中止となり、日本は朝廷の許可なく異国に渡ることを禁じ、商船の来航制限も行われた。昌泰の変によって道真が大宰府に左遷され、遣唐大使の職を失ったが、菅原道真の予想通り黄巣(こうそう)の乱で衰弱した唐は907年に滅び、遣唐使が派遣されることは二度となかった。

 

宋との交流

 
唐が滅亡すると華北には後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝が興亡し、他の地方には10の国々が興亡し、これら総称して五代十国という。この五代十国時代の混乱を収拾して中国を再統一したのは、趙匡胤(ちょうきょういん)が建国した宋(北宋)であった。

 遣唐使は停止されていたが、貴族や寺院を中心とした「唐物の流行」は縮小せず、中国への憧れや需要は変わらなかった。日本と宋との間には正式な国交はなかったが、10世紀後半に入ると朝廷が様々な口実を設けて宋や高麗の商船の入港を認める特例を出した。また法の規制をかいくぐって宋や高麗に密航する日本船も登場し、日宋の交流は活発におこなわれた。

 宋の商人は九州の博多に書籍・陶磁器(青磁・白磁)・薬品などをたずさえ、かわりに金・水銀・真珠などを持ち帰った。
また朝廷の許可を得て宋にわたる僧たちがいた。なかでも東大寺学僧の奝然(ちょうねん)が持ち帰った釈迦如来像は、京都嵯峨の清涼寺に安置されて人びとの篤い信仰を獲得した。その他、聖地を巡礼し「参天台五台山記」を著した天台僧の成尋(じょうじん)や寂照(じゃくしょう)が有名であるが、無事帰国したのは奝然だけである。

 日本では遣唐使が停止して以降、独自の文化である国風文化が発達することになった。しかし、貴族の生活や文化は依然として輸入された唐物によって支えられ、公文書は漢文で作成された。また王羲之の書や白居易の詩が国風文化の作品に大きな影響を与えた。このような風潮は中世の武士の時代になっても同様で、一例として大鎧に代表される武士の豪奢な鎧は中国から輸入した色糸が必須であった。

刀伊の入寇

 朝鮮半島の北側には渤海国が栄えていた。渤海国は交易で栄えた国で、新羅の8倍、高句麗の4倍の領土を持ち、海東の盛国といわれた。渤海は日本の東北地方に住む人たちと盛んに交易を行い、シルクロードの交易商人たちによって、支那の産物だけでなくアラビアやヨーロッパからもめずらしい品が渤海に入っていた。

 日本の東北地方は大量の金を産出し、当時の東北地方はまだ大和朝廷には服しておらず、豪族たちが割拠している情況だったので、日本の東北地方と蝦夷地との交易は渤海に大量の金もたらし、その金によって渤海は経済的に大発展を遂げていた。
 ところが渤海は経済重視のため軍事をおろそかにしたことから、遼によって滅ぼされてしまう。このため渤海を追われた大陸北部の女真族が船で朝鮮半島方面に逃げ、挟い地域に住むことになった。当時の朝鮮半島は高麗が統治していたが、女真族は高麗を襲撃するだけでは飽き足らず、日本までやってきたのである。日本海側の沿岸部を荒らし、高麗人を捕虜にして奴隷兵とし壱岐、対馬を襲撃し、さらには海を渡って日本にまで攻め込んできた。

 九州北部では以前から朝鮮半島の海賊に悩まされていたが、これまでの海賊は朝鮮半島からの襲撃であり盗賊的な存在だった。しかし今回の女真族は違っていた。女真族は日頃から生死を目の当たりにしているため、死に対して抵抗感がなく、略奪には残虐な行為が伴っていた。

 奈良時代から渤海と日本は仲がよかったが、渤海が遼に滅ぼされたので日本と遼には正式な国交はなかった。また935年に高麗が新羅を滅ぼし朝鮮半島を統一したが、日本は高麗と正式に国交を結ぶことはなかった。

 1019年、藤原道長が全盛を極め「この世をば吾が世とぞ思う望月の・・・」と読み、紫式部が源氏物語を書いた頃のことである。壱岐島に突然女真族の50隻ほどの船がやってきた。彼らは刀伊と呼ぼれ、刀伊は朝鮮半島を支配していた高麗の北方の女真族のことである。

 

殺戮される対馬・壱岐の人々

 船の大きさは15mくらいで、船には約60人ずつが分乗していた。壱岐に上陸した刀伊は100人単位で隊をつくり、戦闘隊の20−30人が斬り込み隊となり、後ろには弓や盾を持つ部隊が構えていた。刀伊が用いる矢は短いが、楯も射通すほどの貫通力があった。
 刀伊は対馬と壱岐に上陸すると同時に大きな被害をもたらした。民家を襲い穀物を略奪し民家は焼かれた。牛馬や犬まで斬り殺して食い、老人や子供は斬り殺され、女を犯されて生き残った者たちは船に拉致された。船上では病人は簀巻きにして海に投げ込んた。この「暴徒上陸」の知らせを受けた国司・壱岐守藤原理忠はただちに147人の手勢を率いて征伐に向かうが、3000人の大部隊を前に玉砕してしまう。

 藤原理忠を打ち破った刀伊たちは、壱岐島の真ん中にある国分寺(嶋分寺)に攻め込んだ。寺では僧侶と島民たちが応戦し、賊を三回撃退している。戦闘が膠着状態になったとき常覚和尚が島を脱出して大宰府に報告に向かった。残された僧侶たちは必死に戦ったが、ついには全滅し嶋分寺は全焼し女子は連れ去られた。壱岐島では刀伊は400人を殺し、島で生き残った者はわずか35人だった。

 刀伊は壱岐、対馬を襲い、さらに博多の辺りまで暴れまわった。この知らせを受けた大宰権帥の藤原隆家は、すぐに京都に事態を伝え、応戦のために九州の豪族や武士に非常招集をかけた。翌8日には刀伊は筑前・怡土郡(福岡県西部)に上陸してきた。刀伊は筑前の沿岸部を制圧し、老人や子供を皆殺し、おびえる男女を捕らえて船に乗せ米穀類を略奪した。

 しかし大宰権帥の藤原隆家は豪傑であった。刀伊に対してもひるむことなく積極的に撃退戦を繰り広げた。藤原隆家が太宰府の責任者だったことは、まさに不幸中の幸いだった。藤原隆家は少数の精鋭を率いて個別撃破を狙い、敵の不意をつく戦法で戦いに挑んだ。この作戦は有効で賊は崩れ、この日の夕方には刀伊は海に逃れて能古島に去った。
 翌9日の朝、刀伊は藤原隆家軍の本拠である大宰府警固所を襲撃してきた。しかし藤原隆家は寡兵ながらも勇敢に戦い賊を追い詰めた。賊は能古島に逃げて行った。
 10日、波風が強くなり船が足止めとなり賊たちは身動きができなかった。一方、藤原隆家のもとには、非常呼集に応じて近隣の豪族たちの兵が集まった。

 11日午前6時頃、賊が再び大宰府を攻撃してきたが、藤原隆家は刀伊を皆殺しにした。13日、刀伊は肥前国松浦郡の村里を攻めたが、知らせを受けて待ち構えていた前肥前介・源知が賊徒を殲滅した。こうして賊は恐れをなして朝鮮半島に帰国した。

 この撃退を指揮したのが太宰権帥だった藤原隆家である。藤原隆家が九州の豪族や武士を率いて出撃し、地元武士たちの奮戦によってその来襲を撃退したのである。

 

貴族たちの危機意識の欠落
 朝廷では「藤原隆家に勲功を与えるかどうか」の議論がなされた。最初は「勲功など必要ない」という意見が大多数で、その理由は「討伐の命令をしたのは4月18日なのだから、それ以前のことに勲与える必要はない」というトンデモない理屈だった。
 襲撃されてから報告しているので、その前から戦いが始まっているのは当然である。もしこの理屈がまかり通るなら、戦の初戦は絶対に勲功の対象にはならず、自ら率先して戦う者などいなくなってしまう。
 結局「そのような理屈では、戦う意欲を無くてしまう」という意見が出て、最終的には勲功を与えることが決定された。勲功は与えられたが、その勲功は外敵を撃退した人々に与えられるような豪華なものではなかった。大活躍した藤原隆家は全く何も勲功はもらえなかった。これは平安貴族たちが、九州で数千人が殺されたこの事件を軽視していたからである。

 貴族たちは、朝廷内では有職故実に則った儀式などを無事に遂行することによって出世していった。平安貴族たちは儀式に夢中であり、地方の出来事に関しては無関心であった。 

 この刀伊の入寇で多くの住民が刀伊によって連れ去られたが、高麗が刀伊から日本人を奪い返し、日本に送還してくれた。高麗とは正式な国交はなかったが、高麗とわが国の友好的関係が続いた。刀伊の入寇は、





日本では極めて珍しい海外からの侵略であったが朝廷は報償を出さなかった。そして年月は流れ、九州の武士団は250年後に蒙古と戦うことになる。   

清盛による日宋貿易
 894年の遣唐使廃止によって、日本は外国との外交関係を中断するが、これは国と国との公式的な外交に限られ、物流や経済は商人たちによって引き続き行われ、朝廷もこれを認め、朝廷自身もこの貿易によって欲しい物を手に入れていた。この日宋貿易に注目し、貿易を独占できたら大儲けできると考え出したのが平清盛の父・平忠盛(ただもり)だった。
 平忠盛は武士でありながら、商いにも非常に長け日宋貿易で成功する。鳥羽上皇が院政を行うと、鳥羽上皇の信任が厚い平忠盛は肥前国(長崎・佐賀)にある上皇の所領の管理者に抜擢された。平忠盛はこの時、実に巧みな方法で宋との貿易権限を独占した。当時は宋からの輸入品は太宰府が独占管理していて、平忠盛は太宰府に鳥羽上皇から「平忠盛平に日宋貿易の権限を委ねる」と偽装した院宣を示したのである。
 日本の最高決定権者は天皇だったのが、当時は院政の時代である。鳥羽上皇は天皇を後見する立場から太宰府に命令を出すことができた。この二重権力構造が平安時代末期の日本を混沌の世へと導いてゆくことになる。
 平忠盛は天皇命令ですら翻せる院政を巧みに利用し、日宋貿易での利益を貪ることに成功する。その後、上皇の院宣が偽物であることがばれ、大罪の可能性があったが、忠盛と親しかった鳥羽上皇はこれを不問とし、院宣偽装は問題にならなかった。ここまで全てが平忠盛の計画通りだった。
 平清盛はこんな父の背中を見て育った。日宋貿易の有益性を理解していた平清盛は、平家が朝廷内で強大な権勢を誇るようになると、平家主導で日宋貿易を推し進めるようになった。もちろん日宋貿易全てが平清盛ではないが、平家繁栄の背後にあったのが日宋貿易によって得た豊富な財力だった。平清盛は父・平忠盛から日宋貿易の重要性を学び大輪田泊に港を建設し、日宋貿易をより一層発展させることに成功した。その後、福原京への遷都を計画し、日宋貿易を中心とした壮大な国家計画を練り上げるが、源氏の反乱によりこの計画は失敗し、平清盛はそのまま他界する。しかし日宋貿易によってもたらされた大量の宋銭は、朝廷が諦めてしまった貨幣の普及を実現するきっかけとなった。宋銭の流通は物々交換が主流だった時代より商いをより効率的にしたからである。