テオドール・ジェリコー

テオドール・ジェリコー(1791年-1824年)は19世紀前半に活動したフランスの画家である。同時代に起きた生々しい事件を題材とした「メデューズ号の筏」が代表作で、彼の作品はドラクロワなどにも影響を与え、ロマン派絵画の先駆者と見なされているが、画業半ばの32歳で早世している。
 ジェリコーは、北仏ルーアンの裕福な家庭に生まれ、1796年頃に家族とともにパリに移住した。資産家で弁護士でもあったジェリコーの父親は、息子が画家以外の安定した仕事に就くことを望んだが、ジェリコーは絵画への情熱を捨てきれず、1808年にカルル・ヴェルネに弟子入りした。画家としてのジェリコーは古代の神話や聖書の物語よりも身の回りの現実を描くことに関心を示した。特に馬に対する関心は並々ならぬものがあり、生涯にわたって馬を題材にした作品を多く残している。師のヴェルネは、馬や騎馬人物像の画家として当時第一人者と言われた人物であったが、ジェリコーは師の描く馬は単なるきれいごとで、動物としての躍動感に欠けていると感じていた。
 ヴェルネのもとを去ったジェリコーは、1810年から1年間、ピエール・ナルシス・ゲランに師事する。新古典主義の巨匠ダヴィッドの流れを汲む大家であったが、ジェリコーはこの師にも満足せず、ルーヴル美術館に通ってティツィアーノ、ルーベンスら過去の巨匠たちの作品を師とするようになった。
 1812年、21歳のジェリコーは「突撃する近衛猟騎兵士官」をサロン(官展)に出品し金賞を得た。この作品は激しい動きを見せる馬に乗った士官が振り向きざまに号令をかける一瞬を描いたもので、馬が主要なモチーフとなっている。続いて1814年には「戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官」を出品した。ジェリコーが正式に出品したのはこの2点と「メデューズ号の筏」の計3点だけである。
 当時のフランスは、ナポレオンが退けられ、ルイ18世が即位して王政復古が行われるなど波乱の時代であった。ジェリコーはこの時期、自ら近衛騎兵に志願したこともあったが、ナポレオンが復活してルイ18世が亡命すると再び画業に戻った。
 ジェリコーは1816年から1年間イタリアに滞在し、過去の巨匠の作品に学ぶが、特にミケランジェロのダイナミックな人物表現に影響を受けた。ジェリコーの馬に対する執心は続いており、ローマにおいてもカーニバルの裸馬の競走を題材にした作品を描いている。
 フランスへ帰国後、1819年のサロンに問題作「メデューズ号の筏」を出品し、賛否両論を巻き起こした。1820年から2年間イギリスに滞在し、1821年には代表作の1つ「エプソムの競馬」を描いている。駆ける馬の一瞬の姿を画面に描きとめたこの作品は、印象派のドガを先取りするものと評されている。フランスへ帰国後、1822年から1823年にかけて精神障害者をモデルとした人物画連作を描いている。しかし、1823年には落馬や馬車の事故などがもとで持病の脊椎結核が悪化し、1824年1月、33年に満たない生涯を閉じた。死の間際に発した言葉は「まだ、何もしていない」だった。

突撃する近衛猟騎兵将校
349 × 266 cm
ルーブル美術館

 この絵は、攻撃開始間近の馬上のナポレオン軍騎兵隊将校を描いており、フランスロマン主義を代表するひとつである。同じモチーフでアルプスを越えるナポレオンを描いているが、古典主義的ではなく、劇的な要素を再配置して勢いよい筆使いをしている。馬は背後からの見えない敵を察知して、近衛猟騎兵士官を乗せたまま地面を蹴って立ちあがったように見える。

 エプソムの競馬
1821年 92×122.5cm | 油彩・画布 |
ルーヴル美術館(パリ)

 本作はフランス国内で大きな物議を呼んだ画家の問題作「メデュース号の筏」を英国ロンドンで公開する為に同地へ赴いた際に制作された、ロンドン南西に位置する由緒正しき競馬場「エプソム競馬場」で開催されたダービーの情景を描いた。ロンドン滞在時に宿泊所などを提供した馬商人エルモアのために制作したとされている。画面中央には芝生の上を疾走する4頭の競走馬と、競走馬に跨りながら鞭を振るう騎手らの臨場感に溢れる様子が描かれており、競走馬の躍動感に満ちた描写は観る者を惹きつける。しかし本作に描かれる競走馬の、まるで宙を飛んでいるかのような前後の脚を揃え広げる古典的な描写は現実には有り得ない馬の動きであり、それ故、制作当時は批判も受けている。ジェリコーは異例なほど熱狂的な馬の愛好家で、青年期に動物画家カルル・ヴェルネの許で修行していたこともあり、動物、特に馬の描写には長けていた。それにも関わらず本作では非現実的なフライング・ギャロップで競走馬を描写しているが、これは疾走する競走馬の最も重要な要素である速度を表現するために用いたことに他ならない。本作には偏愛的に馬を愛好していたジェリコーだからこそ描くことのできた馬の魅力の本質がよく捉えられている。

メデュース号の筏
1818-19年 491×716cm | 油彩・画布 |
ルーヴル美術館(パリ)

 ジェリコーの最高傑作にして、フランス絵画史上最も陰惨な場面を描いた作品のひとつ。1819年のサロンへ「遭難の情景」という題名で出品された。この作品は出品される3年前の1816年にフランス海軍メデューズ号がフランスの植民地セネガルへ移住者らを運ぶ途中に、アフリカ西海岸モロッコ沖で起こった座礁事故による搭乗者の遭難に関する事件を描いている。座礁したメデューズ号には救命ボートが搭載されていたが数が足りず、船員以外の人々はその場でこしらえた筏で脱出せざるを得なかった、150名の人々を乗せた筏は漂流し、13日後に発見されるが、発見時には生存者がわずか15名になっていた。その間、筏は飢餓や暴動、殺戮、そして人食喰いなど、筆舌し難いほどの狂気的で極限的な状況にあった。当時のフランス政府は事件を隠蔽したが、生存者2名がこの一連の事件とその凄惨な状況を綴った書籍を出版したことによって公になり、王党政治(君主制)に不満を募らせていた世論を巻き込んで大騒動となった。
 この事件を知った画家は大きな衝撃を受けて、本作の制作に踏み切り、サロンで公開するものの、この事件そのものが大きな政治的な問題を含んでいた為に、賛同・批判様々な意見が噴出した。なお1820年にロンドンで公開された際には概ね好評を得た。本場面は筏に乗ったメデューズ号の搭乗者が、自分らにはまだ気づいていない船の影を、海上の遥か彼方に発見した瞬間であるが、この凄惨な事件を実際に目撃していたかのような現実味に溢れた表現は、単に入念な構想を練り習作を積み重ねただけでなく、事件の生存者への聞き込みや、死とすぐ隣り合わせに置かれた(又は死に直面した)人間の正確な描写をおこなうために、病院へ入院している重篤患者をデッザンしたほか、パリの死体収容所の死体をスケッチするなど、場面の臨場感と現実感を追及するために、ジェリコーは様々な取材をおこなった。画面最前景に死した搭乗者の姿を配し、後方へと向かうに従い、生命力の強い生きる力の残る者を配している。これは死した搭乗者の姿を絶望や諦念と、海上の彼方に船を発見した者の希望と解釈することもできるほか、人物の配置によって表れる三角形による一種のヒエラルキーを形成しているとも考えられる。さらに三角形の頂点に立つのが黒人であることも、画家が抱いていた反奴隷主義的思想の表れであると理解することができる。また表現において、衝撃的でありながらモニュメンタルな壮大性や象徴性、男らの姿態を痩せ衰えた姿ではなく、古典芸術に基づいた肉体美に溢れる姿で表現するなど、ひとつの絵画作品として特筆すべき点は多い。なおドラクロワも画面下部の横たわる男のモデルとして本作に参加している。

羨望偏執狂(ねたみ偏執狂)
1822-23年頃 72×58cm | 油彩・画布 |
フランス リヨン美術館

 この肖像画は10点からなる連作「サルペトリエールの精神疾患者たち」のひとつである。本連作はジェリコーが「メデュース号の筏」を手がけた後、重度の鬱病を患った時に訪れたパリのサルペトリエール病院の精神科医のために制作された。画面中央へ質素な身なり老婆の姿が配されているが、充血しつつも鋭い眼光や笑みを浮かべるような唇、やや乱れた髪の毛などその表情は本作「羨望偏執狂(ねたみ偏執狂」を容易に連想させる。この連作に描かれた人物のモデルについては不明であるが、そこに示された客観的観察と近代精神医学論に基づいた、誇張も先入観も感じられない絵画的虚飾を除外した精神的狂気の極めて絶妙な描写は、突出した特異的肖像表現で、今なお我々の内面へと迫ってくる。なお本連作を所有していた医師の死後、ふたりの医師が5点つづ買い取ったが、その後各美術館へ散逸し現在5点が残されている。