カラヴァッジョ

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571年 - 1610年)はバロック期のイタリア人画家。カラヴァッジョという通称で広く知られ、ルネサンス期の後に登場しローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動した。人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現はバロック絵画に大きな影響を与えた。
 カラヴァッジョはミラノで画家の修行を積も、その後ローマへ移っているが、当時のローマは大規模な教会や邸宅が次々と建築されており、それらの建物を装飾する絵画が求められていた。宗教改革のさなか、ローマカトリック教会はプロテスタントへの対抗手段として自分たちの教義を補強する美術品を求めていた。しかし盛期ルネサンス以降、およそ1世紀にわたって美術界の主流となっていたマニエリスムは時代遅れの様式と見なされていた。このような状況の中でカラヴァッジョは1600年に枢機卿に依頼された作品「聖マタイの殉教」と「聖マタイの召命」とを完成させ、一躍ローマ画壇の寵児となった。極端ともいえる自然主義に貫かれたカラヴァッジョの絵画は、印象的な人体表現と演劇の一場面を髣髴とさせる現在ではテネブリズムとも呼ばれる強烈な明暗法のキアロスクーロの技法が使用されている。
 カラヴァッジョは画家として、注文不足やパトロンの欠如などは経験しておらず、金銭面で困ったことはなかった。しかしながら暮らしは順風満帆なものではなく、自宅で暴れて拘置所に送られたことが何回かあり、ついには当時のローマ教皇から死刑宣告を受けるほどだった。カラヴァッジョについての記事が書かれた最初の出版物が1604年に発行されており、3年間のカラヴァッジョの生活について書かれている。それによるとカラヴァッジョの暮らしは「二週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだは召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩き、舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたた。そのためカラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はいなかった」。1606年には乱闘で若者を殺して懸賞金をかけられ、ローマを逃げ出している。さらにマルタやナポリで乱闘騒ぎを引き起こし、乱闘相手の待ち伏せにあって重傷を負わされたこともあった。カラヴァッジョは熱病にかかり、トスカーナ州モンテ・アルジェンターリオで38歳の若さで死去する。人を殺してしまったことへの許しを得るためにローマへと向かう旅の途中だった。
 存命中のカラヴァッジョは評価の高い画家だったが、その名前と作品はカラヴァッジョの死後まもなく忘れ去られていた。しかし20世紀になってから再評価されることになる。それまでのマニエリスムを打ち壊し、後にバロック絵画として確立する新しい美術様式に与えた影響が大きなものだったからである。バロック美術の画家たちは直接的、間接的にカラヴァッジョの影響を受けていた。カラヴァッジョの次世代の画家で、その影響を強く受けた作品を描いた画家たちのことを「カラヴァジェスティ」あるいはカラヴァッジョが使用した明暗技法から「テネブリスト」と呼ぶこともある。

 いうまでもなくカラヴァッジョの作品から近現代絵画は始まった」と評価されている。
 カラヴァッジョは1571年にミラノで三人兄弟の長男として生まれた。父親はカラヴァッジョ侯爵家の邸宅管理人かつ室内装飾担当で、母親は、同地方の地主階級の娘だった。1576年にはペストで荒廃したミラノを離れ、一家でカラヴァッジョ村へと移住したが、そのには父フェルモが死去している。カラヴァッジョは幼年期をこの村で送ったと考えられており、カラヴァッジョとスフォルツァ家やコロンナ家といった当時の有力なイタリア貴族との関係はその後も続いていた。後年カラヴァッジョはスフォルツァ一族の娘と結婚し、このことがカラヴァッジョの後半生に大きな役割を果たすことになる。
 1584年にカラヴァッジョの母も死去し、この年からカラヴァッジョはティツィアーノの弟子だったミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ のもとで4年間徒弟として修行している。カラヴァッジョはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」などやロンバルディア地方の絵画に親しんでいった。硬直化し、大げさな表現に陥っていたローマ風のマニエリスム様式ではなく、飾り気なくありのままを表現するドイツの自然主義絵画様式に傾倒していった。

 1592年半ばにカラヴァッジョは喧嘩で役人を負傷させ、ミラノを飛び出し、着の身着のまま、行く宛ても食料もなく、ほとんど無一文の状態でローマへと逃げ込んだ。その数ヵ月後はローマ教皇クレメンス8世のお気に入りの画家だったジュゼッペ・チェーザリの工房で助手を務め「花と果物の絵画」で画家としての技量を知られるようになる。このころのカラヴァッジョの作品として知られているのは「果物の皮を剥く少年 」「果物籠を持つ少年」「病めるバッカス 」などがある。「病めるバッカス」は自画像とされており病気に罹患してチェーザリの工房から解雇された後の回復しつつある自分自身を描いたとされている。これら3点の絵画は精密な写実的表現で描かれており、カラヴァッジョの画家としての名声を高めることになった。「果物籠を持つ少年」に描かれた果物はそれぞれの種類を言い当てることが可能なほどの写実性があった。
 1594年にジュゼッペ・チェーザリの工房から解雇され、独立した画家として生計を立てることを決意した。このころがカラヴァッジョの生涯でもっとも底辺にあった時期だが、多くの芸術家と友人になっている。
「女占い師」 はカラヴァッジョの作品の中で最初に二人以上の人物が描かれた絵画で、モデルになっているのはミンニーティである。ミンニーティ扮する少年がジプシー娘に欺かれている様子が描かれており、このような題材はそれまでのローマでは見られていなかった。しかしその後数世紀にわたって描かれるようになった。題材で描かれた絵画に人気が出たのは後年になってからのことで、カラヴァッジョ自身はただ同然の価格でしかこの作品を売却できなかった。
「トランプ詐欺師 」は、トランプ詐欺に引っかかる純朴な少年を描いた作品で、題材としては「女占い師」と同様のものである。しかしながら心理的描写はより優れており、カラヴァッジョの作品で最初の傑作とされている。「女占い師」と同じく後世になって人気が出た題材で50点以上の模写が現存している。さらにこの作品を通じて、カラヴァッジョは当時のローマでもっとも優れた美術鑑定家の一人といわれていた枢機卿に認められ後援を受けることに成功した。そしてデル・モンテと取巻きの裕福な美術愛好家たちに依頼され、多数の室内装飾用絵画を描いた。
 カラヴァッジョが最初に描いた宗教画は写実的で、高い精神性をもったものだった。宗教を題材とした最初期の作品として「懺悔するマグダラのマリア 」があり、描かれているマグダラのマリアはそれまでの娼婦としての生活を悔やんで座り込み、あたりには虚飾を示す宝飾品が散乱している。宗教的な絵画にはとても見えないかもしれない、濡れた髪の少女が低い椅子に座り込み、良心の呵責に苛まれ、救済を求めているのだろうか」
「ホロフェルネスの首を斬るユディト」はロンバルド風の絵画で、当時のローマ風の気取った作風ではないとされていた。同様の作風で描かれた宗教絵画は広く公開されていたわけではなく、比較的限られた人にのみ目にする機会があったものだが、カラヴァッジョの名声は美術愛好家や友人の芸術家の間で高まっていった。しかし一般からの評価を決定付けるためには、教会の装飾絵画のように広く大衆が目にする作品が必要だった。
 極端なまでの写実主義と自然主義の作品によって、現代のカラヴァッジョの評価はゆるぎないものになっている。カラヴァッジョは題材を目に見えるとおりに表現し、描く対象を理想化することなく欠点や短所すらもありのままに描き出した。このことはカラヴァッジョが非常に高い絵画技術を有していたことを示している。ミケランジェロのような古典的理想表現こそが絵画のあるべき姿だと認識されていた当時において、カラヴァッジョの作風は大きな反響を呼んだ。この時期のカラヴァッジョの作品は写実主義だけが最大の特徴というわけではなく、当時の中央イタリアで長期にわたって受け継がれてきたルネサンス様式を否定したところに大きな意義がある。カラヴァッジョは対象をそのまま油彩画へと描きだした、ヴェネツィア風の半身肖像画や静物画を特に好んでいた。。