建武の新政

 1333年、足利尊氏によって京都・六波羅探題が攻略され、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした。後醍醐天皇は帰京の途上の摂津国(兵庫)で幕府滅亡の知らせを聞いた。後醍醐天皇は公家や武士の助けを借りて150年ぶりに鎌倉幕府を滅ぼすことに成功したのである。

 後醍醐天皇は政治への幕府、摂政・関白などの関与をさせず、後醍醐天皇自ら指示の出せる政治、つまり天皇中心の政治を行うことに執念を燃やした。天皇をやめた上皇が院政を敷く政治、征夷大将軍が幕府を開く政治を否定して、天皇中心の政治を行おうとした。これを建武の新政という。

 

建武の新政

 後醍醐天皇は京に戻ると天皇中心の政治、天皇が直接指示する政治に意欲を燃やした。それまでの政治は天皇は飾り物であり、平安中期には藤原氏が摂関関白となり、上皇が院政をしき、平安後期には征夷大将軍が幕府を開いて実際の政治を行っていた。天皇親政・王道政治の理想に燃え盛る後醍醐天皇はそれらを止め、天皇中心の政治を目指したのである。

 後醍醐天皇は宋の朱子学の影響を強く受けていた。朱子学とは南宋の朱熹(しゅき)が創始した儒学の学派で、君主による政治の正義を主張するものだった。「延喜・天暦の治」とは平安時代中期に天皇親政を行った醍醐天皇・村上天皇の治世を神聖化した呼び方で、王朝政治の最盛期を表していた。

 まず幕府滅亡の翌年元号を「建武」と改めた。この「建武の新政」の建武とは中国の元号に由来し、漢王朝(前漢)が外戚の王莽(おうもう)に滅ぼされたあと、劉秀(光武帝)によって再興された(後漢)が用いた元号が「建武」であった。後醍醐天皇が建武の元号を用いたのは、武家政権を倒して天皇親政を復活させたことを、光武帝になぞらえたのである。後醍醐天皇の強い思いが推し量れる。

 後隠醐天皇は記録所・雑訴決断所・恩賞方という役所を新設した。記録所は一般の政治を扱う最高決定機関で、雑訴決断所は領地争いなどの裁判を行い、恩賞方は手柄を調べ褒美を与える部署とした。

 京都を守る武者所の長官には新田義貞が、征夷大将軍には護良親王がなった。地方組織としては鎌倉は後醍醐天皇の子・成良親王と尊氏の弟・足利直義を、東北には後醍醐天皇の子・義良親王と北畠親房の子・顕家をつかわして治めさせた。全国にまた国司と守護を設置したが、権限は国司のほうが守護より上であった。

 しかしこの新政府は天皇を中心とする朝廷勢力と、足利尊氏をリーダーとする武士勢力では考えが違っており、新政に寄せる期待が根本的に異なっていた。

 武士たちの多くが鎌倉政権を見限ったのは、末期の鎌倉政権が武士たちの権益保護や利害調整を満たさなかったからである。武士たちは鎌倉政権に代わる「自分たちに有利な政府」を期待したのだが、後醍醐天皇は北条氏の土地を取り上げ、天皇や皇子、貴族たちの領地として分け与え武士にはほとんど与えなかった。これでは武士たちが不満を持つのは当然であった。さらに後醍醐天皇に親しい人々が出世し、このえこひいきに政権内部でも対立が起きた。

 武士の中では足利高氏の一番の功績とし、天皇の名の「尊治」の「尊」の字を与え、尊氏と名乗らせたが、足利尊氏が望んだ征夷大将軍の位は与えなかった。後醍醐天皇が武士たちの権益を守り、武士たちの気持ちを満たす政策を展開していたならば問題はなかったが、後醍醐天皇は武士たちを見下していたのである。

 これでは武士たちが不満を持つのは当然であった。足利尊氏は優遇されてたが、尊氏は「次は私が武家の棟梁として幕府を開く」と内心意気込んでいた。

 

後醍醐天皇の政治の失敗
 後醍醐天皇の天皇中心の政治はわずか2年で崩れ去った。その原因は武士が力を持っているのに、世の中の大きな動きを読めず、天皇や貴族が栄えた王朝政治に戻そうとしたからである。武士は自分たちの武力の大きさに気づいていた。武力の前では天皇や貴族はいいなりになることを知っていた。
 鎌倉幕府(北条氏)を滅ぼしたのは武士たちだった。しかし手柄を立てたのは武士なのに、朝廷は戦いもしない皇子や貴族に領地を与えたため、武士たちの不満が高まったのも当然である。さらに政権中枢の建物が貧相では仕方がないとして、権威を示す大内裏(天皇の住まいと政治の場)の建設を始め、その費用を地方の国に割り当てた。そのため武士や農民の負担がふえ、人々の恨みは募るばかりとなった。鎌倉幕府の政治に不満を持っていた公家・武士・庶民(農民)の多くが後醍醐天皇に期待した。しかし天皇親政の急進的な改革によって日本国は大混乱に陥り諸国では反乱を招くことになる。

 最悪だったのは「公地公民」の建前に戻すため、武士の所領をいったん白紙にして国有化したことである。鎌倉時代の土地所有権を認めず、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)のみが土地の所有権を保証すると宣言したのだった。これは天皇の絶対的権威を天下に知らしめるためであったが、武士たちは所領地の権益を確保するために、京都の新政府から改めて所領を下賜してもらうことが必要だった。その結果、土地所有を巡っての係争が相次ぎ、その量は朝廷の裁判調停能力を大きく上回った。しかも慣れていない朝廷は「今日言っていたことを明日には変わってしまうう」朝令暮改で「いったいあの命令は何が正しいんだ」と大混乱状態となった。

 武士たちは御成敗式目の第8条で「現在の持ち主が20年間、その土地を事実上支配していたら、その土地の所有権は変更できない」という考えで安心して土地を所有していたが、土地所有権の問題は大問題となった。そもそも確認作業だけで膨大な事務量で調停能力を回っていた。

 このため日本を支える最も重要な武士団は、後醍醐の新政によって鎌倉政権よりも大きな不利益と混乱を被ることになる。このように政治が思うように進まず人々の恨みは募るばかりだった。そのため朝廷は、1333年7月23日に前言を翻して、諸国平均知行安堵法を出した。

 これは後醍醐天皇が武士の所有地を裁決することを止め、各地の国司に委任して所領紛争の訴訟の仲裁を朝廷が取り扱いをやめてしまったのである。このことから武士の新政に対する不満がいっそう強まった。朝廷は諸国の所領問題を解決できず、国内の治安・庶民の生活の安定をも維持できなかった。
 日本の政治を朝廷に一元化する政策はかつての公地公民の政策であった。後醍醐天皇は日本の政治機能を朝廷に一元化することにこだわり、世の現状を無視し、しかも強引で急速すぎた。後醍醐天皇は武士団の権益を保護する政策に立って改革を進めれば結果は違っていただろう。

 しかし後醍醐天皇は君主の手足となって動く(中国王朝)の官僚政治を理想としており、家柄にこだわらない有能な人材を得るため官職の世襲制を廃止しようとした。この急進的な官僚制度改革は、上流貴族(公卿)や寺社の既得権益を削減するものだったため公家も建武の新政に反発を強めた。
 新政の時代には諸国で合戦・盗賊・重税などによって民衆(農民)が苦しめられ、国司・守護・悪党からの圧迫・搾取などで、新政に対する民衆の不満は高まりを見せた。1334年の二条河原の落書には、建武の新政に対する京の民衆が「このごろ都に流行るもの、夜討・強盗・謀綸旨(にせりんじ)・召人(めしうど)・早馬・虚騒動(そらそうどう)・生頸(なまくび)・還俗・自由出家」が七五調で書き込まれた。このことから民衆も大きな不満を持っていたことがわかる。建武の新政は武士、公家、民衆の不満を募らせ、軍記物語である太平記では、後醍醐天皇は欠徳の君主(無策な悪君)としている。
 このような状況の中で、不満をもつ武士たちは足利尊氏のもとに集まるようになり、やがて足利尊氏が後醍醐天皇に対して反乱をおこすことになる。

 

護良親王

 征夷大将軍になった護良親王は少しずつ足利尊氏が全国の武士たちから支持されていくのを見て「後醍醐天皇のためにも、今のうちに足利尊氏は排除しなければならない」「ここで足利尊氏を中心に幕府を開かせてしまっては、なんのために朝廷政権を取り戻したのか解らない。武士を集めたい」と考えていた。護良親王は武骨な人物で、鎌倉幕府を倒すときにも、楠木正成と共に赤坂城で戦い、近畿の武士たちを統合し、全国へ密使を派遣して鎌倉幕府討伐を呼びかけるなど幕府滅亡の縁の下の力持ちになっていた。幕府滅亡後は征夷大将軍に任命されていた。

 それに気づいた足利尊氏は後醍醐天皇に対し、当時、後醍醐天皇が熱心に愛していて彼女の言うことなら何でも訊くとさえ言われた阿野廉子(あのれんし)を通じて「実は、密かに護良親王は帝位を狙っている」とささやかせたのである。当然、激怒した後醍醐天皇は護良親王を逮捕し、なんと尊氏の弟である足利直義に預け、鎌倉に幽閉させてしまったのである。そこに発生したのが中先代の乱であった。

 

中先代の乱の初め

 まず権大納言の西園寺公宗(きんむね)による後醍醐天皇暗殺計画が発覚した。西園寺家は代々鎌倉幕府と朝廷を結ぶ関東申次(もうしつぎ)という役職にあり、北条家の勢いが盛んなころには西園寺家も朝廷の中で大きな力があった。ところが鎌倉幕府が滅亡すると西園寺家も力を失っていった。
 28歳の西園寺公宗としては「あのころの栄光を再び」と考えていたが、そこに最後の執権の北条高時の弟・北条泰家が訪ねてきた。北条泰家は分倍河原で新田義貞に負けていが、その後、兄とは運命を共にせず北条家残党のまとめ役として暗躍していた。後醍醐天皇天皇を殺せば我々の天下が戻ってくると述べ、西園寺公宗は後醍醐天皇を京都の北山へ紅葉見物に誘い、風呂に入ったときを見計らって殺害しようとした。しかし弟の西園寺公重によって計画は密告され、後醍醐天皇は難を逃れ西園寺公宗は処刑された。

中先代の乱

 1335年に信濃で北条高時の遺児・北条時行が反乱をおこした。北条時行は北条高時の次男で諏訪頼重ら北条氏の旧御内人とともに鎌倉を奪還すべく侵攻してきましたのである。鎌倉に攻め込み鎌倉の足利直義の軍を負かしてし鎌倉を占拠したのである。

 これを中先代の乱というが、ひそかに幕府政治の再建をめざしていた足利尊氏は「自分を征夷大将軍にして関東に派遣すること」を天皇に懇願するが許されなかった。そこで尊氏は天皇の命令を得ず、反乱鎮圧を名目に勝手に征東将軍を名乗り関東に下った。また武士たちの間で睨み合いがあり、足利尊氏と新田義貞は互いに競い、古い家柄の武士たちは新顔の楠木正成や名和長年らを快く思っていなかった。この対立の中で、かつてを知る武士たちの多くが足利尊氏のもとに集まった。

 反乱鎮圧を名目にした尊氏の行動に武士たちはわれがちに追従し、尊氏は弟の直義とカを合わせて鎌倉の北条時行の軍を破った。諸国の武士団は古い鎌倉幕府の再興よりも、足利尊氏の手による新たな幕府を望んでいた。このことに気づいた尊氏は鎌倉に戻ると腰を据え、軍功のあった武士団に勝手に恩賞をばら撒いた。朝廷の許可を得ないこの行為は、後醍醐天皇にそむく反乱を意味しており、幕府の再建をめざしていた足利尊氏は、反乱鎮圧と同時に新朝廷政権に反旗を翻したのである。

建武内戦

 この尊氏に激怒した後醍醐天皇は、後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏の追討を命じ、追討軍を鎌倉に送った。いわゆる1335年の建武内戦である。だ尊氏は箱根竹ノ下の戦いでで新田義貞を打ち破ると、勢いに乗った尊氏と直義の兄弟は新田義貞を追撃する形で京に攻め込み占領した。その軍勢は10万を数え、この戦いは後醍醐政権を倒して再び新たな幕府をつくることになった。

 後醍醐天皇はいったん尊氏に京都を明け渡して比叡山に移ると、敵の兵糧を絶ちながら諸国の援軍を集めて包囲網を敷いた。奥州から北畠親房が入京すると、朝廷軍は再び勢いを取り戻した。

 この巧みな戦略に尊氏は京都で大敗をきたし、敗退した尊氏は九州へ落ちのびた。足利尊氏の本拠地は鎌倉と足利であるが、そのほか全国30箇所に荘園を持ち、そこからの情報が常に尊氏に集められていた。そのため現地の武士の考えや要望を直接把握することができた。足利尊氏は九州で武士を集めると、起死回生の策略で窮地を乗り切り、再び京に攻め寄せた。

 起死回生の策略とは、尊氏は後醍醐天皇に皇位を奪われた持明院統の光厳天皇(後醍醐は大覚寺統)を即位させ「自分は正しい朝廷のために戦っている」という大義名分を掲げたのである。持明院統の光厳上皇から院宣を受けて、自らの軍が賊軍ではないとの正当性を確保すると、2ヶ月で態勢を立て直し、尊氏は再び10万の大軍で京都に攻め上った。

 勢いを得た足利軍は1336年、多々良浜の戦い(福岡市東区)で、南朝方の武将である菊池武敏の軍勢を破ると一気に中国地方から畿内(関西)へ入った。尊氏軍の勢いを感じた朝廷側の楠木正成は尊氏との和睦を後醍醐天皇に何度も進言するが受け入れられず、1336年に天皇の命を受けて摂津国湊川(みなとがわ)で尊氏軍を迎え撃ち敗れて自害した。

 新田義貞も撃破し、尊氏が再び京都を制圧しすると持明院統の皇族を帝位に就け、わずか二年半で後醍醐天皇の新政体制は瓦解することになる。

 後醍醐天皇は比叡山に逃れ、光厳上皇の弟・光明天皇が新たに即位し、後醍醐天皇は京都に幽閉され、尊氏との和睦に応じて天皇であることを証明する三種の神器を光明天皇に渡すが、隙を見て京都を脱出して奈良の吉野へ向かった。後醍醐天皇は吉野に逃れ、後醍醐天皇は光明天皇を認めず、光明天皇に渡した三種の神器は偽物であると宣言した。このようにして2人の天皇が同時に在位することになり、京都の朝廷(持明院統)と吉野の朝廷(大覚寺統)が対峙し南北朝の動乱の時代となり、地位的に北側になる京都の朝廷が北朝、南側になる吉野の朝廷を南朝といった。これ以降約60年間、日本は南北朝が対立する戦乱の渦に叩き込まれる。