ロセッティ

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ

(1828年-1882年)
 ロセッティは19世紀のイギリスの画家で、ラファエル前派とされ、詩人としても有名である。兄は詩人、姉と弟は著述家である。
 1828年、ロンドンイタリア系移民の子としてロセッティは生まれる。ロセッティは絵画と同じように文学も愛し、シェイクスピアやゲーテを読みながら5歳で戯曲「奴隷」を書くなどの才能を見せている。
 1841年秋に私立絵画学校ケア リーズ・アート・アカデミーに入学、1846年にはロンドンのロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学する。1848年に同校の学生であったハント、ミレー らとともに「ラファエル前派」を結成した。
 ラファエルとはイタリア・ルネサンスの巨匠で、ラファエロ以前という言葉には、当時のアカデミーにお ける古典偏重の美術教育に異を唱える意味があった。ラファエル前派に思想的な面で影響を与えたのは、美術批評家ラスキンで、ラスキンは「自然をありのままに再現すべきだ」とした。この考えは神の創造物である自然に完全さを見出すことであった。

 しかしこの時代である、ラファエロは世界で最高の画家とされていたので、「ラファエル前派」への非難にショックをうけ、ロセッティは二度と公には絵画を発表しないと誓った。明確な理論のないラファエル前派は数年後には解散した。なおロセッティの影響を大きく受けたバーン=ジョーンズ(1833年 - 1898年)などを含めて「ラファエル前派」ととらえる場合もある。
 ロセッティは、他のラファエル前派の画家たち同様、聖書、伝説、文学などを題材に描いたが、他の画家たちのような細密描写は得意でなかった。また、人物像の解剖学的把握にも難があり、全体として装飾的・耽美的な画面構成の作品が多い。
 ロセッティの生涯はエリザベス・シダルと、ジェーン・バーデンという2人の女性の存在が大きい。
  エリザベス・シダルは長い婚約期間の後、ロセッティの妻となった女性である。一方のジェーン・バーデンは装飾芸術家モリスの妻となった女性であるが、ジェーンはロセッティが終生追い求めた理想の女性で、男を破滅に追いやる「ファム・ファタル(運命の女)」の一例とされている。
  ロセッティがジェーンに出会ったのは、モリスらとともに王妃グィネヴィアの壁画を制作中の時であった。当初、壁画はエリザベス をモデルに制作されていたが制作に難航し、気分転換にと出向いたロンドンの下町の劇場で、同じ観劇に訪れていたジェーンを見出した。
  当時、ロセッティはエリザベスと婚約していたが、ロセッティとジェーンは互いに惹かれるものがあったようで、以後、ロセッティの作品にはしばしばジェーン がモデルとして登場する。繊細で病気がちなエリザベスにとって、ジェーンの存在は激しい心痛の種となった。結局、ジェーンはロセッティの弟子のモリスと結婚し、ロセッティはエリザベスと結婚した。しかしロセッティのジェーンに対する思いは止むことはなかった。冷え切った夫婦関係や女児の死 産に心を痛めたエリザベスは、阿片チンキに溺れ、結婚2年目のある日、大量の薬を服用して自殺同然の死を遂げた。ロセッティはその後も絵画制作を続け、世間的な成功を得たが、人妻ジェーンへの思慕と自分の妻エリザベスへの罪悪感にさいなまれて次第に心身を病み、1872年には自殺を図り、晩年は酒と薬に溺 れる生活で、不眠症のため真夜中にロウソクの灯りで絵を描いていた。
 ロセッティは1882年、ケント州バーチントンで失意のうちに54歳の生涯を終え、同地に埋葬された。

聖母マリアの少女時代 
1849 83 x 65 cm Oil on canvas
テイト・ギャラリー、ロンドン

 聖母マリアがユリの花を刺繍しているところで、聖母のモデルがクリスティーナである。クリスティーナの髪の色は、画面の色彩効果のために、実際の色から変更されている。クリスティーナの髪の色は画面の色彩効果のために、実際の色から変更されている。その隣に座るアンナは母フランセスがモデルである。

 多くの小道具が象徴的に扱われている。たとえば、床に落ちているシュロの葉と茨はキリストの受難を表している。百合の花はマリアの純潔を、床に置いてある本は、上から「慈愛」「信仰」「希望」「賢明」「節制」「剛毅」で美徳を表している。鳩は精霊をあらわし、下方に束ねられた革紐に描かれているのは「あまたの悲しみ、あまたの喜び」で、欄干の左端にガラス器に入った「棘のない薔薇」は白ユリとともに聖母の花である。またランプは「敬虔さ」を表すとされている。

 この作品はロセッティの油彩画第一作で、PRB(Pre Raphaelite Brotherhood=ラファエル前派)と署名されたはじめての作品である。